奪われた心 2
『私が欲しいのは、お前の“心”だ』
セイレーンの水晶玉のような透き通った瞳は、妖しく煌めいていた。
『さっき、海に落ちる寸前、お前の心の中に一人の女が浮かんだな』
クックがはっと息を呑んだ。それを肯定と捉えたのか、セイレーンは笑みを深めて、伸ばしていた右手に視線を落とした。
その手の中に、水晶玉のような水球が浮かび上がり、中に人の顔が映し出された。樽の後ろから二人を覗き見ていたもぐらは、その人影がルーベルだと気づいた。クックも気づいたようで、険しい顔をしてセイレーンに詰め寄った。
「そいつには手を出すな!」
セイレーンは不気味に微笑んだ。
『死を覚悟した瞬間、お前はこの女を強く想った。お前の“心”は、この女のもとにある。私は、その“心”が欲しいのだ』
「そいつを殺すっていうなら、俺は取引には応じない」
硬い声で言うクックに、しかしセイレーンは指を振って見せた。
『私がこの女を殺すわけじゃない。お前が、“心”を失くすだけだ』
「・・・・・・どういうことだ」
訝しげにクックが聞く。セイレーンは、噛んで含めるように呪いの内容を伝えた。
『お前がこの女に指一本でも触れたら、この女は死ぬ』
もぐらは、クックの手が動揺するように震え、強く握りしめられるのを見た。しばらく彼は黙っていたが、やがて掠れる声でセイレーンに尋ねた。
「触れなければ、そいつが死ぬことはないんだな?」
『あぁ、約束しよう。条件はたったそれだけだ。それさえ飲めば、私は今すぐこの場を去ろう。お前たちは無事にこの海域を抜けることができる』
セイレーンはにやにやと意地の悪い笑みを浮かべながら、逡巡するクックを楽しそうに見下ろしていた。やがて、クックは微かに頷いた。
「・・・・・・わかった。その代わり、俺の質問にひとつだけ答えろ」
『いいだろう。なんだ?』
勝ち誇った顔で尋ねるセイレーンに、クックは鋭い視線を送った。
「“セイレーンの涙”を手に入れれば、呪いが解けるって言うのは本当なのか?」
セイレーンの表情が驚きと困惑に歪んだ。
『なぜお前がそれを!?』
彼女の表情が、暗にクックの質問に答えていた。クックの声に笑みが滲む。
「本当なんだな。だったら呪いでもなんでもかければいいさ。俺は“涙”を手に入れて呪いを解くだけだ」
セイレーンの目が怒りに見開かれた。食いしばったその口が、しかしだんだんと笑みの形に引き伸ばされていく。
『知ったところでお前が手に入れられるものか! どこにあるかも知らないだろうに。
今まで、何人もの人間がお前と同じように考え、生涯をかけてそれを探したが、見つけられたものは一人としていなかった! 今のお前のように自分を信じ、荒波を越える
クックの後ろ姿がみじろぎした。彼の不安を嗅ぎ取ったのか、セイレーンの笑みはますます狂気を帯び、瞳の輝きは増していった。
『人間とは儚く愚かなものよ! 自分の心は、愛は、夢は永遠のものだと思っている。だが、その生涯の短さゆえに、その想いは容易く揺らぐ。想いを貫くことなどできぬ可哀想な生き物なのだ。そんなことも知らず、自分を信じているお前のような人間が、私は愛おしくてたまらない』
セイレーンの舌が、艶かしく唇をつっとなぞる。
『お前が絶望する顔が見たい。想いを遂げられず、信じていた自分に裏切られて、心を無くしていくお前が見たい。
それに、呪いを解くことができるまで、愛する女が心変わりしないとどうして言い切れる? 自分に近づこうとしないお前に疑心を抱き、女の方が心変わりすることも十分考えられる。愛する女に裏切られ、憤り絶望するお前の顔も見てみたいものだ。人間の愚かさ、儚さを観察するのが私の楽しみだからねぇ』
おもむろに、セイレーンの右手がしなる鞭のように、クックに向かって伸ばされた。その手の先から凍てついた青白い閃光が瞬いたと思うと、真っ直ぐにクックの胸を貫いた。
クックの後ろ姿が大きな衝撃に耐えきれなかった様子で後ろに吹き飛ばされるのを、もぐらは息を呑んで見つめていた。
『呪いはお前の体に刻まれた』
咳き込みながら起きあがろうとするクックを見下ろし、セイレーンは満足げな笑みを浮かべる。
『これでお前は私のものだ』
突然、セイレーンの背後に巨大な水柱が立ち上がった。
哄笑を響かせながら、セイレーンがその水柱に飛び込んだ。彼女の残した言葉と、水柱から溢れる水飛沫が甲板に降り注ぐ。
『お前の口から、誰かにこの呪いについて話した場合も、女は死ぬからね! 醜く悪あがきして、せいぜい私を楽しませておくれ!』
あとには、呆然とその場に膝をつくクックと、怯えて震えの止まらないもぐらと、糸の切れた人形のように倒れて眠り込む船員たちが残された。
恐怖のあまり息をするのも忘れていたもぐらは、セイレーンが姿を消した途端に気を失ってしまった。気がついたときには、周りで眠っていた船員たちも起き出しており、もぐらは先ほど目撃したことは恐ろしい悪夢だったのだと思い込もうとした。
しかし、クックが一人意識があったこと、なおかつ足に負傷して熱を出し寝込んでいることを聞いて、もぐらはあの光景が夢ではなかったことを思い知った。しかし、彼は誰にも、自分が見た昨夜の出来事を話すことができなかった。話したところで信じてもらえるはずがなかっただろうし、彼は心の底からセイレーンに怯えていた。
あの魔物のことを口に出したら、再び襲ってくるような気がしてしょうがなかった。次に襲われたら、今度こそ自分たちの命はないだろう。
弾薬準備室に籠って、もぐらは何度も手を合わせた。自分たちの命の代わりに、一番大切なものを失ってしまったクックに、そうやって無言の懺悔を乞うことしか、彼にはできなかったのだ。
もぐらの話が終わってからも、皆信じられないという顔で黙り込んでいた。
もぐらは深いため息をついた。
「黙っていて申し訳なかった。あの時、怯えるだけで何もできなかった自分が不甲斐なくて、その罪悪感も相まって話せずにいた。船長が俺たちの身代わりになってくれたことを知っていたのは俺だけだったのに・・・・・・。
クックは誰よりも船長としてふさわしい男だ。ロンがクックを助けにいくというなら、俺は同行する」
もぐらは、戸惑いの表情を浮かべる船員たちの顔をぐるりと見回した。
「保身のためにキアランの側につくというならそうすればいい。だが、自分の命を救ってくれた船長を見殺しにした罪は、この先一生お前たちについてまわるぞ。海の男として、誇りを失いたくなければ、今船長に恩を返さないでどうする。彼を見殺しにして、エンドラのくそったれな連中とつるむくらいなら、俺は死んだほうがマシだがね」
そう言って、もぐらはロンの横にゆっくりと歩み寄った。
バジル、ウルド、メイソン、セバスチャン、グリッジー、パウロ、ベケット、テイラーも続き、ロンの脇を固める。みな、目に決意を滲ませてキアランたちに向かい合った。すると、逡巡するような表情をした挙句、何人かの船員たちはロンの側に移動した。
その様子を見たキアランは、吠えるように嘲笑った。
「そんな馬鹿みたいな話を信じろというのか!? みんな騙されるな! セイレーンなんて、存在するわけがーー」
「つい先日、レヴィアタンに食われた俺がいうが、シーモンスターは実在する!」
セバスチャンがキアランの言葉を遮るように怒鳴った。
彼の体にはまだレヴィアタンの胃液で負った火傷が生々しく残っている。それに、数日前に伝説の生き物と思われていたレヴィアタンに襲われた恐怖は、船員たちの中に深く根付いていた。
また数人、船員たちがロンの背後に移動する。今では、キアランの側につく船員とロンの側につく船員の数はほぼ同数になった。
キアランの口元が引き攣った。それを隠すように、嘲笑を浮かべて声を荒げる。
「その話が本当だとして、どうしてそこまで恩義を感じなきゃならない? 私は助けてくれなどと頼んでいない! クックが勝手にやったことだろう!
それに、クックは命を取られたわけじゃないんだろう? たかが女一人と永遠に別れることになろうと、大した損害じゃーー」
突然、ロンがキアランに詰め寄って胸ぐらを掴み、彼の言葉を止めた。苛立たしそうにロンを睨みつけたキアランは、その怒りに燃える瞳に気圧されて口をつぐんだ。
「大した損害じゃない、だと?」
食いしばった歯の間から、振り絞るように声を出す。ロンの手は怒りに震えていた。
(どうして・・・・・・どうしてクックがルーベルを避けるのか、やっとわかった)
疑問は解消されたものの、それはロンにとって受け入れ難い事実だった。
クックは、この船の乗員全員の、ロンの命と引き換えに、ルーベルと離れなければならなかったのだ。彼とルーベルが別れた原因は、そもそも自分のせいだった。それなのに自分は、そんなことも知らずルーベルを避けるクックを責めた。
いたたまれなさに、キアランの胸ぐらを掴む手には力が入った。それを止めたのは、もぐらの手だった。もぐらに優しく腕を掴まれ、ロンははっと我にかえり、手を離した。
もぐらは、何か憐れむような色を目に浮かべて、静かにキアランを見た。
「あの二人は、それぞれが欠けた自分のピースなんだ。二人が出会った頃を俺は知っているが、それまで、どんな宝を手に入れても満足したことがなかったクックが、唯一、ルーベルといるときは安らいだ顔をしていた。
人にとって、宝というものはそれぞれ違う。金銀財宝を追い求める者もいるだろう。権威を追い求める者もいるだろう。だが、クックにとっての宝はルーベルだったと、俺は思っている。その宝に一生触れることができない呪いが、海賊にとってどれだけ辛いことか・・・・・・。あんたには一生、わからないだろうがな」
ロンは深く深呼吸して心を落ち着かせると、キアランの側にいる船員たちにすっと目を向けた。
「みんな、頼む。手を貸して欲しい。私は、船長に足る器ではない。やはり、この翼獅子号の船長はクックしかいないと思っている。あいつは、絶対に仲間を裏切らないし、見捨てない。それは船長として一番大事な素質だと思う。キアランが船長になったら、彼のためにどれだけ尽くしても、『私はそんなこと頼んでいない』と言って都合よく使い捨てられるのがオチだ。さっきの彼の発言で、それは十分わかっただろう」
「言いがかりをつけるな!」
キアランが怒鳴るが、ロンは構うことなく続けた。
「それに、何も無謀にゲイルに挑むわけじゃない。みんなが協力してくれたら、私にはゲイルをだし抜く策がある。ゲイルを倒す必要はない。彼の船からクックたちを救い出せばいいだけだ。だったら、まだ手はある」
ロンは拳を握りしめ、深く頭を下げた。暫定的といえど船長に頭を下げられ、困惑する船員たちに、ロンは切願する。
「お願いだ。私たちと一緒に、クックを救ってくれ」
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