第2話

 その日の夕暮れ。カナミの姿は学舎にあった。

 数えるほどしか来た覚えの無い建物。

 通常の感覚なら木造の温かみが感じられることだろう。母校という響きの良さはカナミにもなんとなく分かる。それにより多くの人間は特別な思い出や具体的なエピソードなどなくても、なんとなく感慨深い印象を抱くことも。淡い時期を閉じ込めた空間。過ぎ去った時間を心の中でだけでも巻き戻すためにここを来訪する者も多い。

 しかしカナミにとっての学舎での時間は無意味で退屈な苦痛の時間でしかなかった。温もりなど感じられない孤独な冷たい空間。

 勉強をしたところで褒めてくれる大人はいない。ああしろ、こうしろ、なぜ出来ないと口うるさい教師。教室に馴染めず、いつも一人だった。そんなカナミの気持ちも分からず、ニコニコしている気持ちの悪い同級生たち。

 そんな時間を回顧しにきた訳ではない。学舎の正門。そこから出てきた一人の男。スグルだ。

 スグルは学舎で算学の教師を務める男だ。真面目で愛妻家。生徒からも人気のある教師で将来、聖塊になりうるのではとも言われている人物だ。

 カナミはスグルを見つけると跳ねるように歩み寄る。

「スグル先生っ! こんばんわ!」

「カナミ! なぜここに?」

 カナミを見つけるとスグルは彼女を正門の陰に押し込む。

「先生に会いたくなっちゃって」

「何を言ってるんだ。お前との関係がバレたら俺はおしまいだ。頼むからここには来ないでくれ」

 そう言うと、カナミの表情は険しくなる。

「それがそういう訳にはいかないんですよ。先生からはまだ回収してないお金あるからさっさと払ってもらわないと」

 世間体はいいがスグルもカナミを慰み物にした男の一人である。

「何も今じゃなくてもいいだろ。絶対払うからさっさと帰ってくれ」

「私は今しかないんですよ。明日には暗澹あんたん様の腹の中なんだから」

「まさかお前、悪塊あくかいに……」

 カナミの告白に衝撃を受けたようだが、次第に安堵の表情に変わる。これで関係を清算できる、そんな考えが見え見えだった。

「元生徒と関係持ってやり逃げなんてさせないよ。どうせ死ぬけど代償は払ってもらわないと、私化けて出るかもよ」

「うるさい! この悪塊め。さっさと失せろ」

 普段周りには見せない醜いスグル。

「ふん。まあいいや。遺書なんて残してないけど先生も私と同じ穴のむじなだから気をつけた方がいいよ」

「どういうことだ?」

「先生に教えてもらった非合法の薬売りのことロウ大人たいじんに言っといたから。なんか私が薬の売買に噛んでるって勘違いしてるみたいだけど。どうせ先生が手引きしたんでしょ? 悪いことはバレるよー」

 青ざめるスグル。怒りで肩が震えている。

「違う! 俺はあいつらの手引きなんてしていない。それに俺はお前の中絶薬以外には手を出していない!」

「はいはい、分かったよ。死ぬ前に先生のそんな取り乱してるところ見れたからもうお金はいいよ。人でも殺さない限りそうそう悪塊には選ばれないだろうけど気をつけてねー。じゃあね、あの世で待ってるよー」

「違う! 俺は何もやっていない!」

 背後で懇願するようにスグルの声が響く。


 *


 生徒や村の有力者からも人気のスグル。

 そんな彼の醜い本性を見ることが出来て、カナミは満足だった。金は回収できなかったが、あの世に持っていける訳でもないしもういいや、と彼女は諦めていた。

 そして、結局身に覚えのない薬屋斡旋の罪を被ることにもなった。非合法の薬売りを紹介してくれたのはスグルだ。スグルが白状しなければカナミの生前の罪が捏造されることになるが、それを晴らすことさえも諦めた。本当にスグルが薬売りの手引きをしたかどうか、白黒はっきりさせたかったが、彼女の思い通りにことは運ばないらしい。

 やることもないし、さっさと帰ろう。そう思った時、「カナミさん」と呼び止められた。

 背後を振り返ると、

「ミハネ……様」

 そこにいたのは、村の産婦人科医であり、学舎で成績優秀な生徒に医学を教え、医者の卵を育てているミハネだった。

 大人に対し反発的なカナミでも、聖母のような、彼女の柔らかい物腰に魅入られると、自然と「様」付けで呼んでしまう。

「聞いてたんですか?」

「いえ、何も聞こえなかったですが。ただあなたの横顔を見てたら声をかけたくなったものですから」

「はあ。……光栄です。でも私には関わらない方がいいですよ。損するだけですから」

「なぜ? こんなに可愛い子とお話出来るだけで私は嬉しいわよ。それに私は知ってる。あなたは本当は清らかな人間だもの」

 私が清らかな人間? カナミにはミハネの言っていることが理解出来なかった。

 皮肉か、何かの冗談だろうか。なぜなら自分は悪塊だ。清らかとは無縁な存在なのだ。

「勘違いですよミハネ様……それじゃあ」

「これだけは忘れないで、あなたを見ている人がいる。分かり合えずともあなたをきっと大切にしてくれるわ」

「だといいですね」

 カナミはむず痒いような気分になり、足早にその場を去る。

「お元気で」

 背後でミハネは優しく囁いた。

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