突然の別れ 1
海の中を、振動が伝わっていく。
それはセイレーンのもとにも届いた。腹の底に響くような振動を感じ、まどろむように水底を漂っていたセイレーンは目を開けた。
『おや、思ったより早かったね』
そう独りごちて、薄い唇を弧に歪める。
セイレーンは先ほどまで夢に見ていた景色を思い出そうとするように周りを見回した。
彼女は海に沈んだ洞窟の中にいた。洞窟の壁には水晶がびっしりと細かく敷き詰められていて、微かな光にも反射して美しく瞬いている。洞窟の中は暗いので、その光は星空のように見えた。まるで夜空の中を漂うように、セイレーンは優雅に泳いでいる。
『久しぶりにお前が人間だった時の夢を見たよ』
セイレーンが洞窟の奥底に向かって声をかける。そこは完全な闇に包まれていた。時折何か生き物がいるのか、大きな泡が湧き上がって洞窟の上方にふわふわとあがっていく。
『やはり腹が立つほど美しかった。あの出会った時のまま、時間をとめられたらどんなによかっただろう・・・・・・』
彼女の色を失った瞳は過去を懐かしむように切なく揺れていた。かつては想い人と共に暮らしたこの洞窟も、年月を経ていくうちに海面が上昇して海にほぼ沈んでしまった。そして光も失われてしまった。この洞窟は、昔は光溢れ、水晶の輝きが眩しいほどだったのに。
形あるものは全て変化し、廃れ、消えていく。彼女はそれをよくわかっていた。何年もこの世界を見てきたのだ。
特に人間は変化を著しくする生き物だった。自然界に易々と悪影響をもたらし、人間同士絶えず争い、その争いに自分達以外の生命体を傲慢に巻き込む。そして彼らの“心”という形なきものの変わり方は、まさに泡沫のよう。
かつて自分を愛してくれた男が、自分を八つ裂きにした怪物へと変わってしまったように。
『さぁ、仕事の時間だよ』
セイレーンが右手をさっと振り上げると、洞窟の奥底から地響きのような低い呻き声が聞こえ、次いでズルズルと硬い鱗が壁をこするような耳障りな音が聞こえてきた。
音はやがて遠のいていき、洞窟は再び静寂に包まれた。
『決して“涙”は渡さぬ。私の呪いに屈すれば良い』
セイレーンはそう言って笑った。楽しさなどかけらも感じられない、彼女の虚な笑い声が泡となって舞い上がっていった。
船長室の沈黙を破ったのはロンだった。
「おい、まだ全く手がかりなしと決まったわけじゃないだろう」
ロンは呆れた顔で、ふてくされたように長椅子に寝転がってしまったクックに声をかけた。しかしクックは片手をひらひらと振ってみせる。
「お前に任せた」
「任せたって・・・・・・」
ロンはため息をつきながらクックが床に落とした日誌を拾い上げた。ジャニもロンの横から日誌を覗き込む。ロンがぱらぱらとページをめくると、確かに中は文字ばかりだった。
てっきり海図が描いてあるものと思っていたクックは、期待外れの内容に頭に血が昇ったのだろう。
「なんてことだ、ここまできて手がかりを失うとは・・・・・・」
キアランが絶望的な声を上げている。みな、さっきまでの高揚はどこへやら、諦めムードが漂っていた。
ロンと共に、ジャニはじっくりと日誌に目を通した。
日誌には日付と、その日獲得した積荷の名称と量が記載されていた。時折日記のような内容も混じっている。どこの海域に繰り出してみた、新しい島に上陸してみたなど、最初の方は冒険譚のような日記が多い。
しかしだんだんと内容は機械的に獲物の記載をするのみになり、日記は少なくなっていった。
一頁だけ、たった一文で終わっているところがあった。
『彼女は元気だろうか』
最初の方の活力漲る字とは違い、今にも掠れて消えてしまいそうな文字だ。
その後は再び淡々と獲物の記載が始まる。その内容は年月を経ていくうちに豪華なものになっていった。黄金、銀、東国の珍しい絹、貴重な香辛料、宝石の散りばめられた装飾品などなど。
(これらが本当に全部デイヴィッド・グレイのアジトにあるとしたら、国を動かしてしまうほどの莫大な富だ)
ロンは日誌を持つ手が震えた。
そして日誌の最後には、絞り出すような掠れた字で次のように書かれていた。
『ザクロの種が蒔かれた真実の場所にいけ。
島の南の入江にて、夜明けの太陽と月の光が交わり照らす先に、それは眠る』
「これ、どういう意味?」
その文章を指差してジャニが無邪気に尋ねるが、ロンは首を捻るしかなかった。
「さぁな、さっぱりわからん」
グリッジーは日誌よりも鍵の方に興味が湧いたのか、宝箱から金色の鍵を引き抜いて熱心に見始めた。鍵の表側に散りばめられている宝石が気になったのだろう。色や形、大きさもバラバラな宝石が不規則に嵌め込まれた鍵をまじまじと見ていたグリッジーが、ふと声を上げた。
「あれっ、なぁんだ」
残念そうな声である。ロンが日誌から顔を上げた。
「グリッジー、どうしたんだ?」
「いや、この宝石、一つを除いて全部贋物でさぁ。本体は金だからそこそこ値はつくでしょうがね。これが全部本物だったらと思うと惜しくて・・・・・・」
本気で悔しそうに項垂れている。クックが興味を惹かれたのか、顔を上げてグリッジーに尋ねた。
「そうなのか。その本物のやつはなんて宝石なんだ? 高いのか?」
途端にグリッジーの目がキラリと光った。鍵についている宝石の一つを指差す。それはまるで血のような深い真紅の石だった。
「これは“グラナタス”と言って、昔から知られている宝石でですね、結晶が非常に整った菱形十二面体、もしくは偏方多面体となるのが特徴なんですよ、だから太古の昔から発見も早かった石でですね、加工の技術が進歩していなかった時代にもよく使われて・・・・・・」
グリッジーのうんちくが始まってしまった。彼の宝石好きは鑑別の際にはとても役に立つのだが、そのうんちくを語り出すと止まらない癖は閉口ものだった。クックはうんざりした顔で再び長椅子に寝そべる。
グリッジーのうんちくは続く。
「この真紅の色から、“ザクロの種”に似ているということで名前がついて・・・・・・」
「ザクロ?」
ロンが眉をひそめてつぶやいた。グリッジーは気づかず話し続けている。
「ちなみにグラナタスは、“真実”のシンボルとしても有名で・・・・・・」
「それだ!」
ロンが突然叫んだので、グリッジーは驚いて次の言葉を飲み込んだ。ロンは興奮してまくし立てる。
「この日誌の最後に、『ザクロの種が蒔かれた真実の場所にいけ』と書いてあるんだ! その鍵の宝石は、アジトの場所を示しているんじゃないか!?」
クックが長椅子から飛び起き、グリッジーの持っている鍵を奪い取って食い入るように見つめた。その目が大きく見開かれる。
「キアラン、マハリシュにもらった海図を!」
突然クックに怒鳴られ、キアランは慌てて丸めていた海図をテーブルの上に広げた。クックがテーブルに駆け寄ったのを見て、皆で何事かと彼を追う。
クックは海図を端から端まで熱心に見ていたが、ある箇所を指差して「ここだ!」と叫んだ。
そこには、エストニアの西海岸よりさらに西側に広がる、小さな諸島が描かれていた。どれも地図の上では点や米粒ほどの大きさで、数は二十個ほど。その諸島を見て、次に鍵に嵌め込まれた宝石を見た全員は思わず「あっ」と声を上げていた。
二つの配置が、驚くほど酷似していたのだ。しかも島の大きさと、宝石の大きさもあてはまっている。
「この鍵についている石は、この諸島を表しているんだ! そしてひとつだけ本物の宝石が、“ザクロの種が蒔かれた真実の場所”! グリッジー、さっきのザクロの石はどれだ!?」
グリッジーが震える指を一つの石に伸ばす。クックはその配置と同じ位置の島を地図から読み取ると、その島を羽ペンで丸く囲った。にやりと不敵に笑い、グリッジーの背中を勢いよく叩く。
「わかりにくい宝の地図だぜ、まったく。グリッジー、お手柄だな!」
グリッジーは呆然としていたが、他の面々は再び喝采を上げた。
「まさかお前のうんちくが役に立つ時が来るなんてな!」
メイソンが大口を開けて笑いながらグリッジーの肩を力一杯叩いた。「いてぇんだよ馬鹿力!」と悪態をつきながら、グリッジーも嬉しそうだ。
「これでアジトのある島の場所がわかったな! 他の奴らにも教えてやらないと」
クックが意気揚々と船長室を出ようとした時だった。
船が大きく揺れた。
この前の嵐の時のような揺れ方だ。みな慌ててたたらを踏み、戸惑ったように顔を見合わせた。
船窓に目をやったジャニは、いつのまにか立ち込めていた黒雲に眉をひそめた。
「あれ、さっきまであんなに晴れてたのに」
「本当だな。また嵐になりそうだ」
横でパウロも表情をくもらせている。
クックが、何か思い立ったように表情を険しくした。慌てて船長室を飛び出して甲板に走っていく。その後を追って甲板に出た一同は、再び船が大きく揺れたので必死で体の均衡を保った。今度は何かにぶつかったような衝撃だった。
「座礁したのか!?」
キアランが焦って声を上げる。しかし重りのついたロープを海中に垂らして測深をしていた船員が、戸惑ったように首を振った。
「深さはそこまでないです! 何か、大きな生物にぶつかった様な感じで・・・・・・」
「まさか。こんなでかい船が揺れるほどの生き物がいるわけないだろう。鯨でも出たのか?」
馬鹿にする様に鼻を鳴らして船べりから海面を見下ろしたキアランの顔が、突如凍りついた。
「い、今、何か黒い影が・・・・・・」
クックが船べりに駆け寄り、荒い波の立つ海面を食い入る様に見つめた。その顔はやはり険しく、歯を食いしばっている。
「あいつの仕業だ」
「え?」
クックの呟きに、キアランが怪訝な声を上げる。
その時、船体がみしりときしみ、全員身をすくませた。叩きつける波のせいなどではない。何か不可思議な力で、船が締め上げられている様な音だった。
「全員、戦闘配置につけ!」
クックの怒号で、金縛りにあった様に動きを止めていた船員たちが慌てて動き始めた。
しかし敵船がいるわけでもなく、どこを標的にすればいいかわからない船員たちの動きは精彩を欠いていた。理由のわからない船体のみしみしと軋む音にも、彼らは動揺している。
ジャニは船べりから身を乗り出して下を覗き込んだ。
船体に叩きつける波の狭間に、何やら黒い影の様なものが見える。
影はどうやらぐるりと船体を取り囲んでいる様だった。複数の個体ではなく、異様に太く長い一つの個体であるようだ。
(船に巻きついて、しめあげてる?)
この音の正体をそう予測して、ジャニは自分の想像に身震いした。
この帆船を一周できる様な生物など、存在するわけがない。
だが、あのセイレーンも実在したのだ。この壮大な海には、人間の想像をはるかに超える太古の生き物がまだ生息しているのかもしれない。
「うわぁぁ!」
その時、ジャニと同じ様に海面を見下ろしていた測深係の船員が、海に垂らしていたロープに引っ張られて消えた。
一瞬の出来事だった。
みな呆気に取られて彼の消えた海面を見つめていたが、やがて海面にボコボコと激しい泡が立ち上り、うっすらと黒い巨大な影が下の方から水面に近づいてくるのを見ると、震える足で後退りした。
海面は小山の様に膨れ上がり、船は大きく傾いた。水飛沫が盛大に飛散し、甲板に降り注ぐ。とっさに腕で顔を庇い、目を開けた船員たちは、目の前に現れた巨大な生物の姿に凍りついた。
それは見るもおぞましい生き物だった。
姿形は蛇に似ていて、水に濡れて艶めく黒い鱗に全身を覆われている。背中からは皮膜のついた背板が、船のマストのように連なっていた。見上げるような高さまで太い蛇腹がそびえ立ち、大きく裂けた口からは、鋭く長い牙が無数に並んでいるのが見えた。
その一部に、先程姿を消した船員が首元の服が引っかかった状態でぶら下がっていた。何が起きているのか理解できず、必死で泣き叫んでいる。
「レヴィアタンだ・・・・・・」
誰かが消え入りそうな声で呟いた。
それは伝説の海の悪魔の名だった。
皆の記憶から消えかけていた、実在しないはずの生き物。
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