歌う魔物 4
「バジル・・・それ、痛くないの?」
パウロが顔を恐怖に引き攣らせながら聞く。診察台にうつ伏せに寝転んでいるバジルは、どこか夢見ごごちの顔で「あぁ」と答えた。
バジルの背中には、ハリネズミのように細い針が点々と生えている。それを打ち込んでいるのはロンだ。
「ちょっとちくっとするくらいだな。全然痛くねぇよ。これやると、腰の具合がだいぶよくなるんだよな」
「まぁ確かに見た目は凄惨だけどね。すごく細い針だから、痛みはほぼ感じないんだよ」
ロンが笑いながらパウロに答える。
「
「それ、俺には絶対やらないでくださいね」
パウロはおっかなびっくりの顔のまま、目の前のウルドに視線を戻した。
ウルドは大人しくパウロに腕の包帯を解いてもらっている。バシリオとの戦闘で負った傷だ。あれから二週間くらい経っているので、傷はほぼ治りかけていた。
「ロンさん、どうかな?」
「うん、もう大丈夫そうだね。包帯はしなくてもいいだろう。医務室通いも終わりかな」
傷の具合を確認して、ロンはうなずいてみせる。ウルドはロンに軽く頭を下げると、「ありがとう」と呟いて医務室を出て行った。その大きな背中を見送ったあと、パウロはずっと気になっていたことをロンに尋ねた。
「あの、ロンさん。聞いてもいいですか?」
「なんだい?」
バジルに針を打ち込みながら、ロンが聞き返す。パウロは少し言い淀んだ後、ずっと胸にあった疑問を吐き出していた。
「前にあの蛇の刺青の男が、ウルドのこと“泥人形”って言ってたんですけど、あれはどういう意味なんですか?」
一瞬、ぽっかりと沈黙が落ちた。
バジルが「あのクソ野郎め」と吐き捨てる。何かいけないことを聞いてしまったのかとパウロは慌てたが、ロンは静かに話し始めた。
「ミュスメルの黒人奴隷のことを侮蔑を込めて呼ぶ呼称だよ」
ミュスメルは、旧大陸の最南端の地名だ。センテウスとは広大な平地と山地で分け隔てられているため、人種も文化も大きく違う。ウルドのように肌が黒い人種が住んでいる、というイメージしか持っていなかったパウロは、『黒人奴隷』という単語に顔色を変えた。
「ミュスメルはエンドラの植民地で、ウルドのようなミュスメル人は奴隷として扱われていた。バシリオは奴隷商人でね。昔ミュスメルから仕入れた奴隷をエストニアに運ぶ商売をしていたんだ。その船を襲ったことがあった」
ロンの顔が暗くなる。
その時の情景を思い出していた。エンドラの商船を見つけ、海戦に勝利し意気揚々と乗り込んだクックたちは、その船の惨状に絶句した。
「船倉に、人が積荷のように詰め込まれていた。生きたまま、裸の状態で男も女も子供も鎖に繋がれていた。衛生状態は最悪で、餓死している者、病死している者も何人かいた。その中で、一人檻に入れられていたのがウルドだ」
地獄のような船倉で、ウルドはまるで猛獣を扱うように檻に入れられ鎖でがんじがらめにされていた。何度も抵抗し、逃げ出そうとしたのだろう。体は痛々しいまでに傷だらけだった。その様子を見たクックの憤怒の形相は、いまだに忘れられない。
「私たちは囚われていたミュスメル人たちを解放した。その中でウルドだけは、私たちと一緒に船に乗ることを選んだ。彼がバシリオに並々ならぬ恨みを持っているのはそういうわけだ」
パウロは言葉が出なかった。
ウルドにそんな過去があったなんて知らなかった。そしてバシリオが“泥人形”と言った時の、うじ虫を見るような目つきを思い出して吐き気を感じた。震える声で尋ねていた。
「な、なんで人間が人間を売ろうなんて思えるんでしょうか?」
「エンドラの人間は、自分達が一番偉いって思い込んでいるのさ。エンドラの国教“セントカバジェロ教”では、エンドラの地に住う人種は神に祝福されていて、それ以外は野蛮な種族なんだと。ミュスメル人に至っては家畜のような扱いだ。異教徒はどれだけ殺しても罪にならず、むしろ神のための供物だとほざいてやがる」
バジルは苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。
「そんな。住む場所が違うだけ、肌の色が違うだけなのに?」
「人間は、自分と違うものを恐れて、忌み嫌う。弱いものほどそうだ。君みたいに世界中の人間がそこに違和感を持てば、世界はもっと平和になるだろうにね」
ロンは少し悲しそうに微笑んだ。
「君やジャニには、そんな大人にならないでほしい」
パウロはハッとした。“他のものと違う”というのは、ロンにも当てはまるはずだ。
彼のように肌が白く、彫りの浅い顔立ちはあまり見たことがない。旧大陸のはるか東の国にそういう種族もいると聞いたことはあるが、ロンの出生がどこなのか聞いたことがない。
ロンの机に所狭しと並べられている本の文字はパウロが全く見たことのない文字だし、針を刺して治す治療法だって異質だ。彼が“他のものと違う”人間だということは想像に難くない。どうしてセンテウスに辿り着き、この船に乗ることになったのかはわからないが、今までウルドのように差別されることも多かっただろう。
「さーて、そろそろメシの準備しねぇとな!」
鍼治療を終え、診察台から降りたバジルは暗い空気を吹き飛ばすように大きい声を出した。両腕を突き上げ伸びをするバジルに、ロンが尋ねる。
「腰の痛みはどうだい?」
「いやーだいぶ楽になった! ありがとな! あーだけど、こっちが痛くなってきた」
バジルが指し示したのは、右の膝から下の義足だった。
「ないところが痛むなんてことあるの?」
訝しげなパウロに、バジルは苦笑して見せた。
「あるんだなそれが。・・・・・・こりゃぁ、でかいシケが来るぞ」
バジルの予言通り、数刻後には穏やかだった海がうねり始め、水平線に現れた不気味な暗雲が、空を低く覆いながらにじり寄ってきた。
肌寒さを感じ、腕をさする船員たちの頭上に、パラパラと大粒の雨が降り出す。
バジルから嵐が来そうだと報告を受けていたクックは、早めに半分量の畳帆の指示を出していた。その後、波の高さはどんどん高くなり、上甲板に流れ込むほどになってきた。
クックは自ら舵を取り、時折山のように忽然と目の前に現れる波浪に船首を巡らせ、船が転覆するのを防いでいた。
「捕まれ!」
ひときわ高くなった波を乗り越える際に、クックの大声が響き渡る。
その度船員たちは近くの索具や縄梯子やマストにしがみついて、船を襲っては海に引き摺り込もうとする波に抵抗していた。
こうなるともう夕飯どころではない。バジルとジャニも、他の船員たちと手漕ぎ排水ポンプで船が被った海水を排水する作業に駆り出された。
船は大きく揺れ、普段は船酔いなどなんでもない船員も吐き気を催すほどだった。
世界は灰色に閉ざされ、鉛色の海は容赦なく船を飲み込もうとする。降り注ぐ冷たい雨は船員たちの体力を奪っていく。吹き荒ぶ風の音、甲板に叩きつける波の音しか聞こえない状況で、それでもクックは進路を諦めずに舵を握っていた。
クックの横ではキアランが何やら必死に羅針盤を見たり海図を見たりしているが、この荒れ果てた天候ではほとんど役に立ちそうにない。あとは自分の勘が頼りだと、クックは目を凝らして水平線の先に見えるものがないか目を凝らした。
距離的には、目指すサラスーザまでもうすぐそこのところまで迫っているはずだ。
しかし、船をすすめるために広げている帆が、吹きつける強風に耐えられなくなってきたのか、マストが軋み始めた。最悪、マストや帆桁が折れて飛んでいってしまう可能性もある。
クックの目には、水平線に島影は見つけられない。ため息をつき、クックは船の操縦を諦め、漂流しながら嵐をやり過ごそうと考えた。目的地が定まらないまま、無闇に航海するのは危険だ。その時だった。
「船長! あそこに島が見える!」
幼い声が、クックの耳をかすめた。驚いて見ると、船内で排水作業をしているはずのジャニが甲板に立ち、ある一点を指差している。
「おいおい、お前みたいなちびっ子、一瞬で波にさらわれちまうぞ!」
慌ててメイソンがジャニの首根っこを掴み、マストにもう片方の腕を回す。その直後、高く盛り上がった波が横から甲板に飛沫を上げてなだれ落ちた。メイソンのおかげで波にさらわれるのを免れたジャニは、それでもずぶ濡れになりながら先ほどと同じ方向を指差している。
クックは口の端で笑い、声を張り上げた。
「ジャニ! そのままもう少し頑張れ! お前ら、そいつが波にさらわれないように守れ!」
「おう!」
クックに指示された船員たちは、ジャニを守るように周りを取り囲み、流されないようにお互いを命綱で結びながらマストにロープをくくりつけた。
屈強な船員たちに波から守られながら、ジャニは遠くの一点を見つめ、まっすぐ行く先を指し示している。
「頼もしくなったもんだ」
クックは一人呟いて、ジャニの指が指し示す方向に船を進ませた。
やがて、クックの目にも島影が見えてきた。その小さな島は、ほとんどが黒く深い森に覆われている。
“賢者”が住むという島、サラスーザが彼らの前に現れた。
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