彼女の呪いが解けるとき 5





 気がつくと、ジャニは何もない白い空間にいた。


「・・・・・・あれ? パウロ? みんな?」


 名前を呼びながら、トボトボと歩き出す。

 上下左右もわからないような真っ白の世界だった。何の音も聞こえない。何の姿も見当たらない。


(私は、死んだのだろうか)


 思わずそんな考えが頭をよぎる。しかしその時、風もないのにふわりと宙を漂う花びらのようなものを見つけて、ジャニは手を伸ばした。


(これは・・・・・・うろこ?)


 手に取ったものを繁々しげしげと見る。

 青緑色に輝くそれは、美しいうろこのようだった。気づくと、他にも何枚か同じようなものが漂っていた。うろこが飛んでくる方向に走っていったジャニは、見えてきた光景に驚嘆する。

 そこには、俯いて座り込む金髪の女性がいた。

 彼女は裸だったが、自分の体を隠そうというそぶりも見せない。投げ出された滑らかな白い両足には、先ほど飛んできたようなうろこがところどころ埋め込まれていて、それが一枚ずつ、ふわりと肌から浮き上がってはまた花びらのように舞い上がり、飛んでいくのだった。

 彼女から解き放たれたうろこが、まるで花吹雪のようにキラキラと上空に消えていく。その美しい光景に魅入っていたジャニは、こちらを振り返った女性の顔を見て、目を見開いた。

 瞳は青く、顔色もほのかに赤みが差す陶磁のような白さで、以前と見た目は様変わりしていたが、その絶世の美貌は間違いなくセイレーンだった。その頬からも、紺碧のうろこがぱらりと剥がれ落ちていく。


『やってくれたな』


 セイレーンが恨みがましい目でジャニを睨み、吐き捨てた。


『まさか、あの憎らしい男の孫に殺されるとはね』

「え、殺すって・・・・・・あなたは、死んだの?」


 ジャニはそう問いかけてから、ハッとしたように顔を青ざめさせた。


「ということは、やっぱり私も死んじゃったの?」


 セイレーンは低く笑うと、緩やかに首を振った。稲穂のような金色の髪が、ふわりと揺れる。


『いや、お前は死んでいないよ。束の間、この空間に呼ばれただけさ。ここで、私はゆっくりと呪いを解かれ、そして消えていく。ディオンヌの姿で』


 セイレーンの口にした“ディオンヌ”という名前に、ジャニは反応した。

 マハリシュの話に出てきた、デイヴィッド・グレイに恋をした海の精霊の名前。本当に彼女は、あの話に出てきた“ディオンヌ”なのだ。愛した男への復讐に身を焦がし、自らセイレーンに姿を変えてしまった女性。

 ジャニは一歩踏み出して、ディオンヌの前に進み出た。


「私に歌を教えてくれたシレーヌという人が、あなたのことをすごく心配していたよ。あなたの魂を救いたいって」


 ディオンヌの目が驚きに見開かれた。


『シレーヌが? そうか、あの子がお前に歌を教えたのか・・・・・・。まだ、私のことを思っていてくれたのか』


 ディオンヌは視線を落とした。けぶるような金色のまつ毛から、涙が雫となってこぼれ落ちる。


『馬鹿な子・・・・・・』


 彼女の声には愛しさと切なさが溢れ、ジャニは胸を突かれる思いがした。


「許すことって、難しいよね」


 ぽつりとジャニがこぼした言葉に、ディオンヌが訝しげに顔を上げた。ジャニは彼女の目を見て、言葉を重ねる。


「私も、“許せない”という気持ちをいつもどこかに持っていた。こんな顔に生まれた自分を、お祖父様に受け入れてもらえない自分を、そして、私に呪いをかけたあなたを。さっきあなたにお祖父様の過去を見せられた時も、許せないと思った」


 ジャニはきつく唇を噛み締めた。

 今まで、自分がこんな容姿に生まれたせいで、リチャードに受け入れてもらえないのだと思っていた。しかし、それは違った。こうなった原因はリチャードが過去に犯した罪だった。そのせいでジャニは呪われ、こんな姿に生まれてしまったのだ。

 今ならばわかる。自分を見るリチャードの目が、なぜいつも痛みを堪えるようだったのかを。自分の罪を見せつけられているようで、彼はジャニを直視できずにいたのだ。

 ジャニは裏切られた気分だった。

 冷たくあしらわれようと、リチャードを慕い、いつか自分を受け入れ、愛してもらいたいと思っていた。しかしその純粋無垢な気持ちは、彼の過去を見てうち砕かれた。夢から覚めたような気分だった。

 そして、気付いたのだ。今まで自分にとって唯一絶対の存在であったリチャードも、悩み苦しみ、過ちを繰り返してきた、一人の人間なのだと。そして自分もまた、一人の人間であり、その生き方は自由に選べるのだと。


「でもね、一つ許せないと、許せないことがどんどん積み重なっていって苦しくなるの。真っ暗な部屋に、閉じ込められたような気分になるの。私はこんなふうになりたくなかったのにって」


 屋敷に閉じ込められてた頃の自分を思い出す。あの頃の自分に、言ってあげたい。あなたはどんな風にでも生きられると。自分を変えられるのは、自分だけなのだと。

 ジャニはじっと、ディオンヌの目を覗き込んだ。


「あなたは、本当はセイレーンなんかではないはずだよね。魔物になんか、なりたくなかったんだよね。

 本当は、許したかったんじゃない? 憎むことに疲れていたんじゃない?」


 ディオンヌの瞳が揺れた。また一つ、彼女の足から、頬から、うろこが剥がれて舞い上がっていく。それはまるで、彼女を覆っていた紛い物の殻が割れていくようだった。


 ディオンヌは、もうすぐ自分が消えてしまうことを理解していながら、どこか心安らかな気分に浸っていた。

 本当はずっと苦しかった。

 いくら人間を呪い、もてあそぼうと、自分の心の穴が埋まることはなかった。それでも、“許せない”という気持ちは止めようがなかった。

 荒れ狂う波のように、憎悪と嫉妬の念は体の中で出口を求めて溢れかえった。激情に溺れるうち、本来の自分の姿は跡形もなく消え失せ、身も心も変わり果てた、人間の絶望を好物とする海の魔物が産まれてしまったのだ。


『そうか、私はいつの間にか、自分に呪いをかけていたのか・・・・・・。まさか、“涙”で私の呪いを解くとは・・・・・・お前には驚かされる』


 ディオンヌの呟きに、ジャニはただ肩をすくめた。ジャニにとっても自分がとった行動は驚くべきものだったのだ。ただ、無我夢中だった。

 ジャニはセイレーンに殺されそうになった瞬間、彼女の瞳に、自分と同じ苦しみが潜んでいることに気付いたのだった。

 ありのままの自分を受け入れられず、“呪い”によって違う姿をまとっている者の苦しみを。そして、気付いたときには“涙”を彼女に投げていた。

 結果ディオンヌの呪いは解け、彼女が生み出したレヴィアタンも姿を消した。

 ディオンヌは、ふと何かに気づいたようにジャニを見た。


『しかし、お前はどうして私に“涙”を使ったんだ? 自分の呪いを解くこともできただろうに』


 ジャニは、どこか吹っ切れた顔で微笑んだ。


「私はこのままでいいよ。私が化け物だろうと、女だろうと、気にせず“ジャニ”って呼んでくれる仲間がいるから」


 今までジャニが呪いを解きたかった理由は、ただ、リチャードに認めて欲しかったからだった。きっと、普通の人間になったら、彼は自分を受け入れてくれると信じていたから。しかし、もうその必要はないのだ。

 自分の醜い姿を見て、受け入れてくれたパウロがいる。自分の力を必要としてくれる仲間がいる。自分が仇の孫だと知りながら、“涙”を渡してくれたクックがいる。それだけで、もう十分だった。


「私の居場所は、見つかったんだ」


 ジャニの心は晴れ晴れとしていた。

 自分は、この先ずっと眼帯をつけて生きていく。もう、一人ぼっちで泣いていた“仮面の少女”はいないのだ。

 体は何も変化していないのに、こんなに心が満たされていることが、ジャニは自分でも不思議だった。


 ディオンヌは眩しそうにジャニの笑顔を見ていたが、やがて物思いに沈むように目を伏せた。胸中で一人呟く。


(このやせ細った小さな少女の中に、なんと大きな力があることか。自分を変えたい、生きたいという強い気持ちが、周りのものを巻き込んで思わぬ流れを産んだのだろう。人間とは、やはり面白い生き物だね、カルロス)


 ぱらりと、最後のうろこがディオンヌの足から離れた。次の瞬間、ディオンヌの体は金色に輝き、細かい粒子の集まりとなって砂のように足先から消えていった。

 体が完全に消える寸前、ジャニの耳に、風のささやきのような声がかすめた。


『ありがとう』


 それはシレーヌの声のようにも聞こえたし、ディオンヌの声のようでもあった。

 しかしそれを深く考える間も無く、あたりは再び真っ白な光に包まれ、ジャニは意識を手放した。








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