「なに、御用聞きだ?」

「大したことをしてくれなくともよい」

 ただ見聞きしたことを教えてくれるだけで良いのだ、という次郎衛門の頼みに、黒吉は渋って見せた。

「なんで俺が、小間使いなんぞしなきゃなんねえんだよ」

「無論出すものは出す。ただ働きとは言わん」

「てえことは、金か?」

 黒吉の目が輝いた。対価が魚などと言われれば蹴っ飛ばしてやろうかとも思ったのだが、さにあらず、どうやらそこまでしてでも頼みたいことらしい。

 江戸の犯罪はいっかな減らず、どころか人口の増大と共に増える一方であった。次郎衛門は真実、猫の手も借りたい有様だったのだ。

「そこまで言うんじゃ、しょうがねえな」

 格好だけは渋々といった様子で、しかし満更でもなさそうに黒吉は首肯したのだった。


「浜町のあたり、大川沿いに屋台を出してる鰻屋がいるだろ」

「うむ」

「あすこのおやじ、若え女を囲ってるぜ」

「あのな……」


「油売りの野郎、俺を見た途端血相変えて飛んできやがってよ。蹴り殺されるかと思ったぜ」

「それは、災難だったな」

「しょっ引かねえのか?」

「いや……」


 見聞きした物事をそのままにと注文したのは次郎衛門であるから、文句を付けることはできない。それに、最初から大きな期待を掛けていた訳でもない。

 それでも、十か二十にひとつくらいは当たりといえるものもあった。小盗みを働いて姿を消した薬問屋の手代の行方や、番小屋で夜な夜な開かれる闇賭場……犯罪の種は、どこにでも転がっていた。

 黒吉の働きに応じ、次郎衛門はかねての約定通り金銭を渡していった。ひと月あたりで銀にして二朱や三朱程度、小遣いに毛が生えたような額面ではあるが、黒吉は嬉々として受け取った。

 自分で言いだしたこととはいえ、一体金銭を何に使うのだろうと次郎衛門はしかし思わないでもない。一度、それとなく訊いてみた事があった。

「そらおめえ、食いもんだよ」

 鼠が獲れる日ばっかじゃねえからな、というのが黒吉の返答だった。そう言えば、刺身をいたく気に入っていたのを次郎衛門は思い出す。猫にとっても、そのまま身を齧るのとはまた違った味わいがあるのだろう。そう早合点したが、それもどうやら違うらしい。

「何言ってんだ、刺身は次郎衛門ちで食えるじゃねえか」

「む、それもそうだな」

 聞くところでは、今のお気に入りは専ら天ぷらのようだった。火事の恐れがあることから、屋内での揚げ物調理は公儀によって固く禁じられている。屋台で購う他ないのだ。

「なるほどなあ」

「揚げたても堪んねえけどよ、日持ちするのもいいやな」

 購ったものを持ち帰り、ねぐらで食すこともあるようだった。言葉の端々から、食べ物を分け与える自分以外の誰かの存在が覗えた。

「もしかしてお主、他にも子がいるのか?」

「おう、いるぜ」

 何を当たり前のことを、といった態度である。

「俺っくらいの化け猫んなるとな、雌猫の方から寄ってくんのさ」

 これは話半分程度に聞いた方が良いかもしれぬ、と次郎衛門は半ば呆れたが、黒吉が高田屋敷にやって来る度、ひょうに言いつけて手土産に焼き物のわざと味付けを薄くしたやつをひと品ばかり渡してやるようになった。

 新たな御用聞きが増えたとて、次郎衛門の手が空くわけではない。むしろその逆だ。頓に最近増えているのは盗みで、大店おおたなを中心に被害が相次いでいる。これは厳密にいえば次郎衛門の管轄外ではあるものの、先の大捕り物のように加役の加勢に駆り出されることも珍しくない。何より次郎衛門が危惧しているのは、治安の悪さを許容する雰囲気が市井に伝播することだった。事実、そうなりつつある。大店狙いの窃盗団は奪った金を貧民窟の住人たちに長屋の屋根から文字通り振りまくことから、義賊だと持て囃されている。

 何を愚かな、と次郎衛門は苦々しく吐き捨てんばかりの内心だった。その金で確かに貧乏長屋の住人たちは潤うだろうし、彼らにしてみれば妬み嫉みの矛先である御大尽たちの被害は痛快ですらあるだろう。その気持ちは次郎衛門にも分かる。しかし一方で、その金が為に泣く者がいて、命を落とす者だっているのだ。

 やりきれぬ思いはあったし、公務の日は常に飛び回る程の忙しさだった。しかしながら、充実した日々だったとも言える。相も変わらず休みの日には釣りに出て、丸坊主でも構わず釣り糸を垂らしつづけた。ひょうとの間に子はやはり出来なかったが、それもいずれ養子をとればよいことだし、妻と二人きりなら感じたかもしれない寂しさは、今や黒吉の存在が賑々しく埋めてくれていた。この化け猫は特に用もない日であっても頻繁に屋敷に顔を出し、出された料理に舌鼓をうってはひょうに愛想を振りまいた。勿論、次郎衛門の同僚や御用聞きなど他に屋敷を訪なうものも数多くあったが、不思議と黒吉と鉢合わせることはなかった。黒吉の方で、何かを察して見知らぬ人間との接触を避けたのかもしれないと次郎衛門は何とはなしに考えている。


 この頃、偶々顔を合わせた隣家野田村家の奥方に尋ねられた事がある。

「最近、猫でも飼われたのかしら?」

 何でも、昼に夜に、高田家の家屋の方から猫の鳴き声が聴こえるのだそうだ。

「あら、別に煩いって訳じゃありませんのよ」

 野田村家の主人新左エ門は勘定奉行の勤めで、奥方共々次郎衛門より一回りは歳が離れていたが、同じ御家人同士で隣家とあれば、つまるところ台所事情は高田家とどっこいである。醤油や味噌の貸し借りなどは日常茶飯事の付き合いだった。彼女にすればあくまで世間話の一環のようだったが、次郎衛門は必死に笑って誤魔化した。


 それから、季節が一巡ばかりした頃。冬の、からりと乾いて道を歩けば埃っぽく、妙に空々しく晴れた日のことだ。

 例によって遊びに来た黒吉を、次郎衛門は玄関先、怖い顔で出迎えた。

「すまんが、遠慮してくれんか」

「どうしたんだ?」

「ひょうのやつが、流行り風邪でな」

 黒吉は知らないことだが、流行り風邪と言えばこれまで江戸でも何度も流行し、その度に何万人もの死者を出している。感染力こそ疱瘡(天然痘)や虎狼痢(コレラ)に後塵を拝するものの、驚くほどの高熱が続き、老人や体力のない者などはあっさりと命を落とした。ひょうはまだ若いが、肺の病も併発したようで、酷い咳なのだという。

「そうか……」

 早く元気になれば良いな、そう言おうとした先を回る様に、淡混じりの濁った咳が奥の襖越しに何度も聞こえた。

 慌てて踵を返す次郎衛門を、黒吉はただ見送るしか出来なかった。


 それから一週間あまりが経った日のこと、そろり、と高田屋敷の座敷に忍び込む者がいた。黒吉である。濡れ縁から日の入る座敷だが、外はどんよりと曇っているものだから部屋の中も薄暗い。座卓や箪笥が茫洋とした影を畳に写すばかりの水底のように静まり返ったそこで、次郎衛門と目が合った。

「なんだ、いるじゃねえか」

 ああ黒吉か、と柱にもたれ座ったままの格好で、次郎衛門が応じた。麻のかみしもを身に着けている。黒吉の初めて見る衣服だった。

「声は掛けたんだけども、返事がねえからよ」と誰にともなく言い訳をする。玄関が開け放しであったのを不審に思い、入ってきたのだ。二月の半ば、まだ厳寒の時期だというのに戸も障子も無造作に開いていて、寒風が吹き抜けている。

「おひょうは、どうした?」

「死んだ」

 信じられないほど、あっけない最後だった。

 丁度、葬儀と埋葬を終えて戻って来た所だった。白い麻の裃は、喪主の着る喪服だ。

 葬儀の手配りに葬列、埋葬と慌ただしいうちは没頭できたものの、帰宅し自分の他は誰もいなくなったこの家の有様にふと我に返り、着衣もそのままに魂が抜けたように座り込んで、それきりこのままだったのだ。

「なあ」

「何だ」

「俺、酒ぇ、持ってきたんだ」

 黒吉は右手に持った、一升は入ろうかという大徳利を掲げる。泣きそうな顔をしていた。

 次郎衛門は少しの間黙って黒吉を見つめていたが、やがて立ち上がった。台所から、茶碗を二つ持ってくる。

 黒吉の前に一つ、自分の前に一つ。何も喋らぬまま、男二人は手酌で飲みはじめた。

「黒吉」

「なんでい」

「有難う」

 黒吉はややあって、「うん」と言った。


 しばらくは喪に服す時期が続き、黒吉も流石に遠慮したのかとんと音沙汰はなかった。だがひと月あまり経つと、次郎衛門はまたぼちぼちと釣りに出かけるようになった。旬の夏には砂魚、冬になれば笠子かさごの大きい個体が良く釣れるようになるので、それを狙った。

 その頃には黒吉もまた、筏橋や高田屋敷に再び顔を出すようになった。家に遊びに来るときはやはり決まって人の姿で、大徳利になみなみと酒を注いで手土産とした。

 男やもめに戻った次郎衛門だが台所仕事も堂に入ったもので、釣った魚をあっという間に捌いてくれる。男二人きりでの宴会にはじき慣れたが、ふと沈黙の立ち込める瞬間、あのころころとした笑い声がもう聴こえないことを、黒吉はどこか寂しく思った。

 御用聞きも続いている。最近は板についてきたというべきか、次郎衛門の必要とする、即ち町の治安に関わるような情報の濃淡とでもいうべきこつを何とはなしに掴みかけていた。


「あれ、珍しいじゃねえか」

「最近は何かと物騒だからな」

 非番の日で、着流し姿で川面に釣り糸を垂れているのはいつも通り、奇妙なのは二刀を腰に挿していることだった。普段の次郎衛門ならそんなことはしない。突然の雨や川の水に濡れてしまえば、手入れが面倒だからだ。中子や柄糸、それに鞘の中まで乾かさなければ駄目になってしまう。

「例の怪盗ってやつか。べつだん、人を斬ったりはしねえんだろ」

「怪盗だか義賊だか知らんが、そういったものにあてられる輩もいるのだ」

 そんなもんか、と黒吉は気も無さそうに相槌を打つ。

「人間ってな、へんなんだな」

「そんなものだよ。なあ、お主の方で何か聞いていることはないか?」

「いや、ねえな」

 溜息をひとつ、次郎衛門は竿を上げた。餌だけが綺麗になくなっている。

「今日は駄目だな。さっさと引き上げるかね」

「また、酒でも買っていこうか」

「良いな。ではわしは天ぷらでも買って待っておこう」

「言っとくが、野菜は食わねえぞ」

「分かった、分かった」

 よっこらせ、と腰を上げる。

 ふと、初めて黒吉とここで会ったのが丁度二年前の今頃であったことに気付いた。そう告げると、黒吉はただでさえ切れ上がった眼を、一層細めて笑った。

「たった二年で随分老け込んじまったな、おい」

「抜かせ。そういうお主は、変わらんな」

「化け猫だからな」

 二人は並んで、橋のたもとを昇ってゆく。


 それは月の出る、穏やかに晴れた夜だった。

「もう夜だぜ、次郎衛門」

 猫の姿のまま、黒吉がふらりと筏橋に現れた。月下に淡く、毛並みを浮かび上がらせている。

「まだ帰らなくていいのかよ。またぞろ、爆釣か?」

 黙って竿を握ったまま次郎衛門は答えず、黒吉が痺れをきらして魚籠を覗くが、底の方までからりと乾いて、魚の一匹もいる様子は無い。

「おい、聞いてんのか」

「昨夜な、伝馬町の伊藤屋がやられた」

 唐突に、次郎衛門が言う。

 伊藤屋といえば、世に知られた木綿問屋だった。

「そうか」と黒吉はどこ吹く風といった態で応えるばかりだ。

「お主、何か知っておるか」

 黒吉は答えない。燐光を疎らに翻しするすると流れる川に語り掛けるが如く、次郎衛門は委細構わず淡々と続ける。

「相も変わらず鮮やかな手並みだが、今回は証人がおった」

「そうか」

「ほっかむりから黒い髪をなびかせた若い男で、足音も立てずにひと足で塀を飛び越し、消えたと言っておる」

「そうか」

おい、と前を向いたまま次郎衛門は黒吉に迫る。

「お主がやったのか、盗みを」

「ああ、したぜ」

 黒吉は動じない。次郎衛門も、また。

「何ということをしてくれた」

「なんでだよ。あいつら、たんまり持ってんだろ。ちょっと蓄えが減るだけじゃねえか」

 黒吉は悪びれる風もなく言う。

「俺ぁ貧乏人どもにも施したぜ、家族にたんと食いもんも買って帰った」

 損をしたやつより、得にあやかったやつの方が多いんだぜ、何が悪い。そう言って憚ることが無い。

 次郎衛門は顎を噛みしめ、深く息を吐いた。

「所詮、けだものか」

「なに」

 黒吉が気色ばむが、機先を制した次郎衛門の太刀が鞘走り、閃いた。

 手放した竿が川面に落ちるよりも早く、抜刀は済んでいた。

ぎゃん、と黒吉が鳴いた。抜き打ちざま、耳の先を斬られていた。だが深手ではない。

「失せろ。畜生めが」

 刃を抜いたまま、怒気も露わに次郎衛門が吐き捨てた。

「二度と顔を見せようなどと思うな。次に見付ければ叩き斬る」

 畜生なんぞに目を掛けたわしが莫迦だった。そう言う次郎衛門に距離を置き、暫く瞳を光らせて対峙した黒吉だったが、やがて無言のままふいと尻を向け、闇の中に消え行った。後には、静かに流れる川音があるだけだ。

 それを見送って、ようやく次郎衛門は鞘に刀を仕舞った。

 非道いことを言った、それに刀疵も。どうか許してくれ。そう思う。

 確かに黒吉の言には一理ないではない。しかしそれはやはり、獣のことわりなのだ。

 おれが恃む理は、別にある。

 黒吉は確かにそれに反したが、その責が誰に帰すべきかは、自明の理として次郎衛門の裡にあった。

 次郎衛門は溜息をついてその場にどかりと座り込み、襟元を寛げた。


 翌日、小名木川のほとりで、割腹し果てた高田次郎衛門の姿が見つかった。

 周囲に誰かと争った形跡はない。衣服こそ平時のままであったが、脇差にて腹を一文字に掻き切り、しかる後に喉を突くという尋常の作法に則った様であった。無論次郎衛門がそのようなことをする動機はどこにも見つからず、公儀は悩んだ末、病死として始末した。また、その後猫のあやかしが江戸の町を跋扈したという記録もない。

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月下に猫を釣る 南沼 @Numa_ebi

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