右手
電車に揺られること30分。特に意味もなく竹澤市までやって来た。駅構内を出て周囲に目を配っていると横断歩道で信号待ちしている大勢の人だかりが目に留まった。
信号が赤から青に変わり、先ほどまでスマホの画面を熱心に覗き込んで立ち止まっていた人々が急に前を向いて生き急ぐように早足で歩きはじめる。僕はその光景を見て何だかひどく馬鹿馬鹿しいことが目の前で繰り広げられているような気持ちになった。
疲弊した表情が顔にこびりついているサラリーマンも、ギターケースを抱えたまま駅前のロータリーをうろつく金髪男も、手をつないで歩いている親子連れも、公衆の面前でいちゃつく若いカップルも、自分自身さえも。何もかもが冗談のように思えてくる。
居たたまれない気持ちになった僕は駅前から逃げるように足早に立ち去ることにし繫華街を離れ、できるだけ人通りの少なそうな幅の狭い小道ばかり選んで無心で歩いた。
僕は矛盾した行動を取りつづけている自分自身にひどく苛立っていた。
血の匂いが洗い流せているのか。駅前のビジョンに殺人事件の容疑者として自分の顔がデカデカと今にも流れてしまうのではないか。道行く人々とすれ違う度に視線が自然に下を向く。
窮屈な思いをすることになると頭で理解していながらチグハグな行動をしてしまうのは孤独を恐れる僕の心の弱さからきているものなのだと思う。
人として越えてはならない一線を越えてしまったのだ。人殺しになった自分を受け入れてくれる寛容な世の中ではないことくらい覚悟していたはずなのに、僕はまだそのことを許容することができずにいる。
結局、僕は逃げてしまったのだ。あの母のように。社会とも、誰とも繋がることのできないという不安と恐怖から。
そんなことを考えながらしばらく歩き続けていると解体を待つばかりのほとんど廃墟と化した公団住宅のある通りに出て、ベンチとブランコと砂場しかない錆びついた小さな公園に辿り着いた。
真夜中の公園は海の底のような静けさに包まれていた。僕は激しく明滅を繰り返す街灯下のベンチに腰掛け、街灯の光に向かって必死に飛びまわる羽虫たちを眺める。光に群がる羽虫と祭壇の前で膝を折り、祈り続けていた母が二重写しのように重なって見えた。
少しため息をつき目を閉じる。そうしていると不思議なことに瞼の裏でセンセイを刺し殺した記憶がありありと蘇ってきた。それはまるで古い無声映画を見ているかのような奇妙な感覚だった。
映像はちょうど僕が包丁でセンセイを刺した場面から始まった。月光を浴びて青白い輝きを放つ刃先が芋虫のように膨れ上がったセンセイの腹にゆっくりと沈んでいく。
スクリーンの向こう側にいる僕がセンセイの身体に容赦なく包丁を突き立てる。ドアノブを捻るように執拗に手首をくるりくるりと回転させ腹回りについた贅肉と脂肪を刃先で押しのけていく。
太く唸って苦悶に満ちた顔を浮かべるセンセイ。僕は必死の形相で重心を落とし体重を前にかけ続けている。
やがてプツンッという音が聞こえ、センセイの目が飛び出していきそうなほど大きく見開かれた。包丁の刃先が太い血管を探り当てたのだ。それと比例するように出血の量も次第におびただしくなっていく。
糸の切れた人形みたいにセンセイが床に倒れたところで映像は終わり、意識がゆるゆると現実に浮上していった。閉じていた目を開けて膝の上に置かれた自分の右手を見つめる。散々、洗い流したはずなのに右手から血の匂いがまだ漂っているような気がした。
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