後
「いってええ……」
「烈! どこかやられたのか!」
「へーきへーき、かすり傷だ」
「馬鹿! こいつは毒持ちだぞ!!」
「うええ……」
がくり、膝から力が抜ける。
へたり込んだ烈の眼前に、甲虫のような形をした
終わった。そのカッと開かれた口吻を眺めながら、妙に冷静に烈は思う。
「
瞬間、烈の鼻先で、びきりと蟲は動きを止め、そのままぽとりと地面に落ちた。
「烈、仕留めろ! 術は長く持たん!」
蒼馬の鋭い声が耳を打つ。しびれてほとんど動かない右腕を何とか持ち上げ、烈は蟲の身体に刃を突き立てた。蟲はびくりと一度動き、そのままグズグズと崩れ出す。
それを視界の端におさめながら、烈はゆっくりと横倒しになった。
「はあ、はあ、うぐう、ぐう……」
呼吸筋までが麻痺してきたようだ。息を吸うこともままならず、視界にはすぐに黒い帳が降り始める。
音もなくぱくぱくと動きを繰り返す口元に、何か温かいものが触れた。
「
抑えた声が聞こえたと同時に、一気に温かみが、全身に流れ込んでくる。それに洗い流されるように、胸元から手先、足先と、痺れがゆっくりと消えていく。
「ぶっ、ぐはっ、はあ、はあ……」
横倒しのまま咳き込み、荒い息を繰り返す烈の手を、温かい手が握った。
「分かるか」
柔らかい、いつもの、蒼馬の声だ。必死にコクコクとうなずく。
「やられたのは、どこだ」
微かに左腕を動かすと、分かった、と言うように、蒼馬の手が烈の左肩に触れる。
「ぎっ……」
「……この傷口はこのままでは塞がらん。悪いが少し、痛いぞ」
淡々とした蒼馬の声。ほぼ同時に、灼熱感と激痛が、左肩を襲う。
「ぐ、ぐ……」
全身を震わせながらも歯を食いしばる烈の背を、蒼馬の左手がなだめるように優しくさする。
「もう少し……さあ、済んだ」
ぽん、と左肩を叩かれる。痛みは嘘のように消えていた。
「ありがとな、……蒼馬、お前ってほんと、凄いな。神様、みてえ」
「……」
朦朧とまわらぬ舌で紡がれる言葉に、蒼馬は軽く眉を寄せる。それから、安らかに寝息を立てだした烈の様子をしばらく眺め、深く息を吐く。
「神様、か。どっちかっていうと、その対極なんだがな……」
さらり、烈の前髪に軽く指で触れると、苦笑いする。
それから、むき出しの太刀を鞘に納めると、ぐったりとした小柄な身体を抱え上げ、上空へと飛び上がった。
蒼馬と烈がペアを組み、妖を狩り始めてから3か月が経っていた。その間、2人は6体の
「ったく、毎回毎回、何でこんなに形が違うんだよ……」
「仕方がないだろ、俺たちどちらも、圧倒的に経験値が足りないんだ。でも、お前が毒を見切れないとは知らなかった。悪かったよ。……それにしてもよく食うな」
蟲の妖の毒から完全に回復した烈は、使った体力を取り戻すとばかりに、恐ろしいほどの食欲を見せている。
「体動かしたら、腹減るに決まってんだろ。おばちゃーん、おかわり!」
「はいはい」
行きつけの食堂のおばちゃんも、肩をすくめる。
「それにしてもお前と組んで楽になったわ。と言うか、これまでよく勝ててたな、ってレベル」
「全く同感だ。頼むから、いちいち死にかけないでくれ」
「いやー、毎回、はじめは余裕だと思うんだけど、気がつくとさ……」
蒼馬は軽く息をつき、再び山盛りになったご飯をがっつく烈を眺める。今回の戦いも、本当に心臓に悪かった。自分の寿命はここ3か月で、間違いなく数年は縮んでいると思う。
ようやく烈が満腹になり、並んで夜道を帰りながら、烈ははあっと白い息を吐いた。
「星がきれーに見えるな。にしても、この戦いっていつまで続くんだろ」
「永遠に、だな。『門』が閉じれば、頻度も難易度もぐっと下がるだろうが、妖の侵入は完全に防げるわけじゃない」
「……なあ、聞いていいか? 『門』を直すって、実際、どうやるんだ?」
「説明してなかったか。門の
「……聞いてるだけで、超絶難易度高そうなんだけど……」
「そうだな。俺は生まれた時から、いつかこれを成すためだけに、様々なことを叩き込まれてきた。通っていた中学校も、私立の全寮制の形を取っているが、実質は『門番』養成学校だ。卒業後はそのまま道場に入り、お前と会ったあの夜まで、一度も外に出ることはなかった」
「……はあ? どういうこと? ずっとその道場とやらにこもって修行してたってこと?」
「まあ、そうだな」
「はああ……そりゃすげえわけだよな……」
蒼馬は微かに顔をしかめた。烈の肉声にも、そして声にも、特殊な生い立ちの自分を忌避するような響きは微塵もない。彼のそのまっすぐさに触れるたびに、何故か自分の胸は、刺されるように痛むのだ。
「そして、その
言いかけた瞬間、二人の前に、烈の愛刀、「鬼切安綱」が姿を現わした。狩りの呼び出しだ。
「ええ、早すぎねえ!? さっき戦い終わったばっかなんだけど!?」
「仕方がない、俺たちが一番近いんだろ。行くぞ」
烈が、愛刀の鞘に手を伸ばす。刀を握った瞬間、二人の姿は闇夜に掻き消えた。
刀に誘導された場所に到着したとたん、2人は顔をしかめた。
「おい、ここ、さっきまで戦ってた場所だよな」
「ああ。狩り残したか? いや、そんなはずは……」
ひゅう。真冬の深夜にしては、妙に生ぬるい風が吹き抜ける。
こいつは――強い。
ちりちりと全身の毛が逆立つのを感じながら、蒼馬はあたりに目を走らせる。
「烈。この気配、只者じゃない。油断するな」
「分かってるよ……」
シャラン。烈の太刀が抜き放たれる音が響いた。
びょう、と、もう一度突風が吹き抜ける。
一瞬奪われた視界が戻った時、目の前にそれはいた。ほぼ、人と見分けのつかない
チリチリとした感覚が強くなる。自分の頭髪までが逆立っているのが分かった。
すう、と蒼馬の隣で烈が息を吸い込む。
烈の体が、妖に向けて踏み込もうと
「
凍り付いたように、烈はそのままの姿勢で静止する。
「悪いな、烈、俺の獲物だ」
瞬間、蒼馬の体はすでに、妖の正面にあった。トン、とその胸に右手をつくと、周囲にぶわりと風が巻き起こる。
「
流れるように繰り出される呪言に、妖はなすすべなく立ち尽くしている。その身体が、手先、足先から、じわじわと黒色に変色し石化していくのが見て取れた。
(捕らえた……)
蒼馬は、震える息を吐き出す。あとはここから、門扉を念じ出せば。
瞬間。
妖の、見えない首が、笑った。
(しまっ……)
罠だ、と気づいた時には遅かった。
『
妖の見えない口から、呪言が繰り出される。
(なん、だと……)
瞬間、体がぎりぎりと捕縛され、全身が氷のような冷気に包まれる。そして、手足の先から、ゆっくりと感覚が失われていくのが分かった。
(
かろうじて動かせる眼球で自身の状態を確かめる。身体を蝕む石化の術は、まるで蒼馬の恐怖を楽しむかのように、じわじわと進んでいた。
『
脳内に、
『自らの術の切れを体感しながら死ぬるとは、オツなものじゃろうて』
そのまま、妖の姿はゆっくりと闇に溶けていく。
『さてこれで、しばらくは餌場は安泰じゃ』
蒼馬は目を閉じ、胸元に意識を集中する。まだ、心臓は動いている。――まだ、終わりじゃない。
ずおお、と、不気味な振動が夜気を揺らす。空中に、ゆっくりと蜃気楼のように、巨大な扉が湧き出してくる。
立ち去りかけていた妖が蒼馬を振り向くのが分かった。
『ほお。
『乱心したな。その身体で術を使うのは、苦しかろうて。死に際ぐらい、静かに転がっておれば良いものを、どこまでも愚かなものだな、人間というのは』
扉は徐々にはっきりとした形を取り始める。
蒼馬は歯を食いしばり、ゆっくりとそれを、降下させる。自らの上に。
『これは奇矯な。おのれを
『そうまでして門を閉じようとは、門番とはどのような性根の生き物なのじゃ……』
『門』の柱と、蒼馬の石化した体がゆっくりと近づく。
(あと、少し)
蒼馬の額から、汗が噴き出す。
柱と礎が触れ合おうという瞬間、『門』はぐらりと傾いた。
目を上げると、妖がその柱に足をかけている。
『いつの世も、お前たちのその無駄な愚直さは、見事に
ぐぐ、と、門柱がずらされる。
『目障りだ。さっさと死なんか……』
そこでふいに、妖の声が途切れた。
ぼとり、門を足蹴にしていた右脚が、腿から落ちる。
次の瞬間、ずん、と、『門』は
「蒼馬!!」
妖の右脚を一太刀で切り落とした烈が、その門から飛び込んでくる。
「烈、こちらへ来ては駄目だ!! 戻って、扉を、扉を閉めてくれ!!」
かすれた声で蒼馬は叫ぶ。
「俺に構うな!!」
烈は動きを止めず、振り向きざまに、蒼馬が生み出したばかりの『門』を横薙ぎに切り払った。
「な、に、を……」
あまりのことに、蒼馬は目を見開いて固まる。
烈は無言で、切り落とした妖の脚と蒼馬の体をつかむと、崩れかける『門』に再び飛び込んだ。
*
「はあ、はあ、はあ……」
降るような星空。自らの吐き出す白い息の合間にきらめくそれを眺めながら、蒼馬はただ、地面に寝転がり荒い息を吐いていた。
瀕死に近い状態で、自らの石化の進行を止め、
「お前さあ……いくら俺でも、さすがに傷つくよ?」
傍らに座り込んだ烈は、普段の彼からは想像できない、抑えた静かな声で続けた。
「なんで一番肝心な時に、一緒に戦わせてくれないわけ。挙句の果てには人柱になろうなんて……」
「すまない。でも、もともと、俺はそういう、役回りだから。門が閉じるまで、命がある、可能性の方が、低い」
「役回りって……」
烈は大きくため息をつく。
「おかしいだろ、そんなの」
「おかしくは、ないさ。俺は、お前の先祖が、その刀で右手を切り落とした鬼、
烈は、蒼馬を振り向いた。
「そんなの、お前が死んでいい、何の理由にもならない。俺が一緒にいる限り、お前にあんな死に方はさせない、絶対に」
「……」
蒼馬は深く息を吐く。
ありがとな、ぽつりとつぶやいた小さな声は、夜空に吸い込まれるように消えていった。
やがて呼吸が整うと、蒼馬はゆっくりと起き上がる。
「先ほどの
「ほええ」
「……分かってないな。まあいい。ゲームでいうなら、ラスボス級の相手だ」
「なーる。とにかく、強えんだな」
「まあそうだ。今回のあれこれで、おそらく俺たちは、あいつの恨みを買った」
「まあ、脚、切り落としちゃったしな……」
「この門も、脚一本の
「ほええ。ま、何とかなるだろ。……それよりさあ、俺、また腹減った」
ふ、と思わず蒼馬は微笑んだ。
「俺もだ」
立ち上がりかけてよろめく蒼馬を、烈がとっさに支える。
「なあ、お前、もしかして今、空飛ぶ余裕、ない?」
「……残念ながら」
「うわ。家まで、どんだけ歩くんだよ……」
「悪いな」
「いや、……なあ、おぶってやろうか」
「冗談はよしてくれ」
「いや、お前支えて歩くより、その方が早いと思うぜ」
「やめろって、おい!!」
ひょいと担ぎ上げられ、蒼馬は抵抗をあきらめた。正直なところ、立っているのもままならない程、体はボロボロだった。
細身に見えて、意外としっかりとした烈の背に揺られながら、やっとのことで蒼馬は言葉を紡ぐ。
「烈、気付いてたか。さっき、あいつの脚を切った時、お前、気の力を使ってたぞ」
「ほええ……」
変わらず能天気な声に、思わず蒼馬は噴き出す。
こいつとなら、やれるかもしれない。
自分一人の時には想像もできなかった、
温かい背中。ゆっくりと、全身が眠気に支配されていく。薄れかける意識の中、最後に、蒼馬はそんなことを思っていた。
剣士と門番 霞(@tera1012) @tera1012
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