人喰いのゲイル 5
少女は窓のない部屋で、ぼう、と椅子に座っていた。
部屋は広く、至る所に燭台が置かれ、柔らかい橙色の灯りが揺れている。椅子も、天蓋付きの広々としたベッドも、調度品は全て豪奢に装飾を施されている。
床には毛足の長い絨毯がひかれ、少女の足を優しく包む。
贅の限りを尽くしたような部屋で、しかし少女は満たされぬ表情をしていた。
彼女の顔の右半分には、白い仮面がつけられている。波打つ黒髪と、大きな青い瞳、抜けるように白い肌の風貌の中で、その仮面だけが異質だった。
部屋のドアが開き、浅黒い肌の中年の女性が姿を現した。
「ジュリア様」
呼びかけられた少女の顔が、女性を見た途端ぱあっと明るく輝いた。
「マーサ! お仕事終わったの?」
「はい。ディナーの支度まではジュリア様と遊べますよ」
「やったぁ! じゃぁね、じゃぁね」
仮面の少女は椅子から立ち上がると、一目散に部屋のクローゼットへとかけていった。クローゼットの中には色とりどりのドレスがこれでもかとかけられているが、少女はそれらには全く見向きもせず、奥の方に手を突っ込むと古びた木箱を引っ張り出してきた。
「海賊ごっこしよ!」
うきうきと声を弾ませて、少女は木箱を開ける。
中には黒い眼帯と、船乗りが着るようなシャツとズボンが入っていた。木製の短剣も入っている。
マーサは慌てたようにしぃっと人差し指を口元に当てた。
「ジュリア様、今日は旦那様がお家にいる日です。海賊ごっこなどしているのが知られたら私の首が飛んでしまいます!」
「なぁんだ、お祖父様おうちにいるのね。つまんないの」
少女はあからさまに不服の表情で、黒い眼帯をじっと見下ろした。
「今日は“ジャニ”になれないのね」
少女はイグノアの家に生まれた。
都心部から離れた郊外の邸宅は、海が望める丘の上に、まるで人目を避けるようにひっそりと建っていた。
彼女には両親がいなかった。肉親はイグノア海軍提督である厳格な祖父だけ。
両親は、少女が幼い頃に死んだとしか祖父は教えてくれなかった。理由を尋ねても答えてくれず、白い髭で覆われた口を真一文字に結んで、開こうとはしなかった。
そして少女は、物心ついた時から顔の右半分に仮面をつけさせられていた。
「お前の右目は、封じられなければならないのだ」
祖父はそう言って、少女に仮面をつけることを厳守させた。たとえどんなことが起こっても、絶対に仮面を外さないこと。自分でさえも、素顔を見ることは許されない。誰かに素顔を見られたり、自分で素顔を見てしまった場合、我が家に大きな災いが降りかかる・・・・・・。
祖父に幾度となくそう言い聞かせられていた少女は、それを信じ込んでいた。素顔を見られてしまったら、きっと自分は死んでしまうのだと思っていた。
だから、少女の利用する部屋には徹底して鏡や窓ガラスがなかった。窓は全て木戸、ランプも側面に顔が写り込むのを案じて灯りは全て蝋燭だった。
唯一、毎朝つけている仮面を取り替える時だけ、女中のマーサが少女の仮面を背後から外し、違うものと交換した。仮面を外せるのはその一瞬だけ。それ以外は寝る時も、湯浴みをする時も仮面をつけたままだった。
遊んでいいのは邸宅の中と、深い森に囲まれた裏庭だけ。
街にも行けず、同い年の友達と遊んだこともない。そんな少女を哀れに思ったのだろう。マーサは母親のように少女を愛し、献身的に面倒を見てくれた。そして、彼女は街で買ってきた本を時々少女に与えてくれた。その中でも少女が特に夢中になったのは、海賊が出てくる海の冒険の話だった。
「マーサ! 私、海賊になりたい! この格好をしたい!」
わがままなど一度も言わなかった少女が、それだけは強固に願い続けた。
「旦那様に知られたら、私がお咎めを受けます」
厳格な祖父を恐れ、マーサは最初首を縦に降らなかったが、あまりにも少女が懇願するので最後には折れた。
「わかりました。では、旦那様がお出かけになっている時だけですよ」
そう釘を刺し、本に出てくる海賊のような、眼帯や服や木製の剣を少女に作ってくれた。閉鎖的な世界で、祖父の顔色を窺って生きてきた少女にとって、海賊になりきり、違う自分を演じる時間はこの上ないものだった。
「俺は“ジャニ”! 俺はいつか、この世界全ての海を冒険してみせる!」
木製の剣を手に、少女は“海賊に憧れる少年ジャニ”を演じては心を躍らせていた。ジャニは体は小さいが、機転が効き、自分でも気づかない勇敢な心を持っているのだ。そして少年は色々な人と出会い、成長し、いつか大海賊となって世界中の海を冒険するのだ。
(私も、ジャニのようになれたらいいのに)
裏庭から遠くに見える街の港や、遠洋を行く帆船を見ながら、少女は幾度となく夢想した。
(私がジャニだったら、あの港に行って船に乗り込んで、海賊になるための旅に出るの)
ごっこ遊びを終え、マーサに後ろから眼帯を外される時、少女はいつもため息をついた。
(あぁ、また臆病で何もできない“ジュリア”に戻ってしまう)
少女は次第に、自分の中で“ジャニ”の存在が大きく育っていくのを感じていた。
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