第6話 バーバヤガーの八番街




 便箋を元の通りに折って封筒に仕舞う。


 窓の外に視線を転じると、無機質なビルの群がまるで鏡みたいに傾いた太陽を反射していた。

 あの辺りは特定の人しか入れない地域だ。私達が知らないだけで、あの中でこちら側の再生を図ろうとする人が沢山働いているのかもしれない。でも、まるで別世界。あそこともまた見えない線が引かれている。そういう意味では八番街の奥とは別の意味で彼岸に違いなかった。


 私は図書館を後にした。

 電車に揺られてたった15分の距離の内国。無人の駅舎に降りると自動販売機を素通りしてバイト先へ向かう。


 夕焼け小焼けで日が暮れて。空はあの日よりも真っ赤に染まっていて、小山のように聳える八番街がシルエットとなってくっきりと空を切り取っていた。カラスが数羽そちらに飛んでいくのが見えた。見慣れた景色のはずなのに、「はげ山の一夜」みたいにこれから魔物や妖精、幽霊なんかの大宴会が始まるのだと言われても納得してしまう雰囲気があった。


 路地の奥でそういうモノ達が覗いているような気がした。

 

 私は足早に目的地である本屋さんに向かう。私の逃げる影を追いかけて、蠢くものが背後にいる気配がした。でもまるで嘲笑うかのように、踵を引っ掻くくらいで捕まえようとはしてこない。



 店舗の光が手に触れるところに辿り着くと、影たちは立ちどころに消えてしまった。私は深呼吸し、息を整えてから店に入る。お店は普段通りで先刻までいた赤色の世界が嘘みたいな感じがした。

 髭店長に挨拶すると、荷物を埃っぽいバックヤードに放り込み、何時も通り仕事を始めた。

 


 髭店長が選んだ本を倉庫から運び、棚の整理をする。

 本屋さんの良いところは紙とインクの匂いがするところ。偶に届く真新しい本からは特別な香りするので、こっそり開いて匂いを嗅ぐ。こんな世界でも、未だに新しい物語が生まれてくるのだという感動と共に、胸いっぱいに吸い込む。今日は殊更本の香りが身に沁みた。

 

 整理を終えてレジに戻る途中、棚の間に見覚えのある大きな人がいるのを発見した。管理人さんに105号さんと呼ばれている男の人だ。珍しく、汚れた白の上っ張りではなく、代わりに黒いコートを着込んでいた。いつもぼさぼさの頭と無精ひげを生やしているのに、今日はきちんとした格好をしている。髭が無い所為で、ぱっと見た時に誰なのか分からなかった。


 105号さんは黒いネクタイをしていた。微かに漂うお香の匂いに気付いたけれど、素知らぬ顔でレジに立つ。受け取った写真雑誌と文庫本のバーコードを読み取りタグをさっと解除する。


「カバー、おかけしますか?」

「あ、いいです。そのまま袋に入れちゃってください」


 低い、ぼそぼそした声で言う。ぶっきらぼうな人だな、と思った。祖父と話していた時はもう少し若かったし、良く笑っていたイメージがあるのだけれど。

 ひょっとすると今日の用事が彼をそうさせているのかもしれない。それにしても、もっとずっと年上かと思ったのだけれど、40代後半くらいの年齢にも見えなくない。


「お会計、2点で2260円です。お支払いは……」

「あれ?」


 袋に入れた商品を渡した時に、105号さんが首を傾げた。手袋をした大きな手で包みを持ちながら、私のエプロンにつけていたネームプレートをしげしげと見ている。


「阿佐美さんちのお孫さん?」

「あ、はい」

「そうか、へぇ。ここ何回か使ってるんだけど気づかなかったなぁ。昔、君のおじいさんとこによくお邪魔したんだ。へぇ」


 知っています、と咄嗟に言えなかった。

 105号さんはポケットから名刺入れを取り出すと一枚抜き取り、トレーの上にお札と一緒に置いた。伊藤聖、と言うのが彼の名前らしい。予想外の職業で驚いた。


「なにかあったら尋ねておいで」


 黒い影みたいな人に言われて反射的に頷いた。彼はコートの裾を翻してさっさと去ってしまった。105号さんがいなくなってすぐに、髭店長がひょっこりとバックヤードから現れた。もう見えない後ろ姿を睨むようにじっと外を眺めている。


「またお葬式帰りですか」

「また?」

「ええ、ここに来る時は大体あの恰好です。何か話しかけられていたようですが、大丈夫ですか?」


 髭の店長は手に防犯ブザーとカラーボールを持っていた。


「何もなかったです、祖父の知り合いだったみたいです」

「あれま、おじいさまの? そりゃ失礼しました」


 髭店長はカラーボールとブザーをぱっと背中に隠した。




 シャッターを下ろした後、髭店長がインスタントコーヒーを淹れてくれた。熱々のコーヒーをちびちび舐めていると、デスクに向かった髭店長はコーヒーの入ったマグカップを手に苦笑いした。


「やあ、すっかり早とちりしちゃいましたね」

「もう……よく考えたら、月2回も来るんじゃ常連さんじゃないですか」

「うん、そう。だから普段だったらさらっと会計しちゃうんですけどね。実はあの人商店街じゃ死神なんて噂が立っている人なんですよ。それが今日は阿佐美さんに話しかけるもんだから、何するんだー! ってつい警戒しちゃいました」


 照れたように頭を掻く髭店長。

 まだ仕事をするつもりなのか、机の上には沢山のファイルが置かれている。


 105号さんは写真雑誌と猫のエッセイの文庫を購入していった。随分と可愛らしい買い物だと思う。

 ひょっとしたら、商店街の人達は105号さんが普段どんな格好をしているか知らないのだろう。薄ぼけて頭ぼさぼさの白の105号さんを見ればきっと死神なんて思わないはずだ。でも、今日みたいに黒くて線香の匂いを漂わせた105号さんだけしか知らなければ、そんな噂が立つのもしかたがないのかもしれない。


「あの人、近所の人なんですよ。店長がカラーボールぶつけなくて良かった。そんなことされたら、次にどんな顔して挨拶すれば良いのか分からないじゃないですか」

「ご近所さん、ご近所さんかあ。うーん、阿佐美さんそろそろ八番街に住むのを止めませんか? おじさんは本気で心配ですよ」

「ご心配なく。同じ棟に管理人さんも住んでますから」


 他の多くの人と同じく髭店長は八番街をよく思っていなかった。大半は廃墟だし、何より私が生まれる少し前から「それ」に使われていた場所だし、未だに使われることもあるからだ。気味悪がるのは仕方がないこと。


 105号さんの職業を思い出して「それ」と結びつけそうになり、私は慌てて頭から追い払った。彼は何かあれば頼るようにと言ってくれた。きっと、彼の本分がそう言わせたのだろう。変に穿った見方をしては失礼だ。


「商店街の傍にもアパートはありますからね。気が変わったらいつでも言ってくださいね」


 髭店長の声掛けは、世間一般で見ればきっと正しいものだ。それでもまだ私は答える事をしたくなかった。


「その時がきたらお願いします。コーヒーごちそうさまでした!」





 105号さんもとい、伊藤聖さんは医師だった。

 名刺には訪問診療の言葉が記されていた。なんとなく彼はずっとあの建物の内部にいるのだと思い込んでいたから予想外の仕事だ。彼も私達と同じように朝起きて仕事に出かけていたのだろうか。それにしても、お医者さんならもう少し便利でリッチなところに暮らしていても良さそうなものなのに。医師ライセンスがあれば外国の都心部にも住めるのではないのか。




 買い物を終えて八番街に戻ると、〝丑〟の入り口で105号さんと管理人さんが話しているところに出くわしてしまった。


「あら、1号のお嬢ちゃん! お帰りなさい」

「ああ、蝶のお嬢ちゃんか。先刻はどうも」


 管理人さんも喪服を着ていて、より魔女っぽく見える。二人が話していることに内心驚く。共通の知り合いが亡くなったのだろうか?


「管理人さん、こんばんは。伊藤さんも、本をありがとうございます……あの、ちょうって?」

「何だい5号さん。やっとこの子と話したのかい? プレゼントまでして」


 管理人さんが肘で105号さんを小突いたけれど、身体の大きな彼はびくともしなかった。


「や、困ったな。おじさんが若い子誑かすみたいな言い方しないでくださいよ。プレゼントではないです」

「先刻、お店で本を買っていただいたんですよ!」


 管理人さんに妙な誤解をされそうだったので、慌てて弁解する。105号さんは管理人さんに鞄に仕舞った本の包みをちらっと見せた。


「ええ、これを買ったんです。丁度雑誌の発売日が昨日だったものだから……ああ、阿佐美さん。失礼、君のおじいさんが、蝶々みたいな孫だって言っていたものでつい」


 蝶のような。

 十羽という名前の由来は、アゲハチョウなのだという。十の色の羽を持った蝶。実際、そんなに色は無いはずだけれど、鮮やかな色彩が動いていると確かに何色にも見えるのだ。沢山の光や色をその羽に宿らせる大きな蝶。祖父が私の名付け親だと両親から聞いたことがある。105号さんに言われるまで自分の名前の由来なんてすっかり忘れていた。


 実家で暮らしていた時に、庭にたまたまやってきたアゲハチョウを飽かず眺めたことがあった。自分の名の由来だと知って、こんな風に綺麗になりたいと思った。ステンドグラスみたいに美しい大きな羽を開いたり閉じたりしながら、蝶は静かに花の蜜を吸っていた。


「懐かしい。でも蝶ってガラじゃないです」


 大きな蝶はやがてゆったりと空へ舞い上がって消えていった。そんな大らかさや華は、私には手の届かないものだった。


「そうですか? 僕にはとてもきらきらして見えるけど。ねえ?」

「そうね。少なくとも喪服着た今の私達よりきらきらしてるわよ。ほら、こんななりの二人にからまれちゃ1号のお嬢ちゃんも迷惑でしょう」


 管理人さんが色素の薄い瞳でウインクしてくれたので、私は会釈をしてその場を去った。105号さんは手袋をした手を振ってくれた。管理人さんは魔女っぽいけれど、とてもチャーミングな人だ。




 帰宅して、電気をつけないまま靴を脱ぎカーテンを開ける。続いて引き戸を開け放ち、ベランダに出て正面の建物を見つめた。管理人さんまで喪服を着ていたことに少なからず動揺していた。

 白茶けた遺跡は相変わらず真っ暗に沈黙したままで変化は無い。でも、ひょっとしたら最近「それ」が行われたのかもしれない。可能性は十分あった。偶々今まで出くわさなかっただけで、今だって時々実施されているという話だ。


 違うと思いたい。「それ」が行われたとしても、夏樹さんじゃないって思いたい。


 それでも。

 

 それでも、今日はやけに空が真っ赤で、八番街が違う場所に見えた。

 まるで魑魅魍魎の棲家みたいに。

 まるで、知らない誰かの大きな大きな墓標みたいに。

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