NLP ーNecromancy Laid Programmingー

七里田発泡

プロローグ

 その日は月がいつもより大きく見えたような気がした。満月の夜だった。ガラス窓から差し込んでくる青白い月の光が、殺風景な部屋を明るく照らしている。まるで月が「俺を見ろ」と語り掛けているみたいだった。おびただしい量の赤黒い血だまりの上にいくつもの光の筋が落ちる。


 血だまりの中心には、センセイが仰向けに横たわっていた。すぐ横には先ほど僕が投げ捨てた包丁が床の上で所在なさげに転がり、刃先には赤黒い血に混じって黄色いシミのようなものが付着していた。それは人間の脂肪だった。


 冷蔵庫がぶぅーんという音を立てて唸り始める。ふと我に帰る。そうだ。センセイが本当に死んだのかどうか確かめなくては。そして動かなくなったセンセイに近づいて、覗き込むように彼の目を見る。死んだ魚のような生気のない目は天井の一点をじっと見つめ続けていた。いくら目の前で手を左右に振って見せてもまばたき1つすらしなかった。


 どうやら本当に死んでいるらしい。疑いが確信に変わると、急に全身から力が抜けていく。そこではじめて僕は自分がひどく緊張していたことを自覚した。人を殺したという実感がいまいち湧いてこなかったのもそのせいなのだろう。途方もない疲労感が思考を鈍らせていたに違いない。


 きっかけはほんの些細な思い付きだった。センセイを殺せば何かが変わるかもしれない。僕は天から啓示を受けたような感覚に陥った。そしてすぐに男を殺す段取りを猛烈な勢いで組み立て、実行に移した。


 後悔はなかった。達成感もなかった。行動を起こした結果、残ったのは何も起こらなかったという純然たる事実だけ。空っぽな人生。空っぽな自分。僕には何もない。


◆◆◆◆


 他にやることもなかったので気晴らしに外に出かけてみようかと考えたが、流石にこの恰好のまま外に出るわけにはいかないので、まずは全身に纏わりついている血の臭いを洗い流すことにした。シャワーを浴びるために居間を横切り、風呂場へと向かう。足の裏が血でぬるぬるして気持ち悪かった。自分の足音がひたひたと廊下に響いている。


 脱衣所に入ると、まず血塗れの衣服を脱いで裸になった。ふと誰かの気配を感じた。誰かが僕を見ている。視線は無意識に洗面台の鏡へと吸い寄せられた。月明かりに照らされ青白く光り輝いている鏡のなかに僕ではない誰かの影が写っている。


 目を凝らしてよく見てみるが、さっぱり分からない。影は影のままだ。だけど僕は彼の正体を知っている。僕には分かる。おまえが誰なのか。


「殺したのか?」


 鏡の向こう側にいる影は僕に向かってそう言った。


「殺したよ。


 ◆◆◆◆


 電車に乗って隣町の竹澤市まで行った。竹澤駅前の交差点は今日も大勢の人だかりで埋め尽くされている。信号が赤から青に変わり、鮮やかな色とりどりの傘を手にした人々が一斉に動き出す。


 大勢の人波が眩い街の明かりのなかに溶けて1人、また1人と消えていく。何だかひどく馬鹿馬鹿しいことが目の前で繰り広げられているような気持ちになってきて心がざわついた。


 疲れ切った表情でトボトボと歩くサラリーマンもギターケースを抱えたまま駅前のロータリーをうろつく金髪男も、親子連れも、若いカップルも、視界に入る全てのものが気に食わない。全部壊れてなくなってしまえばいいのに。


 逃げ去るようにして駅前から立ち去り、適当にブラついているといつの間にか街灯もまばらな暗い裏通りに足を踏み入れていた。僕はこの道を知っている。この道は祖母との思い出がたくさん詰まった公園に続いている道だ。今の今まですっかり忘れていた。鳥や虫が遠く離れたところから自分の古巣に戻ってくるように、人間にも動物の帰巣本能のようなものが備わっているのかもしれないなと僕は思った。


 市営住宅横にある小さな公園に辿り着いた。誰もいない真夜中の公園は海の底のような静けさに包まれていた。


 完璧な静謐の中、僕は自動販売機横の古びたベンチに腰を下ろして目を閉じた。


 暗い闇のなかで肉を切り裂く音が聞こえた。太い血管を断ち切った時の感覚が呼び起こされた。人を殺したという実感が今になって沸々と湧き上がってくるのを感じる。


 僕は目を開け、膝の上にある右手を見つめた。シャワーを浴びたのに右手からはまだセンセイの返り血の匂いがこびりついていた。

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