公園
ズボンの右ポケットから湿ったタバコを1本取り出して口に咥える。火はつけなかった。唇の間に挟まるフィルターの感触を感じながら光に群がる羽虫たちの様子をボーっと眺め続けていると、これまで自分の身に起きた全てが嘘のように思えてくるから不思議だ。
視線を前に戻すと睨みつけるような目で僕をじっと見つめるスーツ姿の男の姿があった。
こんな夜遅くに子供が何をしているんだ、と声を掛けられたので滑り台の横にある時計台にふと目を見遣った。時計の長い針は現在の時刻が真夜中の23時であることを示している。
こんな遅い時間まで働かないといけないなんてサラリーマンは大変だなぁとか思っていると男は眉間にしわを寄せ、さらに不機嫌な顔つきになっていった。
「煙草か?それ」と男が言う。「何で子供がそんなものを持っているんだ。どうやって買った? 万引きか? 」
それに対して「これはね。プレゼントなんだよ」と僕は嘲りを含んだ底意地の悪い笑みを頬に浮かばせながら答える。
「プレゼント?」
「そう、プレゼント。神様からのね」と言いながら人差し指を立てて空を指差した。頭上の空には暗い井戸の底のような闇ばかりが広がっていて月の姿も見えなくなっていた。
「大人をからかうのもいい加減にしろよ」
「いい加減にしなかったら? どうする? 警察に突き出す?」
僕は男の全身から漂ってくる剣呑な雰囲気を肌身にひしひしと感じながらも挑発を続けた。警察という単語が自然と自分の口から出てきたことに驚きつつも僕は無意識のうちに自嘲めいた笑みを浮かべている自分がいることに気づいた。
馬鹿げたことをしている自覚はあった。僕は人殺しだ。もし警察を呼ばれたら未成年喫煙どころの話では済まなくなるのは容易に想像がつく。
リビングには自分の指紋がたっぷりついている包丁が置きっぱなしにされているし、洗濯機の中には血まみれの衣服が放り込まれたまま何もしていない。犯人が僕であることはすぐに明らかになってしまうだろう。
にもかかわらず、どういうわけか自分でも分からないが僕は目の前にいるこの男に自分の未来を委ねてみたいという不可解な衝動に駆られていた。それは破滅願望に近い謎めいた衝動だった。殺人の痕跡を隠蔽しなかったのも奇妙な衝動によるものである。『衝動』だけで行動』が決定されるなんて我ながら狂った獣みたいな感性をしていると思った。運命の天秤が左右のどちらに傾くのか。どうやら僕の関心はもっぱらそのことのみに終始しているようだ。
アインシュタインが残した言葉に”神はサイコロを振らない”というものがある。もしアインシュタインが言っていることが本当で、この世のありとあらゆる事柄が目には見えない法則や運命めいた何かの働きによって全て定められているのだとする。そうすると今の僕の状況も超自然的な力が導いた結果ということになりはしないだろうか。これまでとは真逆のアプローチを敢えてとってみるのもアリかもしれない。自然の成り行きに任せると、どのような場所に行きつくのか。確かめてみたい気持ちがあった。
「お前を警察に引き渡したらお前の親も、担任の先生もきっと悲しむだろうな。今回だけは特別に見逃してやるから手に持っているそれを捨てて、さっさと家に帰れ。2度とこんなことすんじゃねえぞ」
「見逃してくれるんだ。案外、優しいんだね。おじさん」
表通りの方からパトカーのけたたましいサイレンが聞こえる。鼓膜にやけに響く、誰かの悲鳴のようなけたたましいサイレンが段々とこちらに迫ってくる。心臓が激しく高鳴った。センセイの遺体が警察に見つかり両手に手錠を掛けられた自分の姿を想像する。心臓が嫌な感じにどくんどくんと何度も跳ねあがる。
夢から醒めたような気分だった。結局、いくら心の内で強がってみたり冷静さを装ったところで現実の自分は無力な臆病者のままなのだ。何も変わっていない。人殺しになったこと以外は。僕は己をひどく恥じながら祈るような気持ちでサイレンの音をじっと聞いた。
結局のところ僕は逮捕されなかった。パトカーのサイレンは徐々にフェードアウトしていき街の喧騒の中へと消えていった。そのとき僕は不思議なことに気が付いた。警察に捕まることを酷く恐れながらも、それをどこか楽しんでいる自分がいたのだ。僕は僕自身のことがよく分からない。他の誰でもない自分自身のことのはずなのに。
しばらく経って落ち着きを取り戻した僕は再び煙草を口に咥え、それから火を付けた。そしてスーツの男にわざと見せつけるように口から煙を吐き出してみせる。紫煙が白い霧のように口の端からゆるゆると立ち昇る。夜の中に消えていく煙を眺めながら僕は言う。
「おじさんは神様って信じる?」
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