第3話 パンダとシマウマの体表を占める白と黒の比率についての比較と考察

「あの、えっと、あの」


 私はあやめ先輩に手を引かれながら、どこかしら、多分あんまりよくない所へ連行されようとしている。振り返ると、遠ざかっていく景色の中で灯里ときぃちゃんが胸の前でおててのシワとシワを合わせて瞑目しているのが見えた。

 三途さんず経由ヴァルハラ行き、愛の逃避行……ってな気配は、あやめ先輩の背中からは感じられない。


「あの、先輩。私、くるみをちぎる途中なんです」

「……何かの比喩? お手洗い行きたいみたいな」


 私がふるふると首を横に振るとあやめ先輩は訝しげな顔をして首を傾げ、それきり言葉を返してくれなかった。

 実は私、さっきあやめ先輩と目が合う寸前に最後のくるみを処理し終えている。だから、あやめ先輩にじっくりとっくりまじまじとパンを調べられたら、今の発言が嘘だってばれちゃう。どうしよう。


「私どこに連れてかれるんですか」

「生徒会室」

「誰がいるんですか」

「誰もいないし、誰も来ないよ」

「何をされるんですか」

「着いてから話すね」


 あやめ先輩は私の質問を予期していたかのように返答を言葉尻に被せてくる。その声には抑揚がなくて、なんだか、怖い。不機嫌な時の灯里も怖いけど、それとはまた違った、もっと得体の知れないおぞましさを感じる。


「あ、あの、先輩。昨日のこと、怒っていらっしゃられますでありましょうか」


 あやめ先輩は半分だけ振り返って、値踏みするように横目で私の顔色を窺った。長いまつげ、すっと通った鼻筋、嘘みたいに白くて綺麗な肌。天は二物を与えずっていうけど嘘だ、顔だけで三か四は貰ってるよこの人。

 数秒見つめ合って、居た堪れなくなった私が目を逸らす。それを見届けて満足したかのように、あやめ先輩は前に向き直った。


「怒ってるよ」

「ひっ」

 やっぱり怒ってるんだ。そりゃそうだ。

「あ、あの、その節は大変な失礼をはらた、働いてしまい」


 ──申し訳ありませんでした。


 そう続けようとした私の口を、あやめ先輩の手がさっと塞ぐ。なんだこの人、手の平までいい匂いする。私なんて冬の間ずっとみかんのにおいなのに。


「だめ。謝っちゃだめ。絶対にだめ」


 顔を至近距離まで近づけながら、囁くように「だめ」を繰り返す。私はもごもご言いながらどうにか頷き、彼女の拘束を振りほどいた。


「……な、なんで謝っちゃいけないなんですか」


 あやめ先輩は私の質問には答えず、代わりに目線をすっと促すように上方へ動かす。頭上に踊るクラスプレートに書かれた四文字に、今の私は迷わず『生徒会室ニヴルヘイム』とルビを振ると思う。

 ポケットから出した鍵を私に見せびらかすように手元で振りながら、あやめ先輩は微笑む。


「詳しいことは中で話そう」


 薄い和紙を貼り付けたような笑みが視覚を経由して脳幹にへばりつき、それに意識を支配されたままなかば押し込まれるようにして私は地獄の門をくぐった。厚いカーテンに隔絶された世界で、長方形に並べられた机と椅子の獄卒が無言で私達を出迎える。

 当たり前だけど、一般教室とは雰囲気が違う。誰もいない教室に入ったことは何度もあるけど、こんな静謐せいひつとした空気の張り詰め方を感じたことはなかった。


「その感じ、ここ入るの初めてなのね。まあ当然か」


 背後であやめ先輩が呟くと同時に静かに扉が閉まり、それよりずっと大きな音でがちゃりと錠が下りるのが聞こえた。


「さっき、あの二人と何の話してたの」

「せ、世間話です。ただの」

「どんな?」

「……パンダとシマウマの体表を占める白と黒の比率についての比較と考察」

「を、してたんだ」


 数秒の間。


 私の視線はあやめ先輩の右半身を彷徨さまよい、左半身でふらつき、やがて彼女の双眸そうぼうに射すくめられて止まった。


「蓮本由華さん。あなたは、なんというか、お茶目なのね」

「ひょ、ひょうきんなだけです」

「ユニークなのね」

「変人なんです」

「なるほど。剽軽ひょうきんで、変人で……そして」


 先輩はそこで言葉を切って、やおら私の両手首を掴む。さっき口を塞がれたのよりずっと本格的な拘束に本能が危機を察して抵抗を試みたけど、私は自分でも驚くくらいに非力だった。


「──嘘つき」


 耳元で囁くその声になけなしの気力も削がれ、成す術なく私は壁際に追い詰められた。視界があやめ先輩で埋まり、染まる。


「本当のこと言って欲しいな」


 見下ろされる。目線が違うってことは、当然口の位置もその分だけあやめ先輩の方が高いってことだ。生ぬるい吐息が、私のおでこにかかる。


「……じ、自習室」

「私の目を見て言って」

「……ごめんなさい、本当は昨日の自習室であったことについて話してました」


 ただでさえちっこい私の身体がますます縮こまる。私がガタガタ震えれば震えるほど、あやめ先輩はそれを楽しむかのように腕に力を込めてくる。

 痛い。怖い。真っ暗な海で水底から伸びてきた手にゆっくりと引きずり込まれるような、言い知れない悪意を感じる。


「あ、あの、だから、そのことについても謝らせてください」

「だめ。何度も言わせないで、私は昨日の件に関してあなたからの謝罪を一切受け入れない。あなたの謝意は私には永遠に届かないの。分かった?」

「だからその理由を……」

「返事は?」

「……は、い」


 最後はもうほとんど肺に空気が残ってなくて、本当に喘ぐように絞り出した二文字だった。


「──うん、いいこいいこ」


 あやめ先輩はそこで何か憑き物が落ちたようにからからと笑い、優しく私の頭を撫でた。ちゃんと笑う先輩を見たのはこの時が初めてで、当たり前なんだけど、美人がちゃんと笑うとちゃんと可愛い。

 その笑顔に私はようやくちょっと安心して、それとは裏腹に鼓動が跳ね上がるのを感じた。それ自体は不思議なことじゃない。美人に笑いかけられてドキドキしちゃうのはよくあることだから。

 だけど、なんだろう。私は私の鼓動が信じられなかった。

 あのね、二種類あると思ってるんだ。

 ハートってやつが、中から一気に己の感情のエネルギーの膨張を受けて爆発しそうになるのと、外からもの凄い圧力をかけられてきゅうって押し潰されそうになるのと。どっちも、鼓動が跳ね上がることには変わりないんだけど。

 私は、美人に笑いかけられてドキドキすることは胸の高鳴りだと思ってて、それは前者に内包されるものだと思ってて。


 ──だから。


「やっと笑ってくれたね、由華」


 あやめ先輩の一点の曇りもないその笑顔が私のハートを外から鷲掴みにして押し潰そうとしたことが、なんだかとても気持ち悪かった。

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