第一章

第1話 襲っちゃってたの

「私は構わないけど」


 白瀬灯里しらせあかりはそう言って、かたわらのいがぐり頭の方を見遣る。

 体育館の正門から見て横っ面にある、なんていうのかな、裏門と呼ぶほど裏じゃないし、そもそも門ってほど立派でもない……とにかくその両引き戸の通用口と地面を隔てる三段しかない階段。そこで二人はいつもの様に肩を寄せ合って座っていた。


「俺が由華ゆかさんの頼みを断れるわけないっすよ」

「きぃちゃんは優しいね」


 いがぐり頭は私の言葉を受けて軽く頭を下げると、ささっと奥に詰める。なんで灯里ときぃちゃん──三枝輝一さえぐさきいちが一緒に昼食を食べてるかっていうと、きぃちゃんが灯里の彼氏だから。簡単で、独り身の私にとっては反吐が出そうな理屈。

 で、折角の昼休みになんでこんな辺鄙へんぴな場所で恋人同士乳繰りあってるかっていうと──。


「ボケっとしてないで座んなよ」


 灯里はかったるそうにお尻半個分だけ奥に詰めて、水筒からお湯をプラスチックの容器にコポコポと注ぐ。私達が陽修館ようしゅうかん高校に入学して半年とちょっと、彼女は一日たりともこのルーティンを欠かしたことがない、らしい。


「私ね、とんこつとか味噌はダメだと思うけど、醤油ラーメンなら教室で食べてもギリセーフだと思うよ」

蓮本はすもと由華基準でギリセーフなら、それはもうアウトってことなのよ」


 猪口才ちょこざいなことを言う。こんなナリしてるのに、他人への遠慮とか社会通念とか、そういう感覚は持ってるんだよな。

 スカジャン一歩手前くらい派手な柄のブルゾンを羽織り、ブレザーの下に着込んだパーカーのフードを被ってカップ麺を膝の上に抱え込む灯里のその姿は、とてもこの高校における最下級生だとは思えない風格……というか、貫禄みたいなものがある。


「灯里は相変わらず偉そうだね」


 だから、褒めとく。

 サンキュ、てな感じでこちらに目もくれずに片手を挙げて反応をくれたので、多分今日の彼女はそんなに機嫌悪くない。


「んで、どうしたんすか由華さん」

「大方、唇のソレについてでしょ」


 灯里はそう言って割り箸を片方だけ口に咥えてから割り、右手に残った片割れでちょいちょいと私の口元辺りを指し示した。


 ソレ。


 そう、確かに今、私の顔には唇の端から左の頬にかけて二センチくらいのあざがある。皆には見えないけど、実は口の中もだいぶ切れてて、結構グロいことになってるんだ。もう痛くはないけどね。

 それにしても、灯里のお行儀の悪いこと悪いこと。彼氏はすぐ横でお母さんに作ってもらった卵焼きを丁寧に箸で切り分けてるってのに。


「転んでぶつけただけって今朝由華さん自身が言ってたじゃないっすか」

「それは方便ってやつで、何かクラスの皆の前じゃ言えない本当の理由があるのよ」


 灯里はカップ麺の蓋をべりっと剥がし、容器の中をぐちょぐちょと掻き回し始める。この子は百度のお湯で三分待たなきゃいけないところを、水筒の中で八十度くらいに冷めたお湯で一分も待たずに食べ始めるのだ。マナー講師とカップ麺警察の十字砲火で蜂の巣になる前にやめるべきだと思う。


「なんで灯里ってそんなガサツなのに、私の考えてること全部分かるの?」

「全部分かれば苦労しないんだけどね。さっさと用件言いな」

「あ、うん。食べながらでいいから聞いて欲しいんだけどね。この傷、実は昨日自習室で勉強してる時につくった、というか……つけられたんだよ」

「つけられたって、由華さん」


 きぃちゃんが驚いたように目を見開いて、灯里は片方の眉をぴくりと上げてこちらを睥睨へいげいした。


「それをわざわざ私達だけに言いに来たってことは、不慮の事故ってわけでもなさそうだね。てことは、故意に誰かにひっぱたかれたってことか」

「ええと、ほぼ正解なんだけど、ひっぱたかれたってのは正確じゃなくて」


 私は黙って拳を握りしめ、中空に向けて軽く右ストレートを放った。


「パーじゃなくてグーでやられたんすか?」

「チョキならノーダメだったね、私勉強中はメガネしてるから目潰し効かないんだ」

「鼻の穴を下からクッてやられる可能性があるっす」

「それは盲点だった。対策を練らないと……」

「パーでもグーでもいいけど、こっちはどこの誰にどういう経緯で殴られたのかを知りたいんだけど」


 私の言葉を遮るように灯里は吐き捨てて、カッチカチの麵を豪快に啜る。

 いつもなら私ときぃちゃんがふざけだすと彼女も乗っかってくるんだけど、なんかさっきから声のトーンがちょっと本気で怖い。おかしいな、どこでヘソ曲げたんだろ。


「えっと、端的に申しますと、相手は七崎ななさきあやめさんでして」

「七崎? いたっけそんな奴。輝一、知ってる?」

「七崎あやめ……って、二年の先輩だよ。生徒会やってる」

「ふうん。知らんけど、まあその七崎あやめと由華が自習室にいたと。それで?」

「最初は他にも何人かいたんだけど、夕暮れ時になってみんな帰っちゃって、私と七崎先輩の二人きりになったの。机は隣同士でさ、しばらくは普通に各々勉強してたんだけど」

「何、肘が当たった当たってないで口論にでもなったの?」

「由華さんがそんなことでトラブル起こすわけないよ。灯里じゃないんだから」


 きぃちゃんの脇腹に肘が刺さるのが見えた。肘って刺さるんだ、覚えとこ。


「なんだろうね、どこかのタイミングで風向きが変わったんだと思うんだ。んで、私が偶然、たまたま、不幸にも、風下になって」


 私、目が泳ぐ。きぃちゃんが不思議そうな目でこっちを見ている。


「七崎先輩の匂いがふわぁっと香ってきて」


 私、なんか頬が火照るのを感じる。灯里がジト目でこっちを睨んでいる。


「なんか、ムラムラしてきて」


 私、下を向く。




「……気がついたら、襲っちゃってたの」


 

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