第4話 2日間の誕生日
去年の8月。
もらった焜炉を弄っている私を見ながら、呆れたように夏樹さんは言ったのだ。会社から帰ってきたばかりの彼女はまだスーツを着ていた。外の匂いがしたし、まだしっかりメイクもしていたからなんだか違和感があった。
「だって欲しかったんです。本当にくれるだなんて思ってなかった」
「もっと可愛いものをリクエストすればいいのに。本か焜炉なんて……」
眼鏡を外して笑った夏樹さんは、スーツに皴がつくのも構わず私の家の大きなクッションにうつ伏せで寄りかかっていた。
ぴしりとしていなきゃいけないはずの恰好で、くたくたになっている。安楽椅子もあるのに少し疲れた感じで、ふわふわの長い髪を乱して寝転がる姿に、見てはいけないものを見た気がして、どきりとした。
うちに来る時は大体着替えてからやって来るから、その差異にどうにも落ち着かない気分になる。
私は手の中の焜炉を開いてテーブルに置いた。
焜炉は、ベランダでキャンプごっこをした時に夏樹さんが持っていたものだ。掌に乗る小ささなのに、ちゃんとお湯を沸かすことができるのが面白かった。
「折角だからこれで飲み物淹れますね。お茶で良いですか?」
「んー……なんでもいい」
「なんでもいいって、一番困る答えですよ」
「じゃあ紅茶。絶品のやつ」
オマケでくれたガス缶をセットして、五徳を引き出して薬缶をかける。その間に起き上がった夏樹さんは、とっておきのケーキを恭しく冷蔵庫から取り出した。夏樹さんと私の誕生日は1日違いだった。8月10日が私。11日が夏樹さん。卓上カレンダーに印をつけておいたのを、遊びに来た夏樹さんが発見したのだ。何の日かと問われて、それが切っ掛けでお互い知ることとなった。
お祝いにと高価なケーキと一緒に選んでくれた一輪の淡いピンクの薔薇の花。サプライズプレゼントに声も出なかった。花瓶は無かったから、昔拾ったジンジャーエールの緑の空瓶にさして、テーブルの上に飾った。
「ケーキなんていつぶりだろ」
「私なんて、人生で1、2回しか食べたことないです」
「ケーキ屋さん自体があんまりないもんねぇ」
一個一個慎重にお皿に乗せる夏樹さん。私はごくりと唾を飲む。
スーパーはあるから、最低限の食べ物に困りはしなかったけれど、洋菓子屋さんというものを見たことがなかった。夏樹さんは何処で買ってきたのだろう。
そうこうする内に焜炉に掛けた薬缶が蒸気をあげた。温めたポットに茶葉を投入すると、きっちりと砂時計で時間を計り、これまた温めたカップにそっと飴色の液体を落とした。
「慎重に淹れるのね」
「最後の一滴が大事だっておじいちゃんが言ってたんです。この一滴に紅茶の魂が入るんだって」
「ふーん、最後の一滴ねぇ」
耳を澄ませて雫がカップの中に落ちる音を聞く。夏樹さんまで息を殺しているからなんだか面白くなって笑ってしまった。
「蝋燭はどうする?」
「あるんですか?」
「ええ、一応貰ってきた」
ケーキの箱の中から赤や緑の小さな蝋燭が現れる。
「つけましょうよ! 絶対綺麗ですよ!」
言うと、夏樹さんは嬉しそうな顔をした。蝋燭の数で年齢が分かるかな、なんて思っていたのだけれど、大雑把なところのある夏樹さんは適当に貰ってきたらしい。箱の中には5個も違う種類のケーキがあったのだけど、それぞれに一個ずつ差してもまだ蝋燭は余っていた。部屋の電気を消して順に火を灯すと、その分だけ闇から空間が現れる。
夏樹さんは何時の間にかに薄いジャケットを脱いで安楽椅子に座り、ブラウスのボタンを外していつもの見慣れた緩い姿になっていた。テーブルの上に置いたケーキ達は一個につき一つの輝きを乗せて、表面の飴や果物を宝石みたいに光らせていた。
「食べるのが勿体ない」
思わず呟くと、夏樹さんは至極真面目な顔を作って、人差し指を立てた。まるで教授みたいな言い方で、美味しい食べ物は美味しいうちに終わらせるのが良いのだと宣った。そうして真面目な顔のまま私に迫る。
「で、お願い事は決まったのかね?」
「お願い事?」
「そう、一息で吹き消すことが出来たら、願い事が叶うのだ」
そんな子供だましの伝承をむつかしい顔で言う。七夕の短冊とか、節分に歳の数だけ豆を食べるだとか、そんなおまじないの類と一緒。
「そうですね、うーん」
願うのは悪い事ではない。願うのは希望だ。明日を生きる為の意志だ。……でも願っただけでは何も叶わないのだということも、身に染みて知っている。
「ほら、蠟が溶けちゃうわ」
蝋は容赦なく溶けるけれど中々思いつかない。一転してにこにこしている夏樹さんをちらっと見ると、早く早くとせっつかれ、とうとう私は蝋燭を吹き消した。5つの輝きはあっという間に消えてしまって、やがて暗闇の中で白い煙だけが糸の様にたなびいた。
「全部消えたわねぇ!」
満足そうに言う夏樹さんに頷いてみせる。でも、実はお願い事はとうとう浮かんでこなかったのだ。何も考えずに吹き消してしまった。夏樹さんが消せば良かったのだ。誕生日が1日違いなのだから、夏樹さんだってお願いが出来る立場だったはずだ。なんで私一人に消させたのだろう。
パイにナイフを立てて、ざくっと切る。
こんな風に誰かと誕生日の夜をこの部屋で過ごすのは初めてだった。
「そういえばさ、十羽はこの八番街の奥に行ったことある?」
「 ないですよ。危ないって祖父に言われてたんで」
口に入れるとサクサクのパイとクリームの味。良い香のクリームで、頬が落ちそうなくらい甘い。わらび餅やアイスキャンディーも美味しいけれど、こんな贅沢なデザート、本で読むことはあっても食べたことがなかった。夏樹さんは足を組んで、紅茶を優雅に口に運んでいる。彼女は食べるのが存外早くて、もう選んだチーズケーキはお皿の上に乗っていなかった。
「ふーん、そう……意外ね。私、偶に行ってみるんだけど……」
「はい?」
てっきり夏樹さんはインドア派かと思っていた。仕事の無い日は日がな一日家にいて、くったりと過ごしているものだと思っていたのだ。ふわふわの高級猫みたいな夏樹さんが廃墟をふらふらしているところが想像つかない。灰色のベールを被って彷徨うバンシーみたいな感じだろうか。
「というかね、此処だけの話なんだけど、私の秘密の場所があってね。通ってるのよ」
「通う……って、南に?」
「そう。開拓してしまえば未知の世界じゃないもの」
通う程のものがあるのだろうか。確かに管理人さんが張った立ち入り禁止のロープなんかがあるだけで、潜ってしまえばあっという間に向こう側に行けるのだけれど。でも簡単に行けそうだからこそ、その古びたロープの境界が少し恐ろしくも思える。ロープ一本張るだけで、誰も向こう側に行きたがらないのだ。それなのに、近づくとまるで誘惑されているように、奥に何があるのか知りたくなる。
「秘密の場所って、何ですか?」
「んー……ちょっとした工房。気が向いたら見つけてみてね」
見つけてみて、とは言われたものの、私は祖父の残したこの部屋に満足していた。気になりはするけれど、奥地に行くつもりも予定もない。話を聞けば夏樹さんは越してくる前から八番街について調べていたらしい。どれだけ大きな建物なのかとか、住人が住んでいるのはどの区域なのか、とか。全て図面に起こして取ってあるのだと言う。カメラ片手に散策中に色々なものを見つけてどんどん魅了されていったのだとか──。それは、とても危ういことのように思えた。
「マーライオンみたいなでっかい像のある広場だとか、ミニチュア遊園地だとか色々あったわ。どこにもね、綺麗な蝶が飛んでいたの。ひらひらふわふわ、まるでそこに住んでいた人がみんな変わっちゃったんじゃないかってくらい沢山。私も仲間になれればって思っちゃった」
遠い目をしてそう語る。私は大きないちごを飲み込んだ。生まれて初めて食べた赤い実は、甘酸っぱくて、みずみずしくて、気を失いそうに美味しい。けれどそれを悟られるのは少し恥ずかしい。
「小さい頃からここに遊びに来てるって聞いたから、あなたにもお気に入りの場所があるのかなって思ったんだけど」
「私はこの部屋がまさにお気に入りの場所だったんで。でも、なんだか楽しそうですね。一体どんな人たちが住んでたんでしょう。遊園地のある住宅街って中々ないですよ。なんなんだろう、ここ」
アトラクションの類があるなら、きっとそれなりに沢山の人が住んでいた時期があった筈だ。今ははぐれ者の集まりのこの場所にも、幸せな家族や恋人が暮らしていた可能性がある。
「そうねぇ。八番街の歴史については、管理人さんが詳しそうよ。私はあんまり好かれていないからな」
両手で抱えたカップの表面を見つめて、夏樹さんは微笑んだ。
住人を番号で呼ぶ管理人さん達に好き嫌いがある様には見えないのだけれど。そういえば、夏樹さんは他に住む人のいない〝寅〟で暮らしている。〝子〟や〝丑〟よりも南にあるそちらを斡旋されたのであれば、好かれていないと思うのも分かる気がする。
「この場所の生き字引ってことですか?」
「そんなところ。多分あの人達八番街ができて間もない頃からいる筈だしね。悪い人たちじゃないのよ。ただ、私が此処に越してきたことをきっとあんまり良く思ってない」
私は何も言わずに紅茶を飲んだ。一応夏樹さんに言われた通りとっておきのものだ。ケーキには不釣り合いかもしれないけれど、スーパーで売っている一番良い茶葉を使っただけあって美味しい。ガス缶で湯を沸かした所為で、ちょっと香がアウトドアっぽいような気がしたけれど、それもまた一興だろう。
でも今は茶葉よりも、私よりも管理人さん達に詳しい夏樹さんが何者なのか気になった。
「今度うちに遊びに来て。八番街の図面を見せてあげる」
「そういえば、行ったことなかったですね」
「知らない人の家に遊びに来させちゃ、ご両親が心配するでしょうしね」
ふんわりと言って、カップを置くと夏樹さんは別のケーキのお皿に手を伸ばした。
あの時のケーキは、ひょっとしなくても夏樹さんが働いていた会社の近くのものだったのだろう。
私は外国と内国の境界を超えてすぐにある学校付近しか行くことが出来ないけれど、更に北はもっとずっと都会なのだと聞いたことがある。
寝付けなくて、寝返りを打ってカレンダーに背を向けた。
管理人さん。
確かに、管理人さんに聞けば夏樹さんのことが分かるのかもしれない。でも、突然そんな話をしたらそれこそ不審に思われかねない。守秘義務もあるだろうから、住民の話は教えてくれない可能性が高い。
管理人さんの他に、夏樹さんの事を知っている可能性がある人は他にいなさそうだった。でも此処八番街についてならば、105号室に住んでいるおじさんが何か知っている可能性があった。おじさんは夏だろうが冬だろうが白い上っ張りを着ている変わった人だ。
小学校の時に彼が祖父と話をしていたのを朧気に覚えているから、結構長い間八番街に暮らしている筈だ。
私と違って他の住民と交流していた彼は、何か重大な事を知っているかもしれない。でも、祖父亡き後は棟の入り口で挨拶をしたことがあるくらいで、きちんと話をした事は無かった。流石に今更話しかけにくい。
夏樹さんの工房は一体どこにあるのだろう。話ぶりからして、〝子〟~〝寅〟にはない。更にもっと南のどこかにあるのだろう。
管理人さんたちの張ったロープを潜って、夏樹さんは一体どこに通っていたのか。
何かを作るというのは、ある程度の熱量が必要だ。その熱量は心を燃やして得られるもの。だから、それを見つけられれば、私は彼女をより深く知ることができる気がした。彼女の、「理想」を壊せる気がしたのだ。
彼女は工房で一体何を作っていたのだろう。
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