右手
電車に揺られること30分。特に意味もなく竹澤市までやって来た。駅構内を出て周囲に目を配っていると横断歩道で信号待ちしている大勢の人だかりが目に留まった。信号が赤から青に変わる。先ほどまでスマホの画面を熱心に覗き込んで立ち止まっていた人々が急に前を向いて生き急ぐように早足で歩きはじめる。その光景を見て僕は何だかひどく馬鹿馬鹿しいことが目の前で繰り広げられているような気持ちになった。
疲弊した表情が顔にこびりついているサラリーマンも、ギターケースを抱えたまま駅前のロータリーをうろつく金髪男も、手をつないで歩いている親子連れも、公衆の面前でいちゃつく若いカップルも、自分自身さえも。何もかもが冗談のように思えてくる。
全て冗談ならどれほど良かっただろうか。居たたまれない気持ちになった僕は駅前から逃げるように足早に立ち去ることにした。繫華街を離れてできるだけ人通りの少なそうな幅の狭い小道ばかり選んで無心で歩く。そうやって歩き続けていると公団住宅のある通りに出て、ベンチとブランコと砂場しかない小さな公園に辿り着いた。
夜の公園は海の底のような静けさに包まれていた。街路灯のランプには大量の羽虫が群がっており僕はベンチに座ると光に向かって必死に飛んでいる羽虫たちを眺めた。この羽虫たちは母と同じだ。祭壇の前で膝を折り、祈り続けていた母と。意味のないことを永遠に繰り返し続けている。
少しため息をついてから目を閉じる。そうしてしばらくじっとしていると不思議なことに瞼の裏でセンセイを刺し殺した記憶がありありと蘇ってくる。それはまるで無声映画でも見ているかのような奇妙な感覚だった。
映像はちょうど僕が包丁でセンセイを刺した場面から始まった。月の光を浴びて青白い輝きを放つ刃先が芋虫のように膨れ上がったセンセイの腹にずぶずぶと沈んでいく。
肉を切り裂く慣れない感触に身を強張らせている映像の中の僕はさらにセンセイの身体に容赦なく包丁を突き立てていった。腹回りの贅肉と脂肪が邪魔で刃先がなかなか進まないのだろう。ドアノブを捻る要領で手首を回転させながら必死の形相で体重を前にかけている。生暖かくてぬるりとした血の匂いがフラッシュバックしてこちらも頭がくらくらとしてきた。
プツンッという音が聞こえ、センセイの目が飛び出していきそうなほど大きく見開かれる。どうやら刃先が太い血管を探り当てたらしい。
出血の量も次第におびただしくなっていった。
糸の切れた人形みたいにセンセイが床に倒れたところで映像は終わり、意識がゆるゆると現実に浮上していく。閉じていた目を開き膝の上に置かれた自分の右手を見つめる。散々、洗い流したはずなのに右手から血の匂いがまだ漂っているような気がした。
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