第17話 キスでしょうか


「丁度今日由華が男子小学生みたいって話してたんだけどね、なんかその理由分かった気がする」

「オイオイあやめさんそれ私までディスってんじゃん……てか敬語アレだな。タメ語でいい?」

「うん、いいよ全然」


「タメ語でいい?」って聞いてる語尾がもうタメ口。そんな不躾で姑息な手段にも即答で優等生然とした反応を見せるあやめ先輩のいじらしさがなんだか哀れにすらに思えて、私はグラスに浮かぶ氷をそっと指で弾いてみる。


「ダメですよあやめ先輩、上下関係はっきりさせとかないとこの手の輩はいくらでも図に乗るんだから」

「由華も私にタメ口でいいよ。ていうか、その方がいい」


 ぱんっと胸の前で手を叩いてこっち向いたあやめ先輩、店内の小洒落た間接照明なんかよりずっとダイレクトに私を射す双眸。


「嫌です」

「ええ、なんでぇ?」


 子供みたいに語尾を間延びさせながら大仰に顔を顰めてみせるあやめ先輩。どうにもこの人は、私が絡むと優等生の仮面が外れる傾向にあるみたい。


「私は灯里みたいに目上の人間に失礼な言葉遣いするような性質タチじゃないんで」

「あら、由華ちゃんアタシにはタメ口利くじゃない」


 出し抜けに横からぬっと現れたマスターが言い、テーブルに注文の品を置きながら「うちの常連の奥様方にも敬語使うの聞いたことないし」と付け加える。最後に私の目の前に二股に分かれたストローが刺さったミルクラテがどん。


「マスターとかは親子くらい歳離れてるからいいの。駄菓子屋のばあちゃんに敬語使うガキんちょいたら逆に気持ち悪いでしょ」

「タメ口は構わないしあんたがガキんちょってことにも異存はないんだけど、アタシを駄菓子屋のばあちゃんと同列に扱ったことに対してはいささかモヤっと来るものがあるわね」


 更地になったお盆で私の頭に一発入れて帰っていくマスター。平たい面じゃなくてフチでしばいてくるからタチが悪い。

 前に文句つけたら「背が伸びる秘孔突いてあげただけ」なんて言うんだこのヒゲオヤジ。無邪気に信じてた中二の私よ聞いて驚け、あれから二年半で八ミリも伸びたぞ。


「私を駄菓子屋のおばあちゃんだと思っていいんだよ」


 包容力たっぷりに言いながらミルクラテをちょっと自分の方に引き寄せ、私との中点にセッティングし直すあやめ先輩。おまえのようなババアがいるか。


「あやめさんがいいって言ってるんだから遠慮すんなって。それにこういうのっていっぺんタイミング逃すとずるずるいっちゃうよ? 輝一も女子に対して変なバイト敬語使うじゃん? 付き合うに際してあれ外させるのにすげー苦労したんだから」

「きぃちゃんと灯里はそもそもタメじゃん」

「歳関係なく付き合ったらタメ語で話した方がいいって。女が三つ指ついて旦那の帰りを出迎える時代は終わったの」

「後半の例えよく分かんないし、そもそも付き合ってないし、付き合ったとしても年上にそう簡単に敬語外せないよ」

「じゃいつ外すんよ」


 側面から灯里に問われ、正面のあやめ先輩と目が合う。


「い、いつでしょうね?」

「……由華はいつだと思う?」


 反問のクロスカウンターが飛んできて、私は返答に窮した。お前が答えを出せ、と髪を掻き上げる仕草が言外の圧をかけてくる。

 数秒沈黙したまま視線を交わし合った後、あやめ先輩はやおらソーサーを手に取って鷹揚にコーヒーを啜った。小さな息の音と共にカップから離れた下唇が湿り気を帯び、グロスを塗ったみたいに艶めく。

 ことり、と小さく音を立ててソーサーがテーブルに着地した。


「キ、キスでしょうか」

「……私と由華がキスしたら敬語外してくれるってこと?」


 少し首を竦めて挑むようにこちらを見据えるあやめ先輩に、私は釣り込まれるように無言で頷くしかなかった。


「いやてかさ、キス以上のことしてんじゃんあんたら」


 灯里のおどけたような声が割り込む。


「はあ? キス以上って」

「してるでしょ、しかも初手でいきなり。現代日本に太腿撫で回すのがキス以下って社会通念があるなら別だけど」

「な、撫で回してはいないよ!」

「確かに。あれは撫で回すっていうより撫で上げるっていう表現が正しいと思うな」


 あやめ先輩の声はどこか嬉しそうだった。

 まあ、被害者本人が言うならそれが正しいんだと思う。加害者もそう思う。

 

「そもそも由華ってさ、もう既にちょいちょい私に対してタメ口になってるよね」

「えー、嘘だぁ」

「『嘘だぁ』がもうタメ語じゃん。あんた基本的に自分以外の全ての人間ナメてるから、そこら辺が言葉遣いにも表れるんだよ」


 灯里の口調は冗談めかしたものだったけど、その実、彼女の指摘は私の性格の本質を鋭く突いている。

 ナメてるっていう表現はちょっと悪し様が過ぎるけど、他人に対して無遠慮でデリカシーに欠けるってのは散々言われてきたことだ。これはどうも物心ついた頃からそうであったようで、店屋をやってる両親の下町気質を譲り受けたものらしい。

 中学の三者面談で「気立てはすこぶる良い、素行は少し悪い、成績はまあまあ悪い、口はめちゃくちゃ悪い」と言われた帰り、お父さんが「俺もガキの頃全く同じこと言われた」って言ってた。


「でもなんか本気で怒る気にはなれないんだよね」


 灯里があやめ先輩に向けて言う。


「しょっちゅう癇に障ること言ってくるけど絶妙にマジギレ出来ないギリギリのライン攻めてくるし、愛嬌だけはバケモン並みにあるから説教する側も最後にはほだされちゃうわけ。私もそうだし、周りの大人も皆そう思ってんじゃないかな」


 私自身もそう思う。

 この気質に祟られたことは数えきれないくらいあるけど、助けられてきたことも同じくらいある。誇れる美徳でもないけど、捨て去るには惜しいと思える程度の愛着は持ってるつもりだ。


「結局なんやかんや甘やかしちゃうんだよね」

「もうちょっと甘やかしてもいいんだよ」

「ね。こいつナメてるでしょ」


 ふんぞり返った私のこめかみを小突く灯里を見て、あやめ先輩がくすくすと笑う。


「確かに由華って憎めないもんね。そっか、愛されてきたんだ」

「いやまあ実際憎たらしいことも多々あるけどね。っと、私は労働に戻んないと」


 文字通りの憎まれ口と共に一気にコーヒーを飲み干した灯里が腰を上げる。窓を通して、店の敷地内に三人組の主婦らしき影が入ってくるのが見えた。


「ほんと、愛されてるなあ、由華」


 入店対応をこなしている灯里を眺めながら、しあやめ先輩はみじみと呟く。


「他人の悪意に触れずに育ってきたんだね。だから──」


 そこまで言いさして、隣のボックス席に座ってきた主婦トリオに対して洒脱な所作で会釈をする。顔を上げたその時には、彼女は優等生の仮面をしっかりと被り直していた。


 だから、私しかいない。


 先輩が言葉を切る瞬間に一瞬だけ垣間見えた、獲物をなぶる蛇のような好奇心に満ちた悪意を湛えた表情を知る者は。


 私しかいない。

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