隻眼の子 1




 降り注ぐ陽光が、鮮やかに全ての色を浮き上がらせている。


 目の前はコバルトブルーの海原、空には雲ひとつなく、水平線が緩やかな曲線を帯びてどこまでも広がっている。そしてその中を波飛沫けたてて進む帆船が一隻。

 三本マストを掲げ、赤茶の船体を輝かせて、帆船は進む。

 船首像にあるのは、たてがみを波打たせた獅子像である。咆哮をあげているかのように牙をむいて、四肢を躍動させている。その獅子像にも、荒々しい波飛沫がごうと叩きつけていた。風は強く、波は高い。


 ジャニはその風を受けながら力一杯深呼吸した。鼻腔いっぱいに潮の香りが満たされる。下を見下ろすと、甲板に置いてある樽の中の水に映った、黒い短髪の少年が見えた。

 ジャニは自分の姿をじっと見る。

 メインマストの見張り台に座ってこちらを見ている少年は、歳は十歳くらいか。やや骨が浮き出た手足に、ぶかぶかのシャツとズボン。裾が余ってるズボンを、これまた大きめのブーツに捻り込んでいる。


 一番異様なのはその顔だ。


 片目には顔半分を覆い隠すほどの黒い眼帯をしている。顔が小さいのでその眼帯は嫌でも目立った。反対側の瞳は青く大きく、海を映し出しているかのようにキラキラ輝いていた。

 ジャニは自分の姿を眺めて満足したように頷くと、顔を上げた。見張り台から投げ出した足をぷらぷらとゆする。


「ん?」


 ふと何かに気づいたように足を止めると、ジャニは素早く立ち上がって水平線の向こうを食い入るように見つめる。


「んん?」


 目一杯手すりから身を乗り出して一点を凝視していたジャニは、ぱっと顔を輝かせると、突然叫んだ。


「陸だ!」


 そして索具から垂れているロープを掴むと、ためらいなく見張り台から飛び降りた。その軽々とした跳躍に、甲板にいた数名の船員がぎょっとしたように空を振り仰ぐ。


「おい、坊主、なんてことしやがる! あぶねぇからちゃんと縄梯子を降りてきやがれ!」


 叫んだのは肩に木材を抱えたメイソンだ。ずんぐりむっくりした横に広い体のこの御仁は、船の大工を担当している。船の修繕に毎日大忙しなので、ジャニが仕事を増やさないか心配なのだろう。

 ジャニは危なげなく甲板に飛び降りると、メイソンに向かって肩をすくめて見せた。


「だってこっちの方があきらかに早く降りれるからさぁ」

「いつか頭から落ちて死んでもしらねぇからな!」


 ジャニを怒鳴りつけ、メイソンはぶつくさ言いながら階段を降りていった。

 ジャニはその背中に舌を出して、ハッと思い出したように顔を輝かせる。


「そうだ、陸! 陸が見えたよ!」

「陸? バルトリアに着くのはまだ先だろ?」


 ジャニに声をかけられた細身で背の高い少年、パウロは、甲板を洗うブラシの手を止めて、ジャニが指し示す先に目を凝らした。

 亜麻色の巻毛の彼はジャニより少し年上の十五歳で、この船のことや仕事を教えてくれた。自分より年下の存在が現れて嬉しいのか、なんだかんだジャニの世話を焼いてくれる。

 パウロは肩を竦めて首を振った。


「ダメだ、見えない。雲かなんかを見間違えたんだろ」

「違うって、本当に見えたんだから! あ、ロン!」

「あ、バカ・・・・・・!」


 後列甲板から歩いてきた背の高い男に声をかけようとしたジャニを、パウロが慌てて止めようとする。しかし男は手元にあった書物から目をあげると、ジャニを見て温和に微笑んだ。


「おはよう、どうしたジャニ」

「あ、ロンさんすみません、なんでもないんです! こいつがちょっと見間違えただけで」

「違うって! 本当に陸が見えたんだから!」


 口を塞ごうとするパウロに抵抗しながら、ジャニが叫ぶ。


「なに、陸が見えたのか? それは船長に報告しないとだな」


 ロンは笑顔を消すと、後甲板に向かって踵を返した。パウロの隙をついて拘束から逃れたジャニも後に続く。

 ロンは他の男たちとは少し容貌が違った。肌は色白で、目がすっと細く、長い黒髪を背中で一括りにしている。着てる服も一風変わっていた。


 彼はこの船の船医であり、クォーターマスターという船長と同等の権限を有する、この船の副船長的存在であった。皆から一目置かれているこの男に、しかしジャニは臆することもなく平気で喋りかける。気が気ではないパウロだったが、ロンは誰にでも分け隔てなく接するため、特に気にしてはいないようだった。


「おい、船長! ジャニがどうやら陸を見たようなんだが」


 後列甲板に向かう階段を登りながら、ロンが舵輪を操る男に声をかける。ジャニを追ってきたパウロがカエルの潰れたような変な声を出した。

 鼻歌を歌いながら舵輪を片手で操作していた男が、こちらをじろりと一瞥する。一層強い風が吹いて、男が肩にかけているコートをたなびかせた。

 額に赤いバンダナを巻き、小麦色の肩までかかる髪をまとめている。精悍な顔はよく日に焼け、涼しげなオリーブ色の瞳がよく映える。白いシャツをたなびかせ、均整取れた体でたたずむその姿は、どこか船首像の獅子を思わせた。


 彼こそがこの船の船長、クック・ドノヴァンである。


 通称“翼獅子のクック”で通っている、この海域では知らぬもののいない海賊であった。

 クックは興味深そうにジャニを見ると、背後で四分儀を手に太陽を見上げている男に声をかけた。


「ということらしいが、キアラン。そろそろバルトリアは見える頃か?」

「船長、小僧の言うことなど聞くまでもないこと。私の計算では陸などまだまだ見える頃合いではありませんよ」


 四分儀から顔を上げた男は、大きな鉤鼻越しに、ジャニと後ろで縮み上がっているパウロを睨み、鼻を鳴らした。


「お前ら、悪戯に嘘の報告をした罪で鞭打ちにされたくなければ、さっさと甲板掃除にもどれ! 忌々しい」

「はい! お邪魔してすみません!」


 冷や汗を流しながらジャニを抱え上げ、パウロは風のように素早く階段を降りていった。その腕の中でジャニはまだ暴れている。キアランは再び四分議に目を当てながら苦言を呈した。


「あの小僧は目立ちたがりやで困ります。この船に置いてやってるだけ感謝するべきなのに、図々しく意見してくるなど、鼻持ちなりません。船長も、あいつはバルトリア島でとっとと野放しにしないと、面倒を引き起こしますぞ」


 そして海図のあるテーブルまで歩いて行った。

 彼はこの船の一等航海士である。丁寧に刈り込んだ口髭を蓄え、上等な生地の上着を着こなした伊達男だ。

 クックはキアランに生返事をしていたが、彼が離れてロンが傍に立つと、喉の奥でくつくつと笑った。ロンが怪訝そうにクックを見る。


「何がおかしい?」

「いや、あいつが目立ちたがりやなのは確かだが、航海に必要な素質はバカにできねぇんじゃないかと思ってな」

「それはどう言う意味だ?」

「奇遇にも、俺もあの小僧と意見は同じってことさ。この風の強さだと、キアランの計算も微妙に誤差が出る。俺の感覚だとあの小僧の言うことは」


 そこで言葉を切り、クックはふところから望遠鏡を出して、先ほどジャニが指差した方の水平線を覗いた。そして、ぽいっと望遠鏡をロンに放り投げる。


「間違ってないってことさ」


 同じく望遠鏡を覗いたロンは、はっと小さく息を飲んだ。レンズの向こうに、小さく見慣れた島の姿が映り込んだのだ。しかし望遠鏡を外して肉眼で同じところを凝視しても、島はかけらも見えない。

 クックは今度は声を上げて笑った。


「化け物並みに目がいいな、あの坊主は!」


 ロンは驚嘆の眼差しで下の甲板にいるジャニを見下ろした。パウロに何か怒られている眼帯の子供は、言われていることなど素知らぬ風で、島の方向を嬉しそうに眺めている。

 あの隻眼の子は、そもそもこの船の正規乗組員ではなかった。

 出会いも今思えば奇跡的であった。記憶は数ヶ月前に遡る。





 それは御目当ての商船にありつけ、負傷者も最小限でほどほどの積み荷を手に入れ、意気揚々とアジトに帰ろうとしていた矢先だった。

 その夜は風も気持ちよく吹き、波は荒すぎず、特になんの変哲もなかった。甲板に見張りを残して船員のほとんどが就寝の準備をしに、下甲板に降りてハンモックを梁の間に吊るしたりしている時だった。


「船が燃えてるぞ!」


 見張りの叫びに、船員たちは甲板に躍り出た。そして見張りが指差す方向を見て、驚きの声を上げた。

 数十キロ先の海に、火の玉のように煌々と燃える帆船があったのだ。

 その帆船に近づいて様子を伺うと、見るも無残な有様だった。砲弾にやられたのか、メインマストは根元から折れ、帆もズタズタに裂けている。甲板には倒れている人影が数多くあったが、炎が近くまで迫っているのに動くものは一つとしてなかった。

 幽霊船のような異様な雰囲気に、みなは息を飲んで夜を明るく照らす炎を見つめていた。


「どこの商船だろう。誰にやられたんだ」


 ロンが一人呟いていると、クックが傍に来て、険しい顔で甲板のヘリを掴んだ。


「イグノアの商船だろう。おそらく同業者にやられたんだろうが、このやり方は・・・・・・」


 ぎり、と唇をかみ、クックは吐き捨てるようにその名前を出す。


「“人喰い”だろうな」

「まさか、“人喰いのゲイル”が?」


 クックはうなずいて、まわりで呆然と燃える船を眺めている船員たちに怒声をあびせた。


「まだ近くに船があるかもしれない、注意を怠るんじゃない! あと船に近づきすぎると火の粉が飛んで飛び火するぞ! 右舷に舵を切れ!」

「面舵いっぱい!」


 号令が飛び交い始め、騒がしくなった甲板に歩いて行こうとしたロンは、ふとか細い声を聞いた気がして、燃える船を振り返った。じっと目を凝らして、甲板に倒れている人影をくまなく見る。

 その時、燃える船の格子が音を立てて持ち上がり、中から小柄な人影が飛び出してきた。ロンははっと息を飲んで、船縁を掴んで身を乗り出す。

 人影は子供だった。眼帯をした痩せた子供が、燃える甲板に這い出し、煙にむせたと思ったらすぐ倒れて動かなくなった。


「おい、子供がまだ生きてる! 甲板に倒れてるぞ!」


 声を上げて、振り返った時だった。

 すぐ横を誰かが走り抜け、鉤付きのロープを燃える商船の索具に投げつけたかと思うと、鮮やかに船に飛び移ったのである。

 あっという間の出来事だった。その人物の頭にたなびく赤いバンダナを見て、ロンは血の気がひくのを感じた。


「クック! やめろ、無茶だ!」


 炎はすでに甲板の広範囲をなめ尽くしているが、子供が倒れている部分は奇跡的にまだ免れていた。

 クックはそこに飛び降りると、倒れている子供を肩に担いで、燃え盛る炎を掻い潜って船縁に飛び乗り、夜の海に飛びこんだ。

 船員たちは喝采をあげて、クックをひきあげるためにロープを海に下ろした。クックは気を失っている子供の気道を確保しながら翼獅子号まで泳ぎ、ロープに子供の身体をくくりつけ、ひきあげるよう合図した。

 船員たちが掛け声を上げながら、二人をひきあげる。

 甲板に引き上げられた子供は、完全に気を失っているようだった。ロンは子供に駆け寄り、その呼吸と脈を見てほっと息をついた。次いでクックを睨みつける。


「お前は一体何をしでかすかと思えば・・・・・・、運が良かっただけだからな! 下手したらお前も燃えてたかもしれないんだぞ!」

「でも、生きてるだろ?」


 悪びれる様子もなく肩を竦めて見せるびしょぬれの船長に、ロンはため息をつくしかなかった。クックは濡れたシャツを脱いで水を絞りながら、周りにいる船員に進路の指示をいくつかすると、子供を抱き抱えて自分の医務室に連れて行こうとするロンに声をかけた。


「そいつが目を覚ましたらすぐ俺を呼んでくれ。あの船に何が起こったか聞きたい」

「ゲイルのことを聞き出すつもりか?」


 クックは険しい目を向けると、黙って下甲板に降りて行った。





(しかし結局、何が起きたかはわからなかったな)


 記憶から意識を戻したロンは、元気に笑うジャニを見てため息をついた。

 その後、意識を取り戻した子供は、自分の名はジャニだということ、海賊になるため港に停泊していた商船に潜り込んで海に出たこと、船倉で息を潜めていたら、上の方が騒がしくなり、煙が充満してきたため慌てて甲板に出てきたこと以外の記憶をすっかり無くしていたのだ。船が襲われた時のショックでそうなったかは謎だったが、本人は特に気にしている様子はなかった。

 それよりも自分を助けてくれたのが夢にまで見た海賊の船長であり、この海賊船にいられることが嬉しくてしょうがないらしく、気がついたらこの船に馴染んでしまっていた。

 今では片足義足のコックの助手となり、家畜の世話や料理、配膳の手伝いなど多岐にわたって仕事を任されている。


 ただ、謎なことは他にもあった。頑として眼帯を外そうとしないのだ。


 最初面白がって無理やり眼帯を外そうと手を出した船員が、ジャニに噛み付かれて流血沙汰になって以降、誰も眼帯のことに触れるものはいなくなった。


(だが、たしかにキアランの言う通りだ。バルトリアに着いたら、クックはジャニをどうする気なんだろう)


 身寄りのない子供だ。売り飛ばすことはないとしても、バルトリアで身を寄せられる場所は限られている。海賊たちの溜まり場のようになっている無法地帯の酒屋、もしくは娼婦館の小間使いにされるのが関の山だろう。かといって、危険しかない船旅に連れて行くのも気が引ける。

 そこまで考えて、思ってる以上にジャニに情が移っている自分に驚き、ロンは苦笑した。


(まぁ、クックのことだ、ある程度考えているだろう)


 ロンはそう結論づけることにした。

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