幸福

 考えるだけの時間は無限にあった。母親のこと、これから先のこと、自分の感情、あるいは人の死について。どれも一生かかっても答えが出そうにない議題ばかりであった。人が、ありもしない答えを追いかけ続けようとするのは考えるという行為そのものに何らかの価値や意味みたいなものがあると信じたいからに過ぎない。


 自分の世界に閉じこもるクセがついたおかげで僕は孤独を苦に思うことはなくなったし、クラスの連中からの冷ややかな憐みの視線も気にならなくなった。多少の虚しさを味わうはめにはなったが、周りの声に流されないメンタルを獲得することができた。寂しさや悲しみに抗うためには、まだ心もとないかもしれないが僕は自らの感情が着実に鈍くなりつつあることを素直に喜び、これを歓迎することにした。泣いたり笑ったり怒ったりすることは自分を無意味に疲弊させているようなもので、そのような意味のないことにいちいち頭を悩ませるようなことはいい加減に終わりにするべきなのだ。


 いよいよ僕は人とは異なる道を歩み始めようとしていた。太陽の光が届かない冷たい月の裏側へと続く最初の1歩を僕は踏み出す。


 ――人間にとっては小さな1歩かもしれないが人類にとっては偉大な1歩である。


 僕の脳裏に人類が初めて月面着陸に成功した宇宙船アポロ11号の船長、ニール・アームストロングの有名な言葉がふとよぎった。


 ◆◆◆◆


 『人は幸せになるためにこの世に生まれてきたのよ』


 これはクラスの担任である山口先生が帰りのホームルームの時間で口にした台詞である。


 僕はすぐにその言葉が自らのものではなく借り物の言葉であることに気づいた。言い終えた時の得意げな顔つきからなんとなくそれが分かってしまったのだ。恐らく先生は著名なエッセイストや芸能人、もしくは徳の高いお坊さんあたりが口にしていた台詞をそのまま拝借しているだけなのだろう。


 他人から盗んできた出来合いの言葉に、ほだされるような人間になりたくなかった僕は心の中で先生のことを見下すことで自分を保とうとしていた。他人を見下げていると自分が特別な人間としてこの世に存在することを許されたような気がした。


 幸福とは人よりも自分が恵まれた環境にいると自覚することで発生する一種の心理状態のことだ。人は常に何かと何かを比較させ、優劣をつけたがる。もし本当に誰もが幸せを享受できるような時代が来れば、比較対象を見失った人々は”幸福”が”普通”となってしまったつまらない世の中に絶望することになるだろう。幸福には生贄が必要なのだ。


 性別、容姿、年齢、肌の色、出身地、学歴、年収、恋人、能力、仕事。自分の手の内にある物差しで他人を格付けし、自分より劣っていそうな人間を必死で見つけては安心感を得て、自分より優れた人間を見つけては落ち込む。誰かと自分を比較することに意味はない。幸せかどうかは、人それぞれが自分の人生にどのような意味付けを行うかによって決まるものだからだ。


 先生が語る「幸せ」と僕が考える「幸せ」の間にはどうしようもないほどの大きな隔たりがあるように思えた。先生の言葉は何の根拠もないただの綺麗ごとにしか僕に聞こえない。先生自身が考えている幸せがどういうもなのかこれっぽっちも見えてこなかった。


 僕には幸せにならなくてはいけないという漫然とした意識が、多くの不幸を呼び寄せ、人々を失意のどん底に叩き落としているように思えてならなかった。幸せに生きることができなかった人たちの人生や死に様に思いを馳せてみたことが先生にはあるのだろうか。


 暗澹たる思いが胸の内で広がっていき、気持ちはますます沈んでゆく。


 僕が自分を追い詰めたその先にどんな景色がひろがっているのか見てみたいと思うようになったのはこの頃からだった。その頃の僕は自分の人生に意味を与えるために、己の幸福を差し出そうとする哀れな道化を演じているに過ぎなかった。そうして、ずっと後になって自分がこれまで無駄なことをしてきたということが分かった時、僕は既に自分の手を汚してしまっていた。幸福の生贄を求めていたのはクラスの連中でも、世界でもなく、ほかならぬ僕自身だった。

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