食事風景

 僕と母は祖母が亡くなり空き家となった築50年以上の家に移り住むことになった。閑静な住宅街のなかにひっそりとたたずんでいる2階建ての木造家屋は至るところで経年劣化による影響が如実に現れていた。


 ドアや窓は建付けが悪く、隙間風がどこからともなく室内になだれ込んできた。大型トラックが家の前を走行する度に家全体が激しく揺れ、廊下を歩けば床からミシミシと音が鳴った。まるで家そのものが悲痛な叫び声をあげているようだった。


 居間は足の踏み場に困るほど雑多なもので溢れかえっていた。折り畳まれていないシワまみれの衣服、スーパーのビニール袋、近所に新しくできたパチンコ店のチラシ、空になったペットボトル。ありとあらゆるものが床の上に散乱していた。もし祖母が生きてこの場にいたら、どこに何があるのか分からないほど散らかっているこの有様を見て、どんなことを思い、母に何を言うのだろう。家の主が祖母から母に移り変わってまだ数か月しか経っていないというのに、部屋の中は既に巨大なゴミ溜めになっていた。


「亮介は私が作るハンバーグが特に1番好きでね。『お母さんのハンバーグ食べたい』ってしつこいくらい私にねだってくるのよ。あの子、凄くワガママなところがあったから……」


 母と生成り色のテーブルを挟んで向かい合って座り、夕食を食べる。テーブルの上にはインスタントの味噌汁が並々と注がれた赤と黒の汁椀があり、ワンプレート皿にはお手製のハンバーグとスーパーのカット野菜、白米が盛りつけられ等間隔に並べられていた。


「ほんとうに優しい子だった。私がハンバーグ作る時は必ずボウルで一生懸命、ひき肉を捏ねたりいろいろと手伝ってくれるし……。でもあの子ちょっと不器用なところがあるから、ハンバーグの形がいつもいびつだったのよ」


 母はフォークとナイフを器用に用いてハンバーグを1口サイズに器用に切り分け、次々と口に運んでいった。デミグラスソースがついたままの厚ぼったい唇がてらてらと光った。僕は母の話に耳を傾け続けた。


「そうそう、思い出した。亮介ったらね。図工の時間で絵を描いた時に友達から『下手だ下手だ』って言われて凄く怒って帰ってきたこともあって……」


 食卓には兄が好物だったハンバーグが頻繁に並べられた。そうすることで母は過去になろうとしている兄との思い出を必死に繋ぎとめようとしているのかもしれなかった。この行為が母なりの、ある種の弔いの形であるというのならば僕にはそのことに口を出す権利も資格もなかった。僕のせいで兄は死んだ。兄は僕が殺したも同然だった。


 のべつ幕無しに話し続ける母の表情を見ながら僕は様々な角度や観測点から母の内奥に潜んでいるであろう感情を汲み取ろうと試みてみた。しかし、いくら頑張ってみても母が何を考えているか分からなかった。もし心に形があれば、きっと母の心は半分に欠けた月のような形をしているのだろう。


「野菜もいつも残すのよ。特に生野菜は苦くておいしくないから食べたくないってワガママばっかり。もう大変だったんだから」


 いつもと同じ献立。いつもと同じ話。毎日が同じことの繰り返し。そうやって終わりの見えないサイクルが連綿と続く。僕の意識も日々の生活と同じで、地球の周回軌道上を悠然と漂う人工衛星みたいに、同じ地点をひたすらぐるぐると凄まじい速度で回り続けている。変わり映えしない毎日。退屈な日常。死ぬまで終わりの見えない人生のマラソン。


 「あれからもう2年も経ってしまったのね。あの頃は亮介の好き嫌いに振り回されて毎日、夕飯は何を作ろうかずっとあれこれ考えてたなぁ」


 壁に掲げられている時計の針は午後6時を知らせようとしていた。最近、巷で話題になっているアニメが始まる時間だった。


「母さん。テレビつけてもいい?」


 僕にとって番組の内容はさほど重要ではなかった。燃費の悪そうなバイクのやかましい排気音でも近所の子供がはしゃぎまわっている声でも何だってよかった。鉛のように重苦しい空気を突き破ってくれる何かを僕は欲していた。


「食事中でしょ。食事の時はテレビをつけない。それがウチのルールだってついこの前も言ったはずだけど? 」


「でも……」


 兄が生きていた頃、そのようなルールはなかった。テレビのチャンネル権は兄が握っており、夕飯時のテレビ画面には騒々しい子供向け番組がいつも映し出されていたはずだ。


「やめて。口答えしないで。おばあちゃんの家ではそうだったのかもしれないけど、食事中にテレビを見るのはとても行儀の悪いことなの。分かった?」


 母の強い口調には明確な拒絶の響きが伴っていた。有無も言わさぬ烈々たる気迫が母の射貫くような視線から感じられ僕は身をこわばらせながら静かに首を縦に振った。


 母は僕の顔を一瞥した後、うんざりといった感じで視線を食器に落とし大きなため息をついた。


 いたたまれない気持ちになった僕は皿の上に転がっている肉片にフォークを突き刺した。どろっとした琥珀色の肉汁が溢れ出す。僕にはそれが兄の頭部から飛び散った濁り色をした脳漿のように見えた。無理やり肉を口の中へと押し込む。そうすれば亡くなってしまった兄と目には見えない糸で繋がることができるような気がした。


 気狂い染みた馬鹿げた妄想を頭の中で思い描きながら、ただただ肉を咀嚼していく。


 どうすれば母を元気づけてあげることができるんだろう。教えてよ兄さん。


 肉の塊だったものが次第に口の中でぽろぽろと解けていった。奥歯で細かく嚙み砕かれた肉が口の中で唾液とドロドロに混ざり、何だか兄の残滓を咀嚼しているみたいで胃がムカムカして気持ち悪くなる。


 兄の一部が胃液に溶かされていくイメージを頭に思い描きながら無心で顎を上下に動かし続ける。これは罰だ。兄を死に追い遣ってしまった僕が罰を受けるのは当然のことなんだ。そう自分を納得させるように強く言い聞かせながら僕は粥状になった肉を喉を鳴らして飲み込んだ。

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