歌う魔物 3



「なんだ?」


 クックは口元に運んでいたジョッキを止めて、耳をすませた。みんなのどんちゃん騒ぎの他に、何か異質な音が聞こえた気がしたのだ。

 室内ではなく、どうやら外から聞こえる。船窓を見たが、見えるのは夜の凪いだ海ばかりだ。

 ロンも気づいたようで、辺りを見回している。

 上機嫌でギターをかき鳴らしていたセバスチャンの手が止まった。皆の歌声がだんだん小さくなり、一瞬不気味な沈黙が落ちた。そうすると聞こえてきた音はより際立って聴こえるようになった。クックは脳を揺さぶられるような気持ち悪さを感じ、頭を振った。飲みすぎたか、とジョッキをテーブルに置こうとして、ぎょっとする。

 まわりで楽しく飲んでいた船員たちの顔が、一様に魂が抜けたようになっていたのだ。目は焦点が定まらず、眠そうに瞼がおりてきている。口を半開きにしてぼーっと突っ立っている様は、かなり不気味だった。そのうちの一人が、急に見えない糸で引っ張られるようにふらふらと歩き出し、船室のドアを開けて外に出た。


「おいお前ら、どうしたんだよ!」


 クックが困惑に眉を寄せながら、同じように船室を出て行こうとする船員の肩に手を置く。しかし船員は止まることなく、ものすごい力でクックの手を振り払った。思わず前につんのめり、クックはたたらを踏む。


「おいこら! 無視すんな!」


 多少イラついてクックが声を荒げるが、船員は何も反応しない。他の船員も全員同じだ。操り人形のように意志がない歩き方で、続々と船室を出て行く。


「ロン!?」


 ロンもいつの間にか、みなと同じような虚な表情で立ち上がり、クックに背を向け船室を出ようとしていた。


「おい、止まれよ! しっかりしろ!」


 ロンの正面にまわり、肩を掴んで乱暴にゆする。ロンは一瞬じろりとクックを見たが、その瞳にクックは映っていないようだった。クックがひるんだ途端、ロンの容赦ない拳が飛ぶ。クックは思い切り頬を殴られ、思わず後退した。呆然とロンを見つめる。


「なんで・・・・・・」


 キアランも、セバスチャンも、メイソンも、グリッジーも、ウルドも。みなが同じように生きた人形のようになり、船室を出ていった。クックは皆の名を呼びながら声をかけたり、力任せに止めようとしたが、誰一人止めることができない。皆は一様に、甲板の方へ向かっているようだった。甲板からは、あの不思議なメロディが聞こえて来る。


「あの歌か!」


 クックは急いで甲板に上がった。そして、自分の目を疑った。

 船員たちが船縁に群がっている。そして船縁の向こうでは、不可解な景色が広がっていた。

 海水が、意志を持つ生き物のようにうごめき、人間の女のような姿を作り出しては船員たちを誘うように手を伸ばしていたのだ。水でできた女の影は様々に姿を変えながら、船員たちを手招きする。こっちへ来いと。海の底に引きずり込む瞬間を、今か今かと狙うように。


「ナターシャ!」


 セバスチャンが水の幻影の一つに向かって両手を伸ばし、愛しい恋人に呼びかけるような調子で声をあげた。実際、彼には恋人の姿に見えていたのかも知れない。嬉々として船縁にすがりつき、あろうことか乗り越えようと登り始めた。


「やめろ、馬鹿野郎!」


 クックは慌てて走り寄り、セバスチャンを後ろからはがいじめにして船縁から遠のかせた。しかし手から逃れようと暴れるセバスチャンに辟易したのか、彼の後頭部に手刀を叩き込んだ。途端にセバスチャンは力なく崩れ落ちる。気を失ったようだ。

 ホッとしたのも一瞬で、いたるところで同じような現象が起き始めた。恋人の、あるいは想い人の名を呼びながら船べりを乗り越えようとする船員たちを、多少手荒な方法でクックが気絶させて行く。

 その最中、船首の方を見たクックは、衝撃の光景に目を見開いた。


「ロン!」


 彼の後ろ姿が、綱渡りのようにバウスプリットの上を進んでいたのだ。落ちたら一瞬で船に轢かれ、海の藻屑となってしまう。

 クックはロンの元へと駆けつけた。あと少しでロンに手を伸ばせるという距離になって、クックは弾かれたように足を止める。


 ロンの向かう先、バウスプリットの先端に、異形の生き物が座っていたのだ。上半身は艶かしい女性の体、下半身は魚の尾鰭がついた二股。その生き物の口から流れるのは、みなを海の底へと誘う恐ろしいメロディ。


『おや、歌が効かない人間か。久しぶりに見たな』


 その生き物は、絶世の美貌で微笑んだ。脳内に直接響く声の気色悪さに、クックは思い切り頭を振る。そしてゆっくりと顔を上げ、異形のものがまだ同じ場所に座っているのを確認すると、掠れる声を振り絞った。


「セイレーン・・・・・・!?」

『その名で呼ばれるのは久しぶりだ』


 セイレーンは悠然と微笑むと、再び歌い始めた。脳内のメロディの音量が上がる。ぐっと意識を持っていかれる感覚に、クックはたまらず膝をついた。

 ぐるぐると視界が回る。吐き気がする。無理やり自分の心の中を覗かれる気持ち悪さ。それと同時に、抗い難い快感が全身を包み始めていた。脳が溶けてしまいそうな快感。だがその快感に身を任せたら、他の船員のようになることがクックにはわかっていた。


「くそっ・・・・・・ロン!」


 霞む視界に目を細めながら、クックは必死でロンに手を伸ばす。しかしロンは夢見るような顔で、セイレーンから目を離さずに足をすすめて行く。

 バウスプリットの先はすぼまるように細くなっている。これ以上進んだら、海に落ちるのは時間の問題だ。


『お前も抗うのはやめて、私の歌に身を委ねればいい。無駄な抵抗はやめろ』


 セイレーンが妖しく笑う。ロンが、セイレーンの目の前にたどり着いた。セイレーンは優しくロンの手を取ると、しゃがみ込んだ彼の頬を愛おしそうに両手で包んだ。


『ほら、この男のように、素直に想い人を心に浮かべろ。私があの世で永遠に結ばせてやるぞ』


 ロンが幻影を見ているのか、切なげな顔でセイレーンの頬を撫でた。その口には、うっすらと笑みが浮かんでいる。何か、小声で呟いた。


「やっと、私を見てくれたね」

「ロン、だめだ! 食われるぞ!」


 クックは力の限り叫んだが、頭に響き渡る音の力に耐えかねて倒れ込んだ。意識が遠のいて行く。手の感覚はあるが、足はもう動かない。セイレーンの哄笑が響き渡る。


『とって食いはしないよ、人肉なんて不味いからねぇ。私が食べるのは精気だよ。もっとも』


 セイレーンはくすりと付け加えた。


『精気を吸われた人間は死ぬがな』


 セイレーンの顔がゆっくりロンに近づいて行く。

 唇が接吻するように、ロンの唇に触れるか触れないかの距離まできた時、クックは力の限り叫んでホルスターから短剣を引き抜き、自分の右の太ももに突き立てた。

 脳天を突き抜ける痛みで意識が解放されて、全身が動くようになる。

 歯を食いしばり、バウスプリットに飛び乗ったクックはロンを抱き抱えてセイレーンから引き剥がした。


『何を!?』


 セイレーンの驚いた顔が視界をかすめる。甲板に戻ろうとしたクックは、しかし腕の中のロンに抵抗されて体勢を崩した。

 あっと思う間も無く、二人はバウスプリットから滑り落ちる。


(まさか、化け物に襲われて死ぬなんてな)


 脳裏にルーベルの顔が浮かんだ。自分が死んだら、あの女は泣き叫んで怒り狂うだろう。

 ちょっとその様も見てみたい、などと馬鹿なことを考えていたクックは、突然全身を包んだ海水に息を止めた。体がぐるぐる回転して、硬い地面に叩きつけられる。

 気がつくと、クックとロンは甲板に転がっていた。

 ロンは倒れたままだが、息はしているようだ。何が起こったのかわからず呆然としていると、セイレーンが呆れた声で言った。


『私が助けなかったら二人共死んでいたぞ。まさか自分の足を刺して正気を取り戻すとはな、狂った男だ』


 どうやらセイレーンが操る水柱で甲板に噴き上げられ、一命をとりとめたようだ。状況を悟ったクックは、手にしたままの短剣を迷うことなくセイレーンに投げつけた。短剣は狙い通りセイレーンの眉間に吸い込まれーー通り抜けた。


「な!?」


 クックが驚愕の声を上げる。セイレーンは束の間黙っていたが、やがて先ほどまでの作り物めいた笑いでなく、心から楽しそうに笑った。


『お前は本当に面白い人間だな。ここまで抵抗されたのは初めてだ。残念ながら、私には物理的な攻撃は効かないよ』


 笑い涙をぬぐいながら、セイレーンが独り言のように呟く。


『あぁ、おかしい。こんなに笑ったのはあの男と話して以来だな』


 セイレーンはふとクックの額の赤いバンダナに目を止めて、独り言のように呟いた。


『そういえばどことなくやつに似ているな』

「おい化け物! この船からさっさと失せろ!」


 全身びしょ濡れ、足からは血を流しながら、それでもクックは身構えていた。セイレーンに物理攻撃が効かないとわかっても怯まない。頭の中では目まぐるしく思考していた。


(考えろクック、ここでお前が倒れたらみんな死ぬ! お前がどうにかするしかないんだ、考えろ考えろ考えろ・・・・・・!)


『私はお前が気に入った。特別に、お前の船員の命を助けてやってもいい』


 いきなり、セイレーンがクックにとって願ってもないことを言う。クックは面食らったが、その提案に飛びつかない手はなかった。


「本当か?!」

『ただし、代わりにお前に“呪い”をかける。お前の一番大事なものを奪う』


 三日月の弧のように、セイレーンの目と口が細く笑う。


『それでもいいか?』


 クックは言葉に詰まった。

 一番大事なもの、とはなんだろうか。だが、そもそも断れる立場に彼はなかった。相手には物理攻撃が効かない。ロンは気絶している。船縁には未だに船員たちが群がり、すきあらば乗り越えて海に飛び込もうとしている。この状態を打開できる術は、魔物からの提案以外になさそうだった。


(一番大事なもの、それは俺の命なのかもしれない)


 ふとそんな考えもよぎったが、ここで船員の命を守れなくて何が船長だ、と勇気を奮い立たせた。どちらにしても死ぬのだ。だったら俺以外が助かった方が断然マシだ。


「それでも、いい」


 クックは力強く頷いた。セイレーンの目が輝き、その瞬間だけ生気のない瞳に光が差した。新しいおもちゃを手に入れた子供のような、純粋な喜びがその顔には広がっていた。


『契約成立だ! じゃぁさっそく、お前の一番大切なものをいただく』


 セイレーンの腕が、ゆっくりとクックの方へ伸ばされる。魔物の顔に浮かぶ微笑みは、どこか恍惚としていた。



『私が欲しいのは、お前の“心”だ』






「クック!」


 回想は、突如背後から聞こえた呼び声に中断された。クックが振り返ると、走ってきたのか息を切らしているロンが立っていた。ロンは切羽詰まったような顔でクックの全身を検分し、特に何も異常がないことを確認すると安心したようにため息をついた。


「どうしたんだ、そんな慌てて」


 怪訝な顔を取りつくろって、クックが尋ねる。ロンは取り乱した自分を恥じるように「いや」と言い淀んだ。


「またいつのまにか寝てしまっていたから、お前に何かあったんじゃないかと思って・・・・・・」


 その先を言いかけて、「お前が無事ならいいんだ」と照れたように苦笑した。


「疲れてるんじゃないのか? ちゃんと休んどけよ」


 クックはわざとぶっきらぼうに言う。ロンは頷くと、医務室に戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、クックは思う。


 自分の選択を後悔したことはない。


 セイレーンの提案を受けなければ、自分達はあの時、たやすく全滅していただろう。海賊として名を馳せ、いくところ敵なしだったクックの傲慢さが招いた結果なのだ。踏み込んだことのない海域で油断し、なおかつシーモンスターなんて存在しないと信じきっていた自分の狭量さが招いた事態。自分が体を張るのは当然の流れだったと思う。

 しかし、あの時からクックはだんだんと笑顔が少なくなっていくのを感じていた。

 心から笑えない。いくら美味しいものを食べても、いくら美しい景色を見ても、心のどこかが何かを諦めたように下を向いている。

 まるで第三者のように、冷静に自分を観察し、見下している自分がいる。


(何が“翼獅子のクック”だ。何が“バルトリア島の英雄”だ。所詮人間は非力で、セイレーンという自然の体現者になす術もなく敗北した。どうやっても勝てない力を思い知らされた。理不尽に振り下ろされる拳の痛みなんて、ガキの頃から嫌ってほど知っていたはずなのに・・・・・・どうして忘れていたんだ)


 この世の理不尽さなど、十分理解しているつもりだった。

 この翼獅子号に集まった連中は、そういった理不尽さに殴られ蹴り出され、傷ついて集まった集団なのだ。その一団を引き連れ、“海賊”という行為に手を染め、襲ってくる権力には武力で対抗した。

 やがて恐れられ、権力者からある意味力を見込まれてクックたちはバルトリア島周辺の海域では敵なしとなった。

 だが、世界は自分達が考えていたよりまだまだ大きく、未知数だったのだ。やはりどんなに頑張って名を上げても、敵わない敵は大勢いて、自分達は取るに足らない存在なのだ。


(俺が夢見る“自由”なんて、存在するのだろうか)


 クックは時々考えてしまう。


 “自由”とはなんなのだろうか?


 理不尽な力に怯えず生きていけることだと、彼はそう思っていた。だがセイレーンという自然の脅威を目の当たりにしてしまい、そんなものは幻想でしかないのだと二年前の自分は知ってしまった。

 そしてこの虚無感の原因は、呪いの内容にもある。


(まぁなんにせよ、このチャンスを逃す術はない)


 呪いを解く“セイレーンの涙”を手に入れ、なおかつデイヴィッド・グレイの宝を手に入れる。宝とは“力”であり、“自由”への架け橋だ。

 改めて、クックは決意を胸に刻んだ。呪いが解け、宝を手に入れればこの虚無感も消えるだろう。

そして、ふと先ほどのセイレーンの気になる発言を思い出していた。


『お前、あの子のこと、本当に気付いてないのか?』

(あれは、ジャニのことだよな?どういう意味なんだ)


 すべての音を吸い込むような静かな夜の海を眺め、クックは一人考え込んでいたが、諦めて思考を手放した。とにかく今は、次の目的地に船を進めることだ。今回は海図もある。キアランの言うように慎重に航行して、この未知の海域を攻略しよう。

 寝ていた船員たちが起き出し、慌てて持ち場に着いたことを確認し、クックは船長室に戻っていった。





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