かたん。

 部屋に戻ると窓に鍵をかけ、蒼馬は大きく息を吐いた。そのまま、ゆっくりと床に膝をつく。

 レインウェアを脱ごうとして、両の手が、ボタンを外すのもままならないほどぶるぶると震えているのを自覚し、唇に苦い笑みが浮かんだ。どうしようもなく、そのままぺたりと床に座り込むと、頭を抱える。


 ふうう、と、もう一度大きく息を吐く。


 あのが聞こえた時には、まさかと思った。でも、駆け付けたそこには、まぎれもない烈の姿があった。

 紙一重だった。

 あとほんの少し、自分がたどり着くタイミングが遅ければ、彼は、おそらく死んでいた。

 想像するだけで、ぐにゃりと視界が歪み、吐き気と頭痛が同時にやって来る。

 何とか自分に呼吸の仕方を思い出させながら、蒼馬は唇を噛む。



 生まれた時から、自分の役割は決まっていた。それを、求められた時に、求められた形で全うする。それが自分がこの世に生を受けた、唯一の理由だった。自分自身も、周囲の大人たちも、その見えない枷をはめられた世界で、ただ粛々と生きていた。

 そんなモノクロの世界で、ひとつだけ、予想もつかずままならない、心をざわつかせる存在があった。だ。


 物心ついたころから、は常に自分の周囲にあった。察しの悪い方ではなかったから、じきに、それが普通のことではないのだということが分かった。それからは、細心の注意を払って、周囲には自分の感知しているの存在を隠し、無邪気でひたむきな「運命の子」を演じ続けた。

 は、異能者の思念の波動、とでもいうものなのだと思う。この世の片隅にうごめくヒトならざるモノ、その存在を認知する能力がある者達の心の動きを、自分はとして感じ取ることができた。

 あやかしとの死闘に全てをかけて来た自分の血族たちのは、時に鋭く時に優しく、自分を包んでいた。しかし、成長と共に、それとは異なるいくつもの声が、自分の周囲に渦巻き始めた。


 その中でも、何故だか特に自分の心をかき乱したのが、小学校に通い始めてからすぐに、耳元で響き始めただった。それは、これまで自分が聞いてきた、痛みや諦観といった、濁り、あるいは優しさともいえる要素の一切ない、恐ろしく澄み切った声だった。


 その声の出所を、探ることはしなかった。いつの間にか聞こえなくなったそれを、忘れられたと思った刹那すらあった。

 でも、今夜、自分にははっきり分かってしまった。

 あれは、烈のだった。

 幼い子供だったあの頃から、もちろん自分には分かっていたのだ。ただ、見て見ぬふりをしていた。彼のあまりに明朗快活な精神の在り方は、自分には、まぶしすぎた。そして、彼のが聞こえるということは、いつかはその精神が捻じ曲げられる宿命にあるということを意味していた。それを、認めたくはなかった。


 なのに。

 蒼馬は膝を抱え、ぼんやりと顔を上げる。窓の向こうには、思い出したようにぽっかりと、まん丸の月が浮いていた。


 5年ぶりに相対あいたいした烈は、あの頃となにも変わらずまっすぐだった。彼に与えられた宿命は、自分とは違う、でもまぎれもなく過酷なものだ。それをくぐり抜けながら、それでも烈は変わらずおバカで、ただ可愛くていい奴だった。


 満月の薄明かりが、殺風景な部屋の中を、隅々まで照らしている。

 もう、荒い呼吸も、震える指もおさまって、そこにはただ不自然なほどの静寂があった。


 生き延びてくれ。何とか、俺が『門』を閉じるまで。

 ひたすらに天空でまんまるに輝く物体を眺めながら、蒼馬は思う。……もう、会うこともないだろうけれど。

 それからおもむろに立ち上がると、ばさりとレインウェアを脱ぎ捨てた。





「組んで戦え、とは?」


 目の前の老人から告げられた言葉をすぐには理解できず、蒼馬は思わず聞き返した。


「この坊主、癖がつきすぎている。基本から叩き直して鍛え上げるには、少なくとも数年はかかるだろう。だが、今、妖をめぐる事態は一刻を争う。悠長に修行なんぞしている時間はない。いますぐにでもこいつを、狩りに出さねばならん」

「いや、だからって……」

「そもそもが、この事態を招いたのはお前達『門番』の不始末。一人の妖狩りの援護に力を割くくらいの協力は、してもよさそうなものじゃ」


 蒼馬は老人をにらみつける。都合が良い時だけ自らの立場を持ち出すのは、老獪な長老共のお家芸だ。


「……俺たち『門番』は、直接に妖を傷つけることはできない。結局、烈に妖を斬る力がなければ、狩ることはできないでしょう」

「それに関しては、問題ない。こいつの身体能力は常軌を逸しておる。今のやり方でも、これまで、単独で数体の妖を屠って来た。妖の特性に合わせた援護をしてもらえれば、勝機はあろう」

「勝機……」


 そんな賭け事のような真似をさせたくないから、この老人に任せたのに。蒼馬は顔をしかめたまま、老人の後ろに立っている烈に目を移した。


「へへ、わるいな、蒼馬。なんか、何にも考えずに体が動いちゃって、練習台すぐに壊しちゃってさあ、全然このじーちゃんの言ったとおりにできねえの。俺、もしかして、バカなのかな」

「……」

 そこは否定できない。


「練習台を、壊した?」

「言ったじゃろう、こやつの身体能力は異常だ。修行用の躯体を、自己流の攻撃で再起不能にされた。3体だ」

「3体……」

「今、本能のままに動いているこいつのやいばは、ある面では最強だ。型を知れば、それに習熟するまで、こいつは今より弱くなる。わしが、今、付け焼刃でしてやれることはない」


 蒼馬は、舌を出して笑う烈を凝視する。確かに、小学生のころから運動能力は高かったが、そこまでだったとは。


「……分かりました。上には、御大からお話しいただけますか」

「よかろう」

「それから、遭遇した妖に、いしずえの材料の適性があった場合、その場で彼の援護は打ち切り、門の再生に入らせていただきます。ご了承いただけますか」

「……よかろう」

「では、交渉成立ですね。……烈、来いよ。とりあえずお前の太刀さばき、ちゃんと見せてくれ」


 蒼馬はおもむろに、首をかしげて話を聞いていた烈の手首をつかむ。


「え、ちょ、ちょっと!?」

卜部うらべ殿。お世話になりました」

「おお、武運を」


 底知れぬ笑みを浮かべる老人をその場に残し、二つの人影は、空中へ舞い上がるとみるみる遠ざかり、やがて老人の視界から姿を消した。

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