歌う魔物 2




 音色は、ヴァイオリンなどの弦楽器のものだと思っていたが、近づいていくとどうやら歌声のようだった。それも、この船にはいないはずの、女性のもの。


(も、もしかして、幽霊・・・・・・?)


 あと一歩で甲板に出るという時に、ジャニの胸に不安が立ち上る。しかし船首のほうから聞こえてきた声に、ほっと胸を撫で下ろした。


「おい、耳障りだ。やめろ」


 怒気を孕んだクックの声が聞こえたのだ。

 安心して甲板に上がり、船首の方に歩いていったジャニは、クックの背中が見えたところで足を止めた。

 甲板の様子がおかしいことに気づいたのだ。

 後列甲板、メインマストの上、船首側に倒れている船員たちがいた。バシリオに奇襲をかけられた時の既視感を覚えたが、船員たちは皆寝ているようだった。


(どうしてみんな寝てるんだ?)


 困惑したままクックの方を向いたジャニは、目を丸くした。

 クックの目の前、バウスプリットが伸びる先に、突如巨大な水柱が立ち昇ったのだ。

 何か巨大なものが海に落ちたわけでもない。力は海の方から放たれたようだった。

 水飛沫が甲板中に飛び散り、水柱が上がった振動で船が大きく揺らぐ。

 ジャニは尻餅をついて唖然とその水柱を見上げた。どういう原理で水が下から上に噴き上がっているのか理解できない。しかも未だ聞こえている歌声は、どうやらその水柱から流れて来るようだった。

 ゆっくりと、水柱から人間の手のようなものが伸びてきた。

 しかしその手は薄青い肌で覆われ、指と指の間には水かきのような薄い膜がついている。ついで腕、肩が現れ、とうとう胴体と頭が水柱から出てきた。ジャニは思わず、叫ばないように両手を口に当てていた。

 生気の欠けた青白い肌。月光を吸収したかのように発光する銀の長い髪。頬の部分、裸の胸の部分には碧色に輝く鱗が散りばめられている。けぶるような銀色の長いまつ毛の下で、色素の薄い瞳がクックを見つめ、完璧な配置に収まった色のない唇が、三日月のように優艶な弧を描いている。その口から流れるメロディは、甘く哀しく聴くものの心を捉えて離さない。


(セイレーン・・・・・・!)


 見たことがないのに、ジャニは確信を持っていた。こんなに美しく、恐ろしい生き物は他にいない。船乗りを歌で酔わせ、溺れさせて喰う海の魔物。ジャニの右目を奪ったという生き物。


『相変わらず機嫌の悪い男だ』


 セイレーンの歌が止み、代わりに頭の中に直接響くような不思議な声が聞こえた。

 ジャニはセイレーンが人語を話すことに困惑しながら、二人から見つからないようにボートの影に隠れた。


「てめぇに会うのに上機嫌でいられるか。自分を呪った相手だぞ」


 うんざりしたようにクックが言う。

 セイレーンは楽しそうに笑うと、水柱からするりと抜けてバウスプリットの先端に腰掛けた。

 露わになった下半身は、びっしりと碧に輝く鱗がしきつめられていて、人間の足のように二股に分かれていたが、先端には魚の尾鰭のようなものがどちらにもついていた。

 セイレーンはしどけない格好でクックに流し目を送った。


『私はお前に会えて嬉しいぞ、愛しい人間よ』

「うるせぇ。わざわざ仲間を眠らせて姿を現すってことは用があるんだろ? さっさと済ませろ」


 クックの返事はにべもない。

 セイレーンと普通に会話しているクックを見てジャニはさらに困惑した。初めて会ったもの同士の会話ではない。以前にも彼らは出会っているのだ。


『つれないな。まぁ、そんなところも愛おしいが』


 セイレーンはそう言うと、妖艶な笑みを浮かべた。色素がほぼないので人間味が薄いが、それでもその笑顔はぞっとするほど美しかった。


『やっと動き出したようだな。自分の運命に抗うことにしたか』

「運命なものか。てめぇが勝手に俺のものを奪ったんだ。手がかりが見つかった以上、俺は奪い返しに行くだけだ」


 セイレーンの問いに、クックは怒りの滲む声で答える。セイレーンはクックの顔を愛でるように見つめながら、ほう、と甘い吐息をこぼした。


『いいね、その顔。もっと怒れ、もっと苦悩しろ。私はそういう顔が見たいんだ。人間らしく惨めに這いつくばりながらあがき、求めるものにすがりつけ。私は喜んで試練を課そう』

「・・・・・・この変態が」


 クックが吐き捨てるように呟く。セイレーンは哄笑した。


『もちろん、乗り越えられぬ試練は課さぬ。お前との契約通り、船員には手出しはすまい。今回はただ眠らせただけだ、安心しろ。まぁ、私自身が手を下すことはなくとも、手下を向かわせて少し遊ばせることはあるかもしれない。お手柔らかに頼むぞ』

「試練なんて体裁のいい言葉を使ってるが、ようは俺が“セイレーンの涙”を手に入れるのを邪魔するってことだろ」


 クックの言葉に、ジャニははっと目を見開いた。


(今、“セイレーンの涙”って言った? 船長も狙ってるのか? どうして)

 動揺するジャニをよそに、クックとセイレーンの会話は続く。


「言っとくが、いくら邪魔されようと俺は諦めないからな。その手下は必ず殺すし、お前もいつか殺してやる」

『私は精霊だ、殺せるものか』


 心底おかしそうにセイレーンは笑ったが、ふと笑顔を消してつぶやいた。


『できるものならば、お前に殺されたいものだ』

「嫌味か」


 クックが舌打ちする。セイレーンは答えなかったが、再び笑みを浮かべた。


『まぁ、宣戦布告と取っておこう。楽しみにしている。あと、これからお前の行こうとしている場所はわかってる。マハリシュのところだろう』

「知ってるのか」

『あぁ、人間にしては物分かりのいい男だ。だが、一つ忠告をしてやろう。あの男は必ず見返りを求める』

「見返り?」

『鍵が欲しくて行くんだろう? 手に入れるには、見返りが必要だ』

「そうか。まぁ、軍資金がないわけではない。手に入れてみせるさ」


 クックの答えに、セイレーンは答えなかった。ただ不気味に微笑んでいる。

そして、急にジャニの方にセイレーンが目を向けた。


(目が合った!)


 とっさに隠れたが、セイレーンの眼差しを直に受けて、ジャニの心臓は跳ね上がった。凍てつくような、深海のように底知れない眼差しだった。


『ところで、面白い者を乗せているな』


 セイレーンがクックにかけた言葉にジャニの動悸が高まる。自分がここにいることがバレている。だが出て行く勇気はない。


「どういうことだ?」


 クックは気づいていないようで、訝しげな声をあげている。


『お前、あの子のこと、本当に気付いてないのか?』

「だから誰の話をしてるんだよ」

『そうか、知らないのか。因果なものだね。でもこれもまた、面白い』


 セイレーンはなぜか満足げだった。楽しげに笑うと、来た時と同じく突然海から水柱が立ち昇り、その中に飛び込んでセイレーンは姿を消した。嘲笑うような言葉を残して。


『せいぜい私を楽しませておくれ、愛しい玩具たち!』


 また勢いよく水飛沫が甲板に降り注ぐ。運悪くジャニのところにまとまった水が降ってきて、思わず声をあげてしまった。


「誰だ!」


 しまったと思った時にはもう遅く、駆け寄ってきたクックにジャニは見つかってしまった。ジャニを見つけたクックの顔は見ものだった。


「お前・・・・・・あの歌を聴いてどうして無事なんだ!?」


 今まで見たことないほど驚いているクックの様子に、ジャニも驚き、困惑していた。


「ご、ごめんなさい! 話を聞くつもりはなかったんだけど、びっくりして、怖くて動けなくて」


 慌てて言い訳をする。

 クックは信じられないものを見るようにまじまじとジャニを見つめていたが、少し落ち着いたのか、大きくため息をついた。


「いや、お前が謝ることじゃない。しかし、見られたとなると困ったことになったな」


 動揺を押し隠すように、クックは頭をぼりぼりかいている。そして何か思案するように黙っていたが、縮こまっているジャニに唐突に尋ねた。


「お前、“セイレーンの涙”を手に入れたいと言っていたな」

「あっ」


 ジャニは以前、ロンの医務室でその話をしていた時のことを思い出した。そういえばあの時、クックは医務室のドアの向こうにいた。話を聞いていたのか。


「すまん、ロンと話しているのを聞いた。その右目は、セイレーンの呪いというのは本当か?」


 ジャニはおずおずと頷く。しかし、「どうしてやられたんだ?」という問いには、困ったように首を傾げた。


「それが、覚えてないんだ・・・・・・誰かに、お前の目はセイレーンの呪いで奪われたって言われた記憶はあるんだけど、それ以外のことが思い出せない」

「そうか、以前の記憶がないんだったな」


 クックは顎の無精髭をいじって何か思案している。今度はジャニが尋ねた。


「あの・・・・・・さっきのは、セイレーンなの?」

「あぁ。呼び名はいろいろあるがな。人間に呪いをかけて遊んでるくそったれな精霊さ」

「船長も、セイレーンに呪われたの?」

「・・・・・・まぁな。情けねぇ話だが」


 クックは自嘲するように口の端で笑った。


「内容は言えねぇ。俺は一刻も早くこの呪いを解きたい。だからお前には悪いが、俺も“セイレーンの涙”を狙ってる。前にお前がこの言葉を口にした時は驚いたぞ。俺以外にあの話を知ってる奴がいると思わなかった。だからあの時、お前を船から降ろしたら卑怯な気がしてな」


 クックが乗船を許可してくれたのはそういうことだったのかと、ジャニは腑に落ちた。だが普通、子供だろうとライバルは排除したいと思うだろうに。


「“セイレーンの涙”が複数あるのか、一個しかないのか、それはわからない。ただ、あるのは確かみたいだ。さっきのあいつも認めたからな。だから、お前とは恨みっこなしで勝負したい。先に見つけたやつの勝ちだ。ガキだろうと手加減しないからな」


 不敵に微笑むクックを見て、ジャニは不思議な気分だった。クックのことを『変な大人』だと思った。バカで非力な自分など、簡単に騙して蹴落として力でねじ伏せることができるのに。わざわざ、同じ土俵に立とうと高い場所から降りてきた。そんな大人がいるのかと、純粋な驚きを感じていた。ジャニの胸がじんわりと温かくなる。


「うん、俺も頑張る!」


 力強く頷くジャニを見て、クックは一瞬柔らかい表情をした。しかしすぐ笑顔を消して表情を引き締める。


「今あったことは、絶対に誰にもいうなよ。お前の命にかけて誓え」

「は、はい!」


 ジャニは慌てて左の拳を心臓の位置に当てて見せた。クックは頷き、倒れて寝ている見張りの船員たちを見回した。


「多分そろそろみんなが起きる。今のうちに船室に戻れ」

「はい、船長!」


 元気よく返事をして階段へと駆けて行くジャニの後ろ姿を見つめながら、クックの脳裏には二年前の出来事が蘇っていた。



初めてあの海の魔物と出会った夜のこと。






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