青から朱へ
進捗雑魚太郎
白紙の思いは伝わらない
終わりかけの冬と、始まりかけの春、その隙間。 午後の日差しに色あせた教室だった。
「━━既に知っている人も多いと思いますが、」
卒業式まで、一週間足らず。 珍しく教室に来た教頭先生は、クラスメートの笠間が亡くなったことを告げる。
交通事故だったらしい。 騒然とした小さな教室。 パニックを起こして先生に宥められてるやつ、両手で顔を覆って俯く子、嗚咽を噛み殺せなかった人、静かに俯いたままでいる友達、そんな中でいつもどおりの顔をしているから、居心地の悪くなった私。
その日は空気が温くって、ふとした瞬間、たとえば瞬きをした拍子に眠ってしまいそうになるような、そんな一日で。 だから私は、ランドセルの金具を自分の指に噛ませたりしていた。
「これから春休みを経て、中学生になるみなさんに──」
じぃん、と指先が熱を持つ。 圧迫された箇所が、生気を失ったような白を帯びていく。 耐え難いとまではいかなくても、眠気を払うのに丁度いいくらいの痛み。
「花野井」
教頭先生の声だけが聞こえてた教室に突如、副担の怒号が響いた。 私の名字が叫ばれて、ぎょっとして背筋を伸ばす。 名前もおぼえてない初老の女の先生と目が合う。 般若のような表情で、じっと私を睨みつけている。
何が起きているかわからない私に向かって、ゆっくりと、その粉っぽい口元を動かした。
「真面目に聞け」
──あ、今、私、
──怒られた、んだ。
「すいません」
動揺で震える胸の内とは裏腹に、淀みなく言葉が出てくる。
──思えばずっと、こんな調子だった。 悲しいとか辛いとか苦しいとか、そんな感情を無視して、この体はお構い無しで普段どおりに機能していた。 悲しさで涙は出ないし、腹の底から怒っていてもへらへらと誤摩化してしまう。 傍目からは、喜怒哀楽の真ん中ふたつが欠けた人間に見えるらしい。 そのふたつを表現するのが、私は取り立ててへたくそなのだというだけの話だけれど。
そんなことを知る由もない副担からしてみれば、私は度し難い薄情者に見えたのだと思う。 クラスメートの訃報ひとつ真面目に聞いていないような態度だったことは確かだったから。
ほんとうに悲しんでいたとしても、そうは見えなかっただろうから。
焦る心を感じさせないような、そんな返事に、副担の表情が一層険しくなった気がする。 私の一挙手一投足が癇に障って仕方がなさそうだった。 金具から離した指の先が、少しずつ赤みを帯びていくのに反比例して、血の気の引くような思いで私はその視線を浴びていた。
この教室は、こんなに寒かっただろうか。 さっきの眠気が嘘みたいに晴れて、体中が薄気味悪く粟立っている。 身震いしそうなくらいに冷え切った体。 冷や汗のベタつきで、まるで周りの人たちの視線がこびりついてるみたいだ。不意に副担が私から視線を切る。 別に私から反省の意を汲んだわけではない。 私以外に不届き者がいないか、目を光らせているだけだ。
あの目つきを、私は嫌に忘れられないでいた。 副担はきっと、真っ当な倫理観を盾に誰かを責めたいだけだったんだと、私はずっと思っている。 あの人はすごく独り善がりな正論を、まるで世界に向けて説いているかのような態度で喋るのが好きな人だから。 自分の認められるものしか認めたくない、そんな心の奥底が見え透いたような、厚化粧のおばさん。 ──正直、ずっと大嫌いだった。
「相浦も、笑っていい状況じゃないのがわからないのか」
昔にテレビで見た、獲物に群がるチスイコウモリの鳴き声を彷彿とさせるような罵声が、耳を痛めつける。
相浦は俯いていて、たぶん副担のことは見えていなさそうだった。 左斜め前の席、その口元は緩やかな弧を描いていたけれど、私は知っている。 相浦は人よりも口角が上向きな女の子だ。 普通にしているのに笑ってるってよく言われる、そんな感じのことをよく言っていたし、私にも真顔と笑顔の区別がつかないくらいだ。
「笑ってません」
相浦の、少し怒ったような声。 いつも楽しげで優しい声音の相浦からは、想像もつかないような。
「笑ってる」
「笑ってません」
「笑ってる」
「勘違いです」
益体のない問答が続いた。
早く、謝ってしまえばいいのに。 どうせ副担は、教頭先生の話を遮ってまで声を上げたから後に引けなくなってるだけ。 実際に笑っていたかどうかなんて関係なくて、ただ謝らせたい一心になっているようにしか、もう見えない。 下らないプライドを持つ相手に食い下がっても傷つけられてお終いだ。
「笑ってる」
一際大きい罵声を、相浦は縮こまった小柄で一身に受けた。 机の下で、長いデニムスカートを力いっぱい握りしめて。 口元も、歯を食いしばっているのか、微かに歪む。
気がつけば、私は自然と息を吸い込んで、
「相浦さんは笑っていませんでした」
自分でもびっくりするくらい、すんなりと副担に歯向かっていた。
案の定睨まれた。 死ぬほど怖い。 けれど、副担と同じくらいに、私も怒っていたと思う。
「花野井は関係ない」
「後ろから見えてました。 相浦さんは元から口角が上がってるだけですし、今は泣きそうなのを噛み殺しているんです」
こういうときばっかりは、思った風に喋れる自分を得に思う。 さっきみたいな淡々とした声と顔つきで、私は副担と対峙できた。
厚化粧が、目に見えて歪んでいく。 よほど腹が立ったんだろうなと、子供ながらに思う。
「先生、今は……」
教頭先生が副担と私の睨み合いを終わらせる。
副担は腑に落ちていない顔で、
「花野井と相浦はこの後残れ」
それだけ言って、放課後まで静かになった。
みんなは帰った。 西日が橙色に差す静かな教室で、私と相浦は原稿用紙と向かい合っていた。
副担は、学びの機会にしたいと言ったらしい。 家には居残りで作文を書く旨を伝えた上で、反省文紛いの感想文を書かされている。
命とは。 黒板に書かれたテーマに、頭を悩ませた。
どうしてこんな目に合うんだろう。 私だって悲しいのは同じだ。 ただそれが見せかけじゃわかりにくいだけなのに、副担の一存で放課後の時間を潰されていく。
本当だったら、中学に着ていくワイシャツを揃える予定だった。 そのあとおばあちゃんに制服姿をお披露目して、喜んでほしかった。
相浦なんか、完全なとばっちりだ。 私が眠気覚ましに変なことをしてたばっかりに、副担の変なスイッチを押してしまったから、この教室で、たった二人で居残りをする羽目になった。
あとで、相浦に謝ろう。
まっさらな原稿用紙を前にして、ただただ悔しさを噛み殺す。 副担への怒りを、悲しさで飲み込みながら。
時計は一六時半前を指していた。 色んな感情が渦巻いてぐちゃぐちゃで、HBの鉛筆が汗ばんでいく。 書けない焦りが、余計に私の考えを掻き乱していく。 もう少しで完全下校時刻、何も書けないまま終わるのは嫌だった。
「……さっき」
蕾の匂いが鼻をくすぐって、街を吹き抜けた春の音。 窓から微かにそれが聞こえてくる、そんな静かな教室に、相浦の、か細い声が小さく響く。 乾いて薄皮の剥けた弧は、薄く血が滲んでいて、ボロボロになっていた。
「さっき、ごめん……」
静かに嗚咽を殺して、必死に絞り出したであろう言葉が、私の胸をイヤに抉る。
「別に、私の方が……」
──余計なことをしたから。 そう続けるはずだった言葉を、喉につかえた。 抉られた胸の内を、気持ち悪いざわつきが満たしていく。 この感覚は、たぶん罪悪感だ。 そわそわとした居心地の悪さ、永い付き合いになりそうな真新しい後悔、なんとなく納得のいかない齟齬感、その全部を綯い交ぜにしたような感情。 それが相浦に伝わってしまうような気がして、怖くなって、一瞬、目を逸らした。
「……昔から、こんな口だったから、何言われても慣れてるから、大丈夫だって思ってたのに……」
逸してしまった視線を、相浦に向け直す。
何かを、言いたかった。 言おうとした。 だけど、自分で自分が何を言いたいのかが、はっきりしなくて、口を閉じたままでいた。
気まずい沈黙が教室に戻ってくる。 始まりかけの春は静かに花を散らしていて、窓の隙間から、風と逸れた梅の花びらが一枚、舞い込んだ。 埃くさい教室にゆっくり落ちていく、ひらひら、ひらひらと。 それが小汚い床に触れそうになったところで、ぱたっと音がした。
降り始めの雨に似てる音。 晴れ空よりも眩しいくらいに曇った相浦の目から、それは零れ落ちている。 机で小さな水溜りになっているのは、涙だ。 相浦は、泣いていた。
鉛筆を筆箱に仕舞う。 驚いた相浦が、涙を拭って私の方を見た。 私の目の前に広がるまっさらな原稿用紙に、名前だって書いてやるつもりはない。
「帰ろ」
相浦には、私が奇行に走ったように見えたのかもしれない。 困惑の眼差しは、涙ぐんだままだ。
「え、何も書けてないよ……」
「こんなのケババァのご機嫌取りにしかなってない。 時間の無駄」
困惑の色が、さらに深まる。
「ケババァ……?」
「そ、ケバいババァだから、ケババァ」
帰るための身支度を整えていると、相浦もランドセルを机の上に置いた。
「いいのかな……?」
言いながらも、立ち上がって、おっかなびっくりでも帰り支度の手を進める相浦。
「どうでもいい、こんなことさせられてる方がおかしいんだし」
ふと、相浦の手が止まった。
そのとき私ははっとして、帰ろうとしたことが、……なんだか急に怖くなってきた。
「…………帰らないの?」
相浦は机の上からランドセルをどけて、原稿用紙を指差す。
「名前だけは、書いておこうと思って」
言いながら、右から二行目、下から五マス目、そこを基点に、『相浦 愛』の字を記していく。
「……じゃあ、私も」
──花野井
「そういえば、相浦の下の名前ってアイっていうんだ」
書きながら、相浦の名前を知らなかったことに気がついた。 同じ班でそれなりに会話だってしてたのに、本当に、今更。
「違うよ」
小さく笑って、相浦は言う。
「イト。 『愛しい』の、いと」
少しだけ普段の声音に戻った相浦の目は、やっぱり少しだけ眩しいまま。
「まぁ、夏休み明けに転校してきたばかりだから、憶えてないよね」
ランドセルの蓋を閉めて、二人で同じタイミングで背負った。
「イトって。 珍しい読み方」
「ね。 名字と続けて読むとアイオライトみたいでしょ」
知らない横文字が、不意に会話に紛れ込む。
「アイオライトって?」
「知らない? 紫っぽい宝石」
「へぇ」
あまり興味をそそられなくって、無意識に生返事をこぼしていた。
「でも、珍しい読み方だったらそっちだって。 葉が澄むって書いて、ハスミでしょ?」
原稿用紙を置き去りに、私達は教室を後にする。
誰もいない廊下は、最低限の電灯すら点いていない。 西日も届かない暗がりを、手探るように、一歩ずつ進む。
「そっちは憶えてくれてたんだ、葉澄って変な名前だよね。 なんか苗字みたいで」
「確かに苗字の方が多いかも、でも……かわいいっていうか、なんか綺麗な名前だと思うなぁ」
綺麗な、名前。 面と向かってそんなことを言われたのは、初めてだった。
ちょっとだけ照れくさいまま、下駄箱の靴を取り出す。 不器用な蝶々結びは今にも解けそうだったけれど、そのまま踵で履き潰す。
「相浦って、家はどっちなの」
「川と丘の真ん中ぐらいかな」
「じゃあ途中まで一緒に帰る?」
靴紐を結ぶ相浦が、私の顔を見上げて、頷く。
「ウチら一緒に帰るのって、初めてじゃない?」
立ち上がった相浦は、楽しそうな顔だった。 少なくとも、普段と同じかそれより上機嫌には、なってる気がする。
「まさか卒業間近でね」
「こればっかりは、けばばぁっ、に感謝しなきゃだね」
人を罵り馴れていなさそうな声音で、ほんの少しの毒を吐く相浦。 その一言は、まるで私達の小さな反抗を象徴しているように感じた。 揃いも揃って小柄で細身で気の弱そうな私達にとって、そんなことが精一杯で、そんな私達は、自分で思ってたよりもずっとちっぽけなのだと、知った。
──帰りの路を進む。 オレンジ色というよりは、みかんっぽい色の陽射しだった。 立ち並ぶ家々の影に私達はすっかり埋もれていて、ただ明るいだけの不思議な色合いの空が遠く感じる。 黄ばんだ青空、灰色がかる赤い雲。 寒くはないけれど優しくもない風に、涼しさを通り越す感覚があった。
「なんか、変なの」
寒そうにしてる相浦は、両手で自分をさすりながら、空を眺めながら、言う。
「この時間だとここって、こんな雰囲気になるんだね」
言いながら、ぼろぼろな唇の端に挟まった横髪を払う。
「綺麗?」
「うん」
空に釘付けな相浦の視線は遠い。 その先を私も見ようとして、──ふと、前に見た夕日を思い返す。
「ちょっと寄り道しよ。 ここより見晴らしがいい場所知ってる」
「え……いいの?」
「いいよ、どうせ居残りさせられた時点でもう予定めちゃくちゃだし、ついでというか、せっかくというか……」
自分から誘っておいて、今更ながら気恥ずかしくなって、顔が火照った。
「なんか赤くなってない?」
「西日のせいでしょ」
話しながら、私達は進む。
なんとなく、普段よりもゆっくり歩いていた。 私は石ころを蹴飛ばしながら。 相浦は鼻歌混じりに。 そんな調子で私達の歩幅は、なんとなく噛み合っていく。
静かな時間だった。 二人分の足音とアスファルトを跳ねる石ころ、なんとなく聞き覚えのある鼻歌と、風が木々を揺する音。 静かだから、色んな音がよく聞こえる。
「ここの階段登るよ」
鬱蒼とした脇道に目を向ける。 一五度の急勾配に段差を敷き詰めたかのような階段を見て、相浦はあからさまに顔を引きつらせていた。
「ここ……?」
「ん」
屈んで、靴紐を結びなおす相浦。
「ちょっとしたお辞儀くらいの角度あるよ……」
おっかなびっくり踏み込んできた蝶々結びは、お手本みたいに綺麗な仕上がりだ。
「そう、だからここの階段って、元々はお辞儀坂って呼ばれてたんだよ」
「へえ、」
「知らないけど」
なんとも言えない表情を向けられる。 からかい甲斐のある、いい顔をしてる。
「これ登りきったら真横にUターンしてる坂があってね、そこは通称Uターン坂って呼ばれてて──」
「それは本当?」
「うんうん、知らないけど」
ムッとしてる顔は、梅干しみたいにしわしわで、なのに広角だけはにんまりしてるから、変な笑いが出そうになった。
「本当に見晴らしがいい場所ってあるの?」
「あるよあるある」
「『知らないけど』?」
「それは本当に知ってる、ごめんごめんって、からかい過ぎたって」
一段、一段と登るたびに、目に見えて地面が遠ざかっていく。 私の後ろを歩く相浦に目をやろうとしたけど、さすがに私でも怖くて、前のめりに歩を進めるしかなかった。
相浦の息が上がったころ、Uターン坂も登りきって、高台と言えなくもない、なんて呼べばいいのかよくわからない位置に着く。
西側を見下ろすと、多くの屋根が地平線の向こうまで、所狭しと並んでいる。 まだ夕焼けを見るには早い時刻だけれど、街が影に沈んでいるぶん、空が明るかった。
「ほんとうに、あったんだ……、いい場所じゃん……」
「でしょ」
「あ、でも、奥の道は見たことある……。 あそこ、ちょっと曲がったら……、家に着くかも」
相浦は膝についてた両手を腰に当てて、背筋を伸ばして、私の目を見ては、不思議そうな顔をした。
「はぁ、スポーツとか、やってるの?」
「実はバドミントンと、昔はソフトボールもやってた」
「あー、どうりでタフだぁ」
ランドセルを枕代わりに、相浦は大の字になる。
正直ぎょっとした。 今まで会ってきた人の中で、こうも躊躇いなく屋外で寝そべるのは、相浦が初めてだった。
当の相浦といえば、そのまま眠りにつきそうなくらいリラックスした表情で、目線を上に向け続けている。
「ここ、自分で見つけたの?」
鼻歌みたいな気軽さで、私に投げかける。
その問いかけには、首を横に振って応えた。
「……幼馴染に連れてこられて、それで」
「幼馴染いるの!?」
想像以上に食いつかれて、たじろぎそうになった。
「幼馴染ってファンタジーじゃなかったんだ……」
「ファンタジーほど仲良いわけじゃないんだけどね」
相浦みたいに私もランドセルを放って、へたり込むみたいに座る。 気づかないうちに疲れてたのか、また立ち上がるには、もう少し時間と気合が必要な気がしてきた。
「一組の高田って男子いるでしょ、そいつ、高田空」
「……もしかして仲悪いの?」
「そうじゃないんだけど……なんとなく噛み合わないっていうか……」
上体を起こした相浦が、また不思議そうな顔を向けてくる。 なんとなく目を合わせたままでいられなくて私は、赤くなっていく雲の方を見渡す。
「…………夕日とか夕方とか、虹とか、雪とか、……好き?」
「急にどうしたの?」
「いや……なんとなく…………」
「綺麗だと思うけど」
自分でも、あまり意味のない、ただ静かさを壊すだけの質問だと思った。
「私さ、青空とか曇り空とか夜空とかの方が好きっていうか……」
赤い雲を、灰色の雲より遠くに感じながら。 私の態度に違和感があったのか、視界の外で相浦が動いたように思う。
「夕日が好きっていうの、あんまりわかんなくて」
ずっと胸につかえてたものを、吐き出せたような感覚。 誰に言うつもりもなかった言葉が、一回だけ零すつもりだったはずの感情が途端に溢れかえって、私の口をこじ開けた。
「高田が前に、ここを教えてきたとき、夕日がよく見えたんだけど、綺麗だねって言われて、私さ、」
急に、波が引いていくみたいに、言葉に詰まる。 いつもの私なら、言えばいいことがわかって、わかったことはそのまま言えるのに。
「……何も言えなかった?」
軽く、頷くことしかできなかった。 あのときも、今も。
「…………なんで、なのかな」
やっと絞り出せた言葉も、こんな程度。
「それって悩みなの?」
なんか聞いてばっかだね、と付け足しながら、私の視界に入り込んできた。
「いいじゃん。 好き嫌いなんて誰にだってあるし、そこが合わないって珍しいことじゃないし」
「そうだけど……なんか、変じゃん」
視線を逸らそうとしても、ぴょこぴょこ割り込まれて、見晴らしも景色もあったもんじゃない。 観念して相浦と向き合った。 相浦の目に映る私と目が合う。 情けない顔。 それが相浦から見えてる今の私なのかと思うと、泣きたくなってくる。
「……昔から私、泣けないこととか、ずっと気にしてたから、夕日が綺麗とか、虹を見れたら嬉しいとか、そういうところだけでも皆から浮かないようにしたくて……」
「そんなことじゃ浮かないって、大丈夫だよ」
私の肩をさすりながら、宥めるみたいに言う。 目に見えて態度が優しくなった相浦に、ちょっとびっくりした。
「え、なに?」
「泣きそうな顔してるんだもん。 泣けないって言ってたけどさ」
一瞬よりは長い時間、相浦の言ってたことの意味がじわじわとわかってくる。
「わっ嬉しそうになった」
何がおかしいのか笑い出す相浦に、今度は私がむっとなってしまう。 ごめんね、と私の顔色を伺いながら口の端を下に向けて押す。
「花野井さんってもっと話しにくい人だと思ってた。 今日、一緒に帰れてよかった」
「こんな時間になったのに?」
「うん」
私から見てもわかるくらい、ちゃんと楽しそうに微笑む相浦。 相変わらずの幸せそうな口角を、きっと本心からの笑顔なのだと信じたくなる。
「私もこんな口してるでしょ? いつもこの顔じゃ、言いがかりつけられてばっかりで大変なんだ」
笑ってなくても、笑ってるように見える相浦と。
泣きたくても怖くても、いつも通りなままの私。
正反対なようで似ている私たちはお互いに、やっぱり似たようなことを考えていたみたいだった。
今日、ふたりで話せてよかった、と。
──クラスの雰囲気を見極め、言うべきことを言うことができる人です。 学年末の一件では指導するところもありましたが、その経験も踏まえ──。
私は自信に満ちているとは到底言い難い人間だろう。 自己PRカード程度に頭を悩ませて自己嫌悪に陥るくらいには、繊細で心が弱い。
藁にもすがる思いで小学校の通信簿を開いてみたものの、余計なことばっかり思い出して、案の定、書く手が重くなる一方だった。
あれから一年と四カ月くらいか。 中二の夏休み目前に、随分と野暮な課題を出してきたなと思う。 推薦対策の面接練習と言われても、自分の長所どころかやりたいこともわからないままだ。 こんな有様で一体全体何の練習になるのだろうか。
驚くくらい気分が沈んでいく。 時間はもう二十四時に近づいていた。 期限日をあと数分で迎えるという事実が、さらに私の気分を深くに沈め込む。
明日、居残って書こう。 下校時間に間に合えば良いんだったら、それもアリか。
意を決した私の動きは速い。 一分もしないうちに寝る準備を済ませて、電気を消して、ベッドに身を投げた。 分厚いカーテンの隙間をすり抜けてくる街明かりを目蓋で拒む。
じっとりと湧き出てくる汗に、寝付けない夜を予感しながら、意識を手放そうと目をつむり続けた。
「はなの、目覚めなさい」
脳天を何かで突かれて、机に突っ伏してた私は不快感とともに起き上がる。 微妙に開いた瞳孔が夏の陽射しを受け止めすぎて、頭が焼ききれそうな感覚に歯噛みした。
「……寝てないけど」
「進んでないなら寝てたのと変わらないでしょ、はい早く書いて」
私の頭を突いたであろうシャーペンを机上に転がした相浦は、私の自己PRカードをつまみ上げて、したり顔で私に突き出す。
「これ白紙はマズいでしょ。 ……この上に寝てたからか紙ちょっと温かくなってるし」
「紙ってひんやりしてるじゃん、だからこれで納涼してたの」
「エコだね、それ書けばいいじゃん。 環境のこと考えていますって」
「バカにしてる?」
「面白がってる」
こうも満面の笑みで言われるとぐうの音も上げられなくなる。 ……なんか言い負けたみたいで悔しい。改めて、相浦の手から机上へと君臨する自己PRカードと向き合う。 校庭と外周から聞こえてくる運動部の声が、三階にあるこの教室を微妙に賑やかしてくる。 私と相浦しかいないのに、雰囲気ばかり明るくなっても、かえって私の心は陰る一方だった。 項垂れたくなるけど理性を背筋に通して、シャーペンを手に取った。
「よく皆こんなの書けるよね……」
「テキトーでいいんだよ」
「……いや、良くないでしょ」
「真面目だなぁ、あ、真面目ですって書けば?」
「そういうことは自分で言うことじゃないじゃん」
「そんなこと言ってたら書けるものも書けないって。 だったら、真面目と言われることが多いですって書くんだよ」
「真面目って、長所なの?」
「長所っていうのは、短所の聞こえ良くしたもののことを言うの」
「…………詐欺?」
「違うよ。 じゃあいっそ短所っていうか目標書いちゃいなよ」
また相浦は変なことを言う。
「自己PRじゃないじゃん、それ」
「そう? PRした通りの自分を目指すっていう順序でもいいんじゃないかな」
「…………、ていうかさっきの話、私の真面目さのことを聞こえのいい短所扱いした?」
「気のせい気のせい」
目の前の席から椅子だけ拝借して、相浦は私と向き合うように机を囲っている。 刑事ドラマの取り調べのシーンをふと思い出して、またちょっと気分が沈む。 する側にもされる側にも、できればなりたく無い。
「いい感じの浮かびそう?」
「いや、昨日見たサスペンス思い出してた」
「なんで?」
「いいから相浦も考えてよ。 ほら、私の良いところ言って言って」
────────沈黙。
「相浦……?」
「誤解、誤解だよ、ほら、えっと……」
腕を組む相浦の表情が、やたらと苦しそうに見えてくる。 頑なに私と目線を合わせずに、ゆっくり、強く噤んでいた口を開けた。
「言葉にできないタイプの良さは、いっぱいあるんだよ……」
「……バカにしてる?」
「…………なんて言えばいい?」
「もう何も言わなくていいよ……」
力尽き、また机に倒れ伏してしまった。 そんな私がツボに入ったのか、自分の膝に張り手をかましながら、相浦は笑う。
「面白い女ですって書けば通用するって」
「面白がってくるの、相浦しかいないんだよ……」
「じゃあ私以外の人間はセンス無いってことだね」
どういうことか、私は相浦の感性によほど刺さるらしい。
「この物好き」
「はいはい、ちゃっちゃと書いちゃってよ」
改めて、忌々しい白紙を睨みつけた。 傍目から見れば形勢逆転できそうな目つきになった気はしなくもないけれど、実のところ、全くもって手も足も出ない。
ひとくさり笑った相浦は校庭を見下ろしている。 特になんの感慨も無さそうな横顔は、いつも通りの口角のせいで、やっぱり少し笑ってるように見えた。
「他の人って何書いてるの」
「部活とかじゃない?」
脊髄反射みたいに言ってから、相浦は気まずそうな顔になる。 さっきまでの笑顔が一転して、怒られてる子供みたいな顔つき。
「…………私は、手紙を書くのが趣味って書いたけど……」
「気にしてないよ、自分から辞めたんだし」
「……、萎えちゃったんだっけ」
「まぁそんな感じ」
もっと言うと、自分よりも自分の周りが勝手に熱くなっていって、なんとなく居心地が悪くなったから。 誰のせいでもない。 たぶん運動部に求められて当然の熱量だし、それが肌に合わないなら、離れればいいだけの話だ。 強いて誰かを悪者にするとしたら、私くらいか。
「みんな偉いよ、モチベ上がんなくたって続けるし、自己ピもちゃんと書くし……」
「惰性だったりするんじゃないの?」
「それでも偉いよ」
そうかな、なんて釈然としてなさそうな相浦は、頬杖をつく。
「思ってもないことつらつら書く連中より、こうやって自分から居残ってでも書こうとする方が偉いと思うけどね」
「……ご機嫌取り?」
妙に照れくさくなって、茶化すみたいな聞き方になった。
「うん」
言われて、頭を抱えた。 ほんの少しだけ湧いた自信が、あっという間に干からびていく。
ひとまず名前だけは書いておくことにして、ふと時計の方に目をやる。
「うわ、四時」
「がんばれ〜、トイレ行ってくる」
上履きを履き直す相浦を見て、そういえば前に、勝手に脱ぐのが癖になってる、みたいな話をしてたことを思い出した。 こういうどうでもよさそうなことほど変に憶えてる自分に、薄気味悪さを感じる。
相浦が出て行って、急に教室が静かになったような気がした。 外の運動部の掛け声はおさまってない。 むしろ顧問の野太い声が追加で聞こえてくる。 相浦がいなくなっただけで、他の音がいやに耳に残って、私と外の遠さを意識せざるを得なかった。
変な静けさに耐えかねて、私もトイレに向かうことにした。 用を足したいわけじゃない、なんとなく、今この場で相浦がいないのは落ち着かない。
廊下に響く自分の足音がひとつ、鬱陶しいくらいに響き渡る。 普段より静かなはずなのに、まだいつもの喧騒の方がマシなくらいの耳障りだ。
廊下の窓から見える中庭に、足を止めてしまった。 何人か、バスケットボールを抱えた同学年が見えて、またちょっと気分が沈む。 記憶が正しければ、高田もバスケ部だったはず。 中学に上がって以来、疎遠じみた関係になってから、今はすれ違うだけでも……顔を見るだけでも、正直、キツい。
そういえば今日の昼休み。 高田と相浦が少しだけ話をしていたのを見たばかりだった。 どっちから声をかけたのかはわからない。 そもそも接点らしい接点のないふたりだ。 特に楽しそうだったりはしてなかったから、委員会か何かの連絡だろうと勝手に片付けていたけれど、あれはなんだったんだろう。
──また、いらない思考に頭が飛んでいたことに気づく。 そんなことを思い出してる暇があるなら、とっととやることやって帰らなきゃ、
「葉澄」
心臓が跳ねた、ような気がした。
後ろからの声は、振り返らなくてもわかる。 聞き覚えのある声よりは低くなってるけれど、一年と少し前まで、毎日みたいに聞いた声。
無視して進もうとした、けど。 一度止まった足を今、進めるのは、逃げ出してるみたいになる。 それは癪だった。
「……話しかけてくるの、久しぶりじゃん、高田」
「……あー、ちょっと待って、頭の中で言いたい事まとめる」
「用があるなら普通に言って。 暇じゃないんでしょ、さっさと済ませたほうがお互い良いと思うんだけど」
言うと、苦そうな顔をして、高田は頭を掻いた。
嫌な雰囲気だ。 威圧する必要なんて、考えれば欠片もないのに、自分でもびっくりするくらい、棘のある言い方になっていた。
睨みつけるみたいに、部活着の高田から視線を逸らさない。 わざわざ練習まで抜け出してきて、いったい何を言いに来たんだろうか。
心底うんざりしたみたいな顔と、やっとまともに視線が交わる。 いつの間にか、私なんかよりよっぽど背が高くなっていて、自然と見上げるみたいな形になった。
「……あんまり、おばさん困らせるようなことはすんなよな」
は? と思わず声が出る。
「それだけ」
そのまま踵を返して、高田は立ち去ろうとしていた。
「どういうこと?」
「そのままの意味だよ」
こっちに振り向きもしないで、立ち止まりもしないで返事をしてきて、それが私の神経を逆撫でする。
「思わせぶりな言い方しないでよ、中二病でも拗らせた?」
「じゃあ言うけど」
語気を強めながら、私の方をやっと見た。 だけど気が変わったみたいに俯いて、ため息を吐く。
「……相浦とつるんでから、お前なんか変だぞ。 急にバド辞めるし、なのに帰り遅いし。 おばさんが心配してるの、気づいてないのか」
「母さんがなんなの、私の人付き合いなんだから私の勝手でしょ」
「別に縁切れとまでは言わねえけどさ、あいつに感化され過ぎだ。 このままじゃお前、……なんていうか、ただの変わってる奴だぞ」
──変わってる、だなんて。 ただ普通ではないだけで、特別とは程遠いような私を、当たり障りなく詰るには、丁度いい言葉だったのかもしれないけれど。 その一言は、それを高田みたいに、昔からの私を知ってるような人間から言われるのだけは、どうしても我慢ならなかった。
「……幼馴染ってだけなのに過干渉過ぎない? それとも兄貴面?」
「なんでもいい。 とにかく言いたいことは言ったよ」
私の精一杯の毒を、なんでもないように飲み込まれて、息を飲んだ。
それでも必死に噛みつこうとする私に、高田は、一瞥だけ。
「…………周りの話も聞かないで、ただ相浦の後追いだけして、それでPRカードも書けないでこんな時間まで居残ってたら世話ねえよ」
最後の最後にこれでもかと捲し立てる高田は、もう私の方をすら見ていなくて。
たぶん、私なんか眼中に無くなったんだろうなと、そんな確信だけが残った。
小雨、金曜日の午後、師走の寒さに青ざめたアスファルトを、うんざりしながら踏みしめる。
帰り道を走り切って、家にチャリだけ置いて、お辞儀坂へと向かっていた。 高校で離れた相浦とは、学校帰りに、あの場所でよく落ち合うようになった。 夏はラムネを飲みながら、秋はアキアカネを指に乗せて。 冬の定番はというと、熱いお茶の入った水筒を各々持参して、時間の許す限り喋り通す。 そうやって私達は、きっと春と、その先も迎えるのかもしれない。
「はなのー」
空色の傘、赤いマフラー、薄いベージュのロングコートからは、前に絶賛してた黒の裏起毛タイツが伸びている。
完全冬仕様の相浦は、なんだか色合いがちぐはぐだ。
「今日、雪降るかもだって」
傘じゃない方の手、スーパーのビニールを掴んだ手をゆさゆささせている。 手を振ってるつもりなのかもしれない。
「また冷凍餃子?」
「七つ子印のやつね。 美味しいんだこれが」
「飽きないね」
「うちの妹もアホかってくらいこれ食べるよ」
「育ち盛りだもんね。 中一だっけ」
「まだ小五だよ」
それなりに仲が良かったはずなのに、相浦に妹がいたことを、私はつい最近知った。 思い返せば、私が家族の愚痴とかをそれなりに喋ってたのに対して、相浦の家族の話は殆ど聞いたことがなかった気がする。
「寒いと参るね、眠くなっちゃう」
「それ死んじゃうやつだって」
「死ん…………、あー」
不意に口をついて出た言葉が今更、私にも引っかかった。
「四年……弱?かな……あんまり経ってないのかな」
小六最後の出来事。 人の死。 それを直に経験した私のクラスは、誰に言われるでもなく、自然と死を連想させる言葉や話題を避けるようになった。
でもそんな習慣、少し経てば廃れてしまうのが当たり前だ。 中学生になって、事情を知らない人の方がマジョリティになった。 そんな中で新生活に必死で、昔よりも未来、未来よりも今に意識を向けて。 そんな環境で、どうしてちっぽけな意識が風化しないでいられただろうか。
当時の色んな事が、フラッシュバックみたいに駆け巡る。 涙で沈みそうな教室、睨みつけてきた厚化粧の般若、縮こまってた相浦──。
「……あのときのケババァ、理不尽だったね」
「…………でもさ、私も、あれから考えたんだ」
夕日のない、雲に濁った真っ青な西の空に、相浦は目をやる。
「大島先生だって、どうすればいいのかわからなかったんだよ。 教師生活が長くても、生徒が死んじゃうなんて滅多にないし」
「大島……?」
私の声が聞こえてたのか否か、相浦は口を止めなかった。
「私達みたいな変わり種に八つ当たりするくらい、パニックだったんじゃないかな。 大人だってそうしなきゃやってられないくらいのこと、ありそうだもんね」
相浦は言葉を続ける。 ふわふわしたようでいて、何かを見据えているようなその目線が、はたして何に向けられたものなのか、量りかねていた。 同じくらい、その言葉の宛先も定かでない。 独り言か、少なくとも会話とは呼べない発言の羅列は、いっそ相浦が歌っているようにすら感じさせる。
「急に、どうしたの」
刺すような冷たい風が、細やかな雨を纏って私達に吹き荒ぶ。 傘の青とマフラーの朱に縋りついて、相浦は揺れていた。
「あの感想文だって。 私達なりの思いを込めたつもりだったけど、どこまでいったって白紙に変わりはないもん。 たった一言、書けませんって、私達が言えてれば良かったんじゃないかなって……」
はは、と困ったように相浦は笑う。 いいや、私から見たら笑っているように見えただけで、ただため息を吐いていただけなのかもしれない。 上がり気味の相浦の口角が、笑窪が、まるで相浦の表情を包み隠している。
「……なんか、こっちが悪いみたい」
「そうだよ。 私達が悪かったんだよ」
相浦の言葉に耳を塞ぎたくなるのは、初めての感覚だった。 相浦が慣れない言い草でケババァ呼びした事実も、ふたりで出したあの白紙も、今集まっているこの場所に来たことも。 あの日の私達の全部を、他でもない相浦に否定されるだなんて、思ってもみなかった。
「……白紙に込めた思い、なんて、伝わらなくて当たり前だったんだよね。 最近になって、やっと気づけた」
「ごめん、今日ちょっと外せない用事あった」
聞いていられなくなった。 この場所には着いたばかりだったけれど、話したかったこと、聞きたかったことが、どこか遠くまでいってしまうような感覚に襲われる。 今、この場に留まっていたら、きっとその全部が、一生をかけても追いつかないくらいに遠のいてしまう、そんな気がした。
お辞儀坂を下るための一歩。 そこで足を止めて、相浦の方を見上げる。
「長居すると風引くよ」
「……あと一時間くらいで晴れるみたいだから、夕日、見れるかなって」
「あっそ」
濡れた階段を踏み外さないように、慎重に、慎重に、足を前に出した。
それから一度も振り返らず、私は帰った。
週明けを迎える日曜日の夜、私は相浦の訃報を受けた。
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