剣士は冬至に斬る

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剣士は冬至に斬る

 夜明け前、静けさが街を包み込んでいた。

 冷たい朝は、まるで世界が氷のように凍りついているようにも感じる。

 白い息が漏れた。

 冬の朝は、遅い。

 日の出も遅く、まだ辺りは薄暗い。

 空気の冷たさも相まって、世界はまだ夜のような錯覚を起こさせる。

 そんな中でも鳥たちはもう目覚めていて、時折遠くからさえずりが聞こえてくる。

 今日は一段と冷え込んでいる気がする。

 そんな時間に起きているのは、早起きを日課にしている人間か、そうでなくても、もう起きてしまった者くらいだろう。

 しかし、その中でも特に早く起きた少女が居た。

 身体は華奢だが、それでもどこか芯が入ったような印象があった。

 装飾も邪心もない心を宿した瞳。

 セミロングに切り揃えられた黒髪。

 髪を留める赤いリボンは未だに、少女心を表しているようでもある。

 身体は華奢だが、それでもどこか芯が入ったような印象があった。

 それがあるのは、彼女が日々行っているトレーニングのおかげだろうか。

 少女の名前は、紅羽瑠奈くれはるなと言った。

 今日も、いつも通りだった。

 瑠奈は、ジャージに着替えて家の外に出ると、まず、ストレッチをする。

 屈伸や前屈といった基本的なものはもちろんのこと、肩甲骨周りの筋肉を伸ばすことで姿勢が良くなり、運動中のケガが減るのだ。

 そして、柔軟体操を始める。

 ストレッチと柔軟体操は同義語のように思われるが、厳密に言えば異なる。

 ストレッチは、筋肉を適度に伸ばして良好に動く様にする運動。

 柔軟体操は、筋肉を限界まで伸ばして関節が動く範囲を広げる運動。

 瑠奈は、その二つを併用することで、効果を高めていた。

 この時間は、何よりも大切にしていると言ってもいいかもしれない。

 ゆっくりと時間をかけて行う。

 身体が温まるまで、じっくりと。

 その後、ジョギングを行う。

 最初はゆっくり走る。

 徐々にペースを上げていく。

 走りながら考えることは色々ある。

 お母さんが作る今日の朝食は何だろうとか、授業中に眠らないように気をつけないとだとか、そんなことばかりだ。

 考え事をしながら走っているうちに、いつの間にかペースが上がってしまうこともある。

 息が上がりながらも、ただひたすら足を動かす。

 身体が温まる。

 帰宅してから、木刀を用いて素振りを行う。

 それが終わればシャワーを浴びて汗を流し、身支度を整える。

 朝食を取る。

 それが瑠奈の日常であり、一日の始まり。

 習慣というのは、昨日の繰り返し。続きみたいなものだが、それでも、習慣というのは中々抜けないものだ。

 そのせいか、瑠奈は毎日同じことをする癖があった。

 それは例えば、食事でもそうだし、勉強でもそうである。

 そして、トレーニングにしても、やはり同じように繰り返しているのだ。

 だが、ある時、それを少し変えてみた。

 と言っても、ジョギングのペースを変えただけだ。

 以前は段々とペースを上げていたのを、ゆっくり走ることにしたのだ。ジョギングは一緒に走る隣の人と会話ができるくらいのスピードが目安とされる。

 それに合わせたのだ。

 その時から、瑠奈は1人の少年とすれ違う様になった。

 少年とは、いつも決まった場所ですれ違う。

 初めは偶然だと思っていたのだが、どうにもおかしいことに気がついた。

 いつも同じ時間に、いつも同じ場所ですれ違う。

 まるで、自分と同じ行動パターンを取っているようだ。

 そこで思い当たったのが、自分のストーカーではないかということであった。

 瑠奈には、そういう経験があった。

 だが、下校時に少年に付けられたり、家の間近に少年が現れることは無かった。

 試しにジョギングコースを変えると、少年とは会わなくなった。

 つまり、少年は毎朝決まった行動パターンを辿っているのではないか。そう考えたら辻妻が合う気がした。

 いつもすれ違うが、少年が視線を瑠奈の方に向けることはなく。真っ直ぐに歩いて行く。

 背後を決して振り返ることは無いので、瑠奈の存在をすれ違う車程度にしか思っていないのだろう。

 逆に、瑠奈の方が少年のことをずっと見ている状態になっていた。

 彼はおそらく、瑠奈と同い年くらいの、中学生だと察した。

 背丈が同じくらいなのだから間違いないだろう。

 黒いフード付きのトレンチコートを羽織り、カーゴパンツを履いている。

 カジュアルな服装を好むのか、あまり見慣れない感じだった。

 ただ、着こなし方が上手なのか、少し野暮ったく見えるだけで、そこまで不自然ではない。

 瑠奈は少年の顔を思い出す。

 長めの前髪を額にかけ、そこにしっかりとした面立ちがあった。

 だが、武骨ではない。

 顔は親から譲り受けたものだが、環境でその面立ちは変わる。

 恵まれた環境ならば、穏やかなものに。

 荒んだ環境ならば、厳しいものに。

 少年の場合は親から譲り受けたもの以上に、環境でできあがった面立ちが感じられた。ガラスのような透明で冷ややかで、浸食を受けつけない不変さを持つ。そんな面立ちだった。

 だが、瑠奈の最も目を引いたのは、彼が手にしている鞘袋だった。

 それも二振。

 多少の長短がある。

 鞘袋は反りを描いている。

 中身は竹刀ではない。

 あれは真剣だ。

 瑠奈が持っているような模造刀ではなく、正真正銘の本物だと直感的に思った。根拠はない。ただの女の勘である。

 しかし、それは確信に近いものだった。

 それは少年の持つ雰囲気によるものなのか、それとも……。

 とにかく、あの少年は何か普通とは違うものがあると感じたのだ。

(……あんな子が居るなんて)

 珍しいものを見た気分だった。

 今まで一度も見たことがないし、噂ですら聞いたことが無いのだから、本当に珍しいことなのだろうと思う。

 そんなことを考えつつ、ジョギングを終えて家に帰ると、母が朝食を作って待っていた。

 武道を志す娘の姿に母は不安を感じているようだが、娘の決めたことを尊重したいという思いもあるらしく、何も言わないことにしているようだ。

 瑠奈にとってはありがたいことだった。

 朝の時間は貴重だから。

 母に挨拶をして食卓につくと、いつも通りに朝食を食べ始める。

 朝食を取り終えると、学校に行く準備をする。

 制服に身を包み、髪を櫛で梳かして整える。

 それから鏡の前で笑顔の練習をしてから家を出る。

 今日も変わらない日常が始まる。

 そんな日常を過ごしながらも、あの少年のことをどこかで考えていた。

 そう感じた日から、瑠奈はジョギングコースを変えた。

 すれ違うタイミングは変えない。

 変えるのは、その後のコースだ。

 少年が何処に行き、何をしているのかを知りたくなった。

 だから、瑠奈はわざと遠回りをした。

 すると、予想通り、彼の後をつけることができた。

 少年の足取りは、いつもと変わらない。

 静かに規則正しく、一定のリズムで歩を進めている。

 まるで機械のように正確な動き。

 しかし、その歩みに迷いはない。

 少年が向かう先は、いつも決まっているようだった。

 瑠奈も知っている場所だった。

 そこに到着するまで、およそ10分。

 瑠奈は、その場所を知っている。

 そこは、高台の公園だった。

 遊具などはなく、展望台と休憩所があるだけの小さな公園。

 木々に囲まれていて、街を見渡せることから人気はあるらしい。

 だが、今は早朝ということもあり、人の姿はなかった。

 瑠奈は、木陰に隠れて様子を伺うことにした。

 少年は鞘袋を解くと、脇差を腰に差す。

 次に、もう一つの鞘袋を解き、刀を取り出す。

 奇妙な刀だった。

 少年の刀には、鍔がなく柄頭には手貫紐が下がっていた。

 手貫紐とは、輪になった紐に手首を通して柄を握り戦闘時に刀剣を取り落とさないように使うものだ。本来は馬上で使用される太刀に見られる拵えであり、刀には見られない。

 腰に差す。

 かつての剣士達がそうであったように、二本差しをしている。

 瑠奈には分からなかったが、差し方も脇差しは柄頭を立てるようにし、刀は脇差の鍔より低い位置に閂状に差す。

 刀を抜く際は、下から拝むように手をかけるため、脇差が上、刀が下でなければ手がかけにくい。

 また、刀が上、脇差が下の場合、柄を握った時に相手に刀の柄を上から押さえられると、脇差の柄との間に指を挟まれてしまうのを防ぐ意味合いもあった。

 そして、少年は瞑想を始めた。

 精神統一だろうか。

 瑠奈は、その様子を木に隠れ眺めていた。

 やがて、少年はゆっくりと瞼を開く。

 刀の鞘に作られた切り込みに左親指の爪を入れると、鯉口を切る。

 少年は刀の柄頭から垂れた手貫紐に右手の親指を掛け手の甲に巻くように手首に通し、右手で柄を下から迎える。

 そして、抜き終わっていた。

 抜刀開始時から、抜刀後に至るまで音は無い。

 静寂の中で、刃だけが空気を切り裂いている。

 抜かれた刀を見て改めて思ったが、寸尺の短い刀だった。

 刃長二尺(約60.6cm)の刀。

 それは思いの他、短い刀だ。

 刀の定寸は、二尺三寸五分(約71.2cm)。

 つまり、少年の刀は三寸五分(約10.6cm)も短いのだが、その刀は刃肉がたっぷりとした蛤刃だ。

 通常、刀の断面は刃先から峰に向かって大きな膨らみは見られない。これに対して蛤刃というのは、蛤がそうであるように、刃先からの断面がなだらかな曲線を描いており、その分厚みがある。

 このような構造にすると、斬れ味は若干落ちるが、叩き斬る、叩き割るといった使い方には適しており、主に鉈や斧に使われている構造だ。

 戦国時代において戦場で用いられた刀は、鎧の継ぎ目を狙って斬ったり、槍と同様に突いたり倒したりすることを考えて、強靭な蛤刃の刀が合戦の場では重宝された。

刃長こそ短いが、戦国期の刀と作りは同じであった。

 少年は、左手を柄に添え、右下から左上に斬り上げる。

 天に歯向かうように向けられた切先は、神々しいまでに輝いていた。

 左逆袈裟斬りをした後は、手首を返し、右上から左下に振り下ろす。

 右袈裟斬り。

 少年は流れるような動作を繰り返していく。

 脚を踏み変え、逆右袈裟斬り、左袈裟斬りも交えていく。

 何度も。

 何度も。

 瑠奈には分かった。

 彼は素振りを行っているのだと。

 剣道の素振りは上下運動が主だ。

 だが、少年の動きは、逆袈裟に振り上げる。

 そして、再び下から上へと剣を振るっていた。

 鋭いにも関わらず、音を発しない。

 変わった素振りだと思いつつも、瑠奈は息をするのを忘れ、ただただ魅入っていた。

 何時間にも思える時の流れの中、彼はただひたすらに素振りを続ける。

 その姿は美しく、気高いものを感じた。

 まるで、刀と一体化しているかのようだ。

 瑠奈は時計を見る。

「やば……」

 いつの間にか、時間が経ち過ぎている。

 遅刻する訳にはいかない。

 瑠奈は慌てて、その場を後にしたが、毎朝ジョギングは変わらない。

 少年と、すれ違う。

 コースを変えて、高台の公園に行く。

 少年は昨日と同じ様に、刀の素振りを行っていた。

 毎日同じことをしている。

 公園を瑠奈が走っても、少年は刀の素振りを続ける。それを瑠奈は横目で見ては、走り去る。

 そのことに、瑠奈は何とも言えない気持ちになった。

 自分と同じことを繰り返す。

 あれが少年の日常なのだろう。

 それは、まるで同じ時間を生きているようだ。

 自分と少年は同じ時間に、同じ場所に、同じ行動をしているのではないか。

 そう思えて仕方なかった。

 ある日、少年とすれ違う時に、瑠奈は少年にあいさつしてみた。

「おはようございます」

 すると、少年はこちらを一別しただけだった。

 走りながらの、あいさつだったので、少年は答えられなかったのかも知れないが、瑠奈は少し気を悪くした。

 次の日も、瑠奈は少年にあいさつをした。

 すると、少年は返してきた。

「おはよう」

 ただ一言だったが、初めて返ってきた言葉に瑠奈は嬉しかった。

 それから、瑠奈が挨拶しても、無視されることはなく、短い返事がかえってくるようになった。

 ただそれだけのことなのに、瑠奈の心は満たされる気がした。

 瑠奈は少年の素振りのことが……、少年のことが知りたくなった。

 だから、今度は公園に居る時に話しかけてみることにした。

 それが、今日・冬至の日であった。

 冬至は、一年で昼が最も短い日だ。

 毎年12月22日前後にあたり、一年のうちで昼間の時間が一番短くなる。

 夏至の日と比べると、昼の長さが5時間弱も違う。

 瑠奈が通りかかると、少年はいつものように刀の素振りをしていた。

 瑠奈は足を止め思い切って、少年に声をかけた。

「おはようございます。朝、よく会いますね」

 少年は、手を止め瑠奈の方へ顔を向ける。

「そうだな」

 少年の返答に、瑠奈は内心ほっとした。

 だが、すぐに次の質問が口から出る。

「あの、どうしてこんなところで練習しているんですか?」

 少年は少し考えると、こう答えた。

「こいつは真剣だからな。刀ってのは、銃砲刀剣類登録証があれば公共の場でも持ち運べるが、街のど真ん中で振れる訳ないだろ。

 だが、ここなら誰もいない。他人に迷惑もかけないしな。……」

 少年は答える。

 瑠奈は少年の言葉に引っかかるものを感じたが、自然と笑顔になる。

 素っ気無さそうな少年だっただけに、瑠奈は少年が普通に会話をしてくれたからだ。

 この少年は、不愛想という訳ではない。

 きっと、人と話すのが苦手なだけだと、瑠奈は思った。

 だから、瑠奈はなるべく明るく答える。

「毎日、刀の素振りをしていますけど、居合道をしているんですか? 実は私、小学生の時は剣道をしていたんですけど、刀に触れてみたくて、今は居合道をしているんです」

 瑠奈は早口になりつつ話す。


【居合道】

 古武術にある居合術を現代武道化したもの。

 形の演武による試合形式を本旨として、試合は実際に斬りあうのではなく、段位ごとに、連盟の規定技や流派の形を演武し、審判員の旗の掲示による多数決や採点で評価することで勝敗を判定する。

 自ら作り上げた仮想敵と斬り合う。

 抜刀から納刀に到るまでを含めた技術を一つの武道と成すのは世界的に見ても特殊だ。


 瑠奈の会話に、少年は答える。

「俺のは剣術だ」

 その答えに瑠奈は納得する。

 鍔の無い刀。

 寸尺の短い刀。

 どれも、居合道では見たことのない形だ。

「剣術……。それにしては、変わった素振りをするんですね。普通、上下でしますよね」

 瑠奈の言葉に、少年は目を細める。

「それは剣道の事だろ」

 少年は言う。

 剣道では直線的な攻撃が尊ばれている。

 基本技も、正眼の構えでの相手の中心を攻めて崩し、そこから真っ直ぐに放つ正面打ちだ。

 その理由は、剣道の誕生に最も深く関わった一刀流からの遺伝子にある。

 一刀流の極意である技が「切落し」と呼ばれる究極の直線技。

 その為、流派によって剣の基本刀法は異なる。

 二階堂流では、横薙ぎの以外の刀法を3年間行わせない。

 示現流の修業は袈裟懸けに打ち込む稽古から始める。

 ならば、少年の剣は、逆袈裟斬りを主体としているのと言えた。

 振り上げた刀を袈裟斬りにすれど、刀が始まる位置としては右手に下げた位置から始まっている。

 剣術における五行の構え(中段・下段・上段・脇・八相)の中で、脇構えに近い位置ではあったが、それとは異なる構えだ。

 素振りと言えば、一つの方法しか知らなかった瑠奈にとって、それは衝撃的だった。

「こんな素振りは初めて見ました。素振りにも色々あるんですね」

 瑠奈が感心し、更に興味を持つ。

「じゃあ、貴方の剣は、そういう流派なんですね。何ていうんですか?」

 瑠奈は興味深げに聞く。

 だが、少年は無表情のまま刀に目を落とす。

「あって無いようなものだ。それに《流》は無い。人を斬ってこそ刀。人を殺す為だけの武器。だから刀なんだ……」

 そう言って黙り込んでしまった少年を瑠奈は見る。

(何を言っているんだろう……)

 瑠奈には理解出来なかった。

 その時、瑠奈は得体の知れない寒気を感じた。

 それは恐怖に近い感情だったかもしれない。

 瑠奈は思わず身震いをした。

 少年の影に髑髏を見た気がしたのだ。

 瘴気が気嵐のように渦巻いている。

 まるで、少年の周りだけ時の流れが違うように感じる。

 そのことに瑠奈は息を飲む。

 少年の周囲が纏う空気が変わった。

 留奈は何かを感じ取り、一歩下がる。

 その髑髏の顔がこちらを見ている気がして、瑠奈は息を飲む。

 いや、確かにこちらに顔を向けた。

 目玉が無いにも関わらず暗い眼窩の奥。底深い闇が留奈を捉えていた。

 留奈の足が震える。

 髑髏が陽炎のように揺らぎ、煙のように立ち上る。

 夜が明けきらぬ薄暗い中ではあったが、少年の影に久葉笠を被り、薄汚い着物を着た白骨化した骸骨が見えた。

 そして、白骨化した手には刀があった。

 その不気味な姿に、瑠奈は息を飲む。

 周囲を見れば、そいつは一体だけではなく、複数の姿があり少年と瑠奈を取り囲むように立っていた。

 瑠奈は、その数を数えられない。

 少年は9体と数を把握した。

 瑠奈は青ざめ震える声で少年に声をかける。まるで地獄に迷い込んでしまったような光景であった。

「ねえ。これ、何……」

 しかし、返事はない。

「亡者どもが」

 少年は呟く。

 瑠奈は少年を見る。

 その目は暗く、まるで深い闇をたたえていた。

 瑠奈は、その目に吸い込まれそうになる。

 少年は刀を右手に下げたままでいた。

「二度目か。やけにしつこいな……。そうか、今日は一年の中で最も日の短い冬至だったな」

 少年は独りで納得する。

 さも当たり前のように、この状況を受け入れる。

 少年は瑠奈に、目もくれずに声をかける。

「目を閉じ。耳を塞いでいろ」

 瑠奈はしゃがみ込むと、言われるままに、目を瞑り、両手を耳に添えた。

 言われた通りにする。

 この状況から逃れられるなら何でも良かった。

 瑠奈は必死に祈る。

 どうか無事でありますようにと。

 瑠奈は、少年と骸骨の集団のただならぬ様子を感じ取る。完全に囲まれてしまっており、どこにも逃げ場は無い。少年の指示に従って瑠奈は動かないことを決めたが、本当にそれでいいのだろうかと思った。

 瑠奈は少年のことを何も知らなかった。

 だが、彼が瑠奈を裏切り一人逃げるなどということは考えにくいと思っていた。

 それでも、不安に駆られる自分を抑えられず、恐る恐る目を開くと少年が映る。

 瑠奈の目に映ったのは、剣士の背中だった。

 それは、あまりにも美しく、凛々しく見えた。

 彼の後ろ姿が頼もしく見えるのと同時に、自分はなんて無力なんだろうと思ってしまう。

(私はこの人の役に立てない)

 そんな自分が歯がゆかった。

 せめて、少年の言う通りにしていれば、少なくとも死ぬことはないはずだと感じた。

 少年は刀を片手で握り、切っ先を地面に向けて下げている。

 少年は亡者達に、目を配る。

 亡者の刀を持つ位置、間合い、立ち位置を確認する。

 少年の頭の中で、剣の舞が組み上げられていく。

 少年はゆっくりと呼吸を始める。

 静かに呼吸をする度に、体から余分な力が抜けていくのが分かる。

 集中が高まり、感覚が研ぎ澄まされる。

 雑念が消え去り、意識が一点に集中する。

 亡者はじりじりと間合いを詰めて来る。

 その動きに合わせるように、少年は左足を前に出す。

 右手を少し上げ、柄を握る手に力が入る。

 呼吸を整えながら、亡者の動きを待つ。

 亡者は複数いる。多勢に無勢である以上、こちらから仕掛けるのは愚策だ。相手の動きをよく見て、隙を狙うしかない。

 やがて、亡者の1体が動いた瞬間、少年は動く。

 その他の亡者も、一斉に襲いかかってきた。

 少年は恐れを知らないように歩み出る。

 右手に下げた刀の柄に左手を運ぶ。

 左手が柄を掴んだ。

 次の瞬間、刀は左上に斬り上がっており、刀身の光が残像となって残る。

 亡者は左脇腹を逆袈裟に斬られると、薄闇に溶ける様に消えていく。

 1体目。

 少年は、次に右脚を踏み込んでの左袈裟斬りは、亡者の左鎖骨から右脇腹までを流星のように斬り裂く。

 2体目。

 少年は脚の踏み位置を変える。

 左脇に刀がある。

 少年の頭上はガラ空きになっているのを好機と見た亡者が飛びかかる。

 少年は左脚を軸にして右脚を踏み込み、体を捻りながら刀を振り回す。

 回転の勢いを利用しての、左下からの斬り上げは亡者の左肋骨の下から右肩へと抜け、そのまま半円を描くように右に振り抜く。

 3体目。

 少年の首を狙って亡者が刀を横に薙ぐ。

 少年は半歩後ろに下がり、躱す。

 刀が擦過する。

 そして、少年は、そのまま前に出る。

 亡者の左肩から腰に向かって垂直に斬り下げる。

 左雁金斬りは、心臓に近い位置を斬り裂き、その威力によって亡者の左半身と右半身を両断した。

 4体目。

 背後から2体の亡者が同時に迫っている。

 右への振り向きざまの一閃。

 2体は胴を上下に両断される。

 5体目。6体目。

 右へと勢いよく流れた刀に対し、少年は引き戻すのではなく自ら身体を寄せて迎えに行く。

 刀を扱うというより、少年は刀が斬りたい方向に斬らせているのだ。

 少年の右肩に、自分の刀が来る。

 そこから刀を薙ぐ。

 切先が駆け抜けた位置に亡者の首があった。

 亡者の首がズレて、頭が転がる。

 7体目。

 少年は刀を左八相に持っていくと、亡者の右首根に斬り込み、首根から胸までをはすに斬り離す。 

 8体目。

 少年は残り1体となった亡者を正面に捉える。

 少年は亡者と対峙するが、構えを取らない。

 刀を右手で持ち、切先を下げたままでいる。

 構えが無いようにみえて、実はこれが古流剣術にある無形の位と呼ばれる構えである。

 少年と亡者は睨み合う。

 先に動いたのは亡者だった。

 無形の位は隙だらけの構えだ。

 相手がどんな形でどこから攻めてきても、それに対して自由自在に相手の出方に対応することができる。

 少年の間合いに入った瞬間、亡者はバランスを崩し前のめりに倒れる。

 亡者の右脚の膝が切断されていたからだ。

 切先一寸(約3cm)を使った逆袈裟斬りで、膝関節部を斬ったのである。

 剣術は近間の攻防であるが故に足元は死角となる。少年は、それを狙って亡者の脚を斬ったのだ。

 少年の脇を亡者が倒れ込んで行く。

 亡者に少年は素早く正面を向けると、拝み打ちにして亡者の鎖骨付近から上下に斬り離すようにして亡者を斬る。

 試し斬りで言う所の、太々で斬り離していた。

 9体目。

 少年が最後の亡者を斬ると、亡者は煙のように消えた。

 辺りが明るくなる。

 日の出を迎えたのだ。

 少年は、刀振って残心を決める。

「……骨だけの実体が無い奴ってのは、手応えがねえな」

 少年は独りごちて、刀を布で拭って鞘に収める。震え縮こまっている瑠奈に声をかける。

「終わったぜ」

 瑠奈は耳を塞いでいた手を外し、恐る恐る少年を見上げる。

 少年は虚しげな表情で瑠奈を見下ろす。

 その顔には、戦いにおける喜びや興奮など微塵も感じられない。

 何も映ってはいなかった。

「お、終わったの?」

 瑠奈の問いに少年は鼻で笑う。

「見ての通りだ」

 少年は踵を返し、歩き始める。

 瑠奈も慌てて立ち上がり、少年の後を追う。

「あれ。一体何なんだったの?」

 瑠奈は、少年の背中に向かって問いかけた。

「後生の亡者だ」

 少年は言った。

 

【後生の亡者】

 沖縄の伝承にある、亡者。

 この亡者は、夜になると後生の国から現れる。

 夜、機を織ると、あの世の亡者に魂を取られることがある。

 刃物を恐れるらしく、仕事をしている時に口に小刀をくわえていると魂は取られない。

 亡者は金襴の袋と扇を持ち、扇で仰ぎ人間の魂を抜き袋に入れる。死神のような存在。

 だが、この亡者は日が落ちている時にしか活動ができず、日が昇ってしまうと後生の国に帰れなくなってしまう。

 その為、後生の亡者に遭った時は、鶏のマネをして朝が来たと勘違いさせると良いと言う。


 独り言のように、少年は言う。

「正確に言えば後生の亡者に近しい存在だろう。機織りなんて現代でする奴は少ない。扇と袋を使って魂を取るのではなく、刀で直に魂を取りに来ているからな。

 俺に斬られて亡者になったか。それとも、亡者になったから俺の所に来たのか。どちらにせよ、死んでまた斬られるなんて皮肉なもんだ」

 少年は遠い山向こうを見る。

 そこには太陽があった。

 その眩しさに目を細める。

「き、斬るって……。まさか、ね……」

 少年は振り返り、怪しく微笑む。

 それは、どこか悲しげにも見えた。

 瑠奈は思わず息を呑んだ。

 少年は、ゆっくりと口を開く。

 その言葉を聞いて、瑠奈は別の意味で背筋が凍った。

「学校。遅れるんじゃねえのか?」

 瑠奈は慌てて腕時計を見る。

 遅刻ギリギリの時間だ。

「うわ。やっば!」

 瑠奈は駆け出す。

 のんびり朝食を取っている時間はない。

 でも、せめてシャワーを浴びて汗だけは流したい。おやつに買っていた菓子パンがあるので、HRの後に食べようと思いながら、瑠奈は家路へと急いでいた。

 少年はそんな瑠奈を横目に、また空を見た。

 青みがかかった空が、徐々に赤みを帯びてくる。

 遥か遠くで鳥の群れが飛んでいた。

 少年は、もう一度だけ、太陽に目を向けて家路につく。

 翌日も瑠奈は、夜が明けきらない早朝からストレッチを行っていた。昨晩はなかなか寝付けなかった為、少し眠い。

 それでも、身体を動かせばスッキリするだろうと、気合を入れてジャージに着替えてから習慣をこなす。

 柔軟体操をする。

 軽く身体を伸ばし、スクワットを行う。

 それからジョギングを始める。

 昨日の体験の事は未だに頭から離れない。

 身体を動かすことで忘れようと努めた。

 だが、それ以上に気がかりがある。

 少年にお礼を言っていなかった。

 あの怪異から助けられたのだ。

 お礼を言うのが当たり前だろう。

 だから、瑠奈は今日もジョギングをしに出かける。

 今度は、少年に名前を聞いてみようと思いながら……。


 ◆


 瑠奈は高校生になっていた。

 ブレザーの制服がよく似合う、少し大人びた美少女だ。

 胸は大きくはないのが、ちょっとしたコンプレックスだがスタイルは良く腰回りは細くくびれている。スカートから伸びる足は長くしなやかであった。

 黒髪のストレートヘアーは風になびくと艶やかに光り輝き、瞳は吸い込まれそうな程美しい黒真珠のようであった。

 一日の授業の疲れを背伸びをしてほぐす。

 そんな放課後のことだった。

 クラスメイトの女子が瑠奈に話しかける。

「瑠奈。今日は練習休みなんでしょ? この後カラオケ行かない?」

 誘いに対し、瑠奈は明るい笑顔で答える。

「いいね。行こう」

 すると、女子生徒達は嬉しそうにはしゃぎだす。

 彼女達とは中学時代からの友達だ。高校に入ってからも仲良くしている。

 部活がない時は一緒に帰ったりもしていた。

 瑠奈にとって気の置けない友人達だ。

 友人達は、思い思いに意見を出し、どのお店に行こうかとか、そこに行くならどこかでファーストフードに寄ろうとか相談しながら、楽しそうに予定を立てていた。

 瑠奈も楽しく会話に参加していると、彼女のスマホにメールを知らせる着信音が鳴る。訝しげに画面を見ると、内容を確認する前に相手の名前を見ただけで笑顔が浮かんだ。

 瑠奈の表情がパッと明るくなるのを見て、友人達が不思議そうに問いかける中、メールを開き、内容を確認する。

「どうしたの瑠奈?」

 すると瑠奈は手を合わせて謝る。

「ごめん、みんな。ちょっと急用ができちゃった」

 そう言うと居合刀ケースを肩に担ぎ、足早に教室を出る。

 友人の引き留める声を無視して下駄箱まで一直線に向かうと、ローファーに履き替えて校舎を後にしていた。

 瑠奈は走る。

 身体が軽い。足が軽やかに動く。

 まるで背中に羽が生えたように感じる程に気持ちが高揚する。

 自然と笑みが溢れてしまう。

「あいつの方から、会いたいなんて珍しいわね……」

 瑠奈は、そう呟きながら、嬉しさを隠しきれない様子で走っていた。

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