第9話 完全無欠なハッピーエンド

 

 誰かと過ごす時間の価値を天秤にかけるような、ぎらついたビジネスマンみたいな思考にはなりたくない。だけど今こうしてあやめ先輩の前に立っている時間は、灯里と過ごしていた時間を失った代償として得たものなのだ。その選択をしたことを私自身に後悔させないようにしなければならない。

 この一見地味で退屈に思える課外活動の時間を無為に過ごしたくない。目の前にいる人との関係を親友以上に親密なものにしたい。

 冷徹だと白い目で見られようが姑息だと後ろ指をさされようが、無為より余程マシだ。頭を冷やし、状況を整理し、打算的な思考を呼び覚ます。


「あの、先輩」

「うん」

「言われた通り、私は今から正直な気持ちを先輩に伝えます」

「うん」

「そうしたら、先輩は私を受け入れてくれるんですか」


「ですか」なんてのは国語の先生に言わせれば疑問形に分類されるものなんだろうけど、ここでは形式的なものに過ぎない。

 私の目論見ではこの後あやめ先輩は「うん」って頷いてくれて、私がありったけ思いの丈を吐き出して、先輩がそれにとびっきりの笑顔で応えてくれて、なんなら優しく抱き寄せてくれたりなんかしちゃって。その後があったりなかったりしちゃったりしちゃわなかったりして。

 なんて希望的で楽観的で完全無欠なハッピーエンド想定のもと言葉を紡いでた……つもりだったんだけど。


「えっとね」


 あやめ先輩、ちょっと髪をいじって、はにかんで、そんで。


「分かんないや」


 私の描いた精緻で幼稚な未来予想図に甘いジャムをぶちまけたんだ。


「──はい?」

「あの、うん、分かんない。私もそこまで鈍感じゃないから由華にこれから何言われるかくらい予想つくんだけど、その思いに応えられるかは、分かんない」


 あやめ先輩の外見に表れない能力だとか性質についてはまだ不明な点がほとんどだけど、確実に言える長所のひとつとして活舌の良さが挙げられる。声が特徴的ってわけじゃないんだけど、それは裏を返せば極めてベーシックな周波数と波形パターンをもって空気を震わせていることの証左でもあってつまり何が言いたいかというと私の聴覚神経あるいはそれを脳に伝達するまでのプロセスに致命的なバグが発生している可能性を排除した場合におけるこの際の正しいリアクションが──。


「わかんない?」

「うん、分かんない」


 呆然とした時って本当に開くんだね、口。

 私はよく説教されてる時に半開きになってるらしいから意識して閉じられたけど、そうじゃなかったら開いたまんまだったよ、口。


「分かんない、というのは、えーと」


 頭、フル回転。多分ダブルアクセルトリプルトゥループくらいは回った。


「私はフラれたという認識でよろしいのでしょうか」

「ううん、そんな。そもそも告白されたわけじゃないし」

「こんなの告白したのと同じですよ。で、フラれたのと同じです」

「振ったつもりないの、本当に。こういうのなんて言うんだろ……保留?」


 保留。可憐に、慎ましく、小首を傾げながら、保留。


「ええっと、保留っていうのはいわゆる『少し考えさせて』の意味でしょうか。それとも『お友達から始めましょう』の方でしょうか」

「どっちかっていうと後者のニュアンスなんだけど……駄目かな?」

「いえ、ダメだなんてそんなおこがましいこと言える立場じゃないんですけど」

「けど?」


 さっきとは逆の方向に首を傾げ、私に先を促す。


「……ご承知だとは思うんですけど、私が伝えたい好意っていうのはお友達のままじゃ満足出来なくなる類の好意なんです。先輩にそっちの気がないならきちんとフってくれた方がありがたいというか」


 あやめ先輩は少し首をすくめてみせる。その様は、どことなく拗ねているようにも見えた。


「それも分からないの。私は男の子と付き合ったこともないけど、じゃあ女の子と恋愛出来るかっていうと、ね。由華の気持ちは確かめたいし、応えたいって思いも確かにあるんだけど、由華がしたいって思うようなことを全部受け入れられるかはまだ自信がなくて」

「じゃあなんで、あんな」

「あんな?」

「とぼけないでください。先輩みたいな人に後ろから抱きつかれて首元で囁かれたりしたら、普通勘違いします。てか、私はしました」

「それはまあ、させようと思ったし」


 唇に人差し指を軽くあてがいながら悪びれる様子もなく言い放ち、私のなまくらな舌鋒は無残にも空を切る。


「確かめたかったの。昨日のは一時の気の迷いで、本来の由華は誘惑されても我慢出来る分別のある子なんだって」

「人の気持ちを弄ぶようなことはよくないと思います」

「人の身体を弄ぼうとしたのにそれ言う?」


 ぐうの音も出ない正論と共に、軽くおでこをつつかれる。


「試すようなことしたのは悪いと思ってるけど、由華が見境なく暴走するような子じゃないって分かったのは収穫だよ。私が察するに、昨日はお互い知らない者同士だったが故にああなっちゃっただけだと思うの。こうやって言葉を交わしてゆっくり距離を近づけて気持ちを通わせ合えれば、いつか──」


 と、先輩はそこで言葉を切って、私を軽く一瞥した。

 その時の私がどんな顔してたかは分からないし、あやめ先輩の表情も思い出せない。暗かったせい、だろうか。


「……帰ろっか」

「はい」


 いつか。


 先輩はその後にどんな台詞を続けようとしたんだろう。

 考える間もなく先輩は私の背後に回って、廊下を帰る先導役を私に押しつけた。


 ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ 


「初日だから色々慣れないこともあったし、遅くなっちゃったね。本当に送っていかなくて大丈夫?」


 もう陽がとっぷり暮れてしまった正門前で、あやめ先輩は私のマフラーを整えながら言う。ハーフのダッフルコートにさえ着られちゃってる私に対して、トレンチなんか着こなしてる先輩はやっぱり凄く大人びて見えた。


「帰り逆方向なんだし、先輩だって夜道危ないの同じです。怖がりなの知ってるし」

「そう、じゃあ気をつけて」


 最後に私の横髪を慈しむように撫で、先輩は二歩下がって居住まいを正した。


「改めて、これから先輩後輩として、そして友達として親密な関係を築いていきましょう。よろしくね、由華」

「はい。それじゃ、これからよろしくお願いいたします……


 私のなけなしの勇気に、あやめ先輩は今日一番の無邪気な笑顔で応えてくれた。

 そんなことでまたバカみたいにうるさくなる心臓の鼓動がなんだか悔しくて、少しだけ意地の悪いことが言ってみたくなった私は、踵を返した先輩の背中に問いかけたんだ。


「あの、あやめ先輩。もし私が分別のない女だったらどうするつもりだったんですか」


 先輩は振り返らず、顔を上げて足を止める。少しだけ首を傾げたようにも見えた。


「男の人にあんな誘惑するような真似したら、本当に何されるか分かんないんだから気をつけてくださいね」

「あ、そのことか。しないしない、他の女の子にだってやらない。相手が由華だからからかってみたの」

「あ、バカにしてる! そうやってみんな私を子供扱いして……」

「子供というか、由華はちっちゃいから何かあってもいざという時には簡単に組み伏せられるじゃない。私の身に危険なんてないよ」


 そこまで言って、あやめ先輩はようやくこちらに振り返った。


「もし私と由華が逆だったらって思うと、ぞっとしちゃうけどね」



 ──やっぱり表情が思い出せない。寒気がしたことだけはっきり覚えてる。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る