第7話 未完成であるが故、中途半端な
10月。
夏樹さんが、私の実家に来たいと言った。
前に掃除をしに帰っているのだと話した事があって、それを覚えていたらしい。二人でやれば早く終わるだろうからと提案してくれたのだけれど、生憎実家には私が隠しているものがある。断ってしまおうと口を開きかけ、噤む。
できなかった。心のどこかで、私が隠した物は他人から見れば取るに足りないものではないかという考えが邪魔をした。
或いは、心のどこかで知ってほしいと思ってしまったのかもしれない。
八番街の入り口である小さな神社ので待ち合わせをしたら、時間通りに夏樹さんが現れた。
動きやすさを重視したのだろう。ジーパンと、さっぱりとした開襟シャツのいで立ちで、手に買い物袋を持っている。秋晴れの空の下、私は雑巾や洗剤などの掃除用具、それに麦わら帽子を自分の紙袋に入れて夏樹さんを案内した。
夏樹さんは、義眼の調子が悪いのだと言って眼帯で右目を隠していた。ずっとつけているとなんとなく違和感があって、今度調整予定なのだと言う。
「まだご両親はお仕事から戻ってこないの?」
「……そうですね。まだ、帰ってきません」
「ふーん」
それ以上なんの質問もされないことに密かに安心する。
実家は徒歩で最短30分の距離の場所にあった。
北にある商店街の方面ではなくて、八番街沿いの大きな通りを西に進み、2回右に曲がると見つける事ができる、小さな庭付き一戸建ての平屋。
大通りを曲がり路地に入ると、華やかな金木犀の香りが漂っていた。
土塀からはみ出した枝を、星のようなオレンジの粒が飾っていた。枝から零れた粒が金平糖のように地面に幾つもいくつも転がっていた。同じ家に確か山茶花もあったはずだけれど、流石に時期が早いのか赤い色は見られない。
もう一回、今度は目印の古いポストを右に。
すると現れた何の変哲もない平屋が現れた。阿佐美と書かれた表札と、立ち入り禁止のテープを夏樹さんはしげしげと見ていた。私は暫く来ない間に入れられたポストの中のチラシの類を引っ張り出して紙袋に突っ込んだ。
夏樹さんは私が格闘している間、塀の上を歩いていた虎猫を呼び寄せようとしていた。高校の頃、母がやっぱり猫をおびき寄せようと鳴きまねをしていたことを思い出した。
玄関のドアを開く。予想通り実家と埃のにおいが入り混じった空気が淀んでいる。
「ただいまぁ」
家の奥に声を掛けてみた。耳を澄ませてから私は上がり框を踏んでから、屈んで靴を揃えた。この前掃き清めたのに、薄っすらと玄関に埃が見えた気がした。
「お邪魔します」
後から入った夏樹さんも奥に届くような声量で言うと私の後に続いた。
しんと静かな家の中に置かれた家具達。実のところ私の今の家よりも生活感がある。例えばテレビに座椅子。居間に置かれたテーブル。食器棚の中のお皿やコップ。
〝一部〟を除き闇雲に本が部屋に進出してはいなくて、ラグや、母の使っていたバッグなんかがそのまま置いてある。まるで住人が旅行に出かけているみたいで、誰かが今にも帰ってきそうな雰囲気がある。私は全ての窓を開け放ち空気を入れた。
「手伝うわ」
「今更だけどやっぱり悪いですよ。お茶でも飲んで待っててください」
「来た意味ないじゃない」
「えー、それじゃあ」
手伝うと言ってくれた夏樹さんに、調度類の拭き掃除をお願いした。
その際、居間だけで良いと説明をし、私自身は井戸から水を汲んで床の掃除と、終わってから庭の雑草取りを行った。
床の雑巾がけは割とすんなり終わったのだけれど、庭は大変だった。秋とはいえ二週間で伸びた雑草を抜くのは時間がかかる。汗が目に入り、何度も拭った。深く根を張ってしまっているものをシャベルで掘り返したり、どうしても抜けないものは鎌で切ったりして片付けていった。
草の山はどんどん高くなったのに、中々終わらない。なんとか地面を片付けたのだけれど、庭木や躅の枝まではどうしようもなかった。伸び放題のまま放置するしかない。
「ねえ、十羽ちゃん。開かない部屋があるんだけど」
「……」
髪をポニーテールに結った夏樹さんがひょっこりと庭に顔を出した。何か言いたげな表情に、私は作業を止めて立ち上がる。くらりと立ち眩みがした。それに、ずっと同じ姿勢で屈んでいたせいで、大分膝が痛くなっていた。
「十羽ちゃん?」
「休憩にしましょうか。お茶淹れますね」
部屋についてコメントせずに、嘗てよくしたように、縁側から家に入った。
持ってきた焜炉と薬缶でお茶を用意した。お茶菓子は夏樹さんが作ってきたマドレーヌで、縁側に座って頂いた。きつね色をした焼き菓子は秋の日に照らされて、ほのかに表面が輝いて見えた。本物のバターなんて一体どこから手に入れたのだろう。
「ありがとうございます。やっぱり二人でやると早いですね」
「十羽ちゃん、この家って」
「すごい、良い香りがする」
「──」
コオロギの鳴き声が草むらから響いて私と夏樹さんの間に落ちた。私はお菓子を口に銜える。香ばしいバターの香りがいっぱいに広がった後、抜いたばかりの草の青い匂いが鼻を抜けていく。
とてもおいしかったのだけれど、飲み込んだお菓子は重たく胃に落ちた。これは良くない兆候だ。
「ねえ、なんであんな風になってるの?」
「──あんな風って?」
笑って言うと夏樹さんの表情が歪んだ気がした。ああ、もうこれ以上は顔が見られない。これだから、人と距離を詰めるのは苦手なのだ。きっと異常だと思われる。きっと、怖いと思われる。きっと事実を問い詰められる。
夏樹さんが見つけたのは、両親の寝室だ。
「本がびっちり置かれててあそこだけ入れなかった──」
寝室の前。この家で其処だけ、私は本の進出を許した。
其処であった事を閉じ込める為、または其処にあるものを閉じ込める為に。
全く部屋だと分からなくなってしまうと困るからドアノブだけ残して大小の本を組み合わせて天井まで積み上げたのだ。そうすることで起こった事を曖昧にしたかった。
確認できなければ、それはあった事なのかもしれないし、無かったことなのかもしれない。ああ、シュレディンガーの猫の実験と似ている気がしなくもない。
「ただの本棚ですよ」
「そうには見えなかったわ」
「いいえ、ただの……」
ただの、何だ?
やはり、ここに飽かず通い続ける私は異常者なのか。
甘いマドレーヌの余韻をお茶で流し込んだ。適当に笑って胡麻化そうとしたけれど、言葉が出てこない。2回、3回酸欠の金魚みたいに口を開いて閉じた。あんな風になっている理由を言ってしまうのは、曖昧に封印してしまった事実を自ら暴くことに他ならなかった。
やっと言えたのは、だから、その場からの逃避の言葉。
「……もう掃除、いいです」
「十羽ちゃん?」
「……」
笑って言ったつもりだったけれど、引き攣ってしまった自覚はある。
それに少しぶっきらぼうだったかもしれない。心配そうに繰り返し私の名を呼ぶ声に喉が詰まって何も答えられない。顔をそむけてもヘーゼルの隻眼が此方に向けられているのが頬に感じられた。
一年以上経ったのだから大丈夫だと思っていたのだけれど、やはり他人に問われると瘡蓋を無理矢理剥がしたみたいな痛みがある。じわじわと心から滲み出た血液がぽたりぽたり垂れて、次第に痛みを増していく。身体の内側が痛みに焼けて疼く。
別に中を見られたとて、大したものなんかない。中身を相手に伝えてしまえば、それ以上触れられない程度の他愛の無いものの筈だ。
「あッ」
目の前がチカチカ明滅した。
本を積む手が見えた。手は奥の両親の寝室の前に一冊一冊本を運んでは重ねていく。小さな頃読んでもらった絵本だとか、大きくなって自分で読んだ本だとかが組まれていく。この部屋は絶対に埋まってしまってほしくなんてないのに、埋めてしまわないと耐えられなかった──。
中の時は止まったままのはずだ。
本が、本は、過去にも未来にも行ける。勿論現在を留める事だってできる。
「おかあ、さ……おとう……」
「──ッ」
肩に置かれた何かにはっと我に返る。ひゅ、と息を飲んだのと同時に本を重ねる映像は消えた。草むらの虫の音が急にうわん、と大きく頭に響いた。夏樹さんが私の肩に手を置いていた。
多分、フラッシュバックを起こしていたのだろう。心臓が早鐘を打ち背中に嫌な汗をかいていた。こぼしたお茶で濡れた縁側を見ても手を伸ばして拭く気力もない。
「帰る」
やっとで絞り出した声はしゃがれてしまっていた。
茶碗を片付けてまた30分ほどの道のりを戻る。
角を曲がって更にもう一度曲がると八番街が見えてきた。じくじくした痛みは家から離れるごとに納まってきたけれど、溢れてきた記憶の残滓が未だに私の中で燻って神経を焼き、苛んでいた。
夏樹さんは何も言わずに隣を歩いてくれていた。
気が付いたら小さな子供みたいに手を引かれていて、不覚にも手のひらの温かさに乾いていた心が解けていきそうになる。必死で抗って、干からびたままにしておきたかった。でも、心地の良い人の体温を知ってしまったのだ。今更離す事なんてできっこなかった。
玄関前に到着した時には自分の輪郭さえ曖昧なくらいにどろどろになってしまっていた。
夏樹さんはそのまま何も言わずに帰ろうとしたのだけれど、どろどろの私は彼女をつい引き留めてしまった。会話だってままならないのに、何様なんだろうって思ったけれど、一人ぼっちになるのが急に怖くて苦しくなってしまった。
本に囲まれた空間に居れば、私は形を保てる筈だった。大丈夫な筈だった。実家と比べて図書館のように沢山の本がある此処は、私の心を守るのに丁度良い場所だった。それなのに今日は全然上手くいかない。
夏樹さんが帰ってしまったら?
置いていかれてしまって、二度と戻って来なかったら?
私はまた本を積むのか。
積んで、見なかったことにして、生きていくのか。
何も言えずに、ただ唇をわななかせるだけの私をヘーゼルの隻眼で夏樹さんは睨んだ。
捨てられる!
絶望が心をざっと撫でていったけれど、次の瞬間に手首を痛い程掴まれて気を逸らされる。そのまま強い力で引っ張られ本の間を抜けると、ベッドに投げ入れられた。驚いていたら、布団が被さってきて、更に滑り込んできた温かな塊にぎゅうぎゅうと抱きしめられる。
「え? ……え?」
「ばっか。本当になんで、こんな……。一人で、こんな……!」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。
「なつ、きさ」
「もっと子供でいてもいいと思うよ」
低い声が耳に届いた。
そして、痛いくらいに抱かれる。
子供と言われても私はもう20を超えている。それなのに温かい身体に包まれていると、本当に子供に戻ってしまったように頑なに開くのを拒否していた心が柔くなる。
声を出して泣いたのなんて、家を出てから初めてだった。
どろどろになっても零すまいとした涙。それを、夏樹さんは時々舐めとっては、あやすように背中を撫でてくれた。濡れた頬にキスをされて、緊張で冷たくなっていた手足が温かくなるまで体温を分けてくれた。
寄りかかるようにして私は眠りに落ちかけて、意識が途切れる寸前に、いなくならないで、と懇願した。
果たして、目が覚めても夏樹さんは存在した。
ただ暑かったのか、シャツを脱いで下着だけの姿で横でくったりと眠っていたので、悪いことをしてしまったみたいに気まずくなった。こっそりと顔を洗いに行こうとしたのだけれど、寝ぼけた夏樹さんが私を抱き枕にしてきたので、思わず抗議の声をあげてしまった。
「暑いでしょう。十羽も脱ぎなよ」
「夏樹さんのえっち」
「えっちなことをしてほしいのかしら?」
「ばか、変態、」
「──でも、嫌じゃないでしょう?」
耳元で囁かれたかすれ声と、濃くなったような夏樹さんの匂いに顔が熱くなったけれど、返事に窮している間に彼女は再び夢の中へと行ってしまった。
あれから私は泣けていない。
それはきっと子供で居る事を許してくれた人がいなくなってしまったからなのだと思う。
随分無責任なことだ。
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