歌う魔物 1
「これはすごい海図が手に入りましたな!」
船長室のテーブルに広げられている海図をじっくり眺めながら、キアランが喜色満面で言う。クックは満足げにうなずいた。
「ここまで詳細なエストニアの地図は手に入れたことがないな」
「そうですよ! そこそこの値段で買っても眉唾物の怪しい地図しか手に入りませんでした。この地図だけでもかなりの価値がある。これがあれば、いままで手を出せなかった海域にも繰り出せますな!」
いつも不機嫌そうな男がここまで喜ぶ姿は珍しい。
クックは密かに笑いを噛み殺しながら、コンパスやデバイダーを使って海図と睨めっこしているキアランを眺めていた。
キアランやクックの持つ航海術も航海には重要な技能だったが、やはりなによりも重要なのは正確な海図だった。あらゆる港、航路、入江、砂州、岩礁、隆起、そういった航海に必要な情報が書き込まれている海図があれば、慣れていない海に行く場合も大変心強い。
「次の目的地である“サラスーザ”は、今まで行ったことない海域の島ですからね。地図と照らし合わせながら慎重に航海しなければ」
「ま、あんまり固くなりすぎないようにな」
クックがキアランの肩の力を抜こうと声をかける。しかしキアランは眉根を寄せた。
「そりゃぁ船長のような天賦の才は私にはありませんからね。頭でっかちな航海術しか持ち合わせておらんのです」
「いや、そういう意味で言ったんじゃないんだが」
クックは苦笑する。キアランの航海術は基礎を履修した緻密なものだったが、航海に大きく関わって来る自然の采配を読むのが苦手だった。風の強さや向き、星の動き、潮の流れ。一方クックは、必要最低限の航海術しか持ち合わせていなかったが、そういった自然の動きを読んで予測する勘が非常に鋭かった。
「まぁでも、お前の丁寧な計算と、俺の野生の勘を合わせればちょうどいいってことだろ」
クックがニヤッと笑いながらキアランの背中を叩く。キアランは少し気を持ち直したように肩をすくめてみせた。
「・・・・・・おや?」
海図をじっくり眺めていたキアランが、ふと声を上げた。
「どうした」
キアランが見つめているところをクックも覗き込む。
そこには、小さな挿絵のような物が描かれていた。上半身が美しい人間の女性、下半身には人魚のように魚の尾ひれがくっついている。しかし尾ひれは、人魚とは違って二股に分かれていた。そしてその手にはハープのようなものが握られている。
「セイレーン、ですかね。こんな最新の海図にシーモンスターの挿絵をはさむとは珍しい。こんなもの、存在するはずないのに」
キアランは小馬鹿にするように笑ったが、クックは笑わなかった。その目は、挿絵の横に書かれている文字を追っている。
「“魔の海域”・・・・・・」
「これも単なる迷信ってやつですよ。昔の船乗りはよく船が座礁する海域とか、大渦が発生する海域なんかを“魔物の棲む海域”だとか言って恐れていたんです。だから海図にこういった挿絵なんかを描いて、ここの海域には踏み込まないように注意喚起してたんでしょうね。この“魔の海域”は、単純に風が吹かないとか、そんなものでしょう。じゃないと、今差しかかっているのがその海域ですからね。私たちが無事でいられるはずがない」
キアランはそう言って笑ったが、ふと何か思い出したように視線を宙に浮かせた。
「おや、でもそういえば、この海域には前にも・・・・・・」
その時、キアランの耳に、物悲しいメロディが滑り込んできた。美しいヴァイオリンの旋律のような、甘く囁く音。もっと聞きたいと思わせる、麻薬のような歌声。
「珍しい。セバスチャンがこんな悲しげな歌を奏でるなんて」
そう呟くキアランの目が、急にとろんと焦点が定まらなくなり、まぶたが閉じていく。クックはその様子を見ながら、表情を険しくした。
「これは、セバスチャンじゃない」
キアランの頭の中に、メロディが鳴り響く。さっきまでか細く聞こえていた音色は、今ではキアランの脳を揺さぶるほどの音量になっていた。キアランの呼吸がどんどん早まり、ほおに朱がさしていく。
「船長、な、なんだか急に、眠くなって・・・・・・」
キアランが眠気を振り払うように目を擦りながら立ち上がる。一歩踏み出したが、急に力が抜けたようにそのまま前方に倒れ込んでしまった。顔を床に打ち付ける寸前、クックがキアランの体を抱き止める。そしてそっと床に横たえると、彼が気持ちよく寝息を立てているのを確認し、立ち上がって窓の外を睨みつけた。
「来たな」
呟いて、船長室のドアへと歩いて行く。
「キアラン、俺も数年前まではそう信じていた」
部屋を出る時、クックは床で寝ているキアランを振り返って言った。その顔はどこか羨ましそうに航海士を見下ろしている。
「そう信じていたかった」
クックは船長室を出て行った。
『お前のその右目は、セイレーンの呪いなんだ』
どこからか、低い男の声が聞こえる。
記憶の彼方から聞こえるその声は、なぜかジャニの心を揺さぶった。誰の声かは思い出せない。しかし、聞き覚えのある声だった。
周りは黒い霧に覆われていて何も見えない。ジャニは、その声のした方に問いかけた。
「なんで呪われたの?」
『・・・・・・私の、せいだ』
声には、深い後悔の色が滲んでいる。ジャニは、きゅうと胸が苦しくなるのを感じた。自分が呪われてしまったことに対する悲しみではない。その声の主が、苦しんでいることが悲しかったのだ。
「俺、呪いを解いてみせるよ! もとの姿に戻ってみせる!」
ジャニは決意を胸に、両手を握りしめた。しかし男の声は、ジャニの決意を踏みにじる。
『お前に何ができるんだ! お前は何もしなくていい、私が“セイレーンの涙”を手に入れて、お前を元に戻してみせる』
「俺にだってできる!」
ジャニは必死で訴えた。
「俺、バシリオっていう海賊から、仲間を救えたんだ! みんなに褒められた、あの船長にだって!」
ジャニは、今日翼獅子号のみんなからかけられた温かい言葉や、背中を叩かれた温もりを思い出していた。そして、初めて自分に向けられたクックの笑顔を。
記憶を無くしてから、自分の居場所を作ろうと必死で動き回ってきた。空回りしていた部分もある。でも今日初めて、自分はこの船にいてもいいのだと思えた。自分も、何かの役に立つことができるのだと自信を持てた。
「俺はもう、あんたに守られてるだけの子供じゃない! 俺だって・・・・・・」
黒い霧のどこかにいる男に向かって、ジャニは叫んだ。
「俺だって自分を変えたいんだ!!」
溢れる思いと一緒に、頬に涙が伝った。その温かさで、ジャニは目を覚ました。
「・・・・・・夢?」
寝ぼけた頭で呟く。
ふと自分が誰なのかわからなくなり、ジャニは慌ててハンモックから降りて、すぐそばの船窓に駆け寄り窓に映った自分を見つめた。
眼帯をつけた怯えた顔の少年と目が合う。
「お、れは、ジャニ。俺は、ジャニ。俺はジャニ」
呪文のように呟く。何回か呟くうちに、ジャニの呼吸は落ち着いて行った。最後に大きく深呼吸して、やっと船窓から目を離す。
ジャニは一人、厨房の一角でいつも寝ていた。
船員たちはみな下甲板でハンモックに揺られて寝ているのだが、みんなのいびきがうるさいのと、大勢と一緒の空間では寝付けなかったので、バジルに頼んで了承をもらったのだ。ジャニの身長なら狭い厨房でも隅っこにハンモックを吊るせば寝られるし、起きてすぐ朝食の下準備に取りかかれるから便利だった。
「あれ?」
その時、大鍋の向こうから人の足がのぞいていることに気づいて、ジャニははっと息を飲んだ。その足がはいている厳ついブーツは、見慣れたものだ。
駆け寄ると、そこにはバジルが倒れていた。手にはブラシを握っている。厨房の片付けをしていたのだろうか。
いつもはジャニがしているのだが、いろいろあったし、疲れているだろうから早く寝ろとバジルに言われて今日は彼より先に寝たのだ。
「バジル! ちょっと、大丈夫!?」
慌てて肩を叩いたり、揺すってみる。
しかし、屈強な体はびくともせず、反応もない。また奇襲でもかけられたのかとジャニの顔から血の気がひいたが。
「んごおおお」
バジルの口から出た大きないびきに、ジャニは気の抜けた顔をした。
「え、ね、寝てる?」
顔を覗き込んで確認する。
バジルは床に突っ伏して、幸せそうな顔で寝ていた。
「もう! 心配して損した! ていうかなんでこんなところで寝てるんだよ!」
何回か呼びかけたが、やはり起きないのでジャニは諦め、自分が使っていた毛布をかけてあげた。
その時、ジャニはどこからか物悲しいメロディが聴こえていることに気づいた。
「セバスチャンかな?」
気になって、厨房を出て下甲板を覗いてみる。しかし、みなが寝ている中で一番大きないびきをかいて寝ているのがセバスチャンだった。突き出たお腹がシャツからはみ出た状態で上下している。
(じゃぁ、誰が演奏してるんだろう)
音の出所は、どうやら甲板らしい。
ジャニは皆を起こさないように足音を忍ばせて、甲板への階段を登っていった。
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