彼女の呪いが解けるとき 1




 冷水を浴びせられたように、ジャニははっと我に返った。


(今のは、なんだったの!?)


 夢でも見ていたかのように、誰かの記憶を辿っていた。

 取り戻した自分の視界に、えつにいった表情で微笑むセイレーンが映った。遥かな時を巡ったように感じていたが、洞窟の様子は変わらず、実際に経った時はわずかのようだ。


『今見せたのはお前の祖父の記憶だ。リチャード・ディオン。私にとって唯一の友人で、理解者で、大事な存在だったカルロスを、最悪な形で裏切り殺した男。私はあの男に呪いをかけた。その呪いの結果が、お前だ』


 呆然とするジャニを前にして、セイレーンの笑みは深まる。


『お前の母親がどうやって死んだか、知っているか? 右目に虚な穴を抱え産まれたお前を見て、彼女は気が狂ってしまったのさ』


 ジャニの顔から血の気がひいた。その口から、「やめて」というつぶやきが漏れる。


『彼女は屋敷を飛び出し、海を臨む崖に向かって走って行った。そしてそのまま足を止めず』

「やめてーっ!!」


 両手で耳を塞ぎ、ジャニは力の限り叫んだ。セイレーンは高らかに笑う。


『あの男に残されたのはお前だけになった。呪いで右目がない哀れな姿で産まれたお前を、あの男は鳥籠に閉じ込めるようにして育てた。

 誰にも見られないように。

 誰にも傷つけられないように。

 どこにも行かないように。

 だが、そうやって自分自身がお前を傷つけていることには気づいていなかったんだね。お前がどんなに辛く寂しい生を送ろうと、生きてさえいれば自分は救われる。そう思っていたのさ』


 セイレーンの顔がさらに近づく。ジャニは、催眠術にでもかけられたようにセイレーンの透き通った瞳を見つめていた。


『あの男が憎いだろう? あの男のせいでお前は右目を奪われ、母は死んだ。囚人のようにお前を閉じ込め、女としてのお前を疎んじ、受け入れなかった。

 復讐したいと思わないかい? あの男に自分の罪を突きつけ、叩きのめしたくはないかい?

 その方法が、一つだけある。お前が、死んでしまえばいいのさ』


 セイレーンの言葉が、毒のようにジャニの中に浸透していく。


(私が、死ねば。お祖父様は、泣いてくれるだろうか)


 ジャニの左目から、涙が一筋伝った。


(私なんか産まれてこなければ、お母さんは死ぬことなどなかったのに)


「おい、ジャニ! しっかりしろ! そんな化け物の言うことなんて聞くな!!」


 セイレーンの後ろで、パウロが険しい顔で叫んでいる。しかし、セイレーンが煩わしげに手を振ると、パウロの体は弾き飛ばされて下の岩場に叩きつけられた。


『お前が死んだ時、あの男は真の絶望に突き落とされる。私がカルロスを失った時と同じ気持ちを味わうのさ。お前も、長い苦しみから解き放たれる。さぁ、その腰の短剣を抜いて、自分の首に突きつけろ』


 セイレーンの声が、頭の中で何重にも鳴り響く。ジャニは、虚な表情のまま、震える手を腰の短剣に伸ばした。


「ジャニ、やめろ!!」


 クックが、ロンが、仲間たちが何か叫んでいる様子が遠くに見える。

しかし、ジャニの耳には彼らの声が届かなかった。全ての音が消えてしまったような世界で、ジャニはただセイレーンの狂気に満ちた瞳と向き合っていた。


 その時、ジャニの中で誰かの声がした。


(本当に、死んでもいいの?)


 少年のようなその声は、どこか馬鹿にするような響きを伴っている。それに対して、ジャニは言い返した。


(私なんか、生きていても何もできない。なんの力もない)


(だから死ぬの? 君が死んだら何か変わるの? 君の母さんは生き返るの?)


 ジャニの瞳が揺れた。少年のような声は言葉を重ねる。


(リチャードが憎いから死ぬ。自分には何もできないから死ぬ。君はそんなつまんない人生で満足? せめて、本当に自分には何もできないのか、ギリギリまで試してから死ねば? 君、クック船長みたいな海賊になりたいんでしょう?

 何もできない“仮面の少女”のまま、死んでもいいの?)


 だんだんと、ジャニの耳に音が戻ってきた。視界にも色が戻ってくる。


『さぁ、早く楽になれ!』


 セイレーンが急かすように声を上げる。ジャニはゆっくりと立ち上がり、短剣を振りかざすと、迷うことなく目の前のセイレーンの顔に突き立てた。

 短剣はセイレーンの顔をすり抜けたが、セイレーンの表情の変化は見ものだった。信じられないものを見るようにジャニを凝視したのち、怒りの咆哮を轟かせた。


『何をする! この死に損ないの小娘が!!』


 凛と顔を上げるジャニの顔には、もう迷いはなかった。


「私が死んでも、母は生き返らない。そして私が死んで、お祖父様が絶望しても、カルロスは生き返らない。それはあなたもわかってるんでしょう?」


 ジャニが諭すように言うと、さらにセイレーンの顔は醜く歪んだ。


『うるさい! お前に何がわかる! 何も失ったことのないお前に!』


 ジャニは悲しげに目を伏せた。確かに、自分は生まれる前から右目も母親も失っていたから、何かを無くすという悲しみはわからない。だが。


「わからないけど・・・・・・その“許せない”っていう気持ちのせいで、新しい悲劇が生まれることは知ってる。私のこの右目みたいに」


 顔を上げたジャニの目には、今までにない強い光が宿っていた。


「私は、死ぬわけにはいかない。まだやらなきゃいけないことがある。私は・・・・・・呪いを解きたいだけなの」





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