夕暮れ

  僕がまだ6歳だった頃に兄は死んだ。交通事故だった。僕が落としてしまった玩具 (それはお菓子のおまけについてきた小さな車の玩具だった)を拾うために兄は、渡ったばかりの横断歩道を急いで引き返し、交差点を左折してきたトラックに轢かれて死んだ。即死だった。 


 事故の原因は黄色信号で交差点に進入したドライバーの過失によるものとされたが、僕は玩具を落とさなければそもそも事故は起きなかっただろう。


 あの日の事故のことは今でも鮮明に思い出すことができる。アスファルトの上にシミのようにこびりついている脳漿、明後日の方角に折れ曲がった右足。パックリ裂けた傷口から赤黒い肉が顔を覗かせ、顔の右半分の皮膚は擦り切れ、めくれあがっていた。昔、テレビで見た四谷怪談のお岩みたいだな、とぼんやり思った。柔らかそうな肉からドロっとした血が糸を引くように地面に滴り落ちる。血はアスファルトで、じわりじわりと拡がっていく。


 僕は至って冷静だった。目の前で起きた事を、どこか遠い世界の出来事のように感じながら僕はぺしゃんこになった兄の右脚を、まるで生き物の死骸を観察するような目でじっと見つめた。


 時が経ち、身体が大きくなるにつれて僕は自分の犯した罪の重さを正確に把握することができるようになった。どうしてあの時、死んだのが自分ではなく兄だったのか。罪悪感という名の遅効性の毒に心を蝕まれながら、自分は死ぬまで何度も何度もこの光景を思い出すことになるのだろう。あの日、聞いた泣き叫ぶ母の声がまだ耳の奥の方でずっとこだましている気がした。僕と母の時間はあの日から止まったままだった。


 その日を起点に様々な不幸の連鎖反応が起こり始めた。母は精神を病み、僕は祖母の家に預けられ、そして祖母はその僅か2年後に脳梗塞を患い、この世を去ることになった。


 祖母との思い出を振り返るたびに、いつも思い出す景色がある。それはブランコから見下ろす夕暮れ時の公園の風景だ。幼稚園が休みの日、祖母はわざわざ隣町の遊具がたくさんある広い公園までわざわざ僕を連れて行ってくれた。祖母はいつだって優しかった。


 夕方5時を報せるチャイムと揺れるブランコから聞こえてくる規則正しい金属音が園内に響きわたる。砂で形作られてた不格好なトンネル。錆び付いている黄色い滑り台。西の方角に向かって群れを成して飛んでいくカラスたちの鳴き声。山の稜線に沈みつつある赤い夕暮れ。


 僕と同じくらいの年齢の子供たちが母親に手をひかれて公園から次々と立ち去っていく。僕はブランコを漕ぐのをやめた。祖母が覗き込むような目でこちらをじっと見つめてくる。悲しそうな目。不安そうな目。それは僕を心配している時に祖母がよく見せる目だった。可哀想なものを見るような祖母の目が嫌いだった。だから僕は祖母と目線を合わせないようにひたすら視線を地面に落とし続ける。


「お母さんのこと考えてるの?」


 祖母が声をかけてくる。


「ねぇ直くん。お母さんはね。今とっても辛い時期だからお休みしないといけないの。寂しいだろうけど少しの間だけだから。もう少しだけおばあちゃんと一緒に頑張ろうね」


 僕は地面の上にじっと視線を落とし続けた。


 ◆◆◆◆


 公園からの帰り道。夕日に照らされ細く伸びた2つの影法師がアスファルトの上に浮かびあがる。僕の手を引いて歩く祖母の腕は痩せ細っていてまるで木の枝みたいだった。老人特有のカサカサとした皮膚の感触。深く刻まれた皺だらけの手。僕の思い出の中にいる祖母はいつも笑顔で、いつも優しかった。


 でも実際は、そうでなかったことを僕は知っている。祖母が僕に向ける慈愛溢れる微笑みは自分の本心を悟らせないようにするためのただの仮面でしかないことを僕は知っている。祖母は僕が寂しい思いをしないよう、自分自身を犠牲にして精一杯の愛情を最期まで僕に注いでくれていた。祖母の愛情は見せかけだけのものでは決してなかった。それだけは断言できる。


 にもかかわらず当時の僕は祖母が与えてくれる愛情を素直な気持ちで受け取ろうとしなかった。心は常に、ここにはいない母の方ばかりに向いていた。僕は祖母の愛情から目を背け続けていた。つまるところ僕にとって祖母は祖母でしかなかったということなのだろう。母親の代わりはどこの誰にも務まらない。そういう思いが僕の心のしこりとしてどこかにずっとあったのだと思う。


 こうして過去を振り返ってみると僕と祖母の間には絶えず重苦しい空気が流れていたような気がする。最終的に祖母という存在は僕の中で最も近しい他人という関係性に落ち着くことになった。お互いどこか他人行儀な振る舞いを捨て去ることができないまま、僕らの関係は最終的に祖母の死という結果をもって終わりを迎えた。祖母はシミ1つない清潔な病院のベッドの上で静かに息を引き取った。


 あまりにも呆気ない人生の幕切れに僕は茫然とするしかなかった。兄の時とはまるで違う、まったく新しい死のカタチに困惑せずにはいられなかった。人の最期というものは、こんなにも呆気ないものなのだろうか。これが本来あるべき人の死というものなら、どうして何の罪もないはずの兄があのような死に方をしなければならなかったのかと思わずにはいられなかった。

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