青々と葉桜が澄んでいた

 自由みよ

 広尾さんの声に、いつかの相浦が微笑む。

 目の前にいる女の子は、相浦の妹は、俯きながら震えていた。 その姿があの日の、居心地の悪い教室で、スカートを握りしめて泣きそうになっていた相浦と、どうしても重なって見える。 だけど、力無く、頼りなく、開いたり閉じたりを繰り返す口元だけは、噤むしかなかった相浦のそれとは違った。 浅く溢れる口呼吸は、ただの呼吸とは思えないような重さがあって、私も思わず、息を呑んでしまう。

 「──、……っはぁっ」

 女の子の喉元で、ただでさえ固く握られているであろう拳が、痛々しいくらいに力んでいく。 時々聞こえてくる吐息が、悲鳴じみたものにすら思えてしまうくらいに。

 広尾さんに、視線だけ向けてみる。 驚きを滲ませている横顔は、泣き出しそうな迷子みたいにも見えて、そんな表情を、微動だにせず女の子に向け続けていた。

 「自由…………」

 広尾さんの声と同時に、女の子はいきなり私達に背を向けて、奥の部屋へと走り出してしまう。 広尾さんは、その背中に手を伸ばそうとしたのかもしれない。 かちゃ、と陶器どうしが擦れ合う音に足が竦んで、そのまま、両手のお盆の上で溢れそうになった二人分の緑茶に、視線を落としていた。

 立ち止まったまま、半ば呆然としている広尾さんに、声をかけてみる、べきか。

 「あのっ、お持ちします」

 咄嗟とはいえ、両手で受け入れ態勢を作りながら、自分でも何を言っているんだ、と思わないでもなかった。

 ぽかんとしてた広尾さんも、私の姿勢を見て意図を察したらしく、まぁまぁ重いお盆を私に預ける。

 「すいません、お願いします」

 軽い会釈の後に、小走りと早歩きの中間くらいの足取りで、広尾さんは女の子の後を追っていった。 それを見届けて、静かになった居間で、今度は私が立ち尽くす。

 すると何か、少し甲高い音がゆったりと、家中に重く響いてくる。 何事かと一瞬思ったけれど、たぶん、おりんの音だ。

 音に吸い寄せられるみたいに、私も、女の子と広尾さんが向かっていった方に歩き出していた。  不思議な感覚だった。 いつもの私だったら、他人の家を歩き回ったりみたいな勝手な真似、しないのに。

 だけど、どこか相浦を思い起こさせるあの女の子を、放っておけないんだろうな、だなんて、他人事みたいに考えていた。 そう思えば、なんとなく自分の行動にも納得してくる。

 年季の入ったフローリングの廊下を歩きながら、相浦と最後に話した、あの雨の日を想い返す。 雨空を遠く見渡していた相浦の、目。 雨で足元が悪くて、相浦の方に振り返る余裕もなくて、お辞儀坂を降りきったあとも、どうせこの低さじゃ見えないと思って、一瞥だけして、私は雨の中を進んだ。 その時の相浦は、どんな思いだったんだろうか。 考えたこともなかった……というより、わざと、考えないようにしていた、気がする。 考えたくなかったから、……相浦と向き合いたくなかったから、私はお辞儀坂を降った。

 それが理由かはわからないけれど、結果として、相浦は死んだ。 後悔なんて、ないわけがない。 もっと相浦とちゃんと話をして、いいや、いっそ家路につくのを見届けてしまえば、少なくとも、お辞儀坂で転げ落ちるようなことは防げたかもしれない。 あの日の相浦は何か様子が変だったのに、私はそれを見て見ぬ振りで、私だけが一人でさっさと家に帰った。

 結果論なのは百も承知だけど、私の利己的な振る舞いが相浦を死に追いやったと、そう言われても、私は否定しない。 相浦なら私をわかってくれる、そう思ってた私は、結局は相浦のことをちゃんと知ろうともしてなかった。 都合のいい上辺だけの、馴れ合いみたいな理解者ヅラだけして、挙げ句、それを相浦に求めてすらいた。 そういう空気に耐えられない私達だから、あの夕日に逃げ込むように、二人で過ごしていたはずなのに。

 線香の匂いが、さっきよりも強い。 のどが渇いてヒリついて、つばを飲む。 女の子のすすり泣く声が、聞こえてきた。

 お仏壇の部屋に、顔だけで覗き込む。 静かに泣きながら両手を合わせる女の子の背中を、広尾さんはさすっている。

 「いきなり今日は、難しいんじゃないか……?」

 語りかける広尾さんの表情は、私には見えない。 その優しい声を、女の子は、首を横に振って拒んだ。

 涙声で、女の子は言う。

 「でもっ、話、した、い」

 一瞬、気圧されたのか、広尾さんは擦っていた手を止めて、ゆっくりと降ろす。 行き場の無くなった手は、少しの間だけ居心地悪そうだったけれど、今度は女の子の頭を、優しく掻き抱いた。

 「花野井さんには、またいつか来てもらおう」

 ね、と念を押されても、女の子は、うんともすんとも言わない。

 私の名前が聞こえた辺りで、思わず顔を引っ込めて、気まずくなってくる。 二人の死角で息を潜めながら、今になって両手が重さに悲鳴を上げ始めた。 そういえばなんでこんな局面で、お茶を持ったまま来てしまったんだろう。 ちょっと気が動転してたからって、迂闊が過ぎる。 極めつけに、こんな盗み聞きみたいなことまで。

 とりあえず、居間に引き返そう。 こんなところでお茶を持ってるだなんて、場違い感が凄い。

 足音を立てないように、お仏壇の部屋から離れようとした。 だけど、ちょうど部屋から出てきたところの広尾さんと鉢合わせてしまう。

 少し驚いた様子の広尾さんに、畳み掛けるみたいに口が動く。

 「あ、あの! すいません、なんか、盗み聞きっぽくなってしまって、」

 「……いえ、こちらこそ、見苦しいところをお見せしました。 ……すいません、お茶の方もありがとうございます」

 お盆の載ったお茶を広尾さんに返す。 お仏壇の部屋を尻目に、二人で居間に向かいながら、改めて広尾さんに声をかけてみる。

 「あの子、私と話したいって……」

 「…………難しいと、思います」

 申し訳無さそうな声音は、絞り出すようだった。

 居間の椅子に、向かい合うように二人で腰掛ける。

 広尾さんは神妙な顔で、軽く深呼吸をした。 力の抜けた肩が降りる様子を見て、何かを話そうとしているんだなと、なんとなく察しがつく。

 「自由は少し、事情のある子でして……」

 「事情、と言いますと……」

 少し意地の悪い返しだったかもしれない。 少しの間、口を閉じて、話しにくそうに開き直してきた。

 「……とてもじゃありませんが、人前に出られるような状態ではなくて」

 途中で頭を下げながら、広尾さんは続ける。

 「重ね重ね、本当にすいません。 今日は生前のいとについてお話しをしていただきたくて、お呼びしました」

 「……はい。 私も、そのつもりで。 ……ですがその、自由さんの方は……」

 また少しの間、部屋に静寂が満ちた。 広尾さんは相変わらず、話しにくそうな表情でいる。

 「……本音を言ってしまうと、自由と話していただけるなら、とても助かります。 ただ……」

 「私でしたら、お構いなく。 折角ですし、私も話がしてみたいので」

 「……ありがとうございます。 ですが今日となると、自由が落ち着いて話ができるようになるまで、お時間をいただくことになるかと……」

 だからか。 さっきの背中を擦る広尾さんの言葉に納得がいく。 きっと、私に気遣ってくれてのことだ。

 「広尾さんがよければ、私の方は、多少時間がかかっても大丈夫です」

 「……ですが二時間だとか、もっとかかるかもしれない。 お待ちいただいても、ちゃんと今日お話ができるという保証も出来ません」

 「いいですよ。 気長に待ちます。 ……私も、愛のお話を聞きたいですし」

 二つ返事って、こういうことなんだろうなって思いながら、自分なりに強く意思表示する。

 あまり乗り気じゃ無さそうに見えた広尾さんは、また、頭を下げた。

 「自由に、そうお伝えしても、大丈夫でしょうか」

 「はい」

 言って、もう一度、お仏壇の部屋に向かう広尾さんの背中を見送った。

 右のポケットをまさぐって、スマホを取り出す。 広尾さんのいない間に、母さんに連絡を入れておきたい。

 『相浦の家に寄ってから帰る ちょっと遅くなるかも』

 件名にそのまま本題を打ち込んで、スマホをポケットにしまいながら、改めて家の中を見渡してしまう。 それにしたって、静かな家だ。 生活感が無いわけでもないのに、どこか寂れた印象を強く感じる。 ……相浦がいた頃は、きっと、もっと明るい雰囲気だったんだろうなとは、思う。 相浦から家族の話を多く聞いたわけじゃないけど、少なくとも、嫌ってるみたいな感じはしなかったから。

 足音がした。 広尾さんが戻ってきて、私ともう一度向き直す。 少しだけ、さっきまでの疲れた顔よりは、表情が柔らかくなってる気がした。

 「……さて、どこから、話しましょうか」

 広尾さんが背もたれに深く寄りかかったせいで、交わっていた視線が途絶える。 だけど、会話までもが途切れた感覚はない。 広尾さんは、少し上向きの視線を瞼で閉じた。 思い出を、見入るみたいに。

 相浦とは正反対の、下がり気味の口角が、ゆっくりと開いていくのを見つめる。

 「……お察しかもしれませんが、愛と自由は、僕の子ではありません」


 ……単刀直入に言ってしまうと、ふたりは姉夫婦の忘れ形見なんです。

 何年前になりますかね……自由が今、一三歳なので、十年くらい前の話になりますか。

 あの子達の両親、僕の姉夫婦は、不慮の事故で命を落としました。 義兄の方には幼い子供を育てられるような親戚もらず、僕の両親……ふたりから見て、祖父母の家で育つことになります。 ……恥ずかしい話ですが、その頃は僕もまだ事業が安定しておらず、とても引き取るというわけにはいかなかったので。

 しかしながら、両親も歳でした。 いきなり親を亡くして、精神的に不安定になった子供たちの面倒を見るのは、こたえるところが大きかったでしょう。 ……愛も幼いながら、姉としての責任感からか、積極的に自由の面倒を見ていたり、自分から育児の雑誌や番組を見て、いつも自由を笑かそうと頑張っていたそうです。 ですが、程なくして母が体を壊し急逝、父も認知症が急激に悪化して、止むなく施設で面倒を見てもらうことになりました。 その頃には僕の事業も安定していましたので、そのタイミングで、この家で引き取ることにしたんです。

 数年のうちに環境が大きく変わりすぎて、うちに来たときのふたりは、とても疲弊していました。 できる限りふたりが不自由しないように努力しましたが、多忙な時期に入ってしまい、充分に目をやれていたとはとても言えない状況だったというのも事実です。 しばらくは、僕と話すときもぎこちなかったり、居心地が良さそうとはとても言えないような様子でした。

 ……忙しいだなんて、言い訳ですよね。 正直、どう接すればいいのか、わからなかったんです。 夕食の時くらいしか、ちゃんと会話をする機会が無かった……いいや、それ以外の機会を作ることを、僕自身が避けていたのかもしれない。

 そんな中、ある日、急に愛が言ったんです。 今日の夕食は私が作るって。 愛だって色々と不安に思うことも多かっただろうに、それなのに、僕に気を使ったみたいで。 ……嬉しいやら情けないやらで帰った家で、愛と自由がふたりして大声で泣いていたんです。 何事かと思ったら、愛が冷凍餃子を焼こうとして、失敗して黒焦げになってしまっていて。 泣くふたりを宥めながら、改めて餃子を、ふたりと一緒に焼き直して……、思えば、その時からかな。 この日を堺に、やっと、ふたりが、この家に馴染んでくれていったのかなと……。


 渇いていた喉を潤すことすら忘れてしまうほど、話に聞き入っていた。 咳払いをしていた広尾さんとお茶を飲むタイミングが被って、ちょっと気恥ずかしい。

 今度は私が咳払いをする。 喉の調子を軽く整えて、口を開く。

 「相浦……愛が、両親を亡くしていたことを、今日初めて知りました」

 「そうでしたか……」

 「はい……今にして思えば、家庭のことを話すのを、やんわり避けていたようにも……」 

 言ってから、慌てて口を閉じる。 軽率な言葉を投げかけてしまったかもしれない。

 そんな私を見て、広尾さんは優しく、少し悲しそうに、だけど、微笑んでくれた。 お仏壇に並んでいた写真と重なるような、血筋を感じる笑顔だった。 相浦とよく話をしていた頃みたいに、いつの間にか自然と肩の力が抜けていることに気づく。 ここの家系はそういうタイプなのかもしれない。

 一息ついた広尾さんに、視線を向け直す。


 ……続けますね。

 愛が小学校を卒業する頃でしょうか。 担任の先生からは、転校して間もなくクラスに馴染んで友達も多いと聞いていましたが、愛の口からはクラスの子の話を聞いたことがなくて、不安に思っていたんです。 それが突然、友達ができたって、嬉しそうに教えてくたときがあって。 その友達とは、花野井さんのことでした。

 愛と自由が作ってくれた夕食を、ふたりと一緒に囲いながら、愛は花野井さんの話をしてくれて、自由と笑いながら聞き入る、そんな日々がしばらく続いていました。

 でも、いつからか、愛の話の内容が、少し暗い方に傾くようになっていったんです。 花野井さんと喧嘩でもしてしまったのかと思って、それとなく探りも入れたりしましたが、どうやらそうでもなかったようで。 自分はこのままでいいのだろうかとか、漠然とした不安みたいなのを匂わせるような、そんな雰囲気でした。 上手くは言い表せられませんが、自分が知らないうちに誰かを傷つけているんじゃないか、とか、そういった内容が多くて。 中学生の多感な時期ですし、人より少し変わった愛ですが、そういうことも考えるだろうと、それくらいにしか思っていませんでした。

 ですが、愛が高校に進学してからも、様子は変わらずで。 むしろ、こっちの愛の方が本来の愛に近いのかもだなんて呑気に考えて、僕は特に何をするでもありませんでした。 何度か自由からも、愛が最近変だと言われていたのに、僕は静観してしまったんです。 それが最終的に、ああなってしまって……結果、自由は人前に出られないくらいの、深い傷を心に負いました……。


 広尾さんの、テーブルの上で組まれていた手が、少し震える。 ああなってしまって、そう濁した言葉の真意に察しがついて、私の背筋も縮こまった。

 「……後悔しても遅いのは、わかっています。 もっとしっかり、愛と向き合っていればと……」

 向き合う。 私と同じ、後悔の仕方。

 相浦が死んでから今日まで、この人はずっと、苦しんできたんだと思う。 私なんかよりも、ずっと。

 潤したばかりなのに、もう乾いてしまっていた、口。 勝手に動き出したようにも感じるけれど、紛れもなく、私の意志で開いていた。

 「……向き合ってなかったのは、私も同じです。 それに……」

 心臓が馬鹿みたいに脈打つ。 胸の痛さで、息が荒くなる。 無理矢理に心を落ち着けようと、全身で力づくに、気を引き締めた。

 帰り道。 お辞儀坂。 雨の日。 青い傘。 赤いマフラー。 白いコート。 黒い足。 灰色の雨空。


 ──……あと一時間くらいで晴れるみたいだから、夕日、見れるかなって。


 震えそうな口だけど、淡々と、言う。

 「それに……相浦が……愛が死んだ原因って、私……ですよね」

 広尾さんは目を見開いて、息を呑む。

 「何を……」

 「だってあの日の愛は、もう階段に足をかける必要なんて、なかったはずなんです。 それなのに、その階段で足を滑らせて、落ちた」

 開いた口を止めることは、できない。

 堰を切ったように、一心不乱に、私は広尾さんに言葉を向け続ける。


 そもそもあの日の相浦は……愛は、様子がおかしかったんです。 小学生の頃の先生の話をいきなり持ち出してきたり、雪予報が出るくらいの天気だったのに、あと一時間で晴れるからって下手な嘘までついて、私が帰っても一人であの場所に居続けて。 どう考えても話を聞くべき様子だったのに、私が、自分が傷つくのが怖くて、……愛の言う事で傷ついてしまう気がして、それで、さっさと一人で帰ったんです。 愛を、置き去りにして。

 たぶん愛は、私に聞いてほしい話があったんだと思います。 でもそういう、改まった感じで話を切り出せるようなヤツじゃなかった。 だから、遠回しに私を……昔の私達を否定するようなことを言ったんです、たぶん。 それが裏目に出て、私が帰ってしまったから、私を追いかけようとした……。


 推測と記憶とを照らし合わせながら、自分の行動に、幼稚さに、泣きたくなってくる。 でも、私は結局泣けないし、今は泣くべき時でもない。

 「……それ以外に、相浦の家とは真逆の方にある、あの階段に、わざわざ出向く必要が思い当たらないんです」

 ずっと胸に蟠ってた思いを、やっと吐き出した。 すっきりは、しない。 むしろ、吐き出した言葉の感触が、口の中にこびり付いてるみたいで、息苦しささえある。

 気がつけば真下に向けてた視線を、広尾さんに向け直す。

 真っ直ぐに交わった目を、ほんとうは今すぐにでも離してしまいたい。 だけど、絶対に逸らさないように、心がける。

 「私を、恨んでますよね」

 目を、閉じられてしまう。 本心を言ってもらえないんじゃないかと、そんな不安が頭を過る。

 閉じた口の上からでもわかるくらい、広尾さんは歯噛みしていた。 答えにくい質問なのはわかってる。 だけど、それでも、答えてほしい。

 「……僕も、似たような仮説を立てた時期があります。 事故の起こった場所が、場所でしたから……」

 少し、はぐらかされたか。 最後まで話を聞いてみない限りは、判断しないことにする。

 広尾さんは続ける。

 「一瞬たりとも恨んだことがない、というと嘘になってしまいますかね。 いいや、恨む、というとニュアンスは変わりますか、少なからず花野井さんに原因があるのでは無いかと……思ったことが無いわけではないです」

 固唾を、飲む。

  「ですが、今、改めて確信しました」

 広尾さんが頭の中で言葉をまとめているであろうこの時間が、嫌に長い。 つま先まで少しも動けなくなってしまったような感覚に、苦しくなってきた。

 やっと、広尾さんが口を開く。 閉じたい目を開けたまま、広尾さんから目を逸らせない。

 「僕は花野井さんを、恨みたくない。 話をしてくれてありがとうございます」

 予想だにしなかった答えを、聞いた。

 「…………え?」

 間抜けが過ぎる自分の声色は、なんか、半笑いみたいですらあった。 大事な話をしてるのに、こんな締まりのない声を出したという事実に、自分でもイライラしてくる。

 だけどそれ以上に、広尾さんの言葉への困惑が、大き過ぎた。

 「花野井さんのような素敵な友人が、愛にも、いたんですね。 それを知れてよかった」

 「どうして……」

 「怖かったですよね。 自分の後悔と向き合って、正直に話をするのって」

 怖かったですよね。

 そう言われて、やっと気づく。

 相浦が死んでから、ずっと。

 お辞儀坂に行くのを避けてたのも。

 高校のクラスメートと、積極的に話をするようになったのも。

 今日になるまで、相浦のお墓参りに行こうとすら、考えてこなかったことも。

 広尾さんの話を聞いて、やっと今、白状するみたいに全部吐き出したのも。

 ──そっか。 怖かったんだ、私。

 自分でもわかっていそうで、だけど自覚できてなかった感情が、やっと視界に入ってきたような感覚だった。

 「…………なんで、わかったんですか。 怖かったって」

 「僕も、ついさっき似たような内容を、話しましたからね。 怖かったですよ、恨んでたって、面と向かって言うのは」

 「でも、それだけで……?」

 いいえ、の言葉と共に、首を横に振られる。 怪訝になってしまった表情で、その意を汲もうとした。

 優しい、人の良さそうな、だけど疲れが拭えなくて、……相変わらず、どこか懐かしさを纏っている顔で。

 「──花野井さん、なんだか泣きそうな顔をしてらしたので」

 いつか聞いたようなことを、言ってきた。

 「はっ」

 楽しそうな、上がり気味の口角がまた、一瞬だけ脳裏を過ぎった。

 広尾さんの視線に今更気づく。 私の表情を見つめる広尾さんを置き去りに、自分の思い出に浸りすぎたかもしれない。

 気恥ずかしさで、笑顔じみた変な表情が滲み出る。

 「……昔の思い出を、少し」

 「それはよかった」

 洗いざらい喋り尽くした口に、残りのお茶を全部流し込む。 グラスの中身が無くなる頃には、喉のつかえも無くなっていた。

 背もたれに寄りかかってた広尾さんは姿勢を正す。 咳払いがてらに一息吐いた姿を見て、私も改めて、話を聞く姿勢に直った。

 「愛は……学校では、」

 ──奥の方から、扉の開く音。

 それに続く足音と気配に、広尾さんの声が途切れる。

 私たちは、音のした方を向きながら、ただ黙って待ち続けた。

 一歩、一歩と近づいてくるシルエット。 やっぱり、背が高い。 一七〇近くはありそう。

 その長身が、ゆっくりと居間に入ってくる。 私と目は合わせないままで、軽い会釈。 事情を聞いた今となっては、会釈をするのも……いいや、ここに来るだけでも、相当な勇気を振り絞ったんだろうなと思った。

 広尾さんの隣の椅子に座るのを、見届ける。

 緊迫感……と言うとちょっと違うけど、なんとなく動きにくいような雰囲気の中で、広尾さんが立ち上がってしまう。

 「……お茶、持ってきますね」

 「お願いします」

 なんて、咄嗟に口では言ったけど、とりあえずお茶は後でにして欲しい気もする。 けどもう遅い。 今更引き止めるのも、それはそれで違う気がして、奥に行ってしまう広尾さんを眺めるしかなかった。

 急に空気が重い。 俯いててわかりにくい顔色を伺おうとして、不意に、長い前髪の奥にある目と向き合ってしまう。 すぐに視線を逸らすのも気が引けて、言い様のない膠着状態に陥った。

 軽く血走った、少し潤んだ目。 私はそれに向かって、真正面から声をかける。

 「……初めまして。 花野井葉澄です」

 緊張はあった。 でも、声に震えはない。

 私の声に会釈で応えてから、女の子も口を開く。

 「……相浦、自由です…………初めまして」

 引きつりながらだけど、芯の通った、静かな声だった。

 「……自由さんって呼んでもいいですか?」

 「……、はい。 ……あの、敬語じゃなくていいで、す……呼び捨てで、大丈夫です……」

 ……そうは言われても正直、初対面でタメと呼び捨ては抵抗がある。 だけど、この子なりに気を配ってのことかもしれないと思うと、その気持ちを無下にはできない。

 「あー……」

 相槌に聞こえなくもない中途半端な発声でお茶を濁す。 二律背反の板挟みに思考を巡らせる中で、回転の鈍い頭を置き去りに、軽快に目だけが泳ぐ。

 「……間を取って、自由ちゃん、……で、いい?」

 ちょっと馴れ馴れしくはあったかもしれないけれど、出来るだけ自然に、口調を柔くした。 その甲斐あってか自由ちゃんは、前髪を軽く整えて、はっきりと私を見据えながら頷いた。

 面と向かってはっきりと見えた、自由ちゃんの顔。 具体的にどう、とは言えないけれど、相浦との血の繋がりを感じなくもない。 もしも、もう少し明るい雰囲気を纏っていたら……。


 青白い曇天の下で、青い傘と赤いマフラーが寒風に揺れる。 どんな表情をしていたかは、いつも通り過ぎる口角に遮られて、わからなかった。 けれど今、目の前にいる自由ちゃんに、あの日の相浦を思い起こさせるような面影を見てしまった。


 手元にカップが置かれた音で、広尾さんが戻って来ていた事に気付く。 前のめり気味にお礼を言って、広尾さんが席に着くのを見ていた。

 今日で何度目かの、静かな時間。 お互いに初対面だから、場が改まると話を切り出しにくくなってしまう。

 「……まだちゃんと紹介できていませんでしたよね。 愛の妹の、自由です」

 「よろしくお願いします……」

 さっきまでとは違う、震えのない真っ直ぐな声。 緊張が和らいだのか、私と話をする意を決したのか。 その変化の本質は、私には測りかねた。

 「……では、先程の続きからですね。 愛は、学校ではどんな風に……」

 「学校、ですよね……」

 思い返そうとしてみても、相浦が引っ越してきた当初の記憶は、はっきり言うと無い。 同じクラスではあったけれど、逆に言うと同じクラスというだけの間柄。

 それが決定的に変わっていったのは、やっぱり……。

 「小学生の頃の、卒業式の手前辺りです。  相浦と話をするようになったのは」

 他ならない相浦自身が否定した、あの日の夕日を思い返す。 あそこで初めて、私達は孤独を分け合えた。 肝心な時に泣けないことが嫌だった私と、肝心な時に笑ってるように見られがちだった相浦で。

 「私と相浦……愛は、反省文みたいなのを書かされてたんです。 それで放課後に居残りさせられました」

 「あの……」

 自由ちゃんが小さく手を挙げる。 何か言いたげなのを察して、私も身振りで自由ちゃんの発言を促した。

 「……それって、お辞儀坂の話、ですか?」

 「はい。 愛から伺ってましたか」

 うっかりタメ語じゃなくなったけれど、広尾さんの目の前でもあるわけだし、いいか。

 自由ちゃんの言葉に納得がいったみたいに、広尾さんも続く。

 「その日のことは、余程嬉しかったのでしょうね。 何度も聞きましたよ。 友達もできて、いい場所も教えてもらったと」


 白紙に込めた思い、なんて、伝わらなくて当たり前だったんだよね。


 ……わからない。 何度も喋るくらいに気に入ってくれてたあの日を、どうして否定するようになってしまったのか。

 ざわつく胸にはひとまず素知らぬ顔で、あの青い寒空から、目を背ける。

 「……中学でも、殆ど変わりはありません。 本人の独特な雰囲気がありましたから、人に好かれもすれば、逆にやっかまれたりもしてました」

 いざ言葉にしてみると、取り立てて言うほどの事でもないような気がしてきた。 私も、たぶんその他大勢も、相浦をどこか一目置いてはいたとは思う。 ただ、私はその他大勢と違って、相浦が思ったよりも普通の女の子だと知っていた。

 「変わってると言われてることも少なくはなかったです。 確かに、色んなことを知っていて、それでいてたまに哲学的なことを突然言い出したりしたようにも見えたことはあります。 でも、ちゃんと思い返すと、話の内容や文脈に沿った発言だったことが多かったんです」

 人と話すのが好きで、実際に友達もそれなりにいて。 そんな相浦を少しだけ特別にしていたのは、定型文のコールアンドレスポンスじゃない、思慮で生まれる会話。 だからこそ、相浦は私の胸の内に残ることを言えた。 思い出だけじゃない、痛みも傷も、苦しみだって。

 人並みのことで悩んだり、人と違うことで悩んだり。 そういう当たり前に、不器用にも真正面から向き合っていた。 たったそれだけのことが、相浦愛をまるで特別であるかのように飾り立てた。

 「……ほんとうに、お二人が想像する愛とそこまで差があるようには思えないくらい、普通というか、ありふれた人柄だったと思います」

 こんな内容でよかったんだろうか。 今の私が言えることなんてこれくらいしかないから、せめて正直に思ったことを言う他無かった。

 「ただ……」

 覚えてる限りだと唯一、相浦の意図を測れなかった、あの時。

 緊張で喉が渇くのを感じながら、意を決する。

 「あっ、えっと」

 言おうとして突然、自由ちゃんの大きめな声に気圧される。 驚きで口が止まって、自由ちゃんの方を見た。

 「……さっき、花野井さんと伯父さんが話していたの、聞こえてました。 だから、そこの話は、大丈夫です……」

 言おうとしたことを見抜かれて、思わず目を見開く。

 「そう……ですか」

 「……それと」

 自由ちゃんはぎこちない肩肘に、また力を込めて、言う。

 「姉さんが、ああなったの、花野井さんのせいじゃ、無いです……」

 「……」

 さっきの話についての、事だろうか。

 私と広尾さんが何も言えないままでいると、自由ちゃんは立ち上がった。

 「こっちに、来てもらってもいいですか」

 「自由?」

 呼び止めようとする広尾さんを無視して、自由ちゃんは居間を後にしてしまう。 私は広尾さんに目配せをして、取り敢えず自由ちゃんについていくことにした。

 私の後ろに、広尾さんも続く。 細い廊下の先で自由ちゃんの開けた扉は、たぶん自由ちゃんの部屋だろうか。

 中に入る。 二揃いの学習机、二段ベッド。 カーテンレールに掛けられた服に、いくつかの見覚えがある。 黒を基調としたブレザーにスカートと、赤いマフラー、薄いベージュのロングコート……。

 見渡してみるとこの部屋は、二人で使えるように整えられていた。 たぶんそのうちの一人は自由ちゃんで、もう一人は……。

 自由ちゃんは机の上のペン立てを持ち上げて、底から小さい鍵を取り出していた。 たぶん普段から隠し場所にしてるだろうに、私や広尾さんが見てる前で、随分と躊躇無く動いたなと思う。

 勉強机の引き出しに一つだけある鍵穴にそれを挿し込むと、ガチャッと音を立てた。

 自由ちゃんは左手で机のへりを掴んで、右手で引き出しの取っ手を引こうとする。 最後の開閉から時間が経っていたのか、なかなかスムーズに進まない。 何度も突っ掛かりながら、二十秒くらいかけて、やっと中身を取りさせそうなくらいに開いていった。

 あまり引き出しの中身は見ない方がいいのかもしれない、そう思って目線を外すと、もう一つの勉強机が目に入る。 机上には、絵筆にデザインナイフ、指矩さしがねまで入ったペン立てと、目盛り付きの分厚くて大きい緑の下敷きが敷かれてた。 ペン立ての隣の小さい収納棚の上では、建築美術の資料やらファンタジー小説やらSF漫画やら地政学の専門書やらがジャンル不問にブックエンドに寄り掛かっていて、持ち主の複雑怪奇さを物語っている。

 ガコガコと音を立てる引き出しに背を向けて、奇怪な方の机の、その下のゴミ箱を見入る。 束になって捨てられている便箋と封筒。 それらから少しだけ覗く筆跡には、見覚えがあった。

 「あの……これです……」

 自由ちゃんから渡された、よれよれで、しわしわな封筒に目を落とす。

 花野井 葉澄 様

 その筆跡に、思わず息を呑んだ。 見覚えがある、だなんてものじゃない。 今さっき目にしたばかりの……。

 「相浦が、私宛てに……」

 「その手紙って……」

 驚いたような広尾さんの声の行く先を追って、自由ちゃんの方を見上げてしまう。 私と合った視線を、俯くみたいに逸らされる。

 「自由ちゃん……?」

 自由ちゃんは俯いたまま、鼻をすすって、目元を袖で拭う。 小さく震える肩のまま、それでもはっきりと、声を絞り出してきた。

 「姉さんが死んだ当時、それを持ってたんです……」

 胸の奥が震えた。 言葉が、出ない。

 自分でも、動揺してるのがわかる。 意味もなく封筒の裏側の方を見たりして、封が切れちゃってるなとか、雨晒しになったなら、よれてても当然だなとか、そんな事ぐらいしか考えられなくなった。

 「やっぱり、自由が持ってたか……」

 ため息混じりに、広尾さんが言う。

 呼吸をしゃくらせて、自由ちゃんの目から大粒の涙が溢れ出た。

 「ごめんなさい……!」

 自由ちゃんの嗚咽が、激しさを増していく。 引きつらせながら、苦しそうに、だけど、自由ちゃんは言葉を止めない。

 「私、花野井さんのせいだと思っててっ……! っ、こんなのがあったから、姉さんが死んだって!」

 背筋が凍る。 得体の知れない寒気が喉元まで迫り上がって、口から溢れそうな、そんな感覚。

 「それでっ、伯父さんに隠れて、勝手に中身を見たんです……! でも、書いてあったことは……」

 ぼろぼろと涙を流す自由ちゃんを、私も広尾さんも、眺めるしかできない。

 「内容を、見てっ! 花野井さんのせいじゃ無かったって、わかって……。 なのに私っ今度は怖くなって、っ! 中身は見ないって、伯父さんと約束したのを、破ったのが怖くなってっ」

 へたり込んだ自由ちゃんに、追い縋るみたいに、咄嗟に私もしゃがみ込んでいた。

 「隠した手紙が、見つかったら、どうしようって、この部屋を出るのもっ怖くなってきて……! 伯父さんに、顔向け出来ないのがっ、辛くて……。 私っ姉さんが、ちょっと変だって気づいてたのに、……、それでも姉さんが、死んでっ! 事故を止められなかった、のが、っ! 自分のせいかもって思う、とっ、死にたくなるくらい、苦しっくて、っ花野井さんがっ全部悪いって、思い込んで、ないと……っ」

 ……仮に私が逆恨みされたとして、怒る気になんて、なれない。 ただ相浦と仲が良かっただけの私と、姉妹として生きてきた自由ちゃん。 単純に比較できることじゃ無いけれど、だからこそ、その苦しさは測り知れなかった。

 私は無意識に、自由ちゃんの背中を擦っていた。

 「でもっさっき、花野井さ、んの、話を聞いて……っ、私、」

 「自由」

 落ち着いた広尾さんの声に、自由ちゃんの嗚咽が、少しだけ鎮まる。

 「愛のことは、誰も悪くない。 事故だった。 どんな事情があっても、事故で死んだなら、誰のせいにもできない」

 広尾さんの声も、少し、震えている。

 「手紙のこと、ごめん。 自由の気持ちも考えないで、勝手な約束を押し付けてた。 そのせいで自由に、愛のことで必要以上に苦しい思いをさせた」

 私のことを思っての約束、だったんだろうか。 いいや、私だけじゃなくて、きっと相浦のことも。

 「愛が死んだのは、誰のせいでもない。 でも自由がここまで傷ついたのは僕のせいだ。 ほんとうに、ごめん」

 自由ちゃんの背中を擦るこの手が、あまりに無力だ。 色々なものを取りこぼしながら、嗚咽を、力みを、か細く私に伝えてくるだけで。 空いてるもう片方の手は、頬を伝う涙を拭うので精一杯だった。

 そんな私の手に縋りついて、自由ちゃんは顔を埋める。

 自由ちゃんの涙が私の袖を濡らしていくのを眺めながら、 私は泣けないままだったけれど、今はそれで良いと思えた。


 「お、お見苦しいところを……すいませんでした……服も汚してしまって……」

 いっそこっちが申し訳無く感じるくらいの表情で、自由ちゃんは頭を下げてくる。

 「あ、いや、全然、お気になさらず」

 時間の経過がちょっと掴めなくなるくらい、自由ちゃんの涙は続いた。 内心、下立おろしたてのジャケットを思わないでもなかったけれど、目の前で五つも歳下の子にしおらしくされたら、水に流す他に無い。

 「弁償か、せめてクリーニングでも……」

 「いえ、ほんとうに、大丈夫なので」

 横から謝ってくる広尾さんも、似たような顔をしている。 なんだか、学校の備品を壊して職員室に向かうハメになったときの相浦そっくりで、ちょっと笑えてきた。

 それはそれとして、ここで何も受け取らないとなると、広尾さんの立つ瀬がないようにも思える。 どうにか、当たり障りのない要求でお茶を濁したい。

 「でしたら、二人の連絡先を教えてくれませんか」

 我ながら粋な返しができた気がする。

 「是非、是非。 こちらとしてもありがたい話です。 あと、後ほどご自宅の方にもお電話差し上げたいのですが……」

 「いいですよ、表示しますね」

 スマホを操作しながら、広尾さんは窓の外に視線をやる。

 「重ね重ね、申し訳ございません。 こんな暗くなるまでお引き止めしてしまって……」

 言われて、私も視線を追ってしまう。 確かに暗い。 夕方と言えなくもないかもしれないけれど、どちらかというと夜みたいな暗さ。

 「流石にそろそろお暇させていただきますね。 ほんとうにお邪魔しました」

 「とんでも御座いません」

 二人して赤べこみたいに頭を下げ続けていて、そろそろ可愛く見えて来そう。 スマホの連絡帳にそんな二人の連絡先が追加されるのを、感慨深いというか、不思議な気分で眺めた。

 お茶を飲み干して、玄関に向かう。 靴底に踵を押し付けて、爪先を地面で小突く。

 「あ、これっ」

 自由ちゃんの声に振り返る。 小動物みたいな雰囲気の割に、視線が高いな、なんて考えながら、自由ちゃんを見上げた。

 自由ちゃんは右手に持った、よれよれの封筒を差し出してくる。

 相浦の、手紙。 私宛わたしあての。

 私に伝えようとして、伝わらなかった言葉。 あの雨の日に、初めて二人で御辞儀坂を登ったときのことを否定して、下手な嘘まで吐いて。 何枚も書き損じながら、結局私に渡せず終いになった、思いの丈。

 最後に見た相浦の違和感、その真意を、知れるかもしれない物。

 私は…………。


 白紙の思いは伝わらない。 あの日の相浦は、そう言っていた。

 たぶん、相浦は正しい。 名前しか書いてない原稿用紙から汲める情報なんて、名前しかない。 どんな思いを込めたところで、言葉にされていない限り、その思いが伝わることなんてきっとない。

 だけど、私達は正しくなかった。 言葉にできなかったから、伝え方がわからなかったから、その思いを白紙に込めた。 伝えられないと、伝えたかったから。

 私の知ってる、相浦は。

 奔放なくせに繊細で。

 実直なくせに敏感で。

 器用なくせに奥手で。

 聡明なくせに訥弁で。

 白紙にだって思いを込めるような、ちょっと面倒くさい奴で。 だから、伝わってほしいことがあるんだろうな、くらいのことなら、わかる。

 手紙に何が書かれているのか、私にはわからない。 もしかしたら封筒の中身は、それこそ白紙かもしれない。 それでも、相浦の思いなら。 白紙の思いが、せめて私にだけでも伝わると信じたい。 相浦を、わかりたい。 わかりたいと、思っていたい。

 だから。


 「……まだ、受け取れません」

 あの日の相浦のことは、まだわからない。 何を思って、今までの私達を否定したのか。 何を考えて、私の目の前で、手紙を持ったままで、渡せずにいたのか。

 「相浦……愛のことを、もっと思い返して、納得できる落とし所を見つけられるように……それまで、その手紙は預かっててもらえませんか」

 「……はい」

 封筒を両手で抱えて、自由ちゃんは頷いてくれた。

 心做しか、視界が晴れて、肩が軽くて、息がしやすい。 私の中でなにか、踏ん切りがついた、のかもしれない。

 また、静かな時間がやってくる。 玄関の扉を開けると、思ってたよりも暗い街並み。

 「あのっ」

 また自由ちゃんの声に立ち止まって、振り返る。

 頭を深々と下げながら、自由ちゃんは言う。

 「今日、花野井さんが来なかったら、私、まだ、苦しいままだったと思います。 たぶん、後悔ばっかりで……。 でもこれから、また学校も行って、伯父さんと、たくさん話して、もう後悔しないように、私も、ちゃんと姉さんのことをわかるようになりたいです! だから……」

 言いながら涙ぐんでいって、だけど、涙を呑んで。

 「だから、またうちに、今度は遊びに来てください……」

 泣けないだけの私と違って、泣かないで言い切った自由ちゃんが、私には眩しい。

 「……はい、私でよかったら。 いつでも連絡してね」

 手を降って、二人の靴が並ぶ玄関を後にした。

 「僕からも、ありがとうございました……」

 頭を下げる広尾さんにも手を降って、ちょっと失礼かと思ってすぐに会釈に変えた。

 それなりに暗くなった道を、進み始める。 後ろの方で、扉の閉まる音。 私が次にその音を聞くのは、そう遠くないといいな、なんて思いながら。


 後悔しないように。

 その言葉が、チクリと痛い。 今日やっと肩の荷が下りはしたけれど、かといって、相浦のことを見て見ぬ振りだった事実まで覆るわけじゃない。 自分が一番よくわかってると思ってた。

 でも、その言葉を自由ちゃんの口から聞いて、今まで意識を向けたくなかった奴がいることを嫌でも自覚する。 何かと絡んできては鬱陶しかったりするけど、なんだかんだ、私のことを心配してはいた、そんな人間が。

 一応、明日には引っ越してしまうし。 挨拶ぐらいなら、してやっても、いいか。

 夜道……と言うには明るいけれど、とにかく歩きスマホは流石に怖いから、道の端に寄って立ち止まる。

 電柱に肩を預けて、連絡帳の、た行の欄を探す。 けれど目当ての名前は見当たらない。

 今度は、さ行の欄。 下の名前の頭文字をあてにしても、見つからない。

 思い切って、は行の欄に飛んだ。 ムシャクシャした勢いで『バカタレ』みたいな名前で登録してた可能性が、小さじ一杯くらいは無くもない。

 「……うわ」

 『バカタレ』で登録された情報は三件。 私の人生、バカタレとの邂逅が多すぎやしないか。 というか、わざわざそんな登録を三回もしていた自分に、呆れと溜息が止まらなくなりそう。

 スマホをポケットに仕舞って、空を仰ぐ。

 ……あまり気は乗らないけれど、仕方ない。 家に、直接向かってしまう、か。

 いきなり押しかけたら迷惑かもしれない、と思いつつも、腐っても幼馴染み、家族同士の絡みだって少なくないし、連絡先がわからなかったって言えば、納得してもらえるはず、そう自分に言い聞かせる。 別に、お互い憎み合ってるワケでも無いんだし、きっと久し振りに顔を合わせたら、歓迎すらしてくれる……と信じたい。

 何年ぶりになるんだろうか。 まだ小学生だった時はお互いに無遠慮で、家に向かう為のお題目だとか、そんな言い訳じみたこと、考えなくても良かったのに。

 幼い頃の自分は、きっと気兼ねなく思いっきり甘えさせてもらってたんだろう。 今になってそれを自覚すると、途端に背中がむず痒くなってくる。 ましてや未だにその頃の優しさに寄りかかろうとしてるだなんて、自分が卑しくすら思えた。

 こういう甘え方は、これで最後にしよう。 たぶん私が気まずくなったのは、こんな風な負い目を勝手に感じてたからだ。 単に私の態度が幼稚だっていうことを自覚したくなくて、なんとなく距離を取っていた、ただそれだけ。

 自分のガキ臭さに呆れるけれど、ここでまた目を逸らしたら、いつまでもガキ臭いままだ。 見たいものだけを見続けて、そうやって大事なことを見落とすのは、もう嫌だった。

 考え込んでいると、時間が飛んだように早く感じる。 いつの間にか私は、見慣れた表札のに向かい合って、インターホンに指を押し込んでいた。

 無機質な電子音を聞き届けると、少し冷たいボタンから、自然と指が離れていく。

 春とは言っても、暗くなってくると流石にまだ寒い。 少しかじかんだ指に、冬の名残が絡みついているみたいだ。

 スピーカーから一瞬、ノイズみたいな音。 それに続いて、聞き覚えのあるような、低い声が聞こえる。

 「はい」

 「……、あー」

 言葉が浮かばない。 幼い頃は、いつもどうしてたっけ。 そもそも家の出入りにインターホンを押してたかどうかすら覚えてない。 昔の私と少なくない関わりがあった場所は、今の私だと齟齬がありすぎて、分不相応な事をしているような気になってくる。

 ……いや、違う。 今さら昔の自分になぞらえて取り繕うのは、私がしたい事じゃない。

 「御無沙汰してます、花野井です。 あの、……空くん、いらっしゃいますか」

 特別、普段と違うような事なんて言ってないはずなのに、自分の口から出ているとは思えないような口調と声音が、今は無性に恥ずかしい。

 「あ、葉澄か? 今行く」

 少しのノイズに続いて、スピーカーの接続が途絶える。

 応対したのは、高田だった。 よりにもよって、本人に聞かれた。 外面向けみたいな、私の声を。 玄関先でじっと待ってると、余計にむず痒さが増して、もう帰りたくなってきた。

 ……遅い、ほんの十秒も待って無い、けど。 勝手に居心地悪くなっておいて、特に落ち度のない高田にイラついて、そんな自分にイライラする。 それはそれとして、立ち止まってると流石に寒くなってくるから、早く出てきてほしい気持ちも否定できなかった。

 扉の開く音が、やっと聞こえた。

 「どうしたんだよ、いきなり」

 季節感ゼロな部屋着にビーサンを履いて出てきた高田を見て、寒気が余計に背筋を伝う。 自分はこんな奴相手に色々と考えてたのか。

 「……これから、時間ある? 話があるんだけど」

 かえって喋りやすくなった気は、する。 肩の力が抜けたとでも思えば、溜飲なんて下がっていく。

 「あぁ、大丈夫だけど。 とりあえず上がってけよ」

 「え、あっいや」

 扉を開けたままにしようとする高田に、慌てて声を上げた。

 「外じゃ寒いだろ」

 振り返る高田に、返す言葉を探す。

 「……久し振り過ぎて、なんか、悪いし」

 「そうかぁ?」

 仕方無しに、みたいな風で高田は頭を搔く。

 「じゃあ着替えてくるから、ちょっと待っててくれ」

 「……花屋のとこの公園。 あそこで待ってるから」

 うす、だなんて、聞いてるんだか聞いてないんだかわかんない返事を背にした。


 ブランコに腰掛ける。 柔らかいプラスチック素材はデニム越しにでもわかるくらい冷え切ってて、座った事をやんわりと後悔させてくる。 でも耐え難い程でも無いし、わざわざ立ち上がる労力を割く気にもなれなくて、心持ちが宙ぶらりんなまま、なんとなく、頭上の宵空へと顔を向ける。

 電線の通ってない公園は、見晴らしが良い。 星は、まだ見えない。 明るいわけでもない、少し赤く濁ったような靄がかかっていて、雲が浮いてるかも覚束無おぼつかないような空模様。

 眺めながら、考えた。 話したいことがあるだなんて啖呵は切ったけれど、それに見合う程うまく喋れる自信は無い。 というか、話してるうちに自分が投げりになるんじゃないか、そんな心配がある。

 ……別に、そうなったらそうなったでいいか。

 首が疲れて、今度は自分の手を見下ろす。 すっかり冷えた指先はまだ少しだけ、線香の匂いが染み付いている。

 「悪い、待たせた」

 気がつくと、ブランコ前の小さい柵を、高田が跨いでいた。 高田はアンダースローで何かをこっちに放ってくる。 暗がりでよく見えないまま、それを両手で受け止めた。

 「……熱っ」

 スチール缶の、ミルクティー。 冷え切った指には刺激が強すぎて、痺れが走った感覚。

 「俺の奢りだ」

 「……じゃあ、いただきます」

 缶の持った熱量が、口の中を伝って、喉に流れ込んでくる。 胸焼けしそうな甘さと、ミルクで渋みの薄れた紅茶の匂い。 その辺の自販機で百円もあれば買えるような安っぽい味が、落ち着く。

 「この公園、怖いんだよな。 出たらしいんだよ、なんだっけ、アレが」

 辺りを見渡しながら喋る高田に、私も缶から口を離す。

 「アレって? 幽霊的な?」

 「アレだアレ、スズメバチ」

 怖。

 隣のブランコに座った高田も、缶のプルタブをこじ開ける。 鼻を突き刺すような、染み渡るような匂いは、多分コーヒーのそれだ。

 「……高田ってコーヒー飲むんだ」

 「徹夜が多くなったからな」

 呼気に少し、苦みのある匂いが混じってる。 私の苦手な感じの匂いだ。

 「で、話って?」

 聞かれて、知らない間に、高田から視線を切っていた。 今になって私は、切り出しにくい事を喋ろうとしてたんだなと自覚する。

 口の中に蔓延る甘みを舌で拭って、飲み込んで、乾いた唇をそのままに、息を吐くように、言う。

 「明日、引っ越すから。 だから挨拶くらいはしておきたくて」

 暫く、私達は黙った。 ブランコは軋みもしないし、人の通りもない、風も大して吹いてこないから、隣に人が居ることを忘れそうになるくらい、静かだった。

 「…………寂しくなるな」

 社交辞令みたいな言葉には似つかわしくない表情で、高田は呟く。

 「寂しくなるっていったって、別に大して変わんないんじゃない? 偶然に出会でくわすことも多くはなかったし」

 「そうだけどよ、中学上がってからは微妙になっちまったけど、お前はやっぱ幼馴染みなんだしさ。 なんか、ガキの頃仲良かった奴等、結構バラバラになっちまうんだなって」

 見るからに、こいつ凹んでる。

 「そんな、別に今生の別れでもないんだから。 朋美ちゃんと仲良くやっとくんだよ」

 「朋美とは別れたよ」

 しくった。 高田の声音はあっさりしてるけど、とりあえずで慰めようとしたら裏目に出たっぽい。 しばらく押し黙って今の言葉は聞かなかったことに……。

 ……しようとは、思ったけど、申し訳ないけど、興味が勝った。

 「なんで」

 高田は自分の膝に頬杖をついて、いかにも不貞腐れた風に話し出す。

 「病み期ってヤツか? あいつ、三週に一回くらい凄い勢いで落ち込む時期が来るんだけどさ」

 「ぉぅ……」

 予想をちょっと越えてきたレベルの話が飛んできて、情けない相槌を打ってしまった。

 そんな私を知ってか知らずか、高田は続ける。

 「その度に、花野井さんと私のどっちが大切なの、とか、ほんとは花野井さんが好きなんでしょとか聞かれてて、ずっとはぐらかしてたんだけど……」

 「それは高田が悪いわ」

 何をはぐらかしてるんだこの男は。 そういう時は嘘でもいいからそれっぽいことを言うに限る、だなんて事くらい私にだってわかるのに。

 「いや、最後まで聞いてくれよ」

 「はいはい」

 ブランコの鎖を握り込んで、倒れ込むみたいに、私は空を見上げた。

 「俺は俺なりにさ、朋美が男友達とギクシャクした時に相談乗ったりとか、間入ったりとかしたんだよ。 正直言ってマジで面倒くさかったけど、やっぱそれくらいは割り切らないとなって思ってさ、文句一つ言わずにだぜ」

 ドラマでよく見るヤケ酒のシーンみたいに、まだ熱いであろう缶コーヒーを呷る姿を見て、色々と溜め込んでたのを察する。

 「なのによ、俺が葉澄のこと気にしたりするのは気分悪いとか言いやがって、マジで信じらんねぇ」

 今、聞き捨てならないことを言ってた。

 「急に私の名前出てきたんだけど、もしかして常日頃から私の話とかしてたの?」

 「してない。 一回だけだ」

 「いつ」

 「……先々月、年明け早々に」

 めちゃくちゃ最近じゃんって言おうと思ったけれど、生憎と口はミルクティーで塞いでしまっている。

 「……まぁ他にも色々と不満があって、それで別れた」

 甘い匂いを飲み込んで、いた一息が白くなって消えていく。

 「気になるんだけど、なんで私より朋美ちゃんが大事って言わなかったの」

 最後まで聞けとか言ってたくせに、こいつめちゃくちゃ端折りやがった。 その細かい部分を聞かせてくれないと話にならないだろうに。

 「……俺そういうこと聞かれるのキツイんだよ。 昔の話だけど、両親が喧嘩した後とかに、どっちの味方なの、とか聞かれるのがしょっちゅうあってさ。 ああいう空気、マジで無理なんだわ」

 ……、高田の意外な側面を見た。 思ったより苦労のありそうな……。

 みるみるうちに元気を失くしながら、それでも高田は口を止めない。

 「彼女と幼馴染みとか、比べよう無くないか? それで二者択一とか、なんでそんな酷いことに答えなきゃいけないんだよ……」

 「それでもだよ。 嫉妬とかってそういうところから始まるらしいし」

 「でも葉澄は、俺と付き合ってるからって別に朋美に嫉妬とか無かっただろ」

 は?

 「話飛んだ? まるで私が高田のこと好きな前提になってるんだけど」

 「……もしかして俺のこと嫌いなのか?」

 「…………呆れた」

 高田このバカと喋ってると、変に疲れてくる……。

 ブランコの上で、高田は項垂れる。 なんか実年齢の倍くらい老け込んだように見えてきた。 

 「……まぁでも、なんだかんだ言っても、俺と一緒にいるときに朋美が楽しそうだったりすると、俺も嬉しかったんだ。 だから余計に……俺の悩みをまともに聞いてもらえなかったのが、嫌だったんだよなぁ……」

 「で、それを年明けに?」

 「あぁ」

 ……受験生が一番ピリつく時期に、何やってんだか。 半ば呆れながらミルクティーをもう一口飲もうとして、中身が空っぽになってたことに気づく。

 冷えていく一方になってしまったスチール缶を、足下に置いた。

 「変なタイミング」

 「……いや、その、なんだ……」

 項垂れてた高田は、頭上に手を組んで体を伸ばす。 肩か腰か、関節がミシミシと音を立ててると、気が済んだのか、高田は上を見たまま、両腕を力なくゆっくり下ろす。

 その目には、赤茶けた夜空。 だけど高田が見ているものは、私にはわからない。

 さっきよりも強張った表情で、高田は、白く染まった言葉を発した。

 「相浦、…………冬、だったよな、って……」

 相槌は、打てなかった。

 言いたいことが、無かったわけじゃないけど。

 それで私のことを思い出して、気がかりで、わざわざ自分から、私のことを話題に上げた。 朋美ちゃんの気も知らないで。

 風も無いまま、静かな底冷えの中で、赤みの薄れていく宵空が、私達に影を落としていく。

 「今日さ、相浦の家、行ってきた」

 呟きみたいに小さい声なのに、高田には届いてたみたいだった。

 「知らなかったよ。 相浦アイツの家、妹と叔父さんの二人暮らしで、両親はずっと前に事故で亡くなってたんだって。 相浦のこと、もっと知ってるって思ってたんだけどね」

 高田は見開いた目を、私の方へと向ける。

 「そう、なのか…………」

 いつの間にか高田も、足下にコーヒー缶を置いていた。

 「相浦が死んで、妹はそのショックで不登校になったりしててさ。 今日会えて、ちょっと立ち直れたみたいだったけど、……人が死んだって、こんな感じなんだって思った」

 鼻息が苦しくなる。 鼻腔が渇いてるのか、逆に水っぽいのか、息苦しい。

 「あとごめん高田。 今まで言ってなかったんだけどさ」

 高田の顔が、泣きそうに見えた。

 「子供の頃、私に夕日を見せてくれたの、……もう、忘れてるだろうけどさ」

 目が痺れてきて、気づく。 よりによって今、花粉症の薬が切れたみたいだ。

 でも今はそんなのどうでもいい。 言葉を続けたい。

 「私、夕日が綺麗とかそういうの、わかんないんだ」

 高田の泣きそうな顔が一転、困惑に染まる。

 「なんの話をしてんだ?」

 「最後まで聞いて」

 一蹴すると、律儀に真剣な表情に戻ってくれた。 それでなんだか笑えてきて、自然と視線が上向きになる。

 「他にも色々とあるけど、相浦と会うまで私、上っ面だけで高田と関わってたと思う。 高田コイツじゃ私のことなんてわからないって、無意識に値踏みしてた。

 ……そのお陰って言うのも変だけど、相浦と話すようになって、それから色んな事考えて、散々遠回りしたけど、高田みたいなヤツの有難みも、やっと、ちょっとだけわかった気がする」

 もっと上手い言い方をしたかったけど、感覚的すぎて、自分でもわからない。 果たしてそんな言葉で私の思いが伝わるのか。 不安が、胸を凍えさせていく。

 「……よくわかんねぇけど、葉澄が満足そうだから良いんじゃないか」

 「そうかもね。 じゃあそういうことで」

 横目で見た高田の横顔からは、表情が伺い知れない。 ついさっきの言葉とは違和感がある顔つき。

 「高田?」

 笑ってるようにも泣いてるようにも見える表情で、高田は声を震わせた。

 「……今の、相浦も聞いてたら喜んでただろうなって、考えてた」

 予想だにしなかった言葉と、見たことのない高田の表情に、息を呑んだ。

 「どういう……」

 「内容は言えないけど、さ。 相浦から何回か、お前のことで相談されたこと、あって」

 頭の中で消化不良が起きたみたいな感覚で、思考が巡る。

 相談? 私のことで? 相浦が高田に?

 いつだってどこか達観してたみたいな相浦が、どうして。

 「これしか言えないけど、……ってか、これだけは、言える」

 握りしめ過ぎた指から、血の気が引いていく。


 「相浦はさ、葉澄のこと大好きだったんだ」


 今度こそ、頭が真っ白になった。 

 ……いや、違う。 世界の彩度が上がった、とも違う。 綿毛みたいに力無く漂うしかなった私が、今初めて、自分の足で地面を踏みしめた。 そんな感覚に、近い。

 「だったら、私に直接言えばよかったのに……」

 力の抜けた指先に、血の気が帯びる。

 そんな私の何が面白かったのか、高田は笑いながら言う。

 「遠回りはお互い様ってこった」

 私の意識を途切れさせたのは、スマホの着信音だった。

 差出人は母だった。 もう随分と話し込んでた気がする。 夜空にはいくつかの星が光り始めて、名前も思い出せないような星座を紡ごうとしていた。

 スマホの画面を開いたのを契機に、高田はブランコから立ち上がる。

 「お開きかな。 明日出発だろ、見送りは?」

 「朝早いから、別にいい」

 聞き流しながらも最低限の返事をしながら、スマホにも最低限の文面で返事を打ち込んでいく。

 「そっか。 ……じゃあ、元気で」

 「なんか湿っぽい雰囲気だけど、ゴールデンウィークで一回帰ってくるから。 割りとすぐだよ」

 「そういえばそうか」

 空き缶を拾って、公園を見渡す。 馴染みのある公園だけど、ゴミ箱が撤去されてることに今になって気づいた。

 「その時は飯くらい行こうぜ。 ここまで腹割って話せる相手、葉澄くらいしかいなくてよ」

 「いいよ。 私も、高田のことは別に嫌いじゃないし、行こ」

 特に考え無しに出た言葉だけど、高田の誘いに応えるなんて何年ぶりになるんだろう。 少しだけ、昔の、気兼ねなく喋ってたあの時の感覚を思い出す。

 「いっそ葉澄の誕生日会でもやってやろうか。 ピザ食いてぇよ俺、奢るからさ」

 「気が早すぎ。 高田は地元ここから行ける学校だっけ」

 「ああ」

 「じゃあ私のタイミングだけ考えればいいね」

 公園の敷地を踏み越えて、各々の帰路へと。

 「じゃあ、またな」

 「ん」

 手を振ることも無ければ、振り返りもしない。 あの頃と大して変わってない私達は、あの頃とちょっと違う道を後にした。




 一件の未読メッセージがあります。

 自由ちゃん 五月五日 十八時〇四分

 今って電話してもいいですか?


 今日という一日が、終わりに向かって、ゆっくりと赤く色付いていく。 まだ見慣れない街並みを、やっと履き慣れた靴で、私は歩いていた。

 新生活も、早いもので一ヶ月が過ぎた。 履修登録、新歓回避、バイト探し、慣れない一人暮らし。 目まぐるしい変化に揉まれて、束の間の連休もあっという間に最終日まで来てしまった。

 ほんの三十時間前まで地元にいたことさえ、もう何週間も昔の出来事に感じる。 珍事に次ぐ珍事で、帰省してる間が騒がしかったのもあるけど……。

 新しく買った、マイク付きのイヤホンを耳に当てる。 マイクの位置を調整してから、自由ちゃんへの発信ボタンを押した。 いつも電話するときは夜だけど、この時間にかけるのは珍しい。

 『もしもし』

 早い。 ワンコール始まるかどうかの瀬戸際で電話が通じたのは、初めての経験だ。

 「もしもし、どうしたの」

 電話の内容に目星はついてるけど、敢えて。

 『お誕生日、おめでとうございます。 ちょっとでも早くお祝いしたくて』

 「ありがとう」

 口許が緩んでいったのが、自分でもわかった。 純粋な嬉しさでちょっと気恥ずかしくて、顔が少し火照りそうになる。 そんな私を、夏混じりの夕風が吹き抜けていった。

 「一昨日はごめんね。 なんか、変なやつがピザ買い過ぎて……」

 ふふっと控え目な笑い声が、耳元まで届く。

 『いえ、いいタイミングで伺えたなって思ってます。 ピザ美味しかったです』

 誕生会だとか言って奮発した高田のテンションに乗せられて、私もタガが外れてた。 明らかに二人で食べ切れないピザを私の部屋で抱え込んだまま、あのタイミングで自由ちゃんが来なかったらと考えると、初夏なのに背筋が凍る。

 「やっぱ背高いと食べる量も違うのかな」

 『お腹空いてたんです、大食いじゃないですよ』

 隠れたファインプレーを果たした私を褒め称えたい。 私の帰省の日程を予め自由ちゃんに伝えてあったから、自由ちゃんは気を利かせて、相浦が返し損ねたCDを持ってきてくれた。 初対面の高田に緊張しながらも、キングサイズのマルゲリータ二枚を美味しそうに平らげる自由ちゃんが、私達の目に女神のように映ったことなんて言うまでもない。

 『それよりあの後やった人生ゲームですよ、葉澄さん凄かったですよね。 借金と子供を作り続けてて』

 「……あれゲームの出来事で本当によかった」

 私を下の名前で呼ぶのが、当たり前になっていたのに気がつく。 あれから自由ちゃんは頑張って、自分から人と接しようと学校に行くようになったり、私に勉強のことを聞いてきたりするようになった。

 電話越しでも、人と話すことに慣れて来たのがわかるような声音。 たったの一ヶ月が長く感じるのは、自由ちゃんの努力を目の当たりにしてるからかもしれない。

 『もしかしてあの日って、お酒入ってました? 葉澄さんのテンションが普段より高かったような……』

 「え、そんな高かった? 素面だったけど……あと一応まだ十九だし……」

 『普段からあれくらいとかですか……?』

 「いやいや、流石に、ちょっと舞い上がってただけだって」

 思い返す。 確かにめちゃくちゃ浮かれてた。 人生ゲームで圧倒的ドベだったからって、物置から練習用ラケットを引っ張り出して、近くの公園で自由ちゃんと組んでバドで高田をボコボコにしたり。 食べ過ぎてたくせにめちゃくちゃ体を動かして、家帰ってからしばらく腹痛で動けなくなったり。

 『あの日の葉澄さん子供っぽくて、ちょっと可愛かったです』

 「……それは、どうも」

 喜んでいいのやら。 他でもない今日、また一歳大人に近づいたというのに。

 「そういえば。 部活ってもう決めた?」

 『あ、はい。 仮入部期間は終わっちゃったんですけど、バスケ部の見学に行ってみようかと』

 ……高田の差し金か、とも思ったけど、自由ちゃんが動くきっかけにしてるなら、いいか。

 「自由ちゃん建端タッパあるし、運動のセンスありそうだったし、いいんじゃない?」

 『高田さんも、そう言ってくれました。 それに、バスケだったら色々教えられるって』

 相変わらず、人の面倒を見るのが好きなやつだ。 そんなやつだから、なんだかんだ今まで関係が途切れなかったんだろう。

 「じゃあ、安心だ」

 『はい。 あの、今から晩ご飯の準備するんですけど、……今夜もう一回、電話かけてもいいですか』

 最早あざとさすら身に着け始めてるんじゃないかってくらい、自由ちゃんの小さめな声音が可愛く思えてくる。 変な言い方だけど、甘え上手な妹ができたみたいで、正直、満更でもない。

 「うん、また連絡して」

 『はい。 それじゃ、失礼します』

 また後で、と付け加えて、自由ちゃんとの接続が途絶える。


 イヤホンを、外す。

 連休の最終日で、流石に普段よりは人の多い大通り。 広い川幅を跨る大橋が、隣町に続いているのが見える。 川辺の桜並木を見上げると、赤らむ太陽に照らされて、青々と葉桜が澄んでいた。

 橋の方に向かって、桜並木の日陰を進んでいく。 木漏れ日が時々、目に痛い。 夕方でも直射日光が熱くなり始めていて、夏の近づきを実感した。

 私の前の少し遠くを進むのは、地元の中学生だろうか。 日向で二人の女の子が、夕日には目もくれずに笑い合う。

 ぬるい風が、私の背中を押して、葉桜をざわつかせ続ける。 そんな中で、私の靴音は淀みなく、規則的に日向へと近づいていった。

 なんとなく、あの二人に、私と相浦の姿を重ねそうになる。 遠目で見た時の後ろ姿だけなら、相浦はその辺の人と大差なかったから。


 相浦のことは、相変わらずよくわからないままだった。


 ──だけど、私にもわかることだって、ある。


 私の影が目の前に伸びて、私が日向に出たんだと合点がいった。 橋に差し掛かってしまえば、もう日を遮るものなんてない。

 自分の影に、背を向ける。

 目の前の全部が、痛いくらいに真っ赤になって、咄嗟に目を閉じた。 だけど視界は真っ赤なままで、でもしばらくして、少しずつ目を開いていけた。

 渇いた目を思い切り瞑ったからか、目頭が潤む。 そのまま、歪んだ朱色の太陽を、私は目にする。

 目にして、確信する。


 ──相浦ならきっと、この夕日を、綺麗だって言うんだろうな。


 確信して、理解する。


 ──高田もこんな思いで、私に夕日を見せたんだろうな。


 理解して、自覚する。


 ──私はもうとっくに、この思いで相浦に夕日を見せてたんだ。


 気がつけば、どこかの誰かみたいに、口角が少し上向きになっていた気がした。

 風が止む。 葉桜もゆっくり、静けさを取り戻していく。

 まばたきをしたら涙が零れて、滲んでいた夕日が、今度こそはっきりと、この目を焼き焦がして。


 青からあかへ、移り行く空の下で。

 少し引きつった頬を、涙が伝っていった。

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青から朱へ 進捗雑魚太郎 @lancelot4989

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