第8話 笑えないです

 第一校舎三階のどん詰まり、礼法室。もはや来たことあるとかそういうレベルではなく、何に使ってるのかすら分からない。

 相変わらず私の背中にくっついているあやめ先輩は、数歩あるくごとに「由華、いる?」なんて呼びかけてくる。大丈夫だよ先輩、この状況から途中でいなくなれるんなら私は女子高生やってないから。


「……うん、最後のチェック完了、と」

「よ、よく出来ました、えらいね、由華」


 由華ゆか由華ユカって、あやめ先輩は不必要なくらい何度も私の名前を呼ぶ。か細い声なのにそこだけが不思議なくらい背骨に響いて、いちいちぞくっとする。

 私にはあだ名らしいあだ名もないので、同級生の女子から「由華」と呼ばれることに特別違和感はない。生粋の帰宅部なので先輩後輩間で仲良い人ってのはあんまりいないけど、それでも灯里と付き合いがあるので、彼女を介して怖そうなお姉様方から呼び捨てで可愛がられることはままある。


 だから、こんなのはなんでもない。なんでもない……はずなのに。


「よーし、帰るよ由華……あれ、由華? どうしたの?」

「……すみません、好きに呼べなんてこっちがのたまった手前偉そうなこと言えないんですけど、あんまり『由華』って連呼されると、その」

「え、ご、ごめん。そんなに嫌だった?」

「い、嫌とか、そういうのじゃなくて」


 そういうのじゃなくて。

 口をついてそんな文句が出てきたけど、後に続く言葉が見つからない。

 一度深呼吸。唇をきゅっと結んでじる自分を振り払う。


「……あの、先輩。こんな薄暗くて誰もいない所、怖くないんですか?」

「え? 怖いけど……でも怖くないよ、由華と二人だから」


 なぜ今更それを聞くのか、なんてとぼけた声色。

 警戒心や屈託といった情動を忘れてしまったかのようなあやめ先輩の無神経な振る舞いが、私の心をざわつかせる。


「そうじゃなくて、そういうこと言いたいんじゃなくて。……私と二人だから、ですよ」


 数秒、静寂。沈黙のとばりが下り、おぼろげで不格好な抱擁で繋がっている私と先輩の心を暗幕で分かつ。

 やがて、胴をひしと抱く腕の震えが止まった。先輩が私の言わんとするところを理解したのだと、強固になった抱擁の感触が伝える。


「怖くないよ。由華のことなんてすこーしも怖くない」

「でも、だって私」

「もうあんなことしないでしょ?」


 甘い声が、背骨からせり上がって首に纏わりつく。

 あやめ先輩が肩に顎を乗せてきたのは分かったけど、それはついさっき灯里が取った行動とは似て非なるものだった。親愛を確かめるように寄せてきた灯里の頬はとても温かかったけど、あやめ先輩は首筋に唇を触れ合わせんばかりの距離でじっと私の横顔を見つめている。なまめくような吐息が、ただ、熱い。


「する気はありません。ありませんけど、私、先輩といると抑えが利かなくなっちゃうのかもしれなくて」

「抑え?」


 あやめ先輩は組んでいた手を一旦解き、私の右手を取ってそこに重ねた。先輩の左手が私の指の間を縫うように絡んでくる。

 持っていたペンが、間の抜けた音を立てて床に落ちた。


「抑えが利かないって、どういう意味?」

「……分かってるでしょ先輩は、先輩だけは。分かってるのにこんな……誘うようなことしないでよ」

「私だけ、なんだ。てことは他の人にはあんなことしないんだね。由華は私と二人きりだとおかしくなっちゃうの? それはつまり、私が好きってこと?」


 矢継ぎ早に問いかけられ、思考が掻き乱される。絡む指と指が滑って、滲む汗が自分のものなのかあやめ先輩のものなのかすら分からない。


 「せ、先輩のことが好きかどうか……本当に分かんないんです、凄く綺麗だと思うし、思うけど」

「外見が好みって、重要だと思うな。それは恋愛感情とは違うの?」

「重要だけど、だからって衝動に任せて同意もなく無理矢理自分の欲望ぶつけるだとか、そんな歪んだものを恋愛感情だなんて私は思わない、思いたくない」

「ちょっとナイーブ過ぎる考え方だなぁ。確かに倫理とか社会正義にはもとるかもしれないけど、動物としては至極純粋な行動原理だよ、繁殖したいって。あ、繁殖は出来ないか」

「……笑えないです」

「ふふ。でも、そういうの全部ひっくるめて『好き』ってことなんじゃないのかな。私は由華のそういう良くも悪くも真っ直ぐなところ、素敵だと思うんだ。勿論昨日みたいに突然押し倒したりされたらびっくりしちゃうけど、でも好意自体は凄く嬉しいんだよ。だから、由華も自分の気持ちを押し殺すようなことはしちゃ駄目。私を好きでいてくれるんなら、それを隠したりしないで欲しい。分かる?」


 耳から入ってくる音、首筋から伝わる熱、指先をくすぐられる感触。全てが私の脳をぐらつかせる。甘美の波に流されて溺れてしまいそうな意識の中で、私は、自身を堰き止めていた唯一の堤防を縋ろうとして。


『由華だって好きな人が出来たらそっちと過ごすことを選ぶんだなってのを思い知ってさ』


 もうその堤防はなくなっていたことを思い出した。


 絡んでいた指がゆっくりとほどかれ、あやめ先輩が私の身体を百八十度反転させる。少しだけ潤んでいるように見える瞳で真っ直ぐに見つめられ、胸が詰まる。


「──由華の正直な気持ちを、私に伝えて欲しいの」



 濁流が私の心に入り込んで侵食していく。止める術は、なかった。


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