人喰いのゲイル 6
そんなある日のこと。
珍しく少女の家に、夜、客人が来るという。
祖父の海軍関連の知人達とのことだった。いつもは来客がある際、少女は部屋でじっとしているよう言われるのだが、その日は勝手が違った。
「ジュリア、今日はお前も同席しなさい」
祖父に朝食の席でそう言われたのだ。驚く少女に、祖父は鋭い視線を投げかけてきた。
「クリフォード男爵がご家族を伴っていらっしゃるんだ。男爵には、お前と歳の近い息子がいる。くれぐれも粗相のないようにな」
「はい、お祖父様」
答えながら、少女は複雑な心境だった。
歳が近い子と知り合えるのは純粋に嬉しい。一緒に遊べたらどんなに楽しいだろうと思う。しかし、仮面をつけた状態でこの家の住人以外にあったことがなかった少女は、自分を受け入れてもらえるだろうかという不安もあった。
(気持ち悪いと、思われるのではないか)
まんじりともせず夜までの時間を過ごし、マーサにドレスアップされて自室から出た少女は、食堂に向かう階段の下で祖父が自分をじっと見つめていることに気がついた。
祖父の目は、何か痛みを堪えるような色を湛えていた。少女の胸は不安に疼いた。
(やっぱり、私は醜いんだわ)
どれだけ着飾っても、この仮面が全てをぶち壊すのだ。こんなもの、剥ぎ取ってやりたいという衝動を感じながら、少女は食堂へ向かった。
客人は三人だった。背の高い壮年の男が、祖父の言っていたクリフォード男爵だろう。その横にいるクリフォード夫人は、とびきりの美人だがどこか冷たい印象を受ける。彼女の凍てついた水色の目で仮面を凝視され、少女はすくみあがった。
しかし彼らの息子は、人好きのする笑みを浮かべて右手を少女に差し出した。
「はじめまして、ミス・ディオン。ヘンリー・クリフォードと申します。お会いできて光栄です」
「は、初めまして」
恐る恐る少女が手を差し出すと、ヘンリーは優雅な仕草で手の甲に接吻を落とした。少女の顔が真っ赤に染まる。
ヘンリーは少女よりも二つ、三つほど年上に見えた。赤毛に近い茶色の髪、澄んだ水色の瞳の彼は、母親似の美しい顔をしていた。
ディナーを共にする間、クリフォード夫妻と祖父は和やかに談笑していた。
少女は、祖父の笑顔を見て驚いた。彼女に接するときの祖父はいつも厳しい顔をしていたので、そんなよそゆきの顔で笑うのを見たことがなかったのだ。
ヘンリーは笑顔を絶やさず、祖父に何か尋ねられてもはきはきと淀みなく答えており、頭脳明晰さが窺えた。容姿端麗、性格も良さそうな彼を見ているうち、少女の気持ちは暗く
(きっと、お祖父様は彼みたいな男子をお望みだったんだわ。こんな私なんかではなく)
先程、着飾った自分を見て辛そうな顔をした祖父を思い出し、少女は俯いた。
自分が男であれば。そして、こんな仮面などいらない普通の人間であれば。
祖父はあんな笑顔で自分を見てくれたかもしれない。
胸が苦しくなり、少女は化粧室に行くふりをして食堂を抜け出した。
(裏庭で月を見て、心を落ち着けよう)
先ほど部屋から垣間見た満月の美しさを思い出し、少女は裏庭へと向かった。回廊を渡り、月光の降り注ぐ裏庭に出た時だった。背後に人の気配を感じ、後ろを振り返った少女は驚いて数歩後ずさった。
「どうしました? ミス・ディオン」
いつのまにかヘンリーがそこに立っていたのだ。
彼は相変わらず優しく微笑んでいたが、月光に青白く浮かび上がるその笑顔がどこか不気味に感じ、少女は眉根を寄せた。
「ちょっと、気分が悪くて。席を外してしまい、申し訳ありません」
表情が曇ったのを悟られないように、少女は頭を下げた。ヘンリーは気にしていない、という風に首を振り、おもむろに少女に近づいた。
「僕も退屈していたんです。いい子のふりをするのは、慣れているけれど反吐が出る」
美しい笑みのまま、ヘンリーはそう吐き捨てた。少女の顔がこわばる。
「・・・・・・え?」
「リチャード・ディオン卿は立派なお方だ。貴族出身でもないのにイグノア海軍での功績を見込まれて士爵の称号を得るまでに出世し、提督の地位にまで上り詰めたのだから。
そんなお方がなぜ都心部からではなく、こんな郊外の領土を自ら願い出て治めているのか、前から不思議だったんだ。だが、今日納得がいった」
ヘンリーの目が、先ほどまでと打って変わって蔑むように少女を見た。何を言われているのか理解できず、少女は固まってしまう。
「顔に差し障りがある孫娘を人目から遠ざけるためだったんだな。そして社交の場を嫌うディオン卿が、僕達クリフォード家にコンタクトをとってきたのも、おそらく君のためだ。君と僕の婚約を、円滑に進めたいんだろう」
「こ、婚約・・・・・・?」
少女は困惑してヘンリーを見た。自分と、この少年が?
「“士爵”に世襲権は存在しない。だからディオン卿は、君に男爵夫人の称号を与えたいんだろう。そんな顔では職に就くのも不可能だろうし、金を積んで頼み込んで婚約をとりつけるしか、君の生き延びる術はないだろうからな」
ヘンリーの笑みが、意地悪く歪んだ。
「海軍上層部への道が約束されるも同然だから、僕としては好都合な婚約だけどね。一つ、どうしても確認しておきたいことがある」
ヘンリーがつかつかと歩み寄り、突然少女の仮面に手を伸ばした。ハッと息を呑んで、少女は伸ばされた手から飛び退る。
「な、何するんですか!?」
「その顔、見せてみろよ。どんな傷なんだ?」
ヘンリーは素早く手を伸ばすと、少女の腕を掴んで引き寄せた。思いの外強い力に、少女は恐怖で身がすくんで声を出すことができなかった。
先ほどまで優しく善良な少年を演じていたヘンリーを、信じられない思いで見上げる。ヘンリーの目には、抑えきれない好奇心がちらついていた。
「将来の妻の素顔くらい、見ておいたっていいだろう!?」
「だ、だめ! やめて!」
必死に抵抗するも虚しく、ヘンリーの手が少女の仮面を剥ぎ取った。そして彼の顔が、突如恐怖と嫌悪に歪んでいくのを、少女は呆然と眺めていた。
「ぅ、ぅわあぁぁ・・・・・・」
ヘンリーは腰が抜けたようにへたりこみ、少女に震える指を突きつけて叫んだ。
「ば、化け物だ・・・・・・!!」
その叫びは少女の胸を撃ち抜いた。岩棚に波が叩きつける音のように、全身を流れる血潮の逆巻く音が耳に響く。動悸が激しく鳴り響き、心臓が胸を突き破ってしまいそうだ。
(化け物・・・・・・私の顔は、一体どうなっているの?)
少女は自分の顔を見たい衝動に駆られた。必死で周りを見回す彼女の目に、中庭の植木鉢に溜まった雨水が目にとまる。
顔を見たい。
いやだ、怖い、見たくない。
相反する思いに困惑しながら、少女はもつれる足を引きずって雨水の張った植木鉢に歩み寄った。水面に映った自分の顔を恐る恐る覗き込む。
そして、少女は声にならない悲鳴をあげた。
紛れもない、“化け物”がそこにいたのだ。
まるで、死神に顔の右半分を乗っ取られたかのような右目の穴。頭蓋骨の眼窩のような虚な穴には、得体の知れない深い闇が宿っている。傷などではない。これは、人間の有様ではない。
(私は、“化け物”だったのだ。お祖父様はそれを隠すために、仮面をつけさせた。だから人に見られてはいけなかったのだ。けれど・・・・・・)
まだ地面にへたり込み、動けないでいるヘンリーを見やって、少女は冷え切っていく胸の中でつぶやいた。
(もう私は、ここにいることはできない)
少女は自分の部屋に駆け込み、クローゼットの奥にしまい込んでいた木箱を開け、“ジャニ”の格好に着替えた。黒い眼帯をつけた途端、少女は妙に冷静になっている自分を感じていた。
異変に気づいた祖父やクリフォード夫妻が邸宅を探し回る頃には、部屋のバルコニーから木を伝って家の外に降り、周囲を取り囲む森に駆け込んでいた。松明がなくとも、月明かりが行き先を照らしてくれていた。
少女の心は自然と港へ向かっていた。必死で街道を目指すうち、おそらく港へ藁を運ぶのであろう、のんびりと街道を行く荷馬車が木々の間から見えた。少女は足音を忍ばせながら荷馬車に駆け寄り、そのこんもりと積まれた藁の中に身を隠した。
荷馬車が港につき、御者にばれないよう抜け出した少女は、船に積み込まれる前の積荷に隠れるようにして座り込んだ。
目の前には、あんなにも恋焦がれた海が広がっている。堤防から覗き込むと、海面が黒い闇を湛えて波打っていた。
(逃げて、どうするというのだろう)
少女はしん、と冷えた頭で思った。無我夢中で逃げてきてしまったが、この右目の穴がある限り、自分はどこへいっても“化け物”なのだ。
(いっそ、死んでしまおうか)
この黒く波打つ海に飛び込んでしまえば済む話だ。しかし、少女は身の内から湧き上がる生への執着に身を焦がされていた。それは、怒りにも似た感情だった。
(だって、私は何も悪いことはしていない。こんな理不尽な理由で、どうして私が消えなければいけないの? どうして“化け物”と呼ばれ忌み嫌われないといけないの? 私は、まだ死にたくない・・・・・・!)
寒くもないのに、震えが止まらない。左目から涙が溢れて顎を伝い落ちていく。
自分を否定する心と生きたいという欲求が相反してぶつかり合い、少女は体が引き裂かれてしまいそうだった。
嗚咽を堪えながら、少女は海を覗き込んだ。
月光に照らされた水面に、眼帯をつけ、不恰好なシャツとズボンを身につけた自分が映っている。長い黒髪だけが、なんだか違和感があった。
何か刃物がないかとあたりを捜索した少女は、錆びて使えなくなったカトラスが打ち捨てられているのを見つけた。
それを拾い上げ、自分の艶やかな黒髪にあてる。キレの悪い刃で長い髪を切り捨て、無造作に海に放った。
水面に映る、ぼさぼさの短髪になった自分を見下ろす。今の自分はどうみても少年にしか見えなかった。別人に姿を変えた自分に向かって、少女は呟く。
「私は・・・いや、俺は、“ジャニ”」
こちらを見返す自分は、もう仮面をつけた臆病な“ジュリア”ではない。“ジュリア”は今ここで死ぬのだ。祖父に支配され、家に閉じ込められていた“化け物”はもういない。
「俺は、“ジャニ”。海賊に憧れる、勇敢な少年」
少女はそうやって、自分に言い聞かせ続けた。自分の心を守るために紡いだ嘘が、自分を取り巻く鎧のように体に染み付き、浸透していく。そして、言い聞かせるうちに少女の中で“ジュリア”の部分は霞んでいった。受け入れたくない自分を排し、少女は“ジュリア”を自ら封じ込めようとしたのだった。
(私は“ジャニ”として、生きる!)
「俺は・・・“ジャニ”!!」
そして、“ジュリア”は眠りについた。あとには、生まれたばかりの子鹿のように、好奇心に溢れる目をした“ジャニ”が残された。
(そうして私は今、ここにいる)
“ジュリア”の記憶を取り戻したジャニは、暗がりの中、顔を両手で覆った。
バシリオに放り込まれた牢屋は、深い闇に包まれていた。船倉の奥底にあるのだろう、ビルジの悪臭が漂ってくる。足に鉄枷をはめられ、自由を奪われたジャニは絶望に打ちひしがれていた。
ジャニの耳に、いつかのマハリシュの言葉が蘇った。
【君が自分にかけた呪いも、解けるといいがな】
(あれは、このことを言っていたんだ。マハリシュは、“ジュリア”を閉じ込めて、“ジャニ”として生きていた私に気づいていたんだ・・・・・・)
呪いは解けた。しかし、ジャニにとっては解けてほしくない呪いだった。ずっと“ジャニ”でいたかった。翼獅子号のみんなと一緒にいたかった。クックに、認められたかった。
(それももう叶わない・・・・・・)
ジャニは無人島で、クックがカルロスの話をしてくれたことを思い出していた。彼が振り絞るように呟いた名前を。
【リチャード・ディオン。俺はあの男を、絶対に許さない】
(私の名はジュリア・ディオン。クック船長の育ての親の仇、リチャード・ディオンの孫)
ジャニは残酷な巡り合わせを呪った。
燃える商船から自分を救ってくれたクックは、自分がリチャードの孫だと知っていたら、助けてくれただろうか?キアランに一人で島流しにされそうになった時も、自分を庇ってくれただろうか?
(そして、私のせいでクック船長はゲイルに囚われてしまった)
ジャニの左目から、とめどなく涙が溢れるが、右目の虚な空洞からは何も流れてはこなかった。それが自分の異質さを際立たせる。
(私なんかが自分を変えられるはずなかったんだ。私はやっぱり、何もできない“ジュリア”のままなんだ。“ジャニ”は・・・・・・消えてしまった)
牢屋の中で、少女は体を縮こませ、嗚咽を堪える。
(私には、何もできない・・・・・・)
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