第二章、電車と回想、河上美央
今日は少し早めに駅に着いた。だから私は座れている。ポケットからスマホとイヤホンを取り出し、好きなアーティストの音楽を流し、目を瞑る。
そのうちに心地よい揺れが私の身体を波打ち、音楽と私だけの世界にだんだん浸っていく、はずだった。
でも、邪魔が入った。中年ぐらいの男が誰かを罵倒している声が音楽に混じる。顔をしかめながらイヤホンを外し、まどろみかけた目をこすってよく見ると、同じ学校、海陵星則学園の早瀬明日香ちゃんと、
「えっ」
思わず短い心の叫びが漏れ出た。二人とも去年同じクラスだったのもあって、かなり驚いた。あの日の記憶が蘇っていく。
海陵星則の入学式の帰り。驚いたことに、私の靴がなくなっていた。私の黒いスニーカーが、既に誰かの上履きに置き換わっていた。
これでは帰れない。まだみんなの名前も分からないし、頼れる人もいないのに。その場に立ち尽くしていると、男の子がやってきた。数秒間、居心地が悪そうに固まる。首をわずかに動かして、周囲をきょろきょろする。誰もやってこないので、ある種の観念をしたのか、こちらに近づいてきた。
「・・・困ってる?」
たどたどしく彼は尋ねる。初対面の人と話すのは苦手だし、彼の緊張も伝わるので、こちらまで緊張がすさまじい。まずはこの状況を彼に説明した。
話し終わると、女の子が走ってこちらに近づいてきた。彼女は、彼の姿を認識すると、素早く足を止める。
「あー健斗いた!探したんだよ!ところで、どうしたの?」
その質問は、私にも向けられていた。そもそも、二人はもともと友達だったのだろうか。頭の中が様々な疑問で埋まっていく。彼女は息を切らしていて、それがまた明るくて話しやすそうな印象を与えた。私が緊張で言葉に詰まっていると、彼が代弁してくれた。
「靴、取り違えられちゃったみたいで困ってるみたい。このままだと帰れなくね」
「わー、そりゃ大変だわ。名前とか書いてた?」
私は小さく頷き、彼が少し饒舌になっていることに一人で驚く。
「
声がだんだんと小さく、早くなってしまう。だが彼女は気にも留めずに、ふむふむと頷く。
「なるほど、美央ちゃん。私は早瀬明日香。そしてこちらは長野健斗くん。三人とも、同じクラス!よろしくね~」
長野くんがたどたどしく会釈する。私も小さく返す。すごく気まずい状況だけど、明日香ちゃんのコミュ力がこの場をどうにか成立させている。私は明日香ちゃんに尊敬のまなざしを向けた。その時だった。外から大きな声と足音が近づいてきた。
「すみませーん!河上美央さんはいらっしゃいますかー!!」
声の方向に目をやると、金髪の男子が立っていた。うわ、金髪だ。私は引き気味に、はい、と返事をする。
「はぁ、はぁ、オレ
彼は肩で息をしながら言って、靴を脱ぎ、私に差し出した。私は小さくお辞儀する。律儀な人だと思った。人は見かけによらない。
その後四人で帰ったが、緊張していてほとんど記憶がない。でも、唯一言えるのは、すごく楽しかったということ。家に帰っても、今日の出来事は何回も思い出してしまう。その度に、胸がドキドキして、ふと温かい何かが胸をよぎっている気がする。
―――これを、恋と呼ぶのだろうか。
困っている私に勇気を振り絞って声をかけて、助けようとしてくれた。恋に落ちるのには十分すぎる。その時、心が淡く色と熱を帯びていった気がした。
思い出に浸っていると、流れている音楽が切り替わった。知らない曲でイライラする。不機嫌に任せてスキップする。
高二になった今でも、私の想いは変わらないのに、彼はまだ明日香ちゃんとずっと一緒にいる。そして明日香ちゃん以外の女子とまともに会話できない。
もちろん私とも。長野くんにとって明日香ちゃんは「特別」だろう。逆もまた然りだ。ずっと、私は悶々としている。
違う違う、今はそんな場合じゃない。好きな人と、元クラスメートがピンチだ。助けなきゃ。だけど、こういうことに首を突っ込むのはとてもじゃないけどできない。二人が無事でありますように、男が早く消えますように。それだけを目を瞑り必死に祈った。
するとどうだろうか。その数秒後、私は明日香ちゃんの衝撃的な言葉によって、半強制的に開眼させられることになる。
「私の彼氏に手を出さないでください!」
思わず、私の目と口が開いてしまう。無意識に手が口元に行き、口元を隠すような格好になる。少しの間思考停止してしまった。悲しいとか悔しいとか驚きとかはどうでもいい。だんだんと意識が現実に戻ってくると、電車の中にいる海陵星則学園の生徒たちや、周りの大人たちがどよめいているのが分かる。そりゃそうだ、目の前でカップル宣言されたらそうなる。
―――あれ・・・?
気が付いたら、膝のあたりが冷たくなっている。視界が潤んで歪んでいるのに、今更気づく。零れ落ちる涙は止まらず、どんどん勢いを増す。頬に筋ができていき、スカートの滲みは広がるばかりだ。
―――どうか、周りの人たちが彼ら二人を見てくれていますように。私を誰も見ませんように。
こんな姿を他人に見られたくない。自動的に失恋したこんな哀れな姿を。去年の四月から、ずっと好きだったのに。ずっと彼だけを見ていたのに。彼は私の好意に気づいていなかったし、私のことなんて見ていなかった。それでも。
考えれば考えるほど、涙が止まらない。下手に目立ちたくなくて、涙を拭うことすらしなかった。涙が溢れるままに、座りながら感情の嵐に呑まれていた。
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