忘れられた神 6
デイヴィッド・グレイは、イグノアの小さな港町で生まれ育った。
彼は若く、美しく、貧しかった。
父親は海軍に徴兵された後程なくして戦死し、母親と細々と生活をしていたが、その母親もあっけなく病死してしまう。
若くして天涯孤独の身になったグレイは、いつか大海に出て偉業を成し遂げたいという大きな夢を持っていた。好奇心旺盛、純真無垢な彼は真っ当な方法でのしあがろうと頑張った。人がやりたがらない汚れ仕事も、なんでもやった。
その姿勢を見込まれ、彼はある商船に雇われる。見習い船乗りとなったグレイは海に出られる喜びに打ち震えたが、それは長くは続かなかった。
船がひどい嵐に見舞われたのだ。
甲板に大波が打ちつけ、グレイは海に放り出された。死に物狂いで近くに浮かんでいた板切れにしがみつき、彼は気を失った。
心揺さぶられる美しい歌声に、グレイはうっすらと目を開けた。気がつくと、彼は不思議な洞窟の中にいた。そして横には、見たこともない金髪碧眼の美しい女性がかがみ込み、優しくグレイの髪をかきあげていた。グレイは自分は死んだものと思い、朦朧とする意識の中でその女性に尋ねていた。
『貴女は、女神様なのですか?』
すると女性は嬉しそうに、どこか寂しそうに微笑んで答えた。
『貴方がそう思うのならば、そうなのでしょう』
女性は“ディオンヌ”と名乗り、グレイの介抱をしてくれた。
ディオンヌはグレイの美しさ、純真さに惹かれていた。そしてグレイもまた、ディオンヌの人間離れした美しさの虜になっていた。しばらく二人は共に暮らし、やがてグレイの体は癒えた。
グレイが外に出ることを望むと、ディオンヌは彼の手を引いて洞窟の外に連れ出してくれた。そこは他に人の住んでいない無人島だった。
『船があれば、海に出て魚を獲ることができるのに』
グレイが残念そうに言うと、ディオンヌは束の間黙り込み、数日待ってくれと言い残してどこかに姿を消してしまった。
数日後、忽然と現れたディオンヌはグレイに一艘の小さな船をプレゼントしてくれた。どこで手に入れたのかと驚いて尋ねるグレイに、ディオンヌは答えなかった。代わりにこう言った。
『私は海の天候を操ることができます。風の向きを変えること、嵐を起こすこと、海水を操ることは私には容易いことなのです。私の力を、貴方にお貸ししましょう』
グレイは驚き、喜び勇んで海に出た。彼女の言う通り、海も船も、グレイが望むままになった。グレイは多くの魚を持って島に帰った。
またしばらくすると、グレイはその島での生活に飽きてしまった。ディオンヌとの暮らしは甘美で楽しいものだったが、グレイは冒険を求めていた。
ある日グレイはディオンヌに『旅に出たい』と申し出た。
ディオンヌはグレイがもう二度と帰ってこないのではないかと懸念したが、顔には出さず彼を送り出した。
グレイは小さな船に乗り込み、一人外海へ出た。かつては嵐にあい九死に一生を得たが、今は海を操る力がある。グレイに怖いものはなかった。
グレイはとある港で酒場に寄った際、ある船乗りと意気投合して友となった。そして彼にそそのかされ、穀物などの食糧を積んだ船を襲って大きな船と積荷を得た。
この時、グレイの海を操る能力に気づき、その船乗りはグレイを船長に仕立て上げ、海賊となって大海に名を馳せることを提案する。グレイもまた、この大きな夢に魅せられてしまう。
彼らは仲間を集め、どんどん勢力を伸ばしていった。
彼らは最初、自分達の食い扶持を稼ぐための食糧や売買しやすい砂糖などを獲物にしていたが、ある時、宝石や金銀財宝を載せた宝船を奪うことに成功する。
宝の力は強力だった。純真無垢だったグレイは、宝の輝きに目が眩んでしまった。欲は際限なく湧き上がり、グレイを蝕んでいく。反対にグレイの傘下は膨れ上がり、彼はイグノアの私掠船船長の座を得るまでになっていた。
グレイは時々ディオンヌの洞窟に足を運んだが、ディオンヌは彼の内面の変化には気づかなかった。しかし、彼の老いていく姿を見て恐れを抱いていた。彼が先に死んでしまい、自分が置いてけぼりにされてしまう恐怖を。
ある時、ディオンヌはグレイにこう願う。
『この世で最高の至宝を手に入れたら、私と永遠にこの洞窟で暮らして欲しい』と。
グレイは、口では『わかった』と答えながら、内心恐怖で慄いていた。ディオンヌの絶大な力を知っているからこそ、彼女がその言葉の通りにするであろうことは想像できた。
せっかくの至宝を手に入れても、洞窟に閉じ込められては意味がない。では、どうすればいいか。かつてディオンヌを心から愛したグレイは、欲にまみれてその愛の一切を失ってしまっていた。そんな彼は、恐ろしい方法を編み出してしまう。
やがて、エンドラの奪ったエストニアの莫大な金銀財宝を手に入れたグレイに、ディオンヌは微笑んで迫る。
『さぁ、約束通り一緒に暮らしましょう。永遠に』
グレイは年老いてもなお美しい顔で微笑み、ディオンヌを抱きしめた。そして、おもむろに彼女の体を剣で突き刺した。ディオンヌの顔が驚愕で歪み、血が迸り出た。彼女の血は青く、剣の一突きでは死ぬことはなかった。
『やはりな』
グレイは嘲笑い、目を見開くディオンヌに何度も剣を振り下ろした。
『化け物め、ずっと私を騙していたんだな。お前は女神などではない。お前みたいな化け物と永遠に生きるなど、虫唾が走る。至宝を手にした今、私にはもうお前の力は用済みだ』
ディオンヌの体はズタズタに引き裂かれた。そして心も。
ディオンヌの両目から大粒の涙がこぼれ落ち、美しい光を放つ真珠となった。
ディオンヌは吠えた。海の悪魔に、自らの海の精霊としての魂を与える代わりに、呪いの力を与えるよう懇願した。
そして、ディオンヌの体が変容した。
切り離された腰から下には魚のような尾鰭がぬめりと生え、胸には鱗が、けぶるような金髪は冴え冴えとした銀の髪に変わった。
恐ろしい海の魔物“セイレーン”に、ディオンヌは変わってしまったのだ。
恐れ慄くグレイに、ディオンヌは狂気に引き攣った笑みを浮かべて指を差し向ける。
『私はお前を愛した。私の力を全てお前に委ねた。いつ何時も、お前の幸せを望まない日などなかったのに、これがお前の答えか。
お前に、呪いをかけよう。お前にはやはり、私と共に永遠に生きてもらう。だが、その美しい顔は二度と見たくない。私と同じように、お前には姿を変えてもらう。
理性を失い、光を失い、醜悪な恐ろしい姿で永遠に海を彷徨うのだ! その心にお似合いの姿でな!』
雷が落ち、グレイに直撃した。絶叫したグレイの姿が一瞬光に包まれ、やがてみるみる姿を変えていった。巨大な、漆黒の鱗を持つ恐ろしい化け物の姿に。
グレイの船は、ディオンヌの怒りの嵐になす術なく海の底に沈んだ。
ディオンヌの怒りは消えなかった。人間全てを憎んだ彼女は、美しい歌声で男を惑わし、精気を吸い取る魔物となってしまった。また、時には人間に呪いをかけてその苦しむ姿を楽しむようになった。
彼女にかけられた呪いを解く方法はひとつだけ。
彼女が最後に流した涙の結晶。それを口に含むこと。
かつてディオンヌとグレイの愛の巣であった洞窟に、それは今でも眠っていると言う。
マハリシュは話し終えると、ふぅと長いため息をついて黙り込んだ。
ジャニとクックは思わず目を見交わし、今聞いた話の驚きを共有していた。
デイヴィッド・グレイによってセイレーンは生まれたのだ。そして彼もまた、セイレーンの呪いにかけられた。
「悲しい話じゃ。昔から海の精霊が人間と恋に落ちる話はよくあったが、恐ろしい魔物に変わってしまったのはディオンヌだけじゃ。
お前たちが持っている宝箱は、ディオンヌがグレイに贈ったものだ。だから彼女の魔力が込められている。開けた途端に彼女は気づき、お前たちに牙を向くだろう。そして至宝を狙う“人喰い”もお前たちに忍び寄りつつある。気をつけなさい」
そう忠告すると、マハリシュは激しく咳き込んだ。吐いた血があごをしたたり彼の胸を濡らす。
「爺さん、もう喋るな」
クックがマハリシュの言葉を押しとどめようとする。老人の今にも命の灯火が消えてしまいそうな様子に、ジャニは焦燥にかられて叫んだ。
「お爺さん! トゥーリカであったこと、話したいことがいっぱいあるんだ! まだ、死んじゃだめだよ!」
ジャニの必死な呼びかけに、マハリシュは弱々しく微笑んだ。
「ありがとう、おチビさん。じゃが、ファーブラはわしに託されなかったとしても滅びはせん。トゥーリカで体験した君のファーブラは、君が語り継いでいくんじゃ。デイヴィッド・グレイとセイレーンのファーブラも、君たちに託したぞ。ファーブラはそうやって命を繋いでいくのじゃ」
マハリシュの声が、囁くように弱く小さくなっていく。
「一つの思想のもと、数多のファーブラを押し潰そうとする力が起こっておる。“人喰い”はその手先じゃ。やつらにとって、やつらの思想に背くものは全て“異教”であり“異端”なのだ。星空の星が一つ一つ消されていくように、やがてその思想は世界を闇に沈めるだろう」
マハリシュの目から強い光がすっと失われ、最後に彼はジャニに目をやり、震える手を差し伸べた。
「ディオンヌは、哀しいかな、自分にも呪いをかけてしまったことに気付かないのじゃ。そう、君のように。この哀しい物語を終えてくれ。鍵は、君が握っておる・・・・・・」
マハリシュの手が糸の切れた人形のように力なく下ろされ、老人は静かに目を閉じた。ロンが老人の脈をとり、首を垂れる。
雷に打たれたように、ジャニは体をこわばらせてマハリシュを見詰めていた。初めて命の消える瞬間を目の前にして、心が戦慄いていた。そして、彼の言い残した言葉が何度も頭の中に鳴り響く。
【鍵は、君が握っておる】
「結局、鍵は手に入らずじまいですな」
マハリシュの死に別段何も感じていない様子で、キアランがため息をついた。
ジャニはゆっくりと自分のズボンの右ポケットに手を差し込み、マハリシュから貰った金色の装飾品を取り出した。
「これが鍵なのかもしれない」
ジャニの言葉に、その場にいた全員が驚いた顔をした。クックが鋭い声で聞く。
「どういうことだ?」
「これ、この島を出る時にマハリシュが俺にくれたんだ。『君を導いてくれるだろうから、持っていけ』って・・・・・・」
キアランの顔がさっと険しくなった。ジャニの装飾品を握る手を強い力で掴みあげる。
「これは聞き捨てならないな! お前は仲間がいない時に得た報酬を船長に報告することなく、隠し持っていたというわけか! それが掟に反する行為だと知っての行いか!?」
ジャニは顔色を失った。
「そんな! 俺、そんなつもりじゃ・・・・・・!」
「やめろ!」
クックの鋭い声が飛んだ。キアランがびくりと動きを止める。
「言い争いは後だ。先に賢者に敬意を払って、彼を埋葬しよう。ジャニのそれが本当に宝箱の鍵なら、マハリシュはゲイルの手から鍵を守って、すでに俺たちに渡してくれてたことになる。感謝しないとな」
クックは賢者の遺体に手を合わせ、目を閉じた。ロンも横で同じようにする。順々に仲間たちが黙祷を捧げていく中、キアランだけは血走った目をジャニに向けていた。
黙祷を終えたロンが、独り言のように呟く。
「なぜ、ゲイルはこの島の場所がわかったのだろう。ちょうど私たちがいなかった数日の間にここを見つけて襲うなんて、タイミングが良すぎる。まさか・・・・・・」
しかしその先は、思い直したように首を振って言葉を飲み込んでいた。
横にいたジャニは彼の言葉を聞いて、何か頭の隅に引っかかっていたが、すぐにその違和感を忘れてしまった。
船に戻ったクックたちは、船長室に集まって机の上に置かれたデイヴィッド・グレイの宝箱を前にしていた。
ジャニから装飾品を受け取ったクックが、皆を見回した後、意を決したように宝箱に手を伸ばす。
宝箱の横長の鍵穴は、驚くほどすんなりと装飾品を受け入れた。かちりと胸のすくような軽快な音が響き、宝箱が開いたことを示唆する。その時、ジャニは体の芯を揺さぶられるような重い振動を感じた。
「いま、なんか揺れなかった?」
傍に立つパウロに尋ねるが、彼は皆と同じようにクックの手元に注目していて聞いていないようだ。
クックが宝箱の中に手を入れて、ゆっくりと黒革の手帳を取り出す。その表紙には、銀文字で“D・G”と刻まれていた。
クックとロンが感無量の表情で顔を見合わせる。他の面々は喝采を上げた。
「やった!! 開きましたね船長! これでデイヴィッド・グレイの宝は俺たちのものだ!」
グリッジーとメイソンが腕を組んで踊り出す。そのメイソンの肩の上ではロビンも彼らの興奮が伝わったのか甲高く鳴いている。パウロとジャニも飛び上がって喜んだ。
「宝のありかは!? やつのアジトの場所は書いてあるんですよね!?」
キアランが興奮に震える声で尋ねた。「まぁ、そう慌てんな」と宥めながら手帳を開きページをめくるクックの顔が、だんだんと強張っていく。
「なんだこれは」
最終的に、クックの顔は青ざめてしまった。必死の形相で手帳をめくり続け、最後にもう一度全てに目を通すと、苛立ちもあらわに手帳を床に叩きつけた。
「アジトの場所が、書いていない・・・・・・! これはただの日記だ!」
皆、転がった手帳を言葉もなく見つめていた。
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