富嶽百景グラフィアトル
瀬戸みねこ
富嶽百景グラフィアトル
今でもたまに夢に見るのは、自分よりひとまわり大きな手の平のことだ。
狭く閉ざされた世界の中で、唯一自分を肯定してくれた手。
それだけで、守られているような温かさを感じる手。
その温もりも、家を出てく兄の背中も覚えているのに、どんな表情をしていたのかは思い出せない。家族との縁を断ち切ろうとしていた兄に、僕は兄が大好きだった絵を贈った。あれは、絵画が規制され始めてすぐのこと。
絵を受け取った兄は、僕の頭を優しく撫でてくれた。
「探雪、本当にお前の絵は――」
あの時、兄はなんて言ったんだっけ。
時は、文啓13年。
幕府による厳重な絵画規制の末、江戸には新たな倒幕派閥が生まれた。
幕府に反発する一部の元絵師が集結し、倒幕を目指す組織、『乱気龍』を結成。彼らは、陰陽師の力を借りることで、思い描いた絵を具現化する能力、“画術”を手に入れた。江戸の街では、度々彼らによる乱が巻き起こるようになり、街は荒んでいく。
これに対抗する勢力として、幕府は元絵師たちを集め、倒幕派と戦う『四季隊』を結成。彼らは、“絵士”として画術を身に着け、戦いに駆り出された。かくして、世の中は倒幕派と討伐派による画術戦が勃発するようになった。
息を切らして、江戸の町を駆け抜ける。
今、追いかけているのは人の背丈ほどもある鼠の妖怪、キュウソだ。足を踏み出す度に、四季隊の証である法被は風にあおられて、はためく。壁際に追い詰めると、キュウソがこちらを振り向いた。口から歯をむき出して、こちらを睨んでいる。追いかけてきたものの、いざ対面すると身体は強張り、冷や汗が背中を伝う。すると、頭上から叱咤の声が飛んできた。
「探雪! 敵と対面したら、まず観心帳を開く! 教えただろ!」
見上げれば、四季隊の久隅守景先輩が屋根からこちらを見下ろしている。
「しっかり。落第したくないでしょ」
反対側の屋根から声を掛けたのは、同じく四季隊の英一蝶先輩だ。
その言葉に、僕は今、四季隊に入るための修了試験の真っ最中だということを思い出し、気持ちを立て直す。守景さんと一蝶さんは、四季隊の先輩でもあり、養成機関の講師でもある。
他の同窓生たちは、みんな観心帳を片手に、猫の絵を具現化し、キュウソの退治をしている。僕もこうしてはいられない。
「題目、『狩猟天描』」
観心帳を開き題目を唱えながら、僕は猫の獣を思い描いた。何もなかった空間に、線が走り、やがて獣の身体が肉体を持つ。けれど、その風体は熊ともたぬきとも見える猫とは程遠い生き物だった。
「なんでだーっ!」
僕が叫ぶと、屋根の上から先輩2人のくすくすと笑う声が聞こえてくる。
「出たよ、探雪の鳥獣滑稽画」
「もふもふしてて、可愛いじゃん。俺は好きだけど」
先輩たち、完全に面白がってる……。
恥ずかしさに奥歯を噛みしめていると、キュウソが僕をぎらりと睨む。そして、現れた獣が猫でないとわかると、僕を追いかけ始めた。気がつくと、僕は行き止まりに追いつめられていた。じりじりと迫るキュウソに、この状況から抜け出す方法を探すため、脳みそを回転させる。
「題目、『沙汰乃豪火』」
題目を唱えながら、今後は手を前にかざすように差し伸べる。それから瞬時に頭の中に、強烈な炎を思い浮かべた。すると、貫くような火炎が手のひらから放たれ、キュウソを焼き尽くす。
「おお、自然系の術はやっぱり得意みたいだね」
上から見守っている守景さんが感嘆の声を上げる。けれど、炎はキュウソの毛をちりぢりにしただけで、再び歯をむき出して、怒りをあらわにした。
「え、なんで……!? 鼠って火に耐性ある!?」
「修了試験用のキュウソだからね。課題である猫じゃないと倒せない仕組みになってる」
守景さんから言われて、それはそうかと納得する。
キュウソは容赦なく僕に襲い掛かってきた。もうだめだ、落第だ、腹をくくったその時、鋭い爪がキュウソの体を引き裂いた。キュウソが、白目を剥きながら地面に倒れ込む。キュウソを倒した猫の獣は軽やかに着地すると、主の元へと駆け戻る。そこにいたのは、同窓生の土佐光起だった。
「はぁ、助かったよ。ありがとう」
素直にお礼を伝えると、光起は冷めた視線をこちらに向ける。
「……別に助けた訳じゃない。点数、稼ぎたかっただけ」
吐き捨てるように言われ、神経を逆撫でされる。嫌なやつ……! 内心毒づいていると、笛の音が町に響き渡った。試験終了の合図だ。どうやら、今のキュウソが最後の標的だったらしい。僕は落第を覚悟しながら、重い足取りで学校へと戻ったのだった。
「断る」
組分けの命を聞くなり、光起はそうはっきりと口にした。
今、僕たちがいるのは、富嶽館の教室だ。富嶽館とは、四季隊に入る絵士を養成する学校のことで、僕たちはそこの生徒である。落第を覚悟していたものの、試験結果を聞きに行った僕を待ち受けていたのは、なんと合格。見事、僕は本日をもって卒業となった。つまり、明日から、ここ富嶽館は母校というわけだ。
ぎりぎりとは言え、無事に卒業となったのはよかったが、問題はその後に起きた。卒業生は、みんな二人一組となってその後の活動を行うことになっているのだが、その組分けが問題だった。
組分けを聞きに、守景さんと一蝶さんを尋ねると、そこにはあの光起の姿もあった。嫌な予感は的中して、僕と光起を組ませるつもりだというのだ。
僕と組むように告げられた光起は、すかさず異論を訴えた。
「どうして、俺がこいつと組まなくちゃいけないんですか」
光起は、切れ長の目をさらに鋭くして僕をちらと見る。
「理由がわかりません。首席の俺の相手が、万年劣等生の狩野探雪になる理由が」
「悪かったね、万年劣等生で」
我慢の糸が切れて、僕も負けじと言い返す。
「でも、その劣等生に風景画演武の科目で負けたの誰だっけ?」
「たった一科目、勝っただけじゃねえか。実戦で足引っ張ることが目に見えてる。さっきだって、鼠一匹倒せなかっただろ」
「あれは、たまたま火炎が通じなかっただけだし。試験用のキュウソじゃなかったら倒せてた」
「課題は、猫の獣を具現化してキュウソを倒す、だっただろ。課題っていうのは実戦で言ったら、上からの命令だ。課題通りにできないってことは、実戦で命令通りに動けないってことだろ」
「それは……」
腹は立つが正論なので、返す言葉が見つからない。仕方なく僕は議論を放棄する。
「そんなに嫌なら別の相手と組んだら? 僕だって光起と組みたい訳じゃないし」
「だから、そうするって言ってるだろ……」
すると、言い合う僕たちの間を取り持つように、守景さんが割って入った。
「まあ、まあ。組分けはもう決定した訳だし。っていうか、二人とも断るなんて権利なんてないから」
すると、隣で静観していた一蝶さんも口を開く。
「……光起、優秀だけど。組みたがる子、いないよ」
「一蝶、それ以上はだめ」
すかさず守景さんが止めるが、さすがの光起もこれには返す言葉がないらしい。光起は確かに優秀だが、優秀さゆえに周りから敬遠されている。さらに、光起の鼻持ちならない態度が、周りとの距離を広げていた。そして、そのことは光起も自覚している。
「つもり俺たちは余りものってことですか」
「勝手に一緒にしないでくれる?」
「は? どう考えても、お前の方が余りものだろ」
「そこまで! もう言い合いはなし。さっきも言った通り、組分けは決まったことだから。それに、一緒にやってみたら案外うまくいくかもしれないし。ね?」
どうやら、どうあがいても組分けは覆らないらしい。諦めて、僕たちは渋々宿舎へ戻ることにした。
卒業後、絵士となった者は、学生寮から四季隊寮に移ることになっている。
しかも、最悪なことに、相棒との相部屋だ。
「俺、こっち」
新しい部屋に入るなり、光起はすたすたと奥の窓際の布団へと進む。
「あ、勝手に決めるなよ。僕だって、窓際の方がいい」
「俺より成績悪いくせに、窓際使いたがるな」
「にゃにおう……! ……それなら、鳥獣戯画じゃんけんで決めよう」
「へえ、俺に画術で対抗しようっての」
鳥獣戯画じゃんけんとは、兎、蛙、鹿の3手のいずれかを掛け声とともに具現化して出し合い、勝負を決めるものだ。養成学校時代には、生徒たちが練習と遊びを兼ねてよくやっていた。画術と言っても、確率的な勝敗の決め方なので、僕にも勝ち目はあるはずだ。
「いいけど、やり直しなしの一発勝負だからな」
「わかってる……」
ふたりして観心帳を取り出すと、手元に広げる。
「じゃんけん……!」
掛け声とともに、お互いに思い描いた動物を具現化する。光起の傍らには、艶やかな毛並みの立派な鹿が現れた。
「俺は、鹿……それでお前は……」
見れば僕の隣には、蛙の模様と座り方をした兎のような生き物がいた。
「それ、どっちだ……?」
「…………さあ」
結局、力量の差を証明しただけで、僕は窓際の布団を光起に譲ることになった。仕方なく、入り口側の布団で、荷ほどきを始める。
「懐かしいもの、持ってるな」
さして荷物もなく布団に身を投げた光起は、僕が整理している画材に目を向けている。人と関わることをあまり求めない印象だったから、僕は少しだけ驚きながら答えた。
「うん、やっぱり今でも実際に紙に描くことが好きだから。四季隊に入れなかったら捨てなくちゃいけないって、覚悟してたんだけど」
今でも、幕府による絵の規制が続いているため、一般人には絵を描くことはもちろん、画材の所有すら認められていない。四季隊に所属の絵士のみ、一部所有が認められており、いわば特権になりつつある。画術の能力向上という名目で、四季隊が幕府に交渉した結果、許されるようになったのだった。
「へえ、絵が楽しいなんて気持ち、俺はもうないけどな」
冷たく言い放たれ、僕は言葉を失う。もしかしたら、絵を通してなら分かり合えるかもという淡い期待は、あっさり打ち砕かれた。
「四季隊に入って、これから倒幕派と戦わなくちゃいけないってのに。吞気で羨ましいよ」
「絵が好きってだけで、吞気って決めつけないでよ。そもそも四季隊の隊員は、絵が好きな人がほとんどだと思うけど」
「じゃあ、四季隊全体が吞気なんじゃねーの」
「なんでそうなるわけ。四季隊の人はみんな、絵が当たり前に描ける世界に戻そうと戦ってるのに」
「絵を描く権利を取り戻すなら、倒幕側についた方がいいだろ」
「人を傷つけて、街を荒らすやり方が正しいと思ってるの?」
「そっちの方が手っ取り早いって言ってるだけ。倒幕派の乱気龍だって、絵が描ける世界を取り戻したくて、幕府を倒そうとしている。むしろ、四季隊にいて、どうやって絵の規制をなくすんだ。
「それは、幕府の力になれば、いずれは……」
「そんな日が来ればいいけどな。四季隊なんて所詮幕府の犬だろ」
「……それ、幕府の人間が近くにいるときに言わないように気をつけなよね」
「聞かれたって、どうもしないさ。幕府は俺たち絵士がいなけりゃ、倒幕派に対抗する術なんてないんだから。そもそも幕府のやり方をよく思っている人間が四季隊にいるかも怪しいけど。絵を統制して絵師たちの自由を奪ったくせに、倒幕派から守ってもらうために、今度はその絵師たちを利用して戦わせてるんだから」
「僕だって、確かに矛盾してるとは思ってるよ」
幕府は今、絵画を取り締まる規制官と、絵を戦う術とする四季隊という、相反する2つの組織を内包している。その勝手極まりない矛盾に気づきながらも、四季隊の隊員は幕府の下で働いていることになる。
「でも、四季隊にいるからって、幕府のために働いているとは限らないでしょ」
「町の人のためって言うんだろ、優等生」
成績上位の光起に言われると、さらに皮肉が効いている。
「なんだよ、悪いかよ」
「悪くない。立派な志だと思ってる。けど、それこそ幕府の人間の耳に入らないように気をつけろよ」
「そういう光起は、なんで四季隊に入ったんだよ」
「俺? 俺はもっと個人的な理由だよ」
「個人的な理由?」
「……どうしても見返さないといけないやつがいる」
「何それ、誰のこと?」
「教えるわけないだろ」
「なんだよ、そこまで言っておいて」
「お前みたいな大儀名分じゃなくて、悪かったな」
喋り過ぎたと思ったのか、光起は背を向けるようごろんと寝返りを打つ。
「別に、悪いなんて言ってない。それに、僕にもあるんだ。個人的な理由」
十年ほども前の、あの優しい手のひらを思い出す。
「探している人がいるんだ」
「へえ、それって誰?」
「教えるわけないだろ」
「あっそ」
そう言って、光起は会話をさっさと切り上げた。
それから数日後、僕と光起は四季隊として初出動の日を迎えた。
出動と言っても、江戸の城下町の警備が中心で、いきなり実戦という訳ではない。しばらくの間は守景さんと一蝶さんと一緒に行動しながら、通常業務を教えてもらうことになっている。倒幕派による動きがない間は、四季隊の活動は警戒活動が中心だ。
「城下町の警備は、警戒や監視だけじゃなくて、ここで暮らしている人々の手助けも含まれてるから。困っている人がいたら、積極的に声をかけてあげること」
守景さんを先頭に、警備の道順や注意事項、有事の際の対応などを教えてもらいながら歩く。
「にしても、今日暑いね」
隣を歩く光起に言うと、彼も汗を拭いながら頷き返す。
「だな。暑くなったり、寒くなったりで付いていけねーよ」
幕府による規制が始まったのが、およそ十年前。その一年後には、倒幕派が陰陽師と繋がりを持ち、絵を具現化する能力を手に入れ、怪異が現れるようになった。それをきっかけに、気候の変動がおかしくなり、急な猛暑日があったかと思えば、次の日には、雪が降るなんてことも起こる。おかげで、町の作物は育ちにくくなり、花もほとんど咲かなくなってしまった。
「一蝶さん、あんなの連れて熱くねーのかな」
光起に言われて、前方を見る。先を歩く一蝶さんの傍には、画術によって具現化した唐獅子が寄り添うように歩いてる。
「涼しい顔してるけどね」
「信じらんねー。見てるだけでこっちが熱い。顔もなんかいかついし」
「そう? もふもふしてて可愛いじゃん。いいなぁ、僕も恩獣と一緒に行動したいな」
画術によって具現化され、観心帳の中で育てながら、いつでも引き出せる生き物は特に恩獣と呼ばれている。
「恩獣を連れてるのって、中級以上の絵士だけどな」
「わかってるよ。僕には、ほど遠い未来だってことくらい。獣を具現化するだけでも難しいのに、先輩たちってやっぱりすごいよね」
「もっと上の階級の絵士になると、術を使うときに手を使わないらしいぞ」
「え、そんな人いるの!?」
絵士たちは、頭で思い描いたものを具現化するが、それを操るときには想像の力だけでは足りないことがほとんどだ。具現化した絵画を操る際には、手を使いながらでないと思うようにはいかない。
「うーん、道は果てしないな」
世界にはすごい人がいるものだと、嘆息を零す。
ふと、前を歩いていた守景さんと一蝶さんが足を止めて、壁際に身体を寄せた。どうやら、そこの通りを曲がった先を窺い見ているようだ。僕は光起と目で合図して、先輩たちと同じように壁に身を隠すように寄った。
「何かあったんですか?」
小声で囁くように尋ねると、守景さんが苦々しい声で返す。
「“絵画狩”だよ」
その言葉にはっとして、壁からわずかに顔を出して窺う。
“絵画狩”とは幕府直属の規制官に仕える規制士たちが、その権限を使って民衆から絵画を取り上げることを意味している。見れば、まさに規制士たちが女の子から一枚の絵を取り上げているところだった。
反射的に動き出そうになったところを、光起に腕を掴まれて止められる。
「お前、何してんだ」
「止めなきゃ」
「はあ?」
「あの子の絵、取り返さなくちゃ」
「阿保か、お前は。幕府の人間であるお前が、幕府の人間に喧嘩売ってどうするんだよ」
「そんなの知らない」
「お前なぁ、ここまで話が通ずない阿保だとは思わなかったわ」
自分でもおかしなことを言っていることはわかってる。それでも、全身を駆け巡る衝動を抑えられそうになかった。
「探雪の気持ちはわかるけど、俺たちが手を出すことじゃない」
守景さんにも窘められてしまい、もどかしさに唇を噛みしめる。すると、成り行きを見守っていた一蝶さんが口を挟んだ。
「え、守景、女の子のこと、放っておくの?」
これには、守景さんも驚いて目を瞬く。
「いや、だって、相手規制官だよ?」
「そうなんだ、守景、見捨てるんだ……」
傷ついたような顔を見せる一蝶さんに、守景さんがの心がぐらりと揺らぐ。
「……一蝶、そんな顔しないでよ」
「でも、困ってる人、放っておくんでしょ?そんな守景…………嫌い」
「うっ……」
とどめの一言に、守景さんは胸を抑える。
「わかったよ! 助けるから!」
今度は、光起が信じられないというように目を見開く。
「いや、どうして、そうなるんですか!」
「さすが、守景。そうこなくっちゃ」
対して、一蝶さんは機嫌を取り戻したらしい。
「統制の邪魔なんてしたら、後で面倒なことになりますよ」
「なら、バレなければいいんでしょ」
光起に一蝶さんがさらりと返したその時、ひと際大きな声で泣き叫ぶ、女の子の声が響いた。慌てて見れば、統制士が刀を抜こうとしている。
「見せしめだ」
その言葉に、誰にも止める間も与えず、僕は駆け出した。統制士が刀を高く振り上げる。間に合ってくれ――。奥歯を噛みしめ、地面を蹴りあげる。きっと、背後の三人が手を貸してくれると信じて。僕は統制士が片手に持つ、女の子の絵だけを目指してひた走った。
「題目、『疾風怒涛』」
背中から、一蝶さんが題目を呟く声が聞こえた。次の瞬間、背後からつむじ風が現れた。つむじ風は、器用に僕や女の子を避けて統制士だけを襲い、目くらましになる。これで、顔を見られる心配はない。さらに、統制士の頭上に雷神が現れ、小さな雷をその手に落とす。痺れを感じたのか、統制士の手から刀が滑り落ちる。その隙に、僕は統制士の手から絵を奪い、路地へと逃げ込んだ。すると、ようやく視界が戻ったらしい統制士たちが声を上げるのが後ろから聞こえた。
「絵が盗まれた! あっちに逃げたぞ、追い掛けろ!」
奪った絵を手に、いくつか路地を曲がる。統制士がすぐそこまで迫っているのを感じたその時。
「探雪、こっちだ!」
自分を呼ぶ声が聞こえ、振り向けば細い路地から光起が手招きしている。呼ばれるままに、細い路地に駆け込む。同時に、光起が壁を具現化して道を塞いだ。
「どこに行った、確かにこっちに逃げたはずだが。向こうも探せ」
統制士たちの足音が遠ざかって行くのがわかり、ほっと胸を撫で下ろす。
「ったく、無茶してんじゃねーよ」
悪態をつく光起に、僕はただ苦笑を返したのだった。
守景さんと一蝶さんと合流して、僕たちは町の茶屋である松永堂を訪ねた。
「娘を助けていただいて、ありがとうございました」
店主の松永さんが頭を下げる。
「いえ、僕が勝手にやったことですから。ただ、僕たち一応幕府に関わってる者ですので、くれぐれも秘密ってことで、お願いします」
「ええ、わかっています」
それから娘の椿ちゃんに向き直り、取り返した絵を渡した。
「お兄さんたち、ありがとう」
受け取りながら、椿ちゃんは花が綻ぶように笑う。
「でも、さっきの人たちに絶対に見つからないようにしないとダメだよ。約束できる?」
優しく伝えると、椿ちゃんは少し困ったような顔になる。
「うーん、わかった……約束みたいだよ、お父さん」
そう言って、椿ちゃんは松永さんに絵を渡した。
「そうぎょう百年、おめでとう。すごいことなんでしょ? お客さんが言ってた」
「この絵、お父さんにくれるつもりだったのか」
「うん! だって、お父さん絵が好きでしょ」
「まったく、どこで知ったんだか……」
松永さんは困ったように微笑みながら、どこか嬉しそうでもある。
「用も済んだし、お暇しようか」
守景さんの声に、みんなも頷きかけたその時。
「お待ちください。お礼にお茶でも飲んでいってくれませんか」
引き止めるように松永さんが声をかけた。
「いえ、せっかくですが、俺たちがここにいると、また統制士に目をつけられるかもしれませんので」
代表して守景さんが断ると、やけに松永さんは肩を落とす。
「そうですか……では、町の茶屋からひとつ“おせっかい”を言わせてください。水無月の二日に、祭りが催されると聞いています。堀川の辺りでは、出店も出されるとか。大変混み合うだろうと町ではもっぱらの噂です。くれぐれもお気をつけください」
「……ご忠告、ありがとう」
守景さんが返すと、松永さんは深々と頭を下げて、僕たちを見送った。
それから幾ばくか経った頃、僕と光起は廊下側から障子にへばりつくようにして、部屋の中の話しに耳を傾けていた。
警備の任を終えて寮へと戻る途中、幕府の役人からお呼び出しを受けた。理由は聞かずとも、間違いなく統制士の邪魔をしたことだろう。けれど、その呼びかけに守景さんと一蝶さんは、自分たち二人がやったことだと名乗り出て、僕たちをかばったのだった。
そんな経緯があって、今僕たちは江戸城の将軍の間の前に来ている。中では、将軍と幕府の役人数名、それから守景さんと一蝶さんが話をしている。
膝をつき障子に耳を張り付けている僕の隣で、光起はあぐらをかいている。
「なあ、戻らねえか?」
「けど、このままにしておけないじゃん」
「ここで盗み聞きしたところで、何も変わらないって」
ため息をつきながらも、ひとりで帰ったりしない辺り、光起も罪悪感があるのかもしれない。それにしても、光起の顔がいつにもなく強張っている。なにかこの場にいたくない強い理由があるような。
「なあ、やっぱり戻ろう」
「嫌だ。にしても、聞こえづらいな……」
僕は思い切って、指で障子に穴を空ける。
「なっ、馬鹿!」
「大丈夫。どうせ話に夢中で誰も気づかないよ」
穴を覗くと、部屋の中の様子が見えた。視線をさまよわせていると、ばっちり一蝶さんと目が合ってしまった。しまったと思ったものの、一蝶さんは驚くでもなく、薄く微笑みを浮かべる。その微笑みは、優雅ささえも感じる。穴のおかげで話し声はさっきより聞きやすい。
「統制官から、町での絵画統制活動の最中に、邪魔が入ったと報告を受けている」
やけに、高い声で謡うように喋り出したのは、15代将軍徳山吉房だ。
「どうやら、四季隊の仕業だというのが統制官の言い分だが、弁明はあるか?」
「俺たちは、知りません。全く身に覚えのないことです」
守景さんが告げると、将軍の傍らに座っていた男が声を上げる。
「呼び出しに向かった役人は、お前たちの自白を聞いている。どうして食い違いがある?」
目を凝らし顔を確認すると、記憶を手繰り寄せる。あの人は、確か統制官の偉い人だ。
「知らないものは、知りません。いつも通り、町の警備をしていただけです」
「目撃証言が出ているんだ。今、認めるなら、刑は軽くしてやる」
統制士の目くらましはしたものの、住民の中に目撃者がいたのだろう。世間には、幕府に加担する四季隊をよく思っていない人もいる。誰かしらの口から漏れてしまっても、おかしくない。
けれど、このままだと守景さんと一蝶さんが刑を受けることになる。奥歯を噛んでいると、隣から光起の声がする。
「頼むから、部屋の中に飛び込んで止めようなんて考えるなよ」
「僕が考えてること、よくわかったね」
「わかるよ。お前くらいの単細胞だと。守景さんたちにも何か考えがあるみたいだったし、放っておいても問題ないと思うけど」
確かに、役人に連れて行かれる前に、守景さんは『俺たちも将軍に話があるんだ』と耳打ちをしていた。
すると、やけに間延びした守景さんの声が部屋の緊迫した空気を打ち破る。
「えー嫌だな~。刑は受けたくないですね。交換条件でどうにかなりまえんか?」
「抜かすでない。そんな余地があると思うか」
将軍がぴしゃりと跳ねのける。
「でも、いいんですか? ついさっき、聞いちゃったんですよね。倒幕派の動きについて」
声を低くして守景さんが告げる。部屋に少しの静寂が落ちた後、将軍が口を開く。
「……それは、真か」
「さあ、どうでしょうか」
「聞かせろ」
「さっき言ったでしょう、交換条件ですと。情報と引き換えに、刑は全面的に免除。これを飲めないなら、情報は渡せません」
「……なんて生意気な。四季隊の隊長にも、隊員の風紀に気をつけるよう、指導しておかないとな」
「ふあぁぁぁぁぁ」
その時、一蝶さんが大胆にもあくびをした。
「すみません、警備で疲れちゃって。話、長くなりそう?」
見ているこっちが冷や冷やするほどの無礼さだ。
将軍は、ぎりぎりと歯を噛みしめながら、なんとか耐え忍んだ。
「……いいだろう。条件を飲む。倒幕派の情報を聞かせろ」
「水無月の三日に、町で祭りが催されるでしょう。その日に、何かしらの動きがあります。おそらく、最近身を隠している歌川の一派でしょう」
守景さんの話に、思わず声を上げそうになって口を抑える。隣から、光起のいぶかしげな視線を受けた。
「お前、もしかして気づいてなかったのか。茶屋の松永さんが密告してくれた情報」
「え、さっき茶屋で話してた内容? なんか日付とか、場所が違っておかしいなって思ったけど。じゃあ、あれが……」
「暗号みたいなものだ。祭りは三日なのに、松永さんは二日と言った。さらに、祭りの場所は、京橋川なのに、堀川と言った。これに共通することと言ったら……」
「そっか、堀川夜討之図」
「そういうこと」
『堀川夜討之図』は、歌川国芳が本能寺の変を描いたものだ。本能寺の変は、水無月の二日に起きたとされている。つまり、祭りの日に、歌川の一派が謀反を起こすという情報を渡してくれていたのだ。
何やら考え込んだ後で、将軍が重い口を開く。
「情報源はどこだ?」
「明かせません。善意の提供者を守るためですから、ご理解ください。ですが、信頼に値するかと」
「本当に、三日に倒幕派が動くとして、こちらが出来ることは警備を固め、戦力を京橋川付近に集めることくらいか。先手を打つ方法は何かないのか?」
「三日の前に、倒幕派が話し合いの場を設ける可能性はあると思います。誰かしら捕縛できれば、情報を聞き出せるはずです」
「その話し合いが行われる場に心当たりは?」
「あります」
守景さんの断言に、松永堂のことを指しているのだろうと想像する。
「統制官側でも歌川の家臣たちが、夜な夜な城下町を動き回っているという報告があがっています。可能性は十分ありますね」
統制官の役人に将軍も頷き返す。
「ならば、張り込みをして、倒幕派の者を掴まえろ」
「ですが、俺たちは面が割れているので、張り込みをしたら相手が気づくかもしれません」
「うむ……なら、どうする」
その時、再び一蝶さんと障子越しに目があった。
「いい人材がいますよ」
一蝶さんの落ち着いた声が将軍まで届く。
「四季隊に入隊したばかりの隊員なら、まだ向こうに顔を知られていません」
一蝶さんは、どうやら僕たちを張り込み要因に起用しようとしているらしい。
「それは妙案だが。その隊員とやらに任せて問題ないのか。昨今では、例の噂もあるだろう。何でも、あの狩野探信が江戸に戻っているとか」
その名前を耳にした途端、一瞬、世界の全てが制止したように感じられた。その名前を聞くのは、いつぶりだろう。両親さえも、まるで最初から存在しなかったかのように、いつからか口にしなくなった名前。あの日、家を出て行った……僕が長年探し続けている……四季隊に入った理由のひとつでもある、その兄の名前だ。
「もし、探信が倒幕派に加担するようなことがあれば……」
気がつくと、僕は将軍の言葉を遮るように、障子をすぱんと開けていた。隣で光起が頭を抱えているのが見なくてもわかる。部屋の中では、一蝶さん以外の全ての人が唖然としていた。
「なっ、なっ、何をしている貴様ら!」
将軍は顔を真っ赤にしてまくしたてる。普段なら、恐縮したかもしれないが、今はそんなことどうでもいい。
「その張り込みの任、僕たちに行かせてください!」
「もう、そんなに張り切らなくても、今ちゃんと推薦してたのに」
一蝶さんがどこか楽し気に、微笑みかける。
「この2人が今、言っていた四季隊の隊員か」
「四季隊の狩野探雪です」
「探雪……そうか、弟が入隊したとは聞いていたが。そうか、それがお主か」
将軍は、どこか納得したように頷く。
間もなくして、出るよりほかなくなった光起も僕に並ぶように隣に立った。
「……四季隊の土佐光起です」
「む、土佐の姓ということは、もしやお主は……」
将軍は、そのまま光起から傍に控えている統制官の役人に目を向けた。
「……私の息子です」
統制官の役人は、まっすぐに光起を見据えながら告げる。途端に、記憶の波が押し寄せ、目の前に役人の名前を思い出した。土佐光則、統制官の老中だ。この人が光起の父親だというのか。
「家を出たとは聞いていたが、まさか四季隊に入隊していたとはな」
「別に俺の自由だろ」
「そうだな。ただ、恥じているのだ」
「恥だと?」
「ああ。土佐家の恥だ」
「その言葉そのまま返してやるよ。土佐家に伝わって来た絵の志を捨てて、幕府の官僚に寝返ったあんたの方がよっぽど恥だ」
「そういうお前は、絵の志をまだ持っているのか?」
「は?」
「大方、私に対する反抗心から四季隊に入ったのだろう」
「どういう意味だ」
「他人に聞く前に、自分の胸に手を当てたらどうだ。お前は、四季隊という看板を盾に私への復讐を果たそうとしているだけだ。違うか?」
光起は何も言い返さず、顔を蒼くして唇を噛みしめている。
「その甘ったれた姿勢こそ、恥だと言っているのだ。反抗期の延長線上で四季隊に腰を据えるのなら、絵なんて辞めてしまえ」
その途端、自分の中でぷつんと何かが切れた気がした。
「撤回してください」
気がつくと、口をついて出ていた。
「何?」
身体が凍りそうなほどの冷めた目が、光起から僕に移動する。
「今、言ったこと撤回してください。絵を辞めてしまえなんて、簡単に言わないでください」
「君はどういう立場で物を言っているんだ」
「貴方こそ、光起のことをどれくらい知っていますか? 光起、優秀なんですよ。それは、もう他の生徒が引くくらい。でも、何も努力しないで優秀なわけじゃないんです。いつも、授業終わった後に、ひとりでこっそり遅くまで練習してたんです。そういう姿を貴方は知ってるんですか?」
「知ってたら、何だという」
「知りもしないくせに言わないで欲しいと言ってるんです」
「もういい」
静かに遮るように、光起が呟いた。
「もう、いい。その人に何言っても無駄だから」
光起は踵を返すと、そのまま部屋を立ち去っていった。
翌日から夜になると、僕は光起と松永堂の張り込みについた。
将軍や規制士にあれだけの無礼を働いたのだから、任せてもらえないかもしれないと覚悟はしていたが、どうやら僕が探信の弟であることが決め手となったらしい。
客として店に溶け込むため、小袖に着替えて松永堂に通ったことで、すっかり常連客のようになってしまった。店主の松永さんは、僕たちだと気づいているけれど、張り込みのためだと察しがついたらしく、あくまで客として接してくれている。
そして、張り込みを始めて、数日が経過した夜だった。新しい客が店の暖簾をくぐったところで、目の前に座る光起が眉をわずかにぴくりと動かした。
「通路挟んで、奥の席。見てみろ。あ、さり気なくな」
僕は品書きを手に店員を探す振りをしながら、奥の席に視線を滑らせる。そこに座る男には、確かに見覚えがあった。歌川国芳の弟子、月岡芳年だ。
「ひとりだね。誰かを待ってるのかな」
光起に向き直ると、品書きに目を落としながら言う。
「たぶんな」
やがて、予想通りひとりの男が店に入ってきて、芳年の向かいに腰を下ろした。恰好からして、おそらく町人だろう。僕と光起は適度に雑談をしながら、奥の席に耳を傾ける。けれど、祭りの話は出るものの、当日の流れや段取りを確認するくらいで、大した話はしていない。しばらく話を交えた後で、町人の男は腰を上げ、小さな木箱を芳年に差し出した。
「くれぐれもよろしく伝えて欲しいと、仰っていました」
芳年が頷くと、町人の男は店を出て行く。
「追った方がいいかな」
声を落として尋ねると、光起は首を振る。
「あっちは、たぶんただの受け渡し役だろう。追うなら、こっちだ」
芳年は、まだ席に残ったままだ。
「伝えて欲しいってことは、誰かから言伝を預かって来たってことだよね」
「ああ、さらにそれを伝える相手も存在する。おそらくあの木箱を渡す相手だろう」
「これから会うのかも」
「可能性はあるな」
再び誰かが芳年を訪ねてくるのを僕たちは待ったけれど、お茶を飲み干すと芳年は腰を上げて、店を後にした。少しの間を開けて、僕と光起も追い掛けるように外に出る。
月の明かりを頼りに、芳年の背中を追いかける。その間光起は、小鳥の妖獣を具現化して伝書を預けると、待機中の守景さんと一蝶さんの元へと飛ばした。
芳年は、城下町を過ぎ、京橋川の桟橋の上で足を止めた。誰かを待っているのだろうかと建物の影から見守っていたその時、桟橋の向こう側から人影が現れた。笠を目深に被っていて顔は見えない。その時、光起の肩に伝書を渡し終えた、小鳥が舞い戻って来てとまる。橋の向こう側を見れば、建物の影に守景さんと一蝶さんの姿がある。
「到着したみたいだね」
「二人が動き出したら、俺たちも動こう」
機を窺うように、僕たちはじっと待った。桟橋の上で待つ芳年に、笠の男が近づいていく。ふと、何かの気配を感じたように、男は足を止めて、守景さんや一蝶さんがいる方を振り向いた。
まさかと思った時には、男は芳年を通りに抜けるように駆け出していた。
「気づかれた!」
笠の男はこちら側まで渡り切ると、河原沿いを走り抜ける。そのことに、守景さんや一蝶さんも気づいたようで、芳年を掴まえるためすぐに動き出した。
僕と光起は、瞬時に距離的に近くにいた笠の男の方を追いかける。男は追手である僕たちに気づき、さらに足を早め、そのまま土手を駆け下りた。
「この先は、水門だ。追い込めるかもしれない」
僕が言うと、光起も息を巻いて答える。
「ああ、逃がしてたまるか」
雲が月を隠し、夜闇の色が濃くなる。水門が差し迫ると、男は立ち止まり、こちらを振り返り歓心帳を広げた。
「絵士か! おい、探雪」
「言われなくったって」
僕たちも臨戦態勢に入ろうと、同じように歓心帳を開いた。同時に、雲に隠れていた月が再び顔を出し、影に隠されていた笠の男の顔を照らし出す。
「嘘、でしょ……」
心臓が嫌な音を立て、息がつまった。覚えてないはずだったのに、その顔を目の当たりにした瞬間、すぐにわかった。
僕に絵を――絵を描く楽しさを教えてくれた、兄が目の前にいる。
ずっと探していた人がすぐそこにいると言うのに、何も言葉が出てこない。先に口を開いたのは、兄さんの方だった。
「……探雪か」
それを聞いて、光起もはっと息をのんだ。
聞きたいこと、言いたいことは山ほどあるはずなのに、何を言うべきかまるでわからない。
「……まだ、絵なんて描いていたのか」
兄の口から出た言葉に、僕は頭を殴られたような感覚を覚え、視界が揺れる。
「どういう、意味」
ようやく声にならない声を発したその時、後ろから足音が聞こえて来た。どうやら、守景さんが援護に来てくれたようだ。
その瞬間、兄さんは題目を唱え水上に舟を具現化して、一瞬にして向こう岸まで渡っていってしまった。
「待って……」
まだ行かないで。まだ絵を描いていたのかなんて、そんな言葉だけを残して、どこかへ行かないで。
僕は題目を唱えて、岩を水上にいくつも具現化して、それに飛び移るようにして川を渡っていく。呼吸が浅いのを感じながら、ずっと探し求めていた兄の背中を追いかける。
『まだ、絵なんて描いていたのか』。
先ほどの兄の言葉が頭の芯に何度も響く。信じていたものが崩れ去る音が聞こえるようだった。
胸に大きな悲しみが押し寄せる。途端に、頭の中に思い描いていた岩の絵は消え去って、降りしきる雨の景色が浮かんだ。
次の瞬間、一瞬にして巨大な雨雲が空を覆い、雨が降り注いだ。胸に悲しさが募るほど、身体中に力が湧いてくるのを感じた。水量が増した川は、波紋を起こしながら揺れる。もう少しで向こう岸にたどり着ける。けれど、燃料切れを起こしたかのように身体に力が入らなくなった。岩は砕けて粉となり、足場を失った僕は川の中に落ちた。
「探雪……!」
誰ともつかない声が耳に届いた。暗い水の中で、次第に僕の意識は薄れていった。
目を覚ますと、見慣れた天井が視界に入った。
どうやら、寮の自分の布団で目を覚ましたらしい。
「起きたか」
声の方を見れば、壁に寄り掛かるようにして座っている光起がこちらを窺っていた。
「……兄さんは?」
「……悪い。逃げられちまった」
「ありがとう」
「何で、逃げれれたって言ってんのに、ありがとうなんだよ」
「助けてくれたの、光起でしょ」
川から引き上げてもらった時の記憶がうっすらと戻ってきた。川辺で意識を一度取り戻し、どうやらその後再び気を失ったらしい。窓の外に見える空は夕日に赤く染まっている。昨夜から長いこと眠っていたみたいだ。
「何か食べれそうか?」
「たぶん」
しばらくして、見舞いついでに守景さんと一蝶さんが粥を持って部屋を訪ねてくれた。
「まったく、こっちは本気で焦ったんだから。探雪は、突っ走って無理し過ぎるところがある。気を付けてもらわないと」
元気そうなのを見て安心したのか、さっそく守景さんのお説教が始まる。
「すみません」
「これからは何か行動に移す前に、一回考えること」
「はい」
「こいつの性格それくらいじゃなおりませんよ。もっと言ってやってください」
光起も調子に乗って、煽り出す。
「光起には言われたくないよ」
「お前が底抜けの阿保だから、言ってやってるんだろ。天然級のど阿保が」
「阿保阿保、言わないでよね」
いつものように言い合うと、これまたいつも通りに守景さんが仲裁する。
「はい、そこまで。今回は、光起が言いたくなる気持ちもわかるけどね。もう、本当に反省してるんだか」
「してます、してます」
「ほら、一蝶からもなんとか言ってやってよ」
「探雪……めっ」
一蝶さんが子供を窘めるように叱り、他のふたりが笑いを堪える。どうにも気恥ずかしくて、守景さんの説教より効き目があるかもしれない。
「すみませんでした、反省してます」
「まあ、反省はここまでとして。本調子じゃないのに悪いんだけど、昨夜のことは思い出せる?」
守景さんに聞かれ、頷き返す。
「はい、大体のことは」
「大雨を降らせた時のことも?」
「え?」
兄のことを聞かれるとばかり思っていたので、守景さんの質問に目を瞬く。
「やっぱり無自覚なのか」
「雨を降らせたって。まるで、僕が降らせたみたいな言い方ですね」
「おそらくそうだよ。明らかに、画術の能力だった。本当に心当たりはない?」
「まさか……」
言いながら、兄に対する感情の波と一緒に、大雨を想起したことを思い出す。その時に、身体中を駆け巡るような力が湧いたことも。
「え、本当に僕が……」
「少しは覚えがあるみたいだね。あれだけの力を使ったんだ、途中で気を失ったのはたぶんそのせいだよ。画術には、体力みたいなものがあって無限ではないから。鍛錬でその上限はあげられるし、陰陽師との契約によって代償を払って底上げするなんていう例外もあるけど」
「だからなんですかね。起きた時から、身体が空っぽっていうか。まるで力が湧いてこなくて」
すると真剣な面持ちで、一蝶さんが口を挟んだ。
「探雪……画術を使ってみて。何でもいい。簡単なものでいいから」
「え? わかりました」
僕は、観心帳を開き、適当なものはないかと少し考えてから題目を唱える。
「題目、『花鳥諷詠』」
一輪の花を思い描くと、傍にあった空の花瓶に、花が現れる。けれど、その花弁はすぐにしおれ、水分を急激に失ったように枯れて、やがて消えてしまった。
「どうして……」
僕は同じ題目をもう一度唱える。今度は、花を描く線が現れ、それを形作る途中で、消えてしまった。
「一蝶さん、もしかして僕……画術が使えなくなってしまったんですか?」
日が沈み、月が空の主役に代わった頃。
僕は月の明かりだけが差しこむ中、布団の上で寄木細工の箱をいじっていた。昨夜、芳年は守景さんと一蝶さんに捕まった。その際に没収したのが、茶屋で預かり兄さんに渡すはずだったあの木箱だ。その木箱は、板を精巧に組み合わせて作られており、板を何段階かに分けてずらすことで箱を開けることができる鍵の役割を持つ、いわば、からくり箱だった。からくり箱には、21段階も板をずらして開けるものもあるらしく、この箱が何段階なのかはわからないが、他の隊員も試してみたところ誰も開けることができなかったという。そこでそのお役目が、僕に回って来たらしい。からくりに夢中になっていれば、余計なことを考えずに済むから助かる。
「灯りもつけないで、何してるんだよ」
外から戻って来た光起に声をかけられて、顔を上げる。
「これ、難し過ぎる。開け方知らないと、一生無理かもよ」
「そんなことしてねーで、休んだら?」
「ううん、何かしてた方が、気が楽」
「そうかよ」
それ以上は何も言わず、灯りをつけるわけでもなく、光起は自分の布団に腰を下ろした。
一蝶さんによれば、画術が使えなくなったのは、恐らく心理的な要因らしい。思い描くことで能力を発動する画術は、絵とは心で描くものという本来の心得を土台にしている。そのためか、心理的なことが起因となって、能力が発動できなくなることはたまにあるそうだ。そう言われれば、思い当たることはひとつしかない。
『絵なんて、まだ描いてるのか』。あの一言が棘のように胸に刺さったまま、消えてくれない。あれが、他の誰かが言ったのなら、おそらく問題はなかったのだろう。唯一、否定してもらいたくなかった兄に言われたからこそだと自分でもわかっていた。
そういえば、似たような言葉をつい最近聞いたよな。そう思い、光起の父のことを思い起こす。彼の父親もまた、『絵なんて』と言い捨てた。辞めてしまえ、と。あの時、僕はつい言い返してしまったけど、光起の気持ちをどれだけ汲めていたんだろう。
「ねえ、光起。この前は、ごめん」
「この前って、どのことだよ。お前には謝ってもらわないといけないことがあり過ぎて、わからねえな」
「お父さんとのこと。僕が言い返すべきじゃなかったかなって」
「別に、いいよ。むかついてたから。言い返してくれて、むしろすっきりしたし。それに、あの人が言ってたこと、本当だから」
「それって、四季隊に入った理由のこと?」
「俺の家さ、もともとは画家の家系だったんだ。今は統制官にいる親父だって昔は絵を描いていた。それなのに、規制が始まった途端、家族揃って幕府側にあっさりつくようになった。それまでは、絵こそ命みたいな家柄だったくせに」
絵を取り戻すことが目的なのは倒幕派も四季隊も同じと言った光起が、四季隊に入ることを選らんだ理由が今ならわかる。幕府にいる父親を見返すには、内側にいなくちゃいけない。統制官と相反する機関でありながら、それに頼らざるを得ない四季隊だからこそだろう。
「絵を捨てたお前たちが間違ってるって証明できればいいと思ってた。でも、本当はそこに何の意味もない。あの人はそんなこと気にしちゃいない。なんか急に馬鹿らしくなってきてさ。俺、四季隊にいる理由、他にないのにな……」
微かに光起の声が震えている気がした。
「それなら、また探そうよ。新しい理由」
「そんな簡単に見つかるかよ」
「見つかるまで探せばいいじゃん」
「……そうだな。お前みたいに町のためとか、馬鹿みたいな大義名分のため働くのもいいかもな」
「馬鹿は余計。納得できる理由が見つかるまで、僕も一緒に探す」
「おせっかいなお前らしい。借り作るのは好きじゃないから、お前の言うことも聞いてやるよ」
「それなら、画術を教えてよ。僕は、もっと強くなりたい。いつか、当たり前に絵を描いていた頃の世界を取り戻したい。そのために、もっともっと力をつけたい。まあ、今はそれどころじゃないんだけど……」
「……そのうち、使えるようになんだろ。絶対、元に戻るって」
そっけない物言いながらも、そこには友人らしい思いやりが見て取れた気がした。
「もしかしてさ。もしかしてだけど、光起、今励ましてくれてる?」
「はぁ? 別に励ましてなんかねーよ!」
「素直じゃないやつ」
「お前なぁ……まあ、いいや。俺が言うことじゃねーけど、気にすんなって無理な話だろうし、気が済むまで思いっきり気にすりゃいいんじゃね?」
「うん、そうする。できれば、もう一度会ってちゃんと話がしたい」
「兄貴、なんだっけ?」
「そう、僕に絵を教えてくれた人でもあるんだ。僕の家もね、もともとは絵画を生業にする家系だったんだ」
「元々っていうか、今でもそうじゃないのか。狩野家の人、四季隊にも結構いるだろ」
「親戚の中には四季隊に入って絵を続けている人はたくさんいる。でも、両親は絵を諦めた。規制が始まった翌年に兄さんが家を出て行ってその頃から。十年くらい前だから、僕が六歳の頃だったかな。僕はすぐに兄さんが帰って来るものだとばかり思ってたから、大して考えずに描いた絵を渡して、見送ったんだ」
「へえ、どんな絵?」
「桜の絵。ほら、昔は咲いてたでしょ。京橋川の川辺に」
「ああ、そうだったな」
「兄さんは、昔から圧倒的に絵がうまかったから、もらって嬉しかったかは微妙だけど」
「嬉しかったんじゃねーの。そういうもんだろ」
光起らしくない発言に、僕は頬を緩める。いつの間にか、沈んでいた気持ちも少し軽くなっている。
その後も、静かな夜の中で、僕たちは珍しく長い時間話をしていたのだった。
そして、ついに倒幕派の動きがあると予想されたあの日を迎える。水無月の三日。町では、予定通り大々的に、催しが開かれた。
あれから、画術は少しずつ回復したものの、まだ実戦に対応できるほどの能力は戻っていない。それでも、町の警備には出ることは、許してもらえた。有事の際には、僕と光起は住民の安全を守るという補助的な役割を担うことになっている。
催しは、昼間から開かれ、久しぶりに町にも活気が戻って来た感じがあった。このまま何事もなく、催しが終わればいい。そう思うほどに、町の人々の表情は晴れやかだった。
けれど、日が傾き、すっかり町が夜に包まれた頃。それは、突然やってきた。
どすん、どすんという地響きが聞こえ、地面から足に伝わる振動が始まりだった。
やがて、夜闇の向こうに、何かとてつもなく大きな白い物体が浮かび上がった。そして、それは町を覆うほどの巨大な骸骨だった。
「がしゃどくろ、だ……」
町のはずれから、巨大なそれを見上げながら光起が呟く。僕は、瞬時にそれが『相馬の古内裏』を意味するのだと理解する。『相馬の古内裏』は、歌川国芳が描いた作品だが、幕府が統制を始めた年に燃やされたと聞いている。
「もしかして、再現しようとしている……?」
幕府によって燃やされ、失われた大切な作品。それを再現することで、倒幕の決意を表明しているかのようだった。
「なんてこと考えやがる」
「あんなに大きいものを具現化するなんて」
「陰陽師との契約以外、考えられない。代償を払ったんだろうな」
絵士の力は、陰陽師との契約で底上げが可能だ。でも、それは代償を払うことで成り立つ禁じ手である。おそらく、この大きさのものを具現化するには、文字通り命を懸けたに違いない。
突然、町に現れた巨大なドクロに、人々は悲鳴を上げながら逃げ惑っている。他の四季隊の隊員がドクロを倒すためその足元に近づこうと、屋根の上を駆け抜けていく。
「俺たちも、やることやんねーと」
「うん、手筈通り、逃げ道を誘導しよう」
僕と光起は、住民の人たちに声をかけながら、避難の手伝いを始めた。その時、がしゃどくろが、家屋を掴みそれを放り投げた。その断片はこちら目がけて飛んでくる。このままでは、住民に直撃する。
「題目、『蜘蛛乃糸』」
瞬時に、題目を唱え、蜘蛛の糸を張り巡らせる。断片は網目にかかって、空中で受け止めることができ、住民に衝突することは防げた。
ほっと胸を撫で下ろしながら、少しずつ能力は戻りつつあることを感じる。遠く先を見れば、がしゃどくろの周りを風神と雷神が漂い、攻撃をしかけている。たぶん、守景さんや一蝶さんたちだろう。刀でドクロの骨を絶ち切るが、修復の速度が早いらしく、体勢を崩すことができないでいる。どうして、僕は今、ここにいるんだろう。どうして、前線で戦えていないんだろう。僕は、町を破壊していくドクロを眺めながら、悔しがることしかできない、もし、僕にもっと能力があれば、そんな思いが胸を過る。それでも、自分に出来ることをやるしかないと気持ちを切り替えて、再び住民の避難を仰いだ。
住民のほとんどが町の外へ逃げ出すことができた後、僕と光起は逃げ遅れている人がいないか見て回っていた。すると、一軒の家から、男の子が泣く声が聞こえて来た。中に入ってみると、そこには幼い少年と、お爺さんが座り込んでいる。
「大丈夫ですか!?」
ふたりに駆け寄ると、お爺さんは足を押さえながら答える。
「足をくじいちまいましてね。大丈夫です、自分で歩くことは出来ますから」
「応急措置になりますが、手当しましょう」
「すみませんね、ありがとうございます」
包帯を取り出すが、泣いたままの少年のことが気になった。
「俺がやる。お前の方がああいうのは得意だろ」
そう言って、光起は手当てを代わってくれる。
僕は、涙を流して声をあげている少年の前にしゃがむと、題目を唱えて、一輪の花を具現化した。少年は涙を引っ込めて、花を受け取る。けれど、少年が手にした瞬間、花は枯れてしまった。堰を切ったように、少年は再び泣き出した。
「わっ、ごめん、ごめん。おかしいな。さっきの糸で、体力が切れたのかな……」
慌てふためいていると、手当を済ませた光起がこちらに来て、横にしゃがんだ。そして、光起は同じように花を一輪、具現化して少年に差し出す。少年は、おずおずと花を受け取ってから、今度こそ、笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
「おじいちゃんが怪我してるから、君が助けてあげるんだ。もう少し頑張れるな?」
「うん!」
光起の言葉に、少年はしっかりと頷く。それから、僕の袂に目を向けた。
「あれ、お兄ちゃん。それ、からくり細工でしょ?」
「ああ、これ? よく知ってるね」
「おじいちゃん、からくり細工の職人だから!」
お爺さんを振り向けば、照れくさそうに微笑んでいる。僕は袂から、木箱を取り出して、お爺さんに見せに行った。
「あの、この箱の開け方、ご存じないですか?」
「おや、これまた難解なものを持っているもんですな。開けられるか、やってみてもいいですか?」
「お願いします」
お爺さんは木箱の板をずらしたり、それをまた戻してみたり、器用に指で動かしていく。
「しかし、まあ、どうしてこんな世の中になったんでしょうな。ありゃ、滝夜叉姫が仲間でも募っとるんだろうね」
それを聞きながら、お爺さんが言っている『相馬の古内裏』の題材について考えを巡らせた。あの作品は、平将門が内裏に模して立てた建物が乱の兵火で燃え、廃屋となり、後に娘の滝夜叉姫が父の意志を継いで廃屋で妖術を使い、味方を募ったことが背景にあるとされている。
「火事が起きないだけ、ましと思うべきかのう」
お爺さんの言葉に、そういえば、と思う。
「どうして今回、倒幕派は街を焼かないんだろう」
ひとりごとのように呟いた言葉に光起が反応する。
「確かに妙だな。夜討となれば、町を焼くのことが多い。暗くて、戦いづらいからな」
「なにか火を使いたくない理由があるのかな」
「そんな理由、あるか?」
「もしかして、火が苦手とか?」
「ドクロがか?」
「ドクロっていうより、画術を発動している絵士が、じゃない? 画術には、心理的要因が働くよね。今の僕みたいに。それは画術で具現化したものにも影響するし……」
「そうか、歌川国芳は幕府に自分が描いた絵を燃やされている」
「もし、歌川国芳が火に相当な心理的外傷を持っているなら」
「国芳が具現化したドクロも、火に弱いかもしれない」
ふたりの考えがぴたりと一致したその時、お爺さんの手元の木箱がかちりと音を立てた。
「やりました、開きましたよ」
見れば、木箱は先ほどとは形を変えて、蓋が開いている。
「ありがとうございます!」
早速、木箱を受け取ると、中に折りたたまれた紙が入ってる。僕は、その紙を手に取って、そっと開いた。目に飛び込んできたのは、見覚えのある桜の絵だった。京橋の川辺沿いに満開の桜が咲き誇るその絵は、紛れもなく兄が旅立ったあの日に僕が贈ったものだ。全身が震えるように脈うち、喉をこくりと鳴らす。
「行かなくちゃ」
身体中に力が駆け巡るのがわかる。雨を降らした、あの夜と同じように、どこからともなく迸るほどように力が湧いてきて、お腹の中心が熱い。
「お前、もしかして、力が戻ったのか?」
波動が伝わったのか、光起が訊いてくる。
「うん、もう大丈夫。今向かったら、上からの命に背くことになるけど……どうする?」
目を瞬いた後で、にやりと光起が笑う。
「そんなの知らねーよ」
それを合図に、僕たちの向かうべき場所は決まった。
「お爺さん、僕たちは行かなくちゃいけません。自力で避難できそうですか?」
「僕が一緒にいるから、だいじょうぶ!」
お爺さんが答える前に、少年が胸を張って答える。
「ふふ、そういうことですので、私たちは大丈夫です」
お爺さんも僕たちに向き直って微笑みかける。
僕と光起は、外へと飛び出した。少し先で、ドクロはまだ衰えることなく、暴れ回っている。
そのドクロに向けて、どちらからともなく僕たちは一斉に駆け出した。
ドクロのすぐ傍までたどり着くと、反撃を避けながら戦う守景さんや一蝶さんの姿があった。他の四季隊の隊員もいるが、中には負傷している者もいる。
「守景さん!」
僕の呼びかけに気づき、守景さんは驚いて声を上げる。
「なんでふたりがここにいる!」
「命令無視して前線に出てきて、すみません。でも、このドクロ、火が弱点かもしれないんです!」
「……お前たち、できるのか」
僕たちがここに来た意味を察して、守景さんがそれだけ尋ねる。
「できます!」
「やらせてください!」
「絶対に死ぬなよ」
守景さんはそう言って、一蝶さんに向き直る。
「一蝶! 探雪と光起を援護する!」
「わかってるよ」
一蝶さんは、こちらに向かって軽やかに手を振って応えた。
僕たちは、ドクロを見上げ、観心帳を広げる。それから、岩を宙に具現化し、そこへ飛び乗った。ふたりして、次々と階段状に岩を具現化しさらに上へと昇っていく。
ようやく、ドクロに向き合えるほどの高さまで来ると、今度はふたりで別々の題目を唱える。
光起が、炎の形をした毛をまとった狛犬を具現化し、僕は火炎放射を思い描く。
途端に、狛犬は口から火を噴き、それをドクロに浴びせた。ドクロは、ギイイイと声を上げながら悶えるように、身体をよじった。
「効いてる!」
「でも、これじゃまだ倒せねーぞ」
僕はより強力な火炎を具現化するために、両手をかざし、意識を集中させる。ドクロが炎を避けようとしても、手を動かし軌道を変えて、炎を浴びせ続けた。
その時、ドクロが家屋の破片をこちらに投げつけた。すかさず避けるが、腕をかすめ、強烈な痛みが走る。
「探雪、大丈夫か……!?」
「腕が、上がらない……」
腕が使えなければ、力の勢いは下がり、炎の軌道を変えることも出来ない。僕じゃ、倒せないのか、絶望が胸を覆い掛けたその時。
「絵は腕ではなく、心で描け」
穏やかな声が耳に届いた瞬間、背後に人影が立った。振り返れば、そこには兄の姿があった。
「どうしてここに」
「戦闘中だ、前を見ろ」
兄さんが具現化した狛犬がもう一体、夜空に浮かび上がった。狛犬は、容赦なく炎を吹き出す。
「まだ、絵なんて描いていたんだな。金にも薬にもならないから、もっと違う道を目指せと教えただろうに」
「そんなこと教えてもらってない。兄さんに教えてもらったのは、絵の楽しさだけだよ」
「はぁ……その様子じゃ今更言ってもやめる気なんてなさそうだな」
兄の柔らかい声色に、心の棘がすっと抜けていく。言葉とは裏腹に、絵を続けていることを喜んでくれていることが、ひしひしと伝わってきた。
「もちろん」
力がどこからともなく湧いてきて、僕は意識を集中して、渦を巻いて噴き出す炎を想像した。すると、思い描いた通りの炎が光起の狛犬から吐き出される。そのまま軌道を変えて、ドクロに追い打ちをかける。もっと、もっと、強い炎を。そう念じると、辺りが明るくなるほどの炎が飛び出した。二体の狛犬から炎を浴びせられて、ドクロは黒い煙を上げながら、砂になっていく。やがて、大きな唸り声と共に、ドクロの身体はさっと全てが粒子状に変化して、町に降り注いだ。
町の中から四季隊の隊員たちがどっと沸く声が聞こえてくる。
倒したんだ、という安堵感が一気に胸にこみ上げた。
「よくやった」
後ろから、温かくて大きな手のひらが僕の頭を撫でた。途端に、気持ちが緩んで、全ての力を使い果たしたように意識が薄らいでいく。足元の岩が崩れて、宙に投げ出される。それを具現化した柔らかい雲が受け止めてくれた。うっすらと見えた視界の端で、同じように力尽きた光起が雲に身体を沈めている。
目が覚めたら、今度こそ兄さんとちゃんと話をしよう。そう思いながら、僕は意識を手放したのだった。
翌日、僕と光起が目を覚ます頃には、西の空に日が傾き始めていた。
すぐに、役人に呼び出され、将軍に会いに城を訪ねることになった。一蝶さんがいたらあくびをするくらい長い将軍の話は、つまるところ、よくドクロを倒してくれたというものだった。話を聞いたところによると、昨夜、倒幕派の首謀者である歌川国芳は、城の警備を突破して将軍を捕縛。燃やされた絵になぞらえてドクロが町を襲う様子を将軍に見せつけながら、決着の時まで酒をあおっていたという。その国芳も、僕たちがドクロを倒したと同時に、命が尽きたらしい。陰陽師との契約の代償を払ったのだろう。
将軍の元を後にして、城の廊下を光起と進んでいると、松永堂の店主、松永さんとすれ違った。
「お二方、お疲れ様でございました」
今は、張り込み中ではないからか、顔見知りとして話しかけてくれた。
「町のため、戦っていただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「いえ、私は何もしておりませんので」
松永さんが倒幕派の情報提供者であることは伏せてある。僕は、話を切り替えることにした。
「城に用事なんて珍しいですね」
「近頃、定期的に注文をいただくようになったんです。異国の方が外交のために訪ねて来た時に出すお茶菓子などを配達しています」
「へえ、いつの間にそんなことに。でも、松永堂の和菓子、美味しいですもんね」
「ぜひお二人もまたいらっしゃってください」
「はい、必ず行きます。それじゃあ、また」
「あ、探雪さん」
会釈して立ち去ろうとすると、松永さんに呼び止められた。
「なんですか?」
「言伝を預かってます。京橋の上で待っていると。日が沈むまでは、とのことですので、どうかお急ぎください」
京橋の上、そこを約束の場にするのはあの人しかいないだろう。外を見れば、空は赤く染まっていて、日が沈みきるまでそんなに時間がないことがわかる。
「あ、ありがとうございます!」
「あ、おい、探雪!」
頭をさっと下げると、僕は勢いよく駆け出した。
息が切れて胸が苦しい。
呼吸を整えながら、桟橋の前まで来ると、その人は確かにいた。橋の真ん中に立ち、柵に寄り掛かるようにして、たゆたう川の流れを悠然と眺めている。
上下する胸を押さえながら、僕はゆっくりと桟橋を渡っていく。声をかけるまでもなく、兄さんが僕を振り返った。
「これ、返すよ」
僕は着物の袂から、寄木細工の箱を取り出して、差し出した。
「なんだ、探雪が持っていたのか」
「いろいろあって、その流れで」
「それは、返さなくて良い」
「え、でも」
「次に会う時に、返してもらう。それまではお前が持っていろ」
またどこかで会えるのかもしれない、そんな期待が胸を高鳴らせた。
「わかった。次に会う時まで、預かっておく」
「そうだな、その代わりに、新しい絵を一枚描いてくれないか。旅立ちのはなむけに」
「うん、もちろん」
歓心帳を開くと、心を込めて、題目を口にする。
「題目、『桜花爛漫』」
心の中に、いつか兄と一緒に見た満開の桜の風景が蘇ってくる。
すると、川辺に並んだ枯れ枝の蕾がゆっくりと膨らみ始め、やがて花を開いた。柔らかい薄紅の花が咲き誇り、ひらひらと花びらが風に揺れて舞い踊る。
川辺にいた人々は、数年ぶりの満開の桜に目を奪われ、それぞれが笑顔を浮かべている。
この絵は、兄にどう届くのだろうか。まっすぐに見つめれば、兄は柔らかく微笑んでいた。
「ああ、探雪、本当にお前の絵は、人の心を励ます力があるな」
兄はそう言い残して、背を向けると町の中に消えて行った。その背中は、10年前のあの旅立ちの時と同じだった。
僕は、もっと力をつけて、町で生きる人たちのために何かがしたい。兄さんに教えてもらった絵の力で。四季隊にいることで出来ることは、まだまだたくさんある。
だけど、もし。もし、この先、絵を当たり前に楽しむことが出来る世界が戻ってきたら、その時は、誰かに寄り添うような、人の心を励ますような、そんな絵を描きたい。
暮れ行く空に桜が舞う。美しい世界を目に焼き付けながら、僕はそう誓った。
(終わり)
富嶽百景グラフィアトル 瀬戸みねこ @masutarooo
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