終わりの地 1
「あれが、セイレーンなのか・・・・・・」
ゲイルは、翼獅子号が消えたあたりの海を呆然と見つめていた。今し方、自分が目撃した光景が現実のものとは思えなかった。
突如海の底から巨大な水柱が噴き上がり、中から恐ろしくも美しい生き物が姿を現し、ルーベルをさらっていくのを見た。身の毛もよだつような哄笑を響かせながら、大蛇と共にその生き物は海へと姿を消した。
彼らが消えた途端、荒れ狂っていた海はだんだんと鎮まり、今ではもう穏やかな波がうねるばかりだ。しかし、曇天の空の向こうでは太陽が沈んだのか、辺りには夜の闇が忍び寄り、引き離された翼獅子号の姿を見つけることは不可能になっていた。
「セイレーンが存在すると言うことは、あれも実在するはずだ」
濃紺の闇に沈む水平線を見つめるゲイルの目は、狂おしい熱を帯びていた。船縁を掴む彼の手に力が入り、みしりと木の軋む音が聞こえる。
「あともう少しで、手に入るところだったものを」
つい先ほどまで、順調に進んでいた計画が見事に逆転された。クックを含めた囚人たちは奪われ、翼獅子号を見失い、宝への手がかりの一切を失った。さらにはバシリオの船も沈められ、戦力をだいぶ削がれてしまった。
(最悪だな)
思考とは裏腹に声を上げて笑い始めたゲイルを、部下たちは遠巻きに眺めている。彼の背中から漂う深い怒りの気配に、薄寒いものを感じていたのだ。
その時、部下二人が後ろ手に縛られた男を引き連れ、ゲイルの元に来た。必死で逃れようとする男を、うんざりとした表情で地面に投げ落とす。
「船長。こいつがボートの下に隠れてるのを見つけました。おそらく翼獅子号の奴らが船を離す直前、こいつを放り込んだんでしょう」
乾いた笑いを止め、ゲイルが紅の目を向けると、男は恐怖でくぐもった声をあげた。
そこにいたのはキアランだった。
上等な仕立ての紺色の上着は至る所破れ、いつもきれいに整えられている黒髪はふり乱れていた。キアランはすがりつくようにゲイルの前に平伏すると、後ろ手に縛られたまま額を床に擦り付けた。
「ゲ、ゲイル船長・・・・・どうかお慈悲を!」
キアランを見下ろすゲイルの目は、虫けらでも見るように冷酷だった。隠しきれない怒りにその両目が燃えている。ゲイルはなんのためらいもなく自身のサーベルを抜き取ると、震えるキアランの頭にぴたりと狙いをつけた。
「知っているか? 我が船の流儀では、私の命令が実行できなかったものはそれはおぞましい死に方をする。腹を裂かれ、内臓を抉り取られ、甲板中を痛みにのたうちながら死ぬまで放置されるのだ。慈悲など、この船の上には存在しない。私の命に背く者は、神に背く者」
ゲイルの紅の瞳が、きらりと光った。
「神に懺悔しながら、醜く這いずり回れ」
サーベルが振り下ろされる直前、キアランの必死の叫びがゲイルの手を止めた。
「鍵を! 宝箱の鍵を持っています! デイヴィッド・グレイの宝の在り方を示す鍵を・・・・・・!」
「・・・・・・鍵だと?」
ゲイルはサーベルを持つ手を下ろし、傍の部下に顎で指図した。部下の男がキアランの上着のポケットをまさぐると、金色の長方形の物体が見つかった。
色とりどりの宝石が散りばめられた金の装飾品を受け取り、ゲイルは訝しげにキアランを見下ろす。
「これが鍵だと言うのか」
「そうです! その鍵が、アジトの場所を示す手がかりなのです。デイヴィッド・グレイの手帳には、海図は書いてありませんでした。代わりに、アジトの場所を示す謎が示されていたんです。私はその謎を解くことができた。つまり、この船で私だけが宝の在り方を知っている」
キアランの目にわずかに強気な色が浮かんだ。
「私に、エストニア西海域の海図と、その鍵を与えてください。貴方を必ず、デイヴィッド・グレイのアジトに連れて行きます! だから、どうか命だけは・・・・・・!」
ゲイルはしばし思案するように黙り込むと、おもむろにサーベルを鞘に収めた。キアランに背中を向けながら、傍にいた部下に鍵を渡す。
「そいつに海図と鍵を渡して、常に見張っておけ。何かおかしなことをしようとしたら、すぐに殺せ。宝の場所に辿り着かなかった時は・・・・・・わかっているな?」
「はい! 必ずお役に立って見せます!」
キアランの絶叫に近い安堵の声を聞きながら、ゲイルは靴音高らかに船長室に歩いていった。
(ふん、小賢しい奴め。命拾いしたな。まぁどちらにしろ、あいつを生かしておくつもりなどさらさらないがな)
ゲイルはほくそ笑んだ。イグノア出身の彼を、あまつさえクックの下で働いていたようなやつを自分の配下に引き入れるつもりなど、ゲイルには毛頭なかった。宝の場所まで案内させたら、即座に斬り捨てるつもりだ。
「うっ」
ふいに右腕に激痛が走り、ゲイルは思わずうめいて足を止めた。黒革の肘まである手袋の上から右腕を掴み、足早に船長室に入っていく。
誰もいない船長室のドアを閉めると、ゲイルは右手の手袋を荒々しく脱ぎ捨てた。
彼の右手は、異様な姿を晒していた。
透けるような白い肌に、まるでツタが巻きつくように黒色の染みが侵食している。指先から手首までの部分はもう漆黒に染まり、前腕から上腕にかけて、まるでじわじわとその身を滅ぼそうとしているかのように黒い染みが浮き上がっていた。
ゲイルはしばらく痛みに耐えるように右手を掴んでいたが、やがて荒い息をついて額の汗を拭った。
(やはり、この力をもってしても呪いは止められないか)
首に下げていたものを、胸元から取り出す。
紐に通された水色に煌めく宝石が、ゲイルの手の中で淡く輝いていた。
紺碧に輝く美しい海をそのまま凝縮したような石である。形は荒々しく、まだ磨かれていない原石のようだが、何か内に秘める魔力を感じさせるものだった。
それは、ゲイルがルーベルたちリンドヒゥリカの民から奪った宝石だった。
傷や病を癒すというこの宝石の力を知り、ゲイルは藁にもすがる思いで宝石を奪い、身に纏った。だが、確かに黒い染みの侵食は速度を落としたように感じたが、癒えることはなかった。増していく激痛は彼の戦闘の腕を衰えさせ、黒い染みの恐怖はじわじわとゲイルを追い詰めていった。
(必ず、この忌々しい呪いを解いてみせる)
ゲイルは、執念に燃える紅の瞳を、壁に掲げられた宗教画に向けた。
エンドラの国教、“セントカバジェロ教”において、救世主と称えられる唯一無二の神、ジャーマの姿がそこには描かれていた。
神々しい白銀の髪に、見る者を恐怖に陥れる紅の両眼。剣を振りかざし、毅然と前を向くその風貌は、どこかゲイルに似通ったものがあった。
ゲイルは恐れ敬うようにその姿を見つめ、呟く。
「“セイレーンの涙”を、この手に」
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