終わりの地 3




(あぁ、つまらない)


 ルーベルの長いまつ毛の先から、滴る水滴が涙のように彼女の頬を濡らす。その様子を横で気怠げに眺めながら、セイレーンは急激に冷え切った自分の胸懐きょうかいを持て余していた。


(確かに、あの男の絶望を待ち望んではいた)


 クックの顔が蘇る。自分に触れたことで、ルーベルの呪いが成立してしまったと気づいた時の彼の顔を。

 その瞬間、セイレーンは背筋を走り抜けるような快感を覚えていた。だが、洞窟に戻ってさらってきた女を地面に寝かし、その顔をみつめていると、打ち寄せた波が去るように、セイレーンの胸は虚になっていった。


 今まで、こうして呪いが成立することはまれだった。

 何人もの男に同じような呪いをかけてきたが、大抵の者はしばらくすると、呪いが成立する前に心変わりするか、あっさりとその女を諦めるのだった。セイレーンはいつも、そういう男たちを問答無用で襲い、精気を吸い取ってきた。はなからそういう目的で、呪いをかけてきたと言ってもいい。

 だからこそ、自分の目の前で愛する女が奪われ、絶望する男を見て楽しめるのは、またとない歓喜の瞬間だと思っていた。しかし、悦楽は一瞬で、反動のように彼女の胸はじわりと痛んだ。


 なぜ、自分がこういう呪いをかけるのか、気づいてしまったのだ。


(私が見たかったのは・・・・・・)


 はるか昔の錆びついた記憶が浮かび上がる。

 彼女が欲しかったのは、たった一人の、ある男の想いだった。デイヴィッド・グレイ、ただその人の。

 クックのような表情で、自分を見て欲しかった。グレイに、心の底から欲してもらいたかった。もうそれが絶対に叶わないからこそ、彼女は何度でも数多の男を呪い、食らうのだ。


(あぁ、くだらない)


 セイレーンは自嘲するように笑った。いつまでこんなことを続けるのだろう、とぼんやり考える。


【しんどい生き方してるなぁ、あんた】


 ふいに、セイレーンの耳朶を懐かしい声がかすめた。もう、この世にはいない男の声だ。


【もういい加減、自分を楽にしてやってもいいんじゃねぇか?】


 ざっくばらんな野太い声で、彼はそう言った。その男は、唯一、セイレーンの歌に狂うことも呪いにかけられることもなかった人間だった。

 脳裏に浮かぶのは、赤いバンダナを巻いた、黒い縮れ髪の大男だ。


【過去に囚われてたって、なーんもいいことねぇぞ】


 あっけらかんと言い放ち、大口を開けて笑う彼の笑顔を思い出して、セイレーンの胸は疼いた。その男の笑顔は、復讐に燃えるセイレーンのよどんだ心を束の間晴らしてくれた。まるで、雨上がりの太陽のように温かい男だった。


(本当に、おかしな男だったな)


 彼と出会った時のことを思い出して、セイレーンは思わずくすりと笑った。



 あれは、何年まえのことだろうか。もうずいぶん時が経ったはずだ。


 とある孤島で、時々船を襲いながらひっそりと生きていた頃だった。ある日、小さなボロボロの小舟が潮に流されて、セイレーンのいる島に近づいてきた。


(漁船が嵐で流されてきたのだろう)


 そう思っていたセイレーンは、船の中に一人の人間の姿があることに気づいて驚いた。その若い男は、なぜかマストに縛り付けられていたのだ。


(おやおや、エサが自分からやってきたよ)


 前回人間の精気を吸ってからだいぶ日にちも経っている。そろそろ補給せねばと思っていたタイミングで、思いもよらない餌食が迷い込んできたことに、セイレーンはほくそ笑んだ。まるで自分へのお供えのようだ。


(では、いただくとするか)


 セイレーンが人間の精気を吸うには制約がある。自身の歌で狂わせた人間のみ、その精気を吸うことができるのだ。通常通り、セイレーンは人間を狂わせる歌を歌い始めた。

 しかし、いつもだったらとろんと微睡まどろむような表情になり、意識を手放すはずの人間が、全く予想しなかった行動に出た。セイレーンの歌に気づき、喜びの声をあげたのだ。


「ほら、やっぱりな! 賭けは俺の勝ちだ! セイレーンは実在したんだ!」


 岩陰に隠れて彼の様子を盗み見ていたセイレーンは、驚愕のあまり目を見張った。自分の歌に、その人間はまるで狂う様子がなかった。どれだけ歌の出力をあげても、全く変わった様子なく嬉しそうな声をあげている。


「セイレーン、お願いだ。姿を見せてくれ!」


(どういうことだ、私の歌が効かないなんて・・・・・・)


 セイレーンの動揺は激しかったが、姿を見せてくれと懇願するその人間に、一抹の興味が湧いた。自身の歌が効かない人間に初めて会ったのだ。

 セイレーンは隠れていた岩陰から離れ、思い切って男の乗る船のへりに身を預けた。彼女の姿を捉えた男の目が、みるみる見開かれていく。


(さぁ、恐怖に震えるがいい)


 魔性の笑みを浮かべ、男の絶叫を待っていたセイレーンは、またもや彼の予想外の行動に度肝を抜かれた。

 男は目を輝かせて、囁くように呟いたのだ。


「なんて、美しいんだ」


 セイレーンは毒気を抜かれた顔で男を見つめた。この男はよほどおかしいか、元から狂っているに違いない。


『お前・・・・・・私が怖くはないのか?』


 思わず、そう尋ねていた。男はセイレーンが喋ったことに対して少し驚いた顔をしたが、「うーん」と何か考えるような顔になって首を傾げた。


「こんなべっぴんさんを前にしたら、怖がるよりも嬉しくなっちまうけどなぁ」


 のんびりとそんなことを言う。そのあまりの警戒心のなさに、セイレーンは拍子抜けした。


(いや、油断しては駄目だ。こいつにはなぜかわからないが歌が効かない。他にも何か、得体の知れない力を隠し持っているのかもしれない)


 そう思い直し、セイレーンは男に探りを入れてみることにした。


『お前は、なぜマストに縛られているんだ? 誰かにやられたのか?』


 セイレーンが尋ねると、男は自慢げに胸を逸らした。


「俺が自分でやったのさ!」


 訳がわからず黙り込むセイレーンに、男は説明する。


「相棒と賭けをしたんだ。セイレーンが実在するかどうかを。あんたがこの島の周りで時々出没するって噂を聞いたからさ、確かめに来たんだ。ただ、あんたの歌を聞くと頭がおかしくなって海に飛び込んじまうって聞いたからな。こうやって自分を船に縛り付けておけば、おかしくなっても大丈夫だろうと思ったのさ。だけど」


 そこで口を閉ざし、男は今気がついたと言う様子で困ったような顔をした。


「そういえば、帰りのことを考えてなかったな。これじゃぁ船を漕いで帰れねぇ。あんた、悪いけどこの縄解いてくれねぇか?」


 そこまで聞いて、セイレーンはたまらず噴き出した。


(この男、本当に何も考えずに乗り込んできたのか!)


 歌が効かなかったからよかったものの、そうじゃなかったらこの男の命は瞬時に奪われていたはずだ。強運の持ち主であることだけは確かなようだ。

 セイレーンがくつくつと可笑しそうに笑う顔を眺めていた男は、不意に満面の笑みを浮かべた。


「あんた、そうやって笑ってた方が綺麗だな」


 さらりとそんなことを言う。もう血など通わぬ体なのに、セイレーンは自分の顔が火照るような心地がした。

 セイレーンは彼の縄を解いてやり、興味本位で色々と話を聞いた。

 男はカルロスと名乗った。とある海賊船で、船乗り見習いとして働いていると。セイレーンが、自分がここにいることを他の人間に話さないでほしいと頼むと、カルロスは残念そうに眉尻を下げたが、しぶしぶ頷いた。


「ちぇっ、またリチャードにバカにされちまうな。まぁ、いい。賭けは俺の負けってことにして、あんたのことは秘密にしておいてやるよ。そのかわり」


 カルロスはその厳つい顔に、とびきり人懐こい笑顔をうかべた。


「また、あんたに会いにきていいか?」

『ふん、勝手にしろ』


 すげなく言い返しておきながら、その後のセイレーンは彼が来るのを密かに心待ちにするようになった。


 カルロスはその言葉通り、度々セイレーンのもとに一人で来るようになった。酒や、陸の食べ物などを持参しては、カルロスはセイレーンと一晩中取り止めのないことを語り、翌日の朝に小舟で彼の住処に帰っていくのだった。

 いつか、セイレーンは彼に尋ねたことがある。


『お前は、海賊として名を上げたいと思っているのか?』


 カルロスは、セイレーンの質問にキョトンとした顔をした。


「俺が?」

『海賊船の船長になって、他の海賊たちを従えて、この世界の海を支配したいとは思わないのか』

「俺が船長? ははっ、そんなの考えたこともねぇな」


 カルロスは、幼さの残る顔で破顔して、ふと思いついたように指を鳴らした。


「船長になるなら、俺の相棒の方が断然向いてるだろうさ。あいつはめちゃくちゃ頭がいいし、腕も立つし、船の扱いもうまいからなぁ。それに、あいつにはいつかこの海に名を轟かせたいっていう、でっかい野心がある」


 ひとしきり相棒のことを称賛した後、カルロスはどこか遠い目をした。


「俺は、自分が何をしたいのか、未だによくわかんねぇのさ。金も欲しいし、自由も欲しいが、それだけじゃなんかつまらねぇ気がするんだよな」


 目の前に広がる水平線を見渡して、カルロスは誰にともなく呟く。


「俺は、何がしてぇんだろうな」


 迷子のような、頼りない横顔だった。


(この男は、他の人間と何か違う)


 セイレーンはそう思った。

 海に出るような人間は、大概身の丈に合わない野心や夢を持って船に乗るのだ。そしてグレイのように身の破滅を招く。人間はそういうものだというセイレーンの思い込みを、カルロスはことごとく覆してきた。そもそも、海の魔物と恐れられている自分を気に入って、わざわざ会いに来るような奇特な人間が他にいるだろうか?

 いつしか、セイレーンにとってカルロスは大事な存在になっていった。グレイの時のような狂おしい恋心は持っていなかったが、彼の身を常に案じるほどには気の置けない存在だった。セイレーンにとって、初めて心を許した相手と言ってもいい。出会ってから二十年以上の歳月が流れても、カルロスは変わらずセイレーンを訪ねては、色々なことを語り合った。


 ある時、カルロスが浮かない顔でセイレーンのもとに訪れ、重い口を開いた。

「俺にはどうしても行かなければならないところがある。もしかしたら、これが最後になるかもしれない」


 セイレーンは仰天した。彼のそんな思いつめた顔を初めて見たのだ。


『どういうことだ? どこに行くと言うんだ』


 いくら尋ねても、彼は頑として話そうとはしない。彼の決心の強さを察し、セイレーンは突如胸が張り裂けそうな不安に襲われた。


『行かないでくれ。私をひとりにしないでくれ。私にはもう・・・・・・こんな果ての長い孤独、耐えられない』


 カルロスと出会わなければ、とも思った。

 彼との楽しい時間を知らなければ、昔の憎しみに溺れた自分のままであれば、こんな辛い別れなど知ることもなかったのに、と。カルロスは、嘆き悲しむセイレーンを見つめ、優しく微笑んだ。


「俺が死んだら、お前と共に海の底で眠ろう。約束だ。お前を一人にはしない」


 それだけ言い残して、彼は去っていった。

 そして、彼は死んだ。彼が慕っていた、かつての親友に裏切られて。

 カルロスを殺した男への憎しみに溺れ、再びセイレーンは終わりのない暗闇に閉ざされてしまった。


『・・・・・・私もあの時のお前のように、何がしたいのかわからくなってしまったよ』


 記憶の中の男に向かって、話しかける。


『カルロス。私は、何を待っているんだろうね』


 セイレーンは疲れたように笑った。

 こんな女をさらって、自分はどうしたいのだろう。クックがここに来るのを待っているのだろうか。なんのために?

 そもそも、この洞窟の入り口は海に閉ざされ、人間が来ることは困難になっている。きっともう間も無く、この女は死ぬだろう。

 しかし、セイレーンには彼らがここに来るという予感があった。そしてその中の一人に、セイレーンは明確な殺意を抱いていた。


『お前を殺した男の孫もこちらに向かっている。せいぜい歓迎してやらなきゃねぇ』


 そう言って、セイレーンは凄みのある顔で微笑んだ。






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