第13話 毒に抱かれて
「滅多にない」ということは「稀にある」ということだ。
ニーチェか私、どっちかがそんなこと言ってた気がする。ふふ、どっちだろね。
「まあ由華に違反への対応を例示出来ると思えばいいのかもしれないけど。それにしても、許可証なんて申請すればすぐ貰えるのになんでめんどくさがるんだろ」
あやめ先輩がスマホのカメラで写真を撮り、バッグからタグ付きの黄色い紙を取り出して濃紺のフレームのクロスバイクに括りつける。いわゆる駐禁切符みたいなものなんだろう。
「まあ一回目はイエローカードって感じで、これで駐輪許可証の申請してくれればお咎めなし。次の巡回で同じように無許可のままだったらレッカーね」
今のレッカーってそのままの意味なのかな。それともレッドカードを略してみたのかな。ふふ、どっちだろね。
「別に撤去するのはいいんだけど、その後返却する際に違反者にお説教くらいはしないと示しがつかないじゃない? 私嫌いなんだよねそういうの。役割だから仕方ないとはいえ、詰め寄ったり
「私ちょいちょいあやめ先輩に詰め寄られたり詰られたりしてる気がしますけど」
「由華は特別。いじめたくなる」
いたいけなまでの笑みに、私の身体は毒に抱かれて鈍く痺れる。
「……そういうこと言う時は、もうちょっと底意地悪そうな顔した方がいいですよ」
あやめ先輩はサディストだ。それは間違いない。
凛とした佇まいに似つかわしくない天然さとか、不平を感じると大仰にむくれてみせる茶目っ気を見せたりする時もあるんだけど、本質的には相手を掌握して自分の支配下に置きたい性格なんだと思う。詰問する時の声音から滲み出る圧とか、相手を制圧しようとする時に見せる凍て切った月光みたいな目力だとか。
で、そういう性癖の人間にとって私みたいなのは格好の餌食なんだろうってのも、分かる。経験上ね。
分かるからこそ、少し恐怖も感じるんだけど、同時に。
「どしたの?」
私が肩まで浸かっていた思索の海に、いきなり楊貴妃みたいなツラした海坊主がざぶんと顔を出した。不意を衝かれたもんだから腰抜かしてひっくり返りそうになったけど、腕をがっちり組まれてたから助かった。
「ご、ごめんなさい、ぼーっとしてて」
「お腹空いてるんだよきっと。うん、やることやったしお昼にしよう」
うん、助かった。
凄く危ういこと考えてた気がするから、私。
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暖かいってこともあって、私達は中庭にある藤棚の下でランチをとることにした。人影はまばらだけど、行き交う人の目は八割方一度こちらへ向く。
彼等があやめ先輩を視界に捉えているのは明白だけど、その目が単に七崎あやめという人物を見ているだけなのか、それとも彼女が誰かと二人で昼食をとっている状況に好奇心、あるいはもっと穏やかではない胸騒ぎを覚えているのかは分からない。
確かなのは、視線のうちの何割かがあやめ先輩から私に移る瞬間に一種の無遠慮さを携えたということだけ。有り体に言えば私だけ睨まれた。
なんにせよ、気分のいいものではないなと思った。衆目を集めるということに、少なくもと私は慣れていない。
「え、由華、それだけ? サンドイッチだけ?」
センチメンタルさを含んだ同情を感じていた私に、あやめ先輩の恬然とした声が飛ぶ。
まあ、うん、慣れっこかこの人は。美人って昨日今日で美人になったわけじゃないもんね。
「私バイトとかしてないんで、お小遣い貯めるためにお昼は購買で節約してるんです。金曜はツナサンドって決めてます。その分朝晩ちゃんと食べてご覧の通りすくすく育っておりますゆえご心配なく」
「お弁当作ってもらったり……作ったりしたら、もっとすくすく」
「うち店屋やってて両親朝から忙しいんで作ってくれないんです。自分で用意なんて尚更無理ですし」
「由華、料理苦手?」
「朝が苦手なんです」
「分かる。私も朝凄く苦手」
そう言ってあやめ先輩は膝の上の風呂敷を解いて。
弁当箱の蓋を開けて。
箸を手に取って。
「どれがいい?」
なんて言う。
「……いやあ、悪うござんす」
「ござんせんよ。このかぼちゃの煮物とか自信あるんだけどな。これだけ別の味醂で炊いてるんだよ」
「がっつり自分で作ってるじゃないですか。朝弱いとか言ってたのに、嘘つき」
「嘘じゃないよ、朝起きられないのは本当。アラーム最大音量で鳴らして、ありったけの根性で無理矢理身体を起こしてるんだから」
この人やっぱ人間としての芯の強さがちょっと違う。テストであとひとつどうしても埋まらない解答欄と格闘して頭抱えるタイプ。私は開始五分で書くことなくなってどうでもよくなってシャーペン鼻と上唇の間に挟んで頬杖ついてるタイプ。
「母親が夜勤ありの看護師なんかやってるから、家の事はある程度自分でやらないといけないの。本当はコンビニ弁当の方が楽でいいんだけど、入学して暫く見栄張っちゃったもんだから引くに引けなくなっちゃって」
「へえ。先輩でも見栄とか張るんですね」
「張る張る。私の心の中、半分虚栄心だもん」
「そんな……」
軽率にも「大袈裟ですよ」なんて文句が口をついて出そうになったけど、
心中半分が虚栄心だなんて本音だとは思わないし、見栄や外聞のためだろうがなんだろうが努力して結果身になってるんなら結構だろうと思う。
けど、あやめ先輩がそんな慰めを欲しているわけじゃないことくらいは分かる。
「私の人生、そればっかりだった」
鋭く細い息を吐いて顔を上げたあやめ先輩は表情を取り澄まし、淀みない所作でかぼちゃを箸で摘まんで私の口の前に持ってくる。
「心半分、砕いた結晶」
ここまでされたら厚意に甘えないわけにもいかないし、もとよりあやめ先輩がこのモードに入ったら私に否応を論ずる権利などない。
口を開いて汁が滴りそうな黄金色に唇が触れた刹那、見計らっていたかのようにあやめ先輩の唇が動いた。
「残りの半分はね、今は」
乞うような慈しむような、形容し難い色の双眸に射すくめられる。
その先を言わない辺り、やっぱりこの人は生粋のサディストだと思う。
口いっぱいに甘いかぼちゃ。菓子パンの日じゃなくてよかった。
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