玄関には二人の靴が並ぶ

 私の不器用は相変わらず綺麗な蝶々を紡げないでいる。 よれよれな靴紐は、今にも解けそうだった。 結び直すか考えたけれど結局、面倒になって不格好をそのまま足に通してしまった。

 かじかんだ指先で、ドアノブに軽く触れる。 金属製の冷たさが伝って、全身を一瞬、震わせた。

 「もう遅いでしょ、こんな時間にどこ行くの」

 母さんの声。 心なしか、少し弱々しく感じた。 少なからず私のことを腫れ物みたいに思っているのがわかる声音。 仕方ないというか、実際、ずっとこの距離感でいた方が、私としても気が楽だった。 もうすぐで一年くらいだけれど、相浦が死ぬ前みたいには、きっと戻れないだろうし。

 「すぐそこのコンビニ。 シャー芯切れたから」

 「ちょっと待ってて、牛乳とか食パンとか買いたいから一緒に」

 「外寒いよ、私が買ってくる」

 急いでロックを外す。 とにかく少しでも早く出たい。

 「でも」

 「早く帰ってくるって、大丈夫だよ」

 「そうじゃなくて」

 「ごめん、ひとりにさせて」

 飛び出すように、外に出た。

 冷え切った空気は乾いていて、じわじわと全身が凍りつくような感覚に襲われる。 部屋着にパーカーを着ただけだと、秋でもやっぱり寒いんだなぁ、なんて他人事みたいに考えてた。


 青空が好きな理由とかってあるの?


 深夜の一歩手前みたいな時間だからか、大きな道路から離れてしまえば、私しかいなくなる。 それでいいと思った。 寒くて暗い夜くらいは、誰かと並んでいたくない。


 青一色って、なんか単純じゃん。


 ふと、空が低く唸った。 思わず、星のない夜空を見上げてしまう。 暗くてよく見えないけれど、飛行機の音だろうか。 この冴えない街だって、あそこから見下ろせば少しはきらびやかに見えたりするのかもしれない。


 単純なのが好きなんだ?


 ある程度は街灯もあるとはいえ、街の暗さに目は慣れていってしまう。 点々とした光を直視できないまま、薄ら明るい足元を眺めて、道なりをなぞっていく。 そうして辿り着いたコンビニの、暴力的なまでに眩しい看板は、夜に慣れた目を容赦なく突き刺さして来る。 まして店内の明るさは看板の比じゃなくて、目つきの悪い入店になった。


 うん。 虹よりも雨がいいし、星が見えるより一面が曇ってる方が好きかな。


 夜のコンビニは、どうにも好きになれない。 あちこちが目に痛いし、酒臭い学生がたむろしていてうるさいし。 品揃えも中途半端だから、却って無駄な買い物をしないで済むけれど。


 でも曇り空だって案外ごちゃごちゃしてるよ。 青空も、よく見たら色の深さとかが違うし。


 シャー芯、食パン、ガム、ジャスミンティー。 両手に抱き抱えて、足速にレジに向う。 カゴを持つのが面倒だからって、余計に面倒なことになってしまった感がある。 台の上にゆっくりと荷降ろししたつもりが、ドサッと広がってしまった。 一瞬、レジ打ちの人と目が合って、すいませんと言ってしまう。 特に悪いことはしてないはずなのに、妙に居心地が悪くなっていく。


 あー、ほんとだ。 なんか、青空って言っても端っこは白っぽいね。


 パンパンになった小さいレジ袋はふとした拍子に破れそうで、嫌な緊張感が走り続けていた。 片手で持つには重く感じるのに、肩にかけようとするには小さすぎる袋。 持ち歩く上で微妙に不便で、自転車で来れば良かったと今更ながら考えていた。


 夜空だったら、晴れてれば黒一色だったりするかもね。


 静かな夜空は晴れ渡っていて。 だけど赤みがかったり、黄ばんでいたり。 綺麗な黒一色とはお世辞にも言えない有様だった。

 ……一人でいると、相浦がいたときのことばかりが頭に過ぎってしまう。 歩いてる景色の中に、ふと見上げる空に、ほんの一年前くらいまでの当たり前を重ね合わせるみたいに。 初めて相浦と夕日を見たあの日よりも前の自分を、まるで思い出せないでいる。

 学校でも、目に映る人のちょっとした仕草とか、笑顔だとか。 そんなありふれた一瞬の数々に、私の中の相浦が浮き彫りになっていく。

 その度に、相浦がもうどこにもいないことを自覚させられて、息が詰まるような感覚にさえ襲われて。

 だけど、日に日に相浦のことを思い出さなくなる瞬間も増えていて、忘れたくないあまりに、この苦しさに縋ってしまう。

 …………結局、私は相浦が死んでも泣けなかった。

 相浦は、お辞儀坂の階段を踏み外して、地上八メートルから命を落とした。 いつもどこか遠くを見据えてたから、足元が疎かになったんだろうと思う。

 不思議だった。 相浦と事故死という言葉が、何故か隣り合ってしまう現実が。

 きっと死ぬにしても、もっと劇的で、きっと物語みたいな終わり方をする、相浦はそういう類の人間だと、たぶん誰もが思っていた。

 私でさえ自殺の線を疑ったし、だから警察も私に話を聞きに来たのだと思う。 できるだけ感情を押し殺して、敢えて冷静でいようとしてる警察の人の表情が、今でも嫌に頭にこびりついたままだ。

 どうして相浦だったんだろうか。 夢があって、やるべきことを考えて、少し変わってたけど、人並み以上に毎日を精一杯に生きてた相浦が、ただ足を踏み外しただけで命まで失うだなんて。

 たとえば。 私がちゃんと相浦の話を聞いていれば。 もう少しだけ、あの場所にいれば。

 ……あの日、無理にでも原稿用紙の空白を埋めて、ちゃんと各々の通学路を守って帰っていれば。

 どうしようもないこと。 そんな言葉が、どうしようもないくらいに頭の中をずたずたにする。

何の気無しに駄弁るような距離にいつもいた相浦が、今は夕陽よりも、赤茶けた夜空よりも、ずっと遠い。

 「赤信号だぞ」

 ハッとして振り返る。 聞き馴染みのあるような無いような低い声が、私の意識を引き戻したみたいだ。 

 「……高田か、びっくりした」

 「さっきお前を追い越してったけど、気づいてなかったか?」

 「うん」

 「……っていうかお前まさか、この期に及んで……」

 高田は私と合ってた視線を途切れさせて、深呼吸じみたため息を吐いた。 前からよくやっていた、クールダウンのためのルーティンだ。

 「……なに?」

 「言わない」

 「気になる」

 「言わない」

 ちぇっ。 わざとらしい舌打ちが思わず溢れる。

 「…………今は車通ってなかったから良かったけどさ。 仮に事故って死なれたりしたら、目覚め悪いだろうが」

 たぶん、咄嗟に言おうとしたことを吟味し直したんだと思う。 声色の所々が、喉につかえていたような気がした。

 「それは、……ごめん」

 私が、一番わかってなきゃいけなかったのに。

 そう続けようとして、今度は私が喉につかえた。

 二人して、口を閉じる。

 ……なんとなく、普段よりもゆっくり歩いていた。 私は時折、高田の顔を伺いながら。 高田は俯いていて。 そんな調子だったけど、私達の歩幅は、なんとなく噛み合っていく。

 静かな時間だった。 二人分の足音と、たまにアスファルトを跳ねる石ころ、ガサガサと音を立てるビニール袋。 色んな音がよく聞こえるから、私達の沈黙を余計に意識してしまう。

 「というか珍しいなこんな時間に。 買い出し?」

 かと思いきや、いきなり普通に話しかけてきた。 少しは話しづらいとか、話すことがわからないだとか、そういうことは無いんだろうか。

 「……買い出し。 そっちは? 夜遊びでもしてたの?」

 私は不満の表情を隠そうとしないで、軽い苛立ちを滲ませたような声で返す。

 「するかバカ。 駅から定期落ちてるって連絡来たから取りに行ってただけだわ」

 「……定期落としたやつにバカって言われた……」

 「それおもしろいな」

 半笑いの高田の顔に、なんだか釈然としない。 まるで私だけが、バカの一言に過敏に反応したみたいで腹が立つ。

 この不平不満をどんな言い回しでぶつけてやろうか、割と真剣に頭を回し始めていた。

 だけど、そのにやけ面がゆっくりと変わっていくのが見えて、思わず開きかけた口を噤む。

 落ち込んでいるような、泣きそうな。 どんな表情かは上手く表現できない、少なくとも楽しそうな顔じゃなかった。

 「あのさ、……葉澄に謝んなきゃいけないことが、ある」

 高田らしくないし、あんまり似合ってもない、そういう神妙な顔付きで、言う。

 「なんかされたっけ」

 「中二の時にさ。 相浦のことで、お前にキツい言い方した。 憶えてないか?」

 ──相浦とつるんでから、お前なんか変だぞ。

 ──周りの話も聞かないで、ただ相浦の後追いだけして。

 夏の日。 この夜道よりも静かに感じた、放課後の廊下。

 思い出したくなかったから、余計に忘れられないでいた言葉を、また高田に突き付けられた。

 「……あったっけ、そんなこと」

 そんな強がりみたいなことしか言えなくて、自分でも惨めになってくる。

 「あったよ。 ほら、夏だったかに自己PRカードの課題出てたろ? そのときお前居残ってて」

 聞いてもない話を、毛ほどの躊躇いも無しにつらつら喋り出してきた。

 「やめろやめろ、言わなくていいから」

 出遅れながらも、必死に話を遮る。 こっちの感傷もお構いなしな傍若無人っぷりに、時間差で呆れの感情が湧く。

 「でもお前が憶えてないんだったら、謝っても意味ないだろ」

 「そういう問題じゃなくてさ」

 頭の上に疑問符が浮かんでそうな高田に、ここ一番のため息が炸裂する。

 「……こっちが忘れたフリして水に流そうとしたのがバカみたいじゃん」

 「あー、そういうことか、ごめんごめん」

 表情から察するに、申し訳無さそう半分、不服半分、みたいな配分。

 「……なに?」

 「でも言ってくれなきゃわかんねぇって」

 あまりに大真面目に、真っ直ぐに私の目を見て言いやがる。

 「天然がよ……」

 心の声が、呻くみたいに口を衝いて出ていた。

 「いや、天然は葉澄の方だろ」

 心外すぎる暴言。 さも当然のことのように言ってくる高田に、とうとう堪忍袋の緒が切れる。

 「高田お前、それは私をバカにし過ぎ」

 「自覚無かったのか!? じゃあマジでバカじゃん」

 「うっさい定期落としたバカのくせに。 てか私なんか放っといてさっさと帰んなよ。 なんで一緒に帰ってるの私達」

 「信号も守れないバカを放っとけるわけ無いだろ危なっかしい」

 「………………………………ぐぅっ」

 返す言葉が見当たらない。 言い負かされた気がして、悔しさが漏れ出た。

 「すっげ、マジでぐうの音出すやつ初めて見た」

 頭の奥底で、ナニかが、千切れた。

 ここまでコケにされて、何も仕返せなかったら。 考えるより先に、私の脛が高田の尻に打ち付けられていた。

 「痛っ! 狂暴だなおい!」

 「そういえば聞いたけど。 朋美ともみちゃんと付き合ってるんだっけ?」

 悲鳴を無視して無理矢理に会話をぶっちぎって、やっとこさ私が主導権を握れた気がする。 こんなバカ相手にこんなにムキになって、若干の虚しさも感じてきたけれど、とにかく私の上に高田を置きたくない。 その一心で、高田の不服を素通りした。

 「……それ葉澄に言ってたっけ」

 「普通に耳に入ってくるよ、それくらいの話なら」

 脈絡のない話題に、困惑するしかない高田。

 「……まぁ付き合ってるけど、それが?」

 「彼女いるのに別の女と夜な夜な歩くのって、どうなのかなって思ったんだけど」

 困惑が、明らかに面倒くさそうな顔に変わってきた。

 「別にどうもないだろ、お前のこと女ってあんまり思ったことないし」

 ……いちいち癇に障る。

 「高田はともかく、朋美ちゃんはどう思うんだろうね。 嫉妬する方だって自分で言ってたような……」

 「……別に幼馴染と話すくらいはいいだろ。 それに今日ここで喋ったの知ってるわけでも無いんだし」

 「へぇ、朋美ちゃんが知らなかったらいいんだ?」

 言い返せなくなる高田を見れて、やっと溜飲が下がる。 たぶん今の私の顔は、鏡で見たら自分でも腹立つような顔をしている、そう確信を持って言える。

 「そっちはぐうの音も出ないみたいだけど」

 「お前……その言い方は卑怯だろ」

 頭を掻いて、ため息を一つ。 何かを吹っ切るみたいに、足取りを軽くしていた。

 「わかったわかった、先に帰るよ」

 ジョギングのペースで先行しながら、何回か振り返っては、事故るなよだの信号見ろよだの言ってくる。 あまりのお節介っぷりにうんざりしながら、雑に相槌を返した。

 遠くなっていく高田の進む道は、小学生の頃に毎日のように通った通学路。 家が取り壊されたり、空き地が駐車場になってたり。 当時の面影はあるけれど、逆に面影くらいしか残っていない、そんな印象だった。

 なら、今ここを歩く私は。

 もしかしたら、相浦と話すより前の私の面影くらいは、きっとあったかもしれない。

 高田の後ろ姿が、曲がり角に吸い込まれるのを見届ける。 せっかく一人になりたくて出掛けたのが、こんなことになるなんて。 やっと静かになったかと思ったのに、私の家までもう間もない。

 なんとなく、寂しくなってくる。 相浦がいてもいなくても、こんな風に、なんだかんだで日常を生きていけていることが。 相浦一人分の空白なんて、当たり前みたいに埋もれていって、いつかそれを認識すらできなくなる日が、きっと来てしまう。

 意図的に、考えるのをやめた。 今日はバカだの天然だの言われすぎて、変な疲れ方をしたのかもしれない。 帰ったらそのまま寝よう、それ以外の考えを捨てようとして、ふと、手に持ってるビニール袋の中身を確認する。

 「…………牛乳…………」

 私がバカなのは紛れもない事実だと、私でも思う。




 「──花野井さん、学校生活と受験の方は問題無しだから、こっちが本題ですね」

 教育実習生か、就活中の女子大生か。 二人きりの教室で、ずっと目を合わせて話をしていると、この人が三十路手前の担任教師だと思えなくなってくる。

 はぁ、と、返事なのか一息なのか、自分でも判別しにくい声が漏れた。

 「あ、お茶のおかわり、いりますか?」

 「お願いします」

 目の前の日野木先生はいそいそと資料を整理し終えて、小柄に見合わないくらいの、どデカいペットボトルを両手で掲げる。 そんな様子をまじまじ眺めていたからか、この人を先生と呼んでるのが少し面白くなってきた。 手元の紙コップを差し出すと、溢れないように、おっかなびっくり注いでくれた。 お酌されてるみたいでシュールな絵面が、とても高三の夏に受ける個人面談とは思えない。

 お互いに、机の上で前のめりになってた姿勢を直す。 冷房の壊れた教室は、直に日が当たってるわけでも無いのに、窓から入り込んでくる生温い風にさえ、清涼剤じみた爽やかさを感じるほどに暑かった。 だからか、面談中の水分補給を独断で許可したらしいと聞いて、この人が生徒から好かれてる理由を理解する。 童顔で小柄だとナメられやすいだろうに、この肝の座り方と貫禄はなんなんだろう。 誰が言い出したかわからないけど、不思議な生き物という表現は言い得て妙だった。

 「えっと、まずご家族の懸念材料から」

 まず、の枕詞からは連想できない威力の爆弾なのでは思ったけれど、何も言わないでおく。

 「以前、スーパーの方で品出しとレジのバイトをされてると聞きました」

 「そうですね」

 「辞める目処の方は?」

 「立ててないです」

 小さく頷いたまま、先生の視線は手元の資料から離れない。 んー、と小さく考え込んでいる姿に、思わず口が出てしまう。

 「母が早く辞めろと?」

 少し、キツい言い方だっただろうか。 ちょっと驚かしてしまったかも。

 「そう……ですね」

 先生に申し訳なさを感じながらも、苛立ちが走る。 表情には出ていないと思うけど、先生と視線が交わって、反射的に目を逸らした。

 「……どうです?」

 気を取り直して、先生を見据える。

 「どう……って言うと……?」

 「何か、言いたいこととか、意見とか……」

 「先生的にはどう思いました?」

 すぐに切り返されて、先生から溢れる、困ったみたいな笑顔。 その姿が一瞬だけ、いつだったかの上がり気味の口角を思い起こさせた。 

 よく似ていた。 少し細めた目線は俯きながら、口元は薄い弧を描いて、そんな表情に化かされるような感覚も。

 「先生的には、正直言うとあまり問題は感じられませんね。 成績の面もそうなんですけど、それ以上に花野井さんなら自分で続けるか辞めるかを選ぶ判断力があると思うので」

 ただ、と付け加えて。

 「お母さんのお気持ちもわかります。 この時期は親御さんなりの心配というのも大きくなりますしね」

 私にとっては意外な答えだった。 当のバイト先でさえ、受験生を抱えてるとソワソワしてくるのが伝わってくるくらいだったから。

 「花野井さんはどうでしょう」

 失礼します、と一言入れて、紙コップの中身を呷る。 麦茶特有の、甘味とも苦味とも言えない柔らかい匂いが、申し訳程度の清涼感と混じり合って喉奥へと流し込まれていく。

 一頻り喉を潤して、紙コップから離れた口が、私の意思と関係なく勝手に吐息を漏らした。

 鼻頭を掻く振りと一緒に口を拭って、改めて口を開く。

 「そういうことは私に直接言ってほしいですね」

 「……えーと、失礼なことを聞きますが、お母さんに避けられてるように感じるとかは?」

 「避けられてるというよりは、扱いに困るだろうなと思うことは多々あります」

 また、口元を引き締めた。 話題の切り出し方とかタイミングを伺ってるんだろうと思う。 その仕草だけで、だいたい何の話を前提としているのか察せてしまった。

 だから、こっちから切り出す。

 「母が一昨年の冬に関して、何か先生に話しましたか」

 一瞬だけ先生の動きが、全部止まった。 たぶん、図星。

 ゆっくり硬直を解いて、私と目線を合わせる。

 「……大丈夫ですか?」

 「はい」

 では、と。 先生は敢えて一呼吸を置いた。

 「率直に言いますね。 無理はしていませんか?」

 「はい」

 お互いの目線どうしが、離れない。 先生は私を見透かすみたいに、私は嘘偽りがないと伝えるために。 遠くから聞こえる蝉たちの鳴き声が、この教室に薄く、薄く響いていた。

 「でしたら、いいです」

 先生の方から、視線を外す。 つられて私も視線を落とした。

 「あ、ただ、お母さんとのコミュニケーションは課題ですよ。 事情が事情なので」

 「善処はしてみます」

 「私でよければ、お母さんのお話しも聞きますし」

 「いえ、悪いです、そんなことまでしてもらうのも」

 「お気になさらず。 私の評価に繋がるので」

 心にもないような、明らかに冗談とわかる先生の声色を聞いて、面談の終わりを予感する。 横目で時計を見てみると、あと五分で終了時間だ。

 「たまにね、ヒゲポ…………日下くさかさんも、花野井さんが遠い目してるって心配して私に教えてくれるんですよ」

 日下。 名前を聞いた途端、一気に緊張感が散っていった。 名前が出ただけでその場の雰囲気を緩めてしまうのは、ある種の才能だと思う。

 あいつに心配されてたっていうのも小匙一杯くらいは癪だけど、それ以上にこそばゆくなってくる。

 「ヒゲポって呼んであげた方が、あの人喜びますよ」

 「いえ、業務時間中なので……」

 「でも先生、授業中に自分のことヒノセンって言ってるときありますよね」

 「……………………言ってました?」

 「どうでしょうね」

 「あれ……もしかして、からかってます?」

 「どうでしょうね」

 目元だけ、睨みつけてくるみたいに細めてきたけれど、笑みを描く口元は、さっきと打って変わって先生に悪意がないことをむしろ明確に示していた。

 「それにしても日下に心配されてるなんて、意外でした」

 「日下さんは賢い人ですよ。 気の抜けた風ですけど、人や場をよく見てますから」

 私の紙コップを回収して、先生は出口の方へと手を向ける。 一礼。

 「えーっと次の人は……」

 「丘ノ下さんだったと思います」

 「そう、ですね、ありがとうございます」

 「失礼します」

 教室から出ると、流石に廊下の風通しはマシに感じられた。 樹脂製っぽい深緑の床は見るからに涼しげで、私に理性がなかったら、這いつくばって頬ずりしていたかもしれない。

 教室から程ないところに置いてある順番待ち用の椅子の方に目を向けた。

 覚えてる姿はロングヘアだったけど、かなり思い切ってベリーショートにしてたみたいで、一瞬、誰かわからなかった。

 「弥生やよい、終わったけど」

 「お、おー……どうだった?」

 尋常じゃない面持ちで、消え入りそうな声で聞かれると、少し背筋が冷える。 ちょっと納涼かもしれない、エコだ。

 「なんか面談っていうかお茶会って感じ」

 「どういうこと?」

 「麦茶の用意してくれてる」

 いまいち理解しきれてなさそうな顔を向けてくる。

 「ヒノセン優しいから大丈夫だよ、ほら、いってらっしゃい」

 「……ぅぁぁぁああ緊張するううぅぅぅぅ……」

 「避けて通れない道だよ、観念しなさい」

 「待って待ってマジで待って、どういう話だった?」

 往生際の悪い弥生に、仕方なく付き合う。 なんだか、ここで見切りつけてさっさと帰ると、なんかもやもやするような気がしたから。

 「成績の経過観察と学校生活の総評とお悩み相談的な」

 「そっか……ん? てか花野井、今ウチのこと名前呼びした?」

 特に考えていなかったけれど、そんな気がしなくも無い。

 「ごめん、嫌だった?」

 「全然、そうじゃなくて、普段あんま花野井と話さないから、なんか名前呼びだったっけって急に気になった」

 ……こいつは焦ると逆に頭の回転が上がるのかもしれない。 だから、今は気にしなくてもいいような情報を咄嗟に拾って、話題に転化できてるんだろう。

 「弥生って呼びやすいから」

 「何気にずっとクラス同じだけど、花野井に名前で呼び捨てにされたのは初めてだったよ」

 思いの外話題が続く。 なんだか時間稼ぎの悪あがきに乗せられてる気がしてきたけど、いいか。

 「そうだっけ」

 「そうそう、なんか、もっととっつきにくい人だと思ってて、こっちから話しかけられなかったからさ、今こうしてるの、結構嬉しくなってくるよね」

 「それは……ありがと」

 余程焦っているのか、言葉の繋ぎ方が不安定で、言葉の意図を汲むのに微妙に苦労する。

 「でさ、面談、なんか、気をつけることとかある?」

 「んー、緊張してるなら素直にそう伝えればいいんじゃない?」

 「わかった……ありがと」

 「ん」

 ちょっとした友情のつもりで、軽く拳を突き出してみる。 柄にもないことをしてる自覚がふつふつと芽生えてきて、弥生の目をまっすぐ見れなくなったから、ちょっと横目になってしまった。

 「おっけ、行ってくる」

 威勢のいい声に、思わず視線が引き寄せられてしまう。 弥生は屈託のない笑顔にサムズアップを添えて、そのまま教室へと行ってしまった。

 合わせる先のいなくなった拳を、そのまま腰骨辺りの定位置に下ろす。

 日向を避けて、窓から距離を置いて、蝉だけがうるさい廊下を、言い様のない気持ちを引っ提げて早足で後にした。




 春に霞む青空は、白くて眩しい。 地上四階の高さ程度じゃ、広さを思い知らされる一方で、標高が近づいてるようにはまるで見えない。

 どんちゃん騒ぎとは違う感じの、どこか浮足立ったような賑わいを見せる教室を背に、ベランダの手すりに凭れ掛かって、そんな空を見上げていた。 胸元につけたコサージュは、たぶんしわしわになってると思う、ちゃんと見て確認したわけじゃないけど。

 下手くそなウグイスの鳴き声が聞こえてくる。 やっと色づき始めた桜をせっせと散らしてしまってるのは、あの子たちの仕業だったりするのかもしれない。 愛くるしさとは裏腹に、なんて罪な存在なんだろう。

 「はっすー、なに、黄昏たそがれてんの?」

 聞き慣れた、間延びしがちでダウナーな声の方に振り向く。

 「……ノンノがブレザー着てるの、ついに見慣れることは無かったね」

 「まぁねぇ」

 見るからに着慣れてないブレザーの両袖を引っ張って、お披露目みたいに見せつけてくる。

 「こんな動きにくいの、よく皆着てるよ」

 「そう?」

 手すりに突っ伏しながら、外に目を向け直す。 真隣で、ノンノが肘をついた。

 「晴れたねぇ」

 「……昔、友達が言ってたんだよね。 今見えてる景色は子供の頃に見えてたのよりもくすんでるって。 なんかそれ思い出した」

 思わず目を細めてしまうような空に、いつかの相浦の言葉が目に染みた。

 「深いなぁ。 ってかなんかテンション低くね?」

 言われてみれば、上がりきらないかもしれない。 空へと向けた視線を俯かせながら、言う。

 「なんか、雨とか曇りとかって、こっちまでローになるじゃん」

 「それは気圧きあつだねぇ」

 「だったらたまには、こっちがアガらない日に、雨が降ってくれてもよくない? いつも空模様に振り回されてるだけってアンフェアでしょ」

 んー、なんて、聞いてるんだかないんだか。

 「発想が自由だなぁ……ってか、ローなの?」

 何かに気づいたみたいに顔をこっちに向けて、聞いてきた。

 「そりゃちょっとは……」

 「珍しく饒舌じゃんかぁ、もしかして卒業するの寂しい?」

 はっとした。 自分でも知らない間に感傷的になって、いらない言葉を口走ってたかもしれない。 今になって小っ恥ずかしくなって、色々言いたいことはあるのに、口が開いたり閉まったりを繰り返し続けるだけで、急にうまく喋れなくなる。

 寂しくない、なんでかその一言を絞り出せない。

 「意外だねぇ、そういうタイプじゃないと思ってたよ」

 もういい。 手すりに額を擦りつけて、目を閉じた。

 「あれ、はっすー?」

 「うっさい」

 けらけら笑われて、自分のへそが曲がっていくのを実感する。

 「日下のとこにでも行ってきなよ」

 「日下ヒゲポなぁ、あいつ人気すぎるんだよなぁ、見てよ、サイン会みたいになってんじゃんか」

 渋々と上体を起こして、窓越しの教室に視線を移す。 人垣の隙間から覗く小柄が、油性ペンを必死に走らせていた。

 「違う学年も混じってない?」

 「後輩からも人気だもんなぁ」

 周りの人たちがたらい回しにしてるのは、たぶん日下の卒アルか。 大勢が一ページに所狭しと群がってペンを向ける様子を見てると、とてもじゃないけどあそこに自分の居場所は無さそうに感じる。 物理的にも、精神的にも。

 日下と、不意に目が合う。 すると勢いよく立ち上がって、人垣を手で制するみたいに静めて、こっちに向かってきた。

 ベランダにひらりと、日下が段差を舞い降りる。

 「ちょっとちょっと、二人だけでエモい雰囲気出しちゃって〜」

 ちょっとウザめなテンション。

 「そりゃ、この教室で過ごす最後の時間だからねぇ、どう足掻いてもエモだよ。 ハッスー泣いてたし」

 「言うほどエモくはないでしょ。 あと泣いてない」

 宴会とかで重宝されそうだなと思うテンションは、こと日下に限っては相変わらずだった。 卒業式でもここまで代わり映えしないなんて。

 「はい二人もこれ」

 言いながら、日下は卒アルの寄せ書きページを開いて押し付けてくる。 まっさらなページは、見た感じこれでラストか。

 「もう書けるスペース無くなってるかと思ったけど」

 ぽつりと言うと、日下は得意気な顔を見せてきた。

 「この見開きページだけは死守したからね。 二人で埋め尽くしてね」

 「狂ってる」

 「ノルマ重くねぇ?」

 私と一緒にボヤきながらも、日下の持ってた油性ペンをもぎ取って、ノンノはデカデカと走り書く。

 BIG LOVE 七枝 乃々

 「シンプルイズベストで行くノンノらしい、いい言葉選びだと思う」

 割と達筆なのもポイントが高いと思ったけど、日下は、呆れたみたいな半笑いで駄々をこねた。

 「え、いや、もうちょっと書いてよ。 高校生活の集大成!」

 「集大成こそシンプルに行くべきだと思うけどなぁ」

 ぶつくさ言いながらも、なんだかんだで書き足していく。 物臭なノンノも、日下には素直に従う。

 ほい、と書き上げたページが白日の下に晒される。

 VERY BIG LOVE 七枝 乃々

 「シンプルイズベストで行くノンノらしい、いい言葉選びだと思う」

 「やる気のない百均の店員?」

 一語一句感想を変えなかったとはいえ、日下のツッコミの矛先が、まさかのこっちに向いてしまった。

 「え、急に私? ノンノには何も言わないの? まだ何か言うことあるでしょ」

 「書き足してくれからもうこれでヨシ! はい次葉澄」

 「よっしゃ、頑張れハッスー」

 「嘘でしょぉ……」

 爆弾ゲームみたいに回ってきた卒アルが、実際のそれより重く感じる。 とっとと上がって楽になりたい、その一心で、ノンノから渡されたペンで書き殴った。

 同上。 花野井 葉澄

 「引くわぁ」

 「ノンノぶつぞ」

 「いや、葉澄っぽい。 これはこれでアリだね……」

 ノンノはともかく、日下には好感触らしい。 勢いに任せて、ちょっとウケを狙う。

 「モハメド?」

 ────────沈黙。

 「マジで引くわぁ」

 「ノンノぶつぞ」

 「? モハメド? どういうこと?」

 肝心な日下に伝わってない。 最悪だ。 ノンノが馬鹿にしてきてるみたいな笑い方をして、嬉しそうにしている。 最悪の上塗りだ。

 「ほらハッスー、説明責任を果たさないとねぇ」

 「スベったギャグの説明の辛さ、ノンノが一番よくわかってるんじゃないの」

 「お! なんだぁ喧嘩かぁ?」

 「やめて! 私のために争わないで!」

 ヒートアップしかけた私たちに水を差す、絶妙な完成度のヒロインムーブ。 場の雰囲気をこれだけ手玉に取ることができるのは、流石は日下だ。 おかで私もノンノも、すっかり戦意喪失していた。 もう全部が馬鹿馬鹿しい。 卒業式後にするような会話じゃない気がする。

 「にしても同上って。 この自由さが葉澄感、あるよね。 野良猫的な」

 自由。

 なんとなくそのワードに引っかかりつつ、満足気な日下を、なんとも言えない気持ちで眺めていた。

 「……私、何十年かかっても、日下のこの感じには辿り着けないと思うわ」

 「え」

 「そうかぁ?」

 ノンノは手すりに乗り上げるように、仰向けみたいに上体を預ける。 眩しい空に、目も細めないで、薄ら笑いのまま。

 「今と第一印象の差が一番激しいの、私としてはハッスーなんだけどねぇ」

 「……え?」

 「一年のときのハッスー、マジでつっけんどんだったからなぁ」

 横目のノンノは、ちょっと哀愁漂っていた。

 「あ、それわかるかも。 なんか怖かったよね」

 今じゃ考えらんないわ、とノンノに笑い飛ばされる。

 ……一年のとき。 だいたいの心当たりに、目星がつく。

 「この人、人相悪いなって思ってたんだよね」

 「それはシンプルに失礼でしょ」

 日下に噛みつく私を、まぁまぁ、なんて雑に宥めながら、ノンノは続ける。

 「ずっとつまんなそうっていうか、余裕がないっていうかさぁ。 何があるのか知らんけど、今のハッスーのが自由っていうか、自然体っぽくて話しやすいわ」

 「……今の私って、そんなに自由って感じ、してる、か……」


 愛と自由って類義語どうしでさ、なんか良いよね。


 「あれ、」


 愛と自由は類義語より対義語でしょ。


 大して昔の話じゃない、だけど遠くにある、そんな思い出が、急に。

 「葉澄?」

 呼びかけられた気がしたけど、返事をできたかは自信がない。 頭の中で、声を頼りに、何かを思い出そうとする。

 誰と何を話していたのか。 どうしてその会話になったのか。 愛と自由、愛……いと……。

 相浦だ。 相浦と、そんな話をした。

 意識を少し頭の中から戻して、二人の方に向き直す。

 「ごめん、なんか昔のこと思い出し……」


 私は愛って書いて『いと』で、


 「……やっぱ、思い出し切れなかったわ」

 「なんじゃそりゃ」

 さっきまで朧気でも思い出せてた情景すら、欠片も取り戻せなくなってる。 こうなったらもう諦める他にない。

 「……自由が、なんだっけ…………」

 「ん? なんて?」

 日下への返事がてらに、伸びをした。 ほんの少し肌寒くて、だけど少し暑くて。 上向きの視線の先には、相も変わらず澄まし顔の、青い空。

 「雨でも降ればいいのにって言った」

 見えてないし、聞こえてもないけれど、ノンノが小さく笑った気がする。 何を言いたいのかも、なんとなくわかる。

 「それ、やっぱ自由人の発想だよ」




 ほとんど空っぽになった、私の部屋。 今日のところはまだ私の部屋だけど、明日にはもう、そうじゃなくなる。

 使う諸々の殆どは大学近くの賃貸に、使わなくなった諸々は大半を処分して、そんなこんなで、不自然に感じるくらい広々とした空間が出来上がった。

 三月下旬の昼下り。 ここでの生活は、ひとまずの区切りが付く。

 ──と言ったところで、特にすることがなかった。 受験だ新生活だで慌ただしかったのも過去の話。 暇を持て余した私は、卒業式の日以来ずっと脳裏にチラつく、か細い記憶に思いを馳せていた。 相浦との会話で、大したことじゃないかも知れないけど、どうにか思い出したいことがある。

 そういえば、相浦が死んで以来、ずっとお辞儀坂にも行ってない。

 そっちの方面に行く用事が無かったのもそうだけれど、それ以上に、自分でも知らない間に避けていた、ような気がしてくる。

 ダラダラとスマホを眺めて時間を潰すよりも、久しぶりに、あの階段を登ってみる方が、きっと建設的だ。

 スマホをポケットに入れようとして、手を止める。 せっかくだし、買ったばかりの春服の動きやすさを試そうと思う。

 本当は全額を新生活につぎ込む予定だったバイト代は、両親の計らいで私の好きに使えるようになった。 ずっと意固地になって心配させてきたけど、私の努力を認めて、ついには初期費用を全額持ってもらえた。 流石に一人暮らしの全部がおんぶに抱っこじゃないけれど、それなりに懐に余裕ができて、久々に服を何着か買い込んで。 そのうちの、ライムグリーンのジャケットシャツをグレーブルーのスキニーデニムと合わせてみると、大学生に見えなくもないような春コーデに仕上がった。 満足感が凄い。 デザインの良さもそうだけど、自分の労働と努力の成果だと思うと、鏡の前でにんまりしてしまう。

 「ちょっと散歩行ってくる、遅くても夕方、母さんにも言っておいて」

 風呂場の父さんの方に呼びかけると、浴室の扉が開いて、指先だけをチラチラと覗かせてきた。 たぶん、手を振ってるんだと思った。

 春空が私を静かに包んでいく。 いくつか見える桜は、満開まで秒読みのところまで来てそうだった。 あともう少し早かったら、と思わないでもない。


 ソメイヨシノって接ぎ木でしか増やせないから、遺伝子がみんな同じなんだって。


 イヤホンを耳にねじこんで、スマホのプレイリストと繋ぐ。 シャッフル選曲に全部を委ねて、画面を暗転させた。

 黄色を帯びてくる日差しの中で、思う。 相浦のいた頃を、前ほど鮮明には思い出せなくなっていることを。 声音、表情、情景、全部がうっすらと曇っていて、大雑把なシチュエーションしか把握できない。 相浦が何を伝えようとして、どんな言葉を、どんな表情で話そうとしたのか、その意図を汲める機会は、もう……。

 春休みの子供たちが、元気いっぱいに騒いでいる。 あの日の私たちと変わらないくらいの背丈を、頭からつま先まで精一杯に使い倒しそうなくらいに。 走り回る子供たちにぶつからないように道の脇に逸れながら、相浦の言葉を思い出そうとしていた。 あの頃、毎日のように通った道を、あの頃はまだ知らなかった歌を聴きながら。

 「え……」

 見覚えのある場所の、見覚えのない姿に、思わず足を止めてしまう。 辿り着いたお辞儀坂の狭い入口には、重々しい鎖が錆びついている。 人の出入りを拒んだアスファルトの階段を、緑が伸び伸びと覆い尽くしていた。 十五度の傾斜を見上げて、理解する。

 あの夕日に続く道を、いつの間にか私は失ってしまっていた。

 「そこ、入っちゃだめなんだよ」

 ボールを小脇に抱えた男の子が、心配そうな顔で私に話しかけてくる。 まだ事態を飲み込めてはないけれど、できる限りの自然な笑顔。

 「教えてくれてありがとう」

 頷いて、そのまま走り去っていく後ろ姿を眺める。 自分の指先を口角に押し当てて、うまく笑えてたかを確かめた。

 どうしよう。 目の前が文字通りのどん詰まりだ。 向かう先がわからなくなった自分の足は頼りなく、とぼとぼとゆっくり歩き出す。

 記憶が、街の片隅ごと消えて無くなっていく。 その事実に、やっと意識が追いついた。

 いっそこのまま帰るのも、選択肢の一つとしては、ないでもない。 相浦との記憶に蓋をして、いいや、するまでもなく、時間の流れで忘れていってしまえば。 後悔はあるだろうけど、その後悔すらもいつか忘れる。 思い出せなかったことがあることすら忘れて、なにも気にしないで生きていけるかもしれない。

 だけど、また足が止まった。

 家に帰ろうとしてた意識にも、歯止めがかかる。

 ──そういえば、そうだ。

 相浦がいなくなってから間もない頃の、塞いでたはずの耳にいつの間にか入ってた、ほんの噂話程度の心当たりに聞き入る。

 自殺かもしれない。 相浦さんのお墓参り。 駅に向かう通りの少し外れ。 あんな寂れた場所だなんて。

 嫌でも聞こえてきてた声に、今度は耳を傾けながら。 一歩を踏み出す力が、一歩毎に強くなっていく。 頭の中で描いた指針の方に。

 家路に向かう相浦の後ろ姿を重ね合わせながら、いつも相浦と別れてたあの場所を、見えなくなるまで見上げ続けて。

 ──私は、哀しいだなんて理由で立ち止まれるような、そんな殊勝しゅしょうな人間じゃなかった。

 お辞儀坂が見えなくなっていく。 相浦がいた日々を抱えたまま、遠くなっていく。 視線を切って、前を見据えて、私は進む。

 いつかの日の夕日につられるみたいに、私と相浦はあそこに集まって、暗くなったら解散して。 そんな日々を、目の前の道のりになぞりながら。

 貸したCDがまだ返ってきてないこととか、ユニットを卒業した相浦の推しが舞台に出てたこととか、まだ、話したいことがあっただとか。

 あの日、なんで急にあんな話をし始めたのかとか、あの日は雪予報が出てたのになんであそこに居続けたのか、とか。

 あの日。 どうして。

 相浦と過ごした日々が、雑然としていた頭が、静まる。 小さくて静かで、物悲しくひっそりとしている、そんな墓地が目の前に現れた。

 実際にお墓を目の当たりにしたからか、今になって冷静になる。 お線香も花も用意してないまま、こういうところに入って大丈夫なのか、自信がない。

 出入り口の手前で立ち尽くす。 そもそも相浦のお墓が本当にあるかも定かじゃないことに、今気づいた。

 どうしようもなく立ち止まっていると、墓地の奥の方から、男の人が歩いてくる。 見た感じ、きっと誰かのお参りに来たんだろうなと思った。

 男の人と一瞬だけ目が合って、すぐ逸らされて、だけど二度見された。 怪訝そうな顔で私をじっくり見てきて、ちょっと居心地が悪い。

 「あの、すいません」

 まだ少し遠くから、男の人が私に呼びかける。 はい、と言いながら、入口に足を踏み入れた。

 「どうされましたか」

 言いながら男の人に近づいていく。 私より十歳程度の幼い子供がいるくらいの年齢かと思ったけど、それにしては少し窶れてる気もしなくもない。

 会話をするのに不自然じゃないくらいの距離で、男の人が改めて口を開く。

 「もしかして、いとのお参りに……?」

 目を見開いてしまった、気がした。

 「はい。 あの、あなたは……?」

 お辞儀をされて、思わず会釈を返す。

 「申し遅れました。 愛の叔父の、広尾という者です」

 まさかの邂逅に、言葉が出なかった。

 「花野井葉澄さん、ですよね」

 名前まで言い当てられて、少し息を呑む。

 「……、私を知っているんですか」

 「はい。 愛と仲良くしていただいたみたいで」

 こういうときに、なんて会話を続ければいいのかわからなくて、不甲斐ない。 とりあえずもう一度頭を下げてみる。

 「……お墓の場所、わかりますか」

 広尾さんの問いかけに、失礼を承知で、またまた頭を下げる。

 「……すいません」

 「案内しますよ」

 言われるままに、広尾さんに着いていく。 ほんの一瞬、不審者かどうか疑ってしまったけど、相浦のことを知ってるなら、たぶん大丈夫か。

 あまりちゃんと手入れがされていないような、雑草と凸凹まみれの砂利道を、おっかなびっくり歩いていく。

 「こちらです」

 程なくして、奥まったところに辿り着いた。 目の前のお墓に刻まれてる文字は、なんとなくしか読めない。 だけど端のほう、相浦 愛の字だけは、確信を持って読めてしまった。

 改めて、手ぶらで来てしまったことを後悔する。

 「すいません、お花もお線香も持ってなくて」

 「そうでしたか……。 ……まぁ、手を合わせていただくだけでも、お願いできますか」

 少しだけ緩む広尾さんの口元に、どこか懐かしさが、あった気がする。

 「ほんとうにすみません、お気遣いありがとうございます」

 言われるままに手を合わせて、目を閉じる。 まだ半分慌てていた心を、温い風が撫でてくれた。

 頃合いを見て目を開けて、改めて頭を下げる。 体を向き直して、広尾さんにも。

 疲れた顔に静かな笑顔を浮かべて、広尾さんは口を開く。

 「……失礼を承知でお聞きしますが、もう少しお時間頂いてもよろしいでしょうか。 仏壇の方にも、手を合わせてはもらえませんか」

 「えっ、いいんですか」

 「花野井さんがよろしかったら」

 頷いて、行きましょう、歩き出した広尾さんの後ろについていく。 背の高い人だからか、少し歩くのが速い。

 沈黙の時間が続いて、景色が流れていく。

 なんとか会話を始めたほうがいいのか、頭を巡らせていると、広尾さんはこっちを向いて話しかけてくる。

 「急なお誘いですいません」

 「あ、いえ、私も、明日には遠くに発つので、今まで行かなかったから、お参りしなきゃって、急に思い立って」

 緊張で口が固まる。 というより、頭が回らなくて上手く喋れない。 テンパってこんな感じになるのは私からしても珍しい気がする。 そんな私を笑うでもなく、広尾さんは淡々と話す。

 「すごいタイミングだ、僕も毎日は来てないので。 ……今日は、月命日なので来てましたが」

 「そう、なんですね……」

 見覚えのある木造の一軒家の、目の前まで辿り着く。 中に上がったことはないけど、何度か、この家の前までは来たことがあった。

 「少々お待ちを」

 扉を開けて、広尾さんが中に先行する。 なんとなく目に入った表札には広尾の字。 あの人の持ち家、なんだろうか。

 しばらくすると、扉が開いて、私を招く広尾さんの声が聞こえてきた。 お邪魔します、その一言と一緒に、初めて相浦の家に入った。

 どこか懐かしい雰囲気の、たった二つの靴が並ぶ玄関。 一つは広尾さんの革靴で、もう一つは、……相浦が履いてた運動靴に似ていた、気がする。

 その靴とは離れたところに、私の靴を並べる。

 「こちらへ」

 手狭ですいません、と広尾さんは言いながら、六畳くらいの部屋の、お仏壇の前まで案内してくれた。

 窓からは外の明かりが差し込んでいる。 春の柔らかい光は木漏れ日みたいに優しくて、この部屋を照らしていた。

 お仏壇に並べられた何枚かの写真のうち、老年の男の人は相浦の祖父にあたる人だろうか。 それに広尾さんくらいの歳の男女が一人ずつ。

 その中に、上がり気味の口角の、見慣れた顔が並んでいた。

 写真の相浦と、目が合う。 久し振り、と話しかけそうになって、口を噤む。

 お線香を手に取る。 今ここまで来て、やっと、相浦が死んだ事実に、ちゃんと向き合えたような、そんな気がした。

 マッチを擦る。 何回かやってやっと火がついて、私の不器用は相変わらずだった。 今ここに相浦がいたら、ちょっといじられてただろうな、なんて思いながら。

 お線香を立てて、おりんを鳴らした。

 目を、閉じる。 静かに響き渡る音が聞こえなくなるまで、手を合わせ続けた。

 やがて何も聞こえなくなって、目蓋の暗闇をこじ開けて、正座を崩して立ち上がる。 自分でも聞こえるかどうか、小さい声で、またね、とだけ。

 「広尾さん、ありがとうございました」

 私の後ろで待ってた広尾さんに、一礼。 今日だけで何回、広尾さんに頭を下げたんだろう。

 「とんでもない、こちらこそ」

 このまま帰ろうとしたけれど、広尾さんが居間の方へと誘導してくる。 そちらに、と示された椅子を引いて、言葉に甘えて腰を下ろした。

 「疲れたでしょう、お茶をお持ちします」

 「あ、ありがとうございます」

 待ちながら、重ねて失礼かもしれないけど、居間の中を見回した。 ここが相浦の住んでた家なんだと思うと、不思議な気もするし、なんだかわかる気もする。

 ふと、視界の外に広尾さんの気配がして、視線を自分の手元に落とした。 初めて上がる家をじろじろ眺めてたなんて、印象が悪くなりすぎる。

 ……、なぜか気配に動きがない。 横目だと見えない位置だったから、思い切って顔を上げてみる。

 「緑茶でも大丈夫ですか」

 すると、なぜか気配の方とは違うもっと遠い場所から、広尾さんの声が聞こえてきた。

 「大丈夫です、ありがとうございます」

 広尾さんの声がした方に顔を向けるどさくさで、気配の方に目をやる。 ちょうど柱が死角にになってるところで、影の濃さに違和感があった。

 飼ってる動物とか、だろうか。 わからない、それにしては影が大きい気がする。 人間ひとり分くらいの影だと思えば、ちょうどあれくらいな気がしてくる。

 怖いもの見たさ半分、怖さ半分で、私は、奥の広尾さんには聞こえないくらいの声を出す。

 「誰か、いるんですか」

 声に反応するみたいに、影が一瞬だけ動いた。 生き物なのは確定、だけど……。

 軽く身構えてしまう。 泥棒とか不審者とかの危険性を、無視できなくなってきた。

 だけど嫌な膠着状態は、人影の方から終わらせてきた。

 柱の影から、女の子が俯きながら。 座ってる私と合った目を、一瞬で逸らされる。 どこか暗い雰囲気とは裏腹に、髪の毛は綺麗に整っていて、カジュアルめな普段着で身を包んでいた。 ……なんだか、相浦っぽい雰囲気。

 相浦の幽霊、にしては背が高いというか、でも顔は中学生くらいの幼さに見えるというか、そもそもちゃんと足があるというか……。

 ……足。

 玄関に並んでた二つの靴の、運動靴の方を思い返す。 生前の相浦が履いてたのと、似たようなデザインの。


 愛と自由って類義語どうしでさ、なんか良いよね。


 思い出した。 妹がいることを、前に聞いた。 相浦の妹だ。 今だともう、ちょうど中学生くらいの。

 「ぁな、あ、の」

 弱々しい声で、この子が沈黙を終わらせる。 よく見ると全身が小刻みに震えていて、そんな手で、震える喉を抑えながら。

 私は目を見開いて、この子に相浦を重ねていた。


 私は愛って書いて『いと』で、


 「花、野井、葉澄さん、ですか?」

 震えながらなのに、今度は私から目を逸らさずに、言う。 初めてなはずなのに、やっぱりどこか懐かしいような、聞き覚えのあるような、声。

 「……はい。 あの、あなたは」

 「すいません、お待たせしました」

 お盆に緑茶を載せて、ちょっと場違いな声音の広尾さんが居間に入ってきて、不意に立ち止まった。

 驚いたような、どこか嬉しそうで、でも泣き出してしまいそうな顔。 その固まった表情のまま、広尾さんは口を開く。

 「み、……よ…………?」


 妹は自由って書いて、『みよ』。


 いつかの春の日。 真っ青な空の下で、相浦は笑っていた。

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