第4話 『美』

「笑ってないです、私」


 笑えるような状況ではなかったし、笑ったつもりもなかった。あやめ先輩の笑顔を見て無意識にニヤついていたんだとしたら、私はだいぶアブナい。


「えー、笑ってたよ。はにかんでた」

「じゃあはにかんでただけです。はにかむのと笑うのは違います」

「じゃもっかいはにかんで」

「やだ」

「……いじわる」


 あやめ先輩はそう言って、本当に自分が被害者であるかのようにしゅんとしょぼくれる。なんだこの人、さっきまで私に散々意地悪してたのは自分なのに。


「ソレさえなければもっと素敵な笑顔だったのに。ごめんなさいね、由華」


 そう言いながら、あやめ先輩は私の頬に指先でそっと触れる。例の痣をなぞるよう

にゆっくりと先輩の指が這い、やがて、それが私の唇へと達した。

 私、のなんて初めてだったから、思わず身体がびくんと跳ねた。先輩はそれを見てまた含んだように笑う。

 ほら、先輩の方が意地が悪い。


「からかうのやめてください。それに、さっきから私の呼び方……由華って」

「蓮本由華を由華って呼ぶことの何がおかしいの」

「初対面……ほぼ初対面です、私達」

「馴れ馴れしいのは承知だけど、でも私はもう由華の唇に触れたし、それに由華は、私の」


 あやめ先輩が視線を足元に落として、スカートの裾にちょっとだけ触れる。


「それ! それ持ち出すの禁止! 分かりました、勝手にどうとでも呼んでください」

「じゃあ勝手にするね。由華も私のこと好きに呼んでいいよ」

「あやめって呼びますよ」

「いいよ」


 なんで即答なんだ。だめだこの人、どうにもやりにくい。


「……それで、は何のために私をここに呼び出したんですか。昨日のこと謝って欲しいのかと思ったらそうじゃないみたいだし」

「そう、そのこと! 私ね、謝罪が欲しいわけじゃないけどこのまま許す気もないの」


 あやめ先輩が手を胸の前でぱちんと叩き、その表情がぱぁっとはなやぐ。台詞と仕草、どっちかを間違えてんのかと思ったけど、どうやらそうでもないみたい。


「いい? 由華が私を襲った罪と私が由華の顔を傷つけた罪が等価で、天秤が釣り合ってる状態だとするじゃない? で、そこから私だけ謝って、由華は謝ってない。つまり、謝ってない分だけ由華が悪いことになるよね」


 ああ、どっちも間違ってるんだ、この人。

 閉口する私を尻目に、あやめ先輩はべらべらと身振り手振りを交えながらアナウンサーみたいに明瞭な滑舌で嬉々としてまくし立てる。


「由華は私に借りがあるんだ。なら、私の言うことを聞かなくちゃいけないよね」


 なんだこの人。言ってることがめちゃくちゃだ。私は言いたいことが頭の中で溢れてしどろもどろのしっちゃかめっちゃかになることがよくあるけど、あやめ先輩はなんというか、理路整然とした口調で支離滅裂なこと言う。

 私が変人なら、この人は──。


「だから罪滅ぼしに、生徒会で私と一緒に働いて欲しいなって」


 狂人。


「思うんだけど」


 狂人?


「頼める?」


 あやめ先輩が小首を傾げて、ちょっとおどけたような表情になる。首を傾げたもんだから先輩の背後にあった窓が視界に飛び込んできて、そこに映ってた私、最高にアホな顔してた。


「……いや、まあ、別に。私帰宅部だし習い事もやってないし、いいですけど」


 なんかもの凄い無理難題を言われるかと思ったら、拍子抜けだ。手拍子で承諾したけど、そもそも生徒会って個人の一存で──。


「じゃあ決まりね」


 決まった、らしい。一存で。


「で、でもでも、生徒会みたいなエリート集団に私みたいなあんぽんたんが混じってよろしいのでしょうか」

「生徒会をなんだと思ってるのよ」

『内申点を稼ぐため権威におもねるガリ勉引きこもり腹黒集団』


 って言ってたのは私じゃない。そいつ今頃カップ酒あおるみたいにラーメンのスープ飲み干してる、多分。


「大丈夫、生徒会長みたいに全校生徒の前でスピーチしたりするわけじゃないから。私はただの校内美化委員だよ。ちょっと放課後に校内見回って掃除したりするだけ」


 あやめ先輩が制服の左胸についたバッジをちょんちょんと触る。よーく見ると、崩した字体でなんか刻印してある。


「これなんて読むんですか」

「え、美だよ。美化委員の美」

「美」


 美て。


「だっ」


 だっさ。私、美人が『美』つけてるのが一番ださいと思う。ジャイアンがGって書かれたトレーナー着てるのと同じじゃん。違うか。


「由華のもあるよ」

「あるんだ」


 なんか胸ポケットからすぐ出てきたそれには、やっぱり『美』って書いてある。


「つけてあげるね」

「いえ、自分でつけます」

「つけてあげる」


 強権発動、結局されるがままになる。あやめ先輩の手が私の胸元に触れ、ブレザーの襟にある穴に通されたバッジの針が、裏から留め具で固定されていく。


「その穴って、バッジ通すためにあったんですね」

「そうなのかもね。そうじゃないかもしれないけど」

「安全ピンじゃないんですね」

「こういうのってだいたいピンバッジだと思うけど」


 なんて身の無い会話。

 会話もだけど、私、顔のいい高身長オンナに至近距離で制服バッジをつけられる時の姿勢だとか目の遣り場だとか、そういうのについて教わってない。なんか不自然に上体逸らしながら、顔は顎引いて下向いてた。

 不意に、あやめ先輩の『美』がメンチを切ってきた。なんで目が合うかっていうと、ちょっとだけ膨らんでるから。先輩のは。


 私? 私はね。


「うん、おっけ! 似合ってる」


 首を目一杯曲げてみたけど、自分の『美』は上半分しか見えない。そりゃ私のだもん、知ってるけど。


「似合ってるかなあ。てかこれ、似合うって言われても嬉しくないです」

「私とお揃い」

「だから何なんですか……あれ、でもこれ、先輩のよりちょっと小さいですね」

「それは、私がチーフ委員で由華がサブ委員だからだよ。三年の先輩は先月の文化祭を最後に活動終えて引き継ぎしてるからいきなりサブのバッジだけど、普通に一学期から生徒会入ってる子はまごサブっていってもっと小さいバッジから始めるの」

「てことは、先月まで先輩がこのバッジつけてたんですか」

「そうだよ。嬉しい?」

「別に。あれ、でも各委員って一学年に一人ずつじゃありませんでしたっけ。私の学年の美化委員って、空席だったんですか?」

「いたんだけど、ね。ついこの間、やめちゃったの」

「なるほど。サブがやめちゃって代役探しに難渋してるところにのこのこ私が、ってわけですか。頼みを断れないような口実もあったし」


 ようやく話が見えてきた。だから先輩はあんなに必死だったんだ。


「……まあ、そんなとこ」


 あやめ先輩、ちょっとはにかむ。笑ってる、か。


「けど、前の人やめちゃったって、先輩の指導そんなに厳しいんですか」


 意地悪っぽく言ってみる。まあどれだけ厳しかろうと、どうせ私に拒否権はないんだろうけど。


「そんな、そんなことないよ、優しくする! 由華には特に優しくする。えっとね、仕事は本当に簡単で──」


 説明を始めようとしたあやめ先輩の声が、スピーカーにかき消された。生徒会室に響く予鈴の音に、私達は慌ただしく連絡先を交換して生徒会室を後にする。


「そのバッジ、陽修館高校創立当初から代々受け継いでるものらしいから、くれぐれも失くさないように! 肌身離さず身に着けておくこと!」


 最後に大仰な仕草で私を指さしながらチーフ美化委員らしいことを言いつけて、あやめ先輩はウインクと共に踵を返して去っていった。

なんかそういうこと言われると、自分が生徒会の一員だって実感が湧いてきて、背筋が伸びるような思いがする。私は少し襟元を正し、制服のリボンを整えてから颯爽と一年の教室棟へと歩き出した。


 うん。


 結局お昼、食べてないや。

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