奪われた心 7




(くそ、目が霞んできやがった)


 ゲイルと再び剣を交えながら、クックは目眩と必死に戦っていた。

 体が、燃えるように熱い。鞭打ちで裂けた背中の皮膚が炎症を起こし、発熱しているようだ。バシリオの短剣に貫かれた左腕も、痺れるような痛みが増長し始めていた。


(さすがに、傷を負いすぎたか)


 失われた血の量も多い。足元がふらつくのもしょうがない、と思っていたクックは、しかしそれが自分だけではないことに気がついた。ゲイルも時折ふらつくようなそぶりを見せている。その時やっと、クックは船の揺れが尋常でないことに気づいた。

 海が大きく荒れ始めたのだ。

 いつのまにか、晴れ渡っていた空には暗雲が立ち込め、緩やかだった波は船を飲み込むような高波に変わっていた。甲板に波飛沫が横から襲い掛かり、船員たちの足をすくって海に引き摺り込もうとしている。

 急な天候の荒れに、クックが嫌な予感を抱いた時だった。離れた場所にいたバシリオの船から、異様な断末魔の叫びが聞こえてきた。

 思わず戦いの手を止めて視線を向けたクックとゲイルは、目を見張った。

 バシリオの船に巨大な蛇が体を巻き付け、締め上げていたのだ。船の甲板は血に染まり、船員たちが泣き叫びながらこちらに助けを求めている声が微かに聞こえて来る。


「なんだあれは」


 さすがのゲイルも驚きを隠せない様子だ。青ざめた顔で大蛇を見つめている。

 クックは冷や汗がこめかみを伝うのを感じながら、口の端を吊り上げた。


「レヴィアタン、最強の海獣さ」


 背筋が凍るような音を響かせて、バシリオの船は破壊されていった。大蛇の体に締め上げられ、竜骨が折れ、マストが倒壊し、船の形が異常なほど圧縮されていく。なおかつ、大蛇は甲板を逃げ惑う船員たちを次々と平らげていった。

 悪夢のような光景を前に、誰もが呼吸を止めて呆然と立ちすくんでいた。

 やがて、原型をとどめないほど破壊された船は、荒れた海に沈んでいった。船と共に、大蛇は海へと潜っていく。大蛇の姿が見えなくなると、ぞわりとクックの背に悪寒が走った。


(次はこっちに来る)


 ゲイルも同じ考えだったのだろう。船の舵を切り、大蛇から逃げるよう指示を飛ばした。

 周囲を素早く見回したクックは、翼獅子号に乗り移っているバジル、ルーベル、アドリアンを目にして安堵の息をついた。


(とりあえず、あいつらは無事だったみたいだな)


 パウロに手を引かれ、ジャニも翼獅子号への渡し板を渡り切ったようだ。バジルが渡し板を素早く蹴落とすと、翼獅子号はインフィエルノ号から離れ始めた。

 それに気づいたゲイルが、クックに鋭い視線を投げ、再び打ち掛かってきた。


「逃げようとしても無駄だ。お前だけは逃すわけにはいかん」


 ゲイルの剣を受け止めたクックは、また目眩を覚えてぐっと歯を食いしばった。剣を握る手に力がはいらなくなってきた。朦朧とする意識の中で、なんとか足を踏ん張りゲイルの剣を受け続ける。

 しかし、あまり良質のものではなかったのか、クックの持っていたカトラスの刃がパキンと折れとんでしまった。


(しまった・・・・・・!)


 ゲイルのサーベルがクックの胸を貫く寸前、駆けつけたロンの剣がそれを弾き返した。

 クックは内心胸を撫で下ろし、「遅いぞ!」とロンに苦言を呈する。ウルドもクックの傍に参じ、船倉から持ち出した彼のファルシオンを投げてよこした。

 ロンは、こちらに集まりつつあるゲイルの部下たちに鋭い視線を投げながら、クックに言葉を返した。


「すまない。しかし、レヴィアタンも出てくるとは想定外だった。ここはさっさと切り上げて翼獅子号に帰るぞ」

「あぁ、蛇に食われるなんてまっぴらごめんだ」


 しかし、クックたち三人を取り囲む敵の数はだんだんと増えてきた。

 乗り込んできた翼獅子号のメンバーが船に戻ったことで、三人に標的が絞られたのだ。クックはゲイルと、ロンとウルドは他の男たちと剣を交えながら、じりじりと翼獅子号が離れていく右舷に移動していくが、なかなか逃げる隙を見つけられない。


 と、その時。ゲイルの船が何かにぶつかったように大きく揺れた。足元をすくわれて転んだ者が何人かいるなか、クックとロンは慌ててたたらをふみ、顔を見合わせた。


「来た」


 ロンが掠れた声で呟く。息を呑んで二人が海に視線を向ける中、再び船が大きく揺らぎ、ミシミシと締め付けられるような音が響いてきた。

 そして、が現れた。

 海面を割って漆黒の溶岩を思わせる大蛇の頭がぬうと聳え立ち、インフィエルノ号の船員たちを悠々と見下ろした。剣を交えていた者は、全員大蛇の姿を見た途端手を止め、恐怖のあまり凍りついた表情で立ちすくんだ。ゲイルですら、紅の目を見開いて大蛇を見上げている。

 突然、翼獅子号から甲高い指笛の音が響き渡った。見ると、船縁でこちらに向かって手を振るバジルの姿があった。ロンがはっと我に返ったようにクックを見る。


「今しかない! いくぞ!」


 ゲイルたちが大蛇に気を取られている、この瞬間を逃す術はなかった。

 ロンはクックに鉤つきの縄を渡すと、自身も懐から同じものを取り出して翼獅子号に向かって投げた。

 二隻の船の距離はもうだいぶ開いていたが、ロンの縄はぎりぎり翼獅子号の縄梯子に届いた。ロンが縄を伝って鮮やかに翼獅子号に乗り移る。ウルドもそれに続き、残すはクックだけとなった。

 クックが縄を投げ、乗り移る準備を終えた時、ゲイルがこちらに気づいた。顔色を変えて部下たちに何か命じている。彼らに背を向け、クックは力強く船縁を蹴った。

 海風が頬を撫で、荒れ狂う波飛沫が降りかかる。

 翼獅子号がぐんぐん近づいてくる。

 喜色満面の船員たちが、乗り移ってくるクックを迎え入れようとしている。その中には、安堵したような顔のルーベルもいた。


(なんとか、助かったか)


 そう思って、少し気が緩んだのだろうか。翼獅子号の船縁に足をついた時、クックを再びひどい眩暈が襲った。

 ぐらりと、クックの上体が傾く。

 危ない、と思い体制を整えようとしたクックに、追い討ちのような激しい振動が襲いかかった。見ると、いつの間に移動したのか、大蛇が翼獅子号に体当たりした様子だ。

 クックの体が大きく後ろに倒れ、船縁から足が離れた。彼が落ちるのを待ち構えるように、大蛇が下で大きく口を開けている。その口目掛けて、クックは落下していった。

 ロンとウルドが駆け出す。ジャニが青ざめて口を覆う。全てが静止画のように見える中、クックは必死で落下を防ごうと足掻いたが、自身の死を予感してもいた。


(セイレーンの差金か)


 自分を飲み込もうとしている大蛇に目をやり、クックはカッと目を見開いた。その手は腰のファルシオンに伸びている。


(ただで死んでやるものか。あの蛇を道連れにしてやる)


 刺し違える覚悟で臨もうとしていた時だった。クックの手を、誰かが掴んで落下を止めたのだ。

 肩に落下の衝撃が伝わり、クックはうめいた。だが、大蛇に食われる寸前で助かったようだ。


「ありがとう、助か」


 礼を言いかけて、自分を救ってくれた者を見上げたクックは、顔色を無くした。

  縄梯子に片手だけで捕まり、身を乗り出すようにして自分の手をとっていたのは、ルーベルだった。

 青ざめた顔で、自分より重いクックの体を必死に引き上げようとしながら、ルーベルはクックに向かって笑って見せた。


「まったく、ドジなんだから」

「や、やめろ・・・・・・俺に触るな!」


 クックの絶叫が響き渡ると同時に、クックの手から青白い閃光が稲妻のごとく駆け抜け、ルーベルの胸に直撃した。

 ルーベルの顔から表情が消え、ふっと意識を失ったように縄梯子を掴んでいた手が離れる。


「ルーベル! クック!」


 海に落ちていく二人を見下ろし、ロンが叫ぶ。

 二人が大蛇のすぐそばの海に落ちた瞬間だった。突然、巨大な水柱が立ち昇り、耳障りな哄笑が辺りに響き渡った。

 もう一つ、鉄砲水のように勢いよく水柱があがり、中からクックが飛び出して翼獅子号の甲板に転がった。

 ロンとウルドに助け起こされながら、クックはまなじりが裂けるほど目を見開いて水柱を見上げた。その体は怒りと動揺で震えている。


「セイレーン! ルーベルを返せ!」


 クックの腹の底からの怒声に応える様に、哄笑が止み、水柱からゆっくりと人影が姿を現した。

 最初にうめき声をあげ、震え出したのはもぐらだった。次いで、他の船員たちも恐怖に顔をこわばらせ、現れた異形の姿に声をなくしていく。

 豊かに波打つ銀の髪、透き通るような青白い肌を持った美しい魔物は、その腕の中にかたく目を閉じたルーベルを抱いて、満足そうにクックを見下ろしていた。

 ジャニは悪寒が背筋を駆け抜けるのを感じた。いつか見たセイレーンが、今再び目の前に現れたのだった。


『あぁ、お前のその顔が見たかったのさ。辛抱強く待った甲斐があった』


 セイレーンは恍惚とした笑みを浮かべている。その口はだんだんと裂けるように横に広がっていき、堰を切ったように大声で笑い始めた。


『お前の負けだ! 呪いは成立した。この女は明日の日没と共に死ぬ!』


 狂気じみた嬌声をあげて、セイレーンはルーベルを抱えたまま水柱と共に海に消え、大蛇も海に潜っていった。後には大荒れの海に押し流された二隻の帆船が残された。


 インフィエルノ号はどんどんと遠ざかっていく。もう砲撃も届かない距離であろう。

 あの危機的状況を切り抜け、クックもジャニも助けることができたと言うのに、翼獅子号の甲板は水を打ったように静まり返っていた。

 皆の視線は、甲板で立ちすくむクックの背中に向けられていた。

 誰も、声をかけられる者はいなかった。その背中に漂う絶望感を、痛みを、拭うことなど誰ができただろうか。


「あ・・・・・・あぁ・・・・・・」


 クックの喉が震え、曇天の空を引き裂くような慟哭どうこくがその口からほとばしった。







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