奪われた心 3




 ジャニは、仄暗い闇の中で、浅い眠りを繰り返していた。


 “ジュリア”の記憶が、次々と夢の形をとってジャニの中に蘇ってくる。大抵は写真のような、その瞬間を切り取った光景が走馬灯のように流れていくだけだった。

 その中でも特に多かったのが、祖父ーーリチャード・ディオンの顔だった。


(私は、いつでもお祖父様の顔色を伺って生きていたのね)


 表情の読めない、髭に覆われた顔。いつも眉間にしわの寄った、厳しい表情。その目が、まっすぐジュリアに向けられることは常になかった。

 いや、一回だけ、彼の青い目と向き合ったことがあった気がする。

 ジャニは、ジュリアの記憶の海から、一つのシーンを引き上げた。




 その夜、ジュリアはなかなか寝付けず、部屋の木戸を開け放って、薄氷のように冴え冴えと青い月を見上げていた。

 その日、彼女はリチャードに激しく叱責を受けた。

 庭で遊んでいる際、見たことのない美しい鳥を見かけ、夢中で追いかけて森に入り込んだ挙句、気付かぬうちに街に向かう街道に出てしまったのだ。

 そこを、運悪くリチャードの乗る馬車が通りかかった。人の往来はなかったので、誰の目にも触れなかったが、リチャードはジュリアが人の目に触れるような場所にいたことに対して激怒した。


「お前は普通の子供とは違うのだ! もし人に見られでもしたらどうするんだ!」


 いつもは口答えなどせず、じっとリチャードの怒りが収まるのを待つジュリアだったが、その日は心の琴線にリチャードの言葉が触れ、泣きながら声を上げてしまった。


「見られたからってどうだというのですか!? どうして責められねばならないのですか!? こんな顔に生まれたのは、私のせいじゃないのに!」


 その言葉を受けた途端、リチャードの表情が一変した。さっと顔から血の気が引き、唇がワナワナと震え、彼は何か恐ろしいものを見るようにジュリアを見つめていた。


「・・・・・・もういい、行きなさい」


 やがて、リチャードは視線を逸らし、ジュリアに背を向けて座椅子に座った。その疲れ切ったような横顔に後ろ髪を引かれつつも、ジュリアは自室に戻った。


(やはり私は、生きていてはいけない存在なのだろうか)


 泣きつかれ、空っぽになった心に浮かぶのは、そんな重苦しい気持ちだった。

 月から目を離し、何気なく階下に目をやったジュリアは、おや、と目を見張った。

 こんな夜中に、談話室の明かりが灯っていたのだ。


(まだ、お祖父様も起きているんだ)


 ジュリアは逡巡しゅんじゅんしたのち、談話室に向かうことにした。先程、自分の言葉に傷ついた顔をしたリチャードが気になっていたのだ。ちゃんと謝罪をしようと思い、談話室に足を踏み入れると、そこには酔い潰れたリチャードが机に突っ伏すように座っていた。

 彼の目の前にはラム酒の入った瓶が数本転がっていた。ジュリアは驚いた。リチャードはいつも葡萄酒しか口にしない。彼がラム酒を飲むのは意外だったし、ここまで酔った姿を見たことがなかったのだ。

 リチャードは濁った青い目をジュリアに向けると、何か痛みを堪えるような顔をして、予想外な言葉を呟いた。


「・・・・・・ジュリア、すまない。許してくれ」


 まさかリチャードから謝られると思っていなかったジュリアは、戸惑ってその場に立ち尽くした。リチャードは呂律の回らない舌で何度も謝罪を呟き、震える手をジュリアに差し伸べた。


「許してくれ・・・・・・。私のせいなんだ・・・・・・お前の右目がそうなってしまったのは」


 ジュリアは弾かれたように顔をあげ、リチャードの目を見つめた。


「い、今なんて・・・・・・」


 リチャードの目を見て、ジュリアは重ねて驚いた。その目に光るものを認めたからだ。それは、彼女が初めて目にする祖父の涙だった。

 リチャードはうわ言のように何か呟き続けている。


「お前のその右目は、セイレーンの呪いなのだ・・・・・・。私のせいでセイレーンの怒りを買った・・・・・・。あぁ、カルロス!」


 リチャードは感極まったような声でその名を叫び、両手で顔を覆ってしまった。


「許してくれ、カルロス・・・・・・!」

「お、お祖父様、しっかりして!」


 ジュリアは、発作のように呼吸を荒くして嘆くリチャードに駆け寄った。何か過去のトラウマに苦しめられているのか、震える指の間から垣間見えるリチャードの目は、恐怖に見開かれていた。


「“セイレーンの涙”さえ見つければ、お前の呪いを解くことができる。早く、早く見つけなければ・・・・・・」

「セイレーンの、涙?」


 厳格で、冗談の一つも言わない祖父が、おとぎ話に出てくるシーモンスターの名前を出したことに、ジュリアは戸惑っていた。しかし、今まで強固な殻で覆われていた祖父の本心に触れた気がして、少し嬉しくもあった。

 怯えている祖父を助けたい一心で、ジュリアは彼に声をかけた。


「呪いが解けると言うのなら、私はその“セイレーンの涙”を見つけて見せます」


 しかし、リチャードは激しくかぶりを振った。


「お前に何ができるというんだ! お前は何もしなくてもいい、私が“セイレーンの涙”を手に入れて、お前を元に戻して見せる・・・・・・!」


 お前には何もできない、と言う言葉に、ジュリアは胸を塞がれて口をつぐんだ。いつもそうだ。祖父の言葉はジュリアの思いを踏みにじる。私はただ、お祖父様の役に立ちたいだけなのに。

 その時、リチャードの肘が当たり、机の上に転がっていた空の瓶がテーブルから落ちて、けたたましい音を放ち割れた。その音を聞きつけて駆けつけたマーサが、酔い潰れているリチャードを見て驚きの声を上げた。


「あれまぁ、旦那様! こんなにお飲みになるなんて! お医者様からお酒は控えなさいと言われてるじゃありませんか」


 そして傍に佇んでいるジュリアを見て、眉を吊り上げた。


「あら、お嬢様も! こんな時間に何をしているんです? さぁさ、早くお眠りになってください。私は旦那様をお部屋までお連れしてきますからね。瓶は私が後で片付けておきますから、手を触れてはダメですよ」


 そう言って足元のおぼつかないリチャードに肩を貸し、彼の寝室に向かっていくマーサの後ろ姿を見送りながら、ジュリアは胸の高鳴りを抑えられなかった。


(“セイレーンの涙”・・・・・・)


 それがどういったものかは想像もつかなかったが、今まで感じたことのない高揚感がジュリアのうちに湧き上がっていた。


(それを見つければ、私の呪いは解ける。そうすれば、お祖父様に喜んでもらえる。お祖父様を苦しめているものから、救うことができるかもしれない)








 記憶の夢から醒めたジャニは、牢屋の中で体を縮こまらせながら、ぼうっと暗闇を見つめていた。


(私が呪われたのは、自分のせいだとお祖父様は言っていた。あの時、お祖父様は『カルロス』と誰かの名を呼んでいたけれど、あれはクック船長の育ての親のことかしら。その人は、私の呪いに何か関係している?)


 定まらない思考の中で、ジャニは大きくため息をついた。


(こんなことを考えても、捕らわれの身ではどうしようもないけれど)


 ジャニは不安に押しつぶされそうな心地で、膝を抱いた。クックやルーベル、アドリアンの安否が案じられてならなかった。そして、自分も今後どうなってしまうのか、考えるのも恐ろしかった。


(お願い。誰か、助けに来て・・・・・・)


 ジャニの必死の願いは、水底から水面に湧き上がる泡のように、闇の中に儚く消えていった。




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