外傷体験
兄が死んで2年後の夏。つまり僕が8歳の頃に祖母はこの世を去った。キッチンで仰向けに倒れ、微塵も動かなくなった祖母を見下ろしながら僕はどうして祖母はこんなところで寝ているんだろうと、目の前の現実から目を背けようと必死になっていた。
そして兄を亡くしたあの日の自分と今の自分が全く同じ反応していることに僕はこの時、気づいた。自分は人として大切な何かが自分には欠落しているのかもしれない。この世に生まれてくる際にきっと母のお腹の中にその何かを忘れてしまったのだ。そう思った。
床の上に散らばるコップの破片。
流しっぱなしの蛇口の水。
遠くの方から聞こえてくるアブラゼミの鳴き声。
四角く切り取られた窓枠の外に広がる景色には血のような赤みを帯びた空と山の稜線に沈みつつある夕日が空にぽっかりと浮かんでいた。開けっ放しの窓から夜の気配を微かに含んだ熱風が吹き込み、汗で濡れた前髪が額に重く張り付いてくる。
日没前の最後の照り返しが窓から差し込んでくると、先ほどまで薄暗かったはずのキッチンが
黄昏時が生み出す、おぞましく幻想的な風景。兄が死んだあの日の空もこんな色をしていた。アスファルトの上の赤い血だまりが、夕陽を滲ませて強く照り返していた。針金のように小さかった兄の手足がまるで球体関節人形みたいにあらぬ方向に折れ曲がり、骨が肉を突き破って外に露出していた。モズの早贄をなんとなく彷彿とさせるそんな光景だった。
母は地面にへたり込んで、ほとんど絶叫に近い悲鳴をあげていた。多分、正気ではいられなかったのだと思う。ほどなくして騒ぎを聞きつけた人が次々と僕らのもとに集まってきた。哀れみの言葉を口にする人。悲鳴をあげる人。警察を呼んでいる人。様々な人が様々な行動をとっていた。かつて兄だったものの残骸は周囲に濃密な死の匂いを振りまいて野次馬どもの視線を釘付けにしている。目の前に広がる非日常的な光景に誰もが息を呑んでいた。
個人的に一番こたえたのは密かに事故現場をカメラ撮影している人がいたことだ。数台のスマートフォンのカメラレンズが、辛うじて兄の原型をとどめている肉の塊を捉えていた。フラッシュが焚かれて視界に白い光がはしる度に、自分のなかにある大切な何かが汚されているような気がした。
僕たち家族の間で起きた一連の出来事は、その他大勢からすれば退屈な日常の中に唐突に投げ込まれた、ささやかな刺激的出来事でしかないのだろう。数日経てばこのことを忘れ、いつもの日常に戻っているはずだ。内奥にある己の罪深さにも気づかないまま。永遠に失われた僕たちの日常は第三者からすればその程度のものでしかない。
僕は彼らのことを羨ましく思った。
祖母はその日の夜のうちに病院で息を引き取った。誰にも看取られないまま迎える死はいったいどういうものだったのだろう。棺の中にいる祖母の表情は心なしかとても穏やかに見えた。
棺に横たわっている祖母の死体は次の瞬間にでも目を覚まし、動き出しそうな気配さえあった。血の通わなくなった身体は蝋人形みたいに固く、ぞっとするほど冷たかった。
祖母と兄。2人の死を通して僕は人の死にも様々なカタチがあることを知ることができた。死というもたらされる結果が平等でも、死へと至る道筋は平等ではないということを。
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