堕落しそう
♠
「ただいまー」
いつものように誰もいない自宅の玄関に、俺の声だけがむなしく響く。
さすがに今日は母さんも帰っていないようだ。
「……作り置きもなし、か」
それに風呂も沸いていない。
昨日はいったい何だったんだってくらいに全部整っていたせいで、なんか自分で自炊するのが面倒になってしまった。
こんな時、なんでもしてくれる彼女がいたら……いや、弁当作ってくれた子が本当に女の子なら、もしかしたら身の回りの世話だってやってくれるんじゃ。
「……いや、さすがに都合よすぎるな。うん、それによく考えたらだれが作ったのかもわかんない弁当、よく食ったよな」
金子に乗せられたってのもあるけど。
まあ、結果として昼飯代は浮いたしな。
「……ん、そういや家に食材なかったんだった」
ただでさえ今日はだるい気分なのに、冷蔵庫の中を見てさらに絶望。
昨日、スーパーは臨時休業でそのあと行ったコンビニでは強盗に遭遇して結局何も買わずじまいだったことを今思い出した。
うっかりしていた。
それもこれも、さっき電車の中で出会った先輩のせいだ。
「氷織先輩、か。多分、近所に住んでるんだよな」
また、先輩の手の感触を思い出してしまう。
俺は人生で初めて女性の体に触れた。
故意ではないにせよ、だ。
これが恋人だったなら、もっと良かったのだろうけど。
「……ま、いつまでもくよくよしてちゃ始まらん。それに腹減ったし、なんか買いにいくか」
今日こそはと、昨日さんざんな目に遭ったコンビニへ向かうため、靴を履く。
で、外に出ると少し冷たい風が吹いていた。
上着を羽織っていないと、この辺りは海沿いってのもあって少し冷える。
「うー、しかし今日は特に冷えるなあ。あったかいスープも買おうかな」
到着したコンビニは、昨日の事件の影響も特になさそうに通常通り営業していた。
が、店に入るとすぐに店の制服を着た中年男性から声を掛けられる。
「あ、君! 君だよね、昨日犯人を捕まえてくれたのって」
「え? い、いえ俺は何も」
「何言ってるんだよ、防犯カメラにも君の姿が映ってたからわかってるって。警察の人に聞いても個人情報だからってことで君のことを教えてくれなくて困ってたんだ」
「は、はあ」
「ああごめん、僕はここの店長なんだけどさ。よかったらお礼をさせてほしくて」
「お礼、ですか? いやいや、いいですって」
「そう言わずにさ。お金を渡したりしたら問題あるかもだから、ここの商品で好きなものを僕がご馳走するよ」
まあ、コンビニだけどねと続けた店長さんは俺の話なんか聞く耳を持たない。
昨日のおまわりさんと一緒だ。
俺が犯人を捕まえたと信じて疑わない。
「……それじゃ、このお弁当をいただけますか?」
「それだけでいいのかい? ジュースとお菓子も適当にいっぱい詰めておくよ」
「い、いやいやいいですってほんとに」
「はは、君のおかげで従業員も怪我なく無事だったんだ。これくらいお安い御用だよ」
「……」
頼んだ弁当以外にも目一杯大きな袋に商品を詰める店長さんに、俺は何も言えないまま。
商品を受け取って、一応お金を払おうとするがもちろん断られて、なんなら名刺を渡された。
「いつでも遊びに来てよね」と、爽やかに笑う店長さんの後ろでレジに並ぶ店員さん達もニッコリ。
すっかりこの店で俺は英雄扱い。
それがあまりにも気まずくて、頭を下げてそそくさと店を後にした。
◇
「はあ……なんかあのコンビニも行きにくくなったな」
英雄扱いなんて性に合わないとつくづく実感させられる。
もし、俺が本当に勇敢な高校生だったとしても同じことを思っただろう。
結果として人のためになることをしたというだけで、その見返りが欲しいなんて考えたことは一度もないし。
それに、俺がやったことは全て偶然の産物だ。
こんなもので人に感謝なんかされて、手放して喜べるほど俺は図々しく育っていない。
「でも、ますます噂の高校生の正体が俺だってこと、バレないようにしないとだな」
これ以上周りに騒がれるのはごめんだし。
コンビニのバイトにうちの生徒とかがいなけりゃいいけど。
「ただいま……」
コンビニに買い物へ行っただけなのに妙に疲れた。
気疲れってやつなのだろうか。
ほんと、こういう時に癒やしてくれる彼女とかいたらいいのになあ、と。
思いながら頭に浮かんだのは氷織先輩の顔だった。
間違ってもありえないだろうけど、あんな美人と付き合えたら人生楽しいんだろうなあ。
でも、いつも一人でいるし、近所だからかその辺でよく会うし学校でも見かけること多いし。
俺なんかにも、チャンスがあったりしないかな……いや、ないない。
「さてと、せっかくコンビニで色々貰ったから今日はご馳走になるか」
さっきもらってきた弁当を食べようとキッチンへ。
すると、
「あれ? まただ……」
さっき帰った時はテーブルの上にはなにもなかったのに、見るとホワイトシチューが置いてある。
湯気が出ていて、キッチンにはいい匂いが漂っている。
「母さん、わざわざ飯作りに帰ってきてたのか? で、もう出かけたのかな。せっかちな人だよほんと」
こんなことならコンビニなんて行かなくてよかったのに。
でもまあ、弁当は明日の朝飯にして今日はせっかくだからシチューをいただこう。
「いただきます……ん、うまい」
安定のうまさ。
ちょうどいい味の濃さで、食欲をそそる。
あっという間に、流し込むように完食した。
「あーうまかった。さてと、風呂沸かすか」
お腹いっぱいになってちょっと元気が出たところで風呂場へ。
すると、これまたさっき帰った時には空っぽだった浴槽にしっかりお湯が張られていた。
「母さんのやつ、気がきくじゃん。帰ってきたら礼くらい言わないとな」
なんか得した気分になり、そのまま服を脱いで風呂へ。
肩までお湯につかり、天井を見上げる。
「んー、いい湯だ。ほんと、毎日こうならいいのに」
たった二日甘やかされただけで、すっかり気持ちは堕落していた。
正直飯も作りたくないし風呂や洗濯だって誰かにやってもらいたい。
できれば毎日こんな風に身の回りの世話を母さんがしてくれたらいいんだけど、多分これは気まぐれだろう。
だから俺のために尽くしてくれる彼女が、やっぱりほしい。
そういや、金子のやつがダブルデートに付き合えって言ってたな。
目的はもちろんあいつが好きな子と仲良くなるためのものだけど。
それにあやかって俺も、いい子と知り合えていい感じになったりしないかなあ。
そういうの、楽しそうだし。
「風呂出たら金子にラインでもしてみるか」
しばらく体が芯まであたたまるのを待つように湯船に浸かりながら俺は、風呂から出た時にタオルや着替えも勝手に置かれてたらいいのにと、そんな贅沢なことも考えていた。
多分根っこは怠け者なんだと思う。
両親がほったらかしにしてくれたおかげでなんでもやるようになったけど。
ある意味、教育方法が合ってたってことかな。
「さてと……ん?」
風呂から上がると脱衣所のカゴの中に俺の着替えが畳んであった。
気づかなかったけど、これも母さんの仕業か。
ほんと、色々怖くなってくるまであるよ。
「……いい匂いがするな。柔軟剤変えたのか?」
嗅ぎ慣れない香りのするスウェットに袖を通してから部屋に戻る。
そして、部屋のベッドに腰掛けてから俺はすぐ、金子に電話をかけた。
♡
「ちゃんとシチュー食べてくれたんだ。ふふっ、お着替えも置いておくね」
常盤君がお風呂に向かったあと、私は彼の部屋着を脱衣所に持っていった。
本当は一緒にご飯食べたかったけど、もしシチューが美味しくないなんて言われたらって思うと怖くて出ていけなかった。
だから柱の陰からずっと見てた。
今は、脱衣所から彼のいる浴室を見つめている。
「すぐそこにいるのに……ううん、お風呂の邪魔はしちゃダメだよね」
一緒にお風呂に入ったり、一緒に寝たりなんてこともしてみたいけど。
そんなのは全部、結婚したら毎日できるもんね。
「早く結婚したいね。そうしたら、こうやって通わなくても毎日一緒なのに」
今日はまた、このあと帰らないといけないのが寂しい。
お風呂あがりの君の体を拭いてあげたい。
ついでに私もあたためてほしい。
だけど、こんなところでいちゃついたら常盤君の体が冷えちゃう。
風邪ひいちゃったら困っちゃう。
常盤君が倒れたら私……死んじゃう。
うん、今日は私の香りがたっぷり染み込んだ部屋着で、私を感じながら過ごしてね。
バイバイ常盤君、また明日。
明日は改札口で待ってるからね。
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