切断分離のボーダーブレイク

狼子 由

切断分離のボーダーブレイク

 淹れたてのコーヒーの匂いが漂っている。

 元の世界も、こっちの世界も、コーヒーの香ばしさは変わらない。

 こっそり自分のマグカップに入れたそれに口をつけようとして、俺はふと顔を上げた。


 からん、と扉につけたベルが鳴る。

 顔を上げた俺の目に映ったのは、表通りから差し込む光と、それを背負う女の影。

 女であることを見て取った瞬間、俺より先に、店の奥から朗らかな声が響いた。


「いらっしゃいませ、お嬢さん。コーヒーでいいでしょうか?」

「あ、いえ……そんな贅沢は、とても。そうじゃなくて……」


 ぱりっと糊のきいたエプロンで手を拭いながら、男が店の表に出てくる。

 一応は店番をしていた俺を無視して横を通り抜け、女に向かって微笑みかけた。


 振り向けば、予想通りの優男。喫茶店の店主、アレイズだ。

 俺とほぼ同年代のくせに、俺より少し背が高い。金髪に碧眼は、まるで絵本で見た王子様だ。女にモテそうな柔らかで整った顔立ちをしている。


 引きかえ、俺の方と来たら。

 伸ばし放題の長い前髪も目の色も地味な黒。猫背もしかめ面もそう簡単には直らない。

 背の高さはまあだいたい同じだが、足も……認めるのは悔しいが、あっちの方が長い。

 まとめると、つまり――とてもじゃないが俺が割り込む隙などないのだった。


 仕方なく店から引っ込もうとすると、後ろ手にアレイズにシャツの裾をひっつかまれた。

 手に持っていたマグカップから、コーヒーがこぼれる。

 うまく俺の足を避けて落ちたからいいものの、ヘタすれば火傷するところだ。


「お前……こぼれたじゃないか……」

「ぼそぼそ喋られても聞こえませんよ」

「聞こえないなら言ってやる。こぼれちゃっただろって言ったの! なにすんだよ」

「なにって、店員が勝手に店を離れないでくださいよ」

「店主が出て来たらいらないだろ」

「それでよければあなたを雇ってないんです」

「あの、お二方……」


 俺たちのやり取りに割り込むように、先ほどの女が声をあげた。

 気づいたアレイズが、俺の背をバン、と叩いてから向き直る。


「いてっ」

「これは失礼、それで。コーヒーを飲みに来たのではない、ということは」


 王都の端にある、たった一つの喫茶店だ。

 ここまで来てコーヒーを飲むのでなければ――理由は限られている。


「ああ、では、もう一つの方かな。『切り離したい』ものがあるのですね?」


 微妙なアクセントを受けて、彼女は小さな声で頷いた。


「はい」

「……チッ」

「クロウ、そうあからさまに嫌な顔をするのはやめてください」


 アレイズにもう一度殴られそうになったので、慌てて避けた。


「三年前の大災害のせいで、王都で男二人の生活を工面するのも大変なんです。後から来た居候の転生異世界人にはわからないでしょうが、こういう地道な仕事が、結果的に僕らの生活を支えているんですよ」

「そりゃ、お前は体力使わないだろ。けろっとしてんだからいいだろうけどよ」

「そりゃあなたは、食費だのやりくりだの利益だの考えなくていいからいいんでしょうけど」

「ぐっ……」


 そう返されれば、否定できる言葉などない。

 目をそらした俺に勝利を見たか、満面の笑みでアレイズは扉の前の女に声をかけた。


「それで、なにを『切り離せ』ばいいんですか?」

「……父を、助けてください」


 必死の形相で、女は俺たちを見上げてくる。

 その目が、ふと――元の世界の幼馴染の顔と重なった。

 困ったとき、俺に助けを求めるちょっと甘えた眼差しだ。


 アレイズがもの言いたげに俺を見てくる。

 嫌だと言い張る理由も失って、俺は、しぶしぶ頷いた。


「やりゃいんだろが、やりゃ」

「ええ、ご名答」


 頷く前の一瞬、アレイズがひどく冷ややかな目をしていたように見えたが――顔を上げた時には、いつものにやにや笑いに戻っていた。


 ■□■□■


 『この世界』に来たのは、一年前。

 普通の男子高校生が普通に過ごした普通の帰り道――気付けば、普通じゃない風景の中に立っていたのだった。

 幼馴染のユリと一緒じゃなかったのは、不幸中の幸いだろう。


 そこは、岩が浮き、滝が逆上る荒れ地で、どう見ても俺の通学路ではない。

 最初はなにをどうするか迷ったが、こちの世界に慣れた今では、俺はそこを『出入口エントランス』と呼んでいる。いや、ここから出れるかどうかは、本当のところわからないけど、期待を込めて。


 こっちの世界の生活は、割と大変だ。

 アレイズの経営してる喫茶店は、喫茶店としてはあんまり繁盛してない。

 なにせ、そもそもがコーヒーってのはこの世界では金に余裕あるヤツの嗜好品らしいから、そんなに客が来ないのだ。

 なので、自然と食うや食わずの生活が続いて……キツイ。


 この世界は全世界的にも貧困している、と聞いている。

 もともと余剰生産があまりなかったところに、長く魔王とやらが人間を攻撃していてその余波で経済が乱れていたのだとか。

 なんとか魔王が斃されて姿を消したのが、昨年のこと。

 が、魔王を斃すために召喚した勇者たちの能力がすごくて、魔王とともに色んなものが消し飛んだとか。


 ……そのせいで、今頃になって俺が苦労してる訳だ。


 出来れば元の世界に戻りたい。腹いっぱい食って、ふかふかの布団で寝たい。

 そのために、俺だって色々調べたりした。

 が、わかったのは、この世界の言語は俺が元の世界で使っていたものと同じで、たぶん物理法則も同じで、単位や縮尺も同じだってことだけだ。


 アレイズにその話をしたら、「まったく同じな訳がないでしょう。脳内であなたが理解できる言語に変換されているのでは?」とか言ってた。

 脳波翻訳やらニューラルネットワークやらがなんちゃらかんちゃらだそうだが、俺にはさっぱりわからん。ひとまず、日常会話レベルでは問題なさそうだということだけわかってる。


 なにを言わせても面倒な男なんだ、アレイズは。

 ヤツと会ったのは、俺がまだ『出入口エントランス』付近をうろうろしていた頃のことだ。

 初めて会った人間っぽい生き物に、俺のテンションはいやがうえにも高まった。この世界について探ろうと一生懸命に引き出しから、すべての話題を見せてやったのだった。


 そこで、わかったことが二つ。

 一つは、俺はどうやら異世界に来てしまったようだということ。

 二つ、アレイズという男は顔立ちに見合わず性根が曲がってるってこと、だった。


 そんなクソみたいな性格も、三年も一緒にいれば慣れてくる。帰る家もない俺には、ここに住む以外の他の選択肢はなかった。


 今の生活は、総合すればまあまあ悪くない――なんてことは、死んでも思わない!

 あの野郎、女に対する外面はまだマシなだけで、俺に対しては地を這う虫でも相手にしてるんじゃないかって顔で見てきやがる。

 ああ、元の世界に帰りたい。

 せめてあんなクソ野郎から離れて、一人で暮らせればなぁ……!


 心から願っていても、アレイズからは離れられない。

 だいたい、俺がこの喫茶店に居候してるのは、俺にとってはヤツ以外に利用価値を認めてくれる人間がこの世界にはいないから。

 ――つまり、俺がヤツの能力【切断分離ディタッチ】を発動させられる唯一の人間だからだ。


 ■□■□■


「……ここです」


 リリと名乗った女が案内したのは、王都から出て半日ほど歩いた場所だった。

 【出入口エントランス】ほどではないが、この辺りも十分物理法則を超えている。

 たとえば、人間を丸呑みにするタイプのモンスターがうろうろしていたりとか。


「で、この状態かよ」


 うんざりしながら見やる。

 目の前に巨大なウツボカズラがあった。形状的にはそう説明するのがいちばんわかりやすいだろう。ただし、大きさは俺よりでかいくらいだが。

 そのウツボの部分……つまり、俺の知ってるウツボカズラなら捕らえた虫が入ってる部分が、不自然な人型にぽっこりと膨れている。大きさ的にはだいたい成人男性一人分くらいか。

 リリは、目元に涙を溜めて俺たちを見る。


「もちろん気を付けてました! でも、運悪く野盗に襲われてその対応をしているうちに……」

「夜盗ぉ? そんなん、王都の中でも治安悪い辺りならいるだろう。外に出るってのになんで気を配らなかったんだ」

「クロウ、態度が悪いですよ。誰だって気をそらすことくらいあるでしょう」


 ごん、と目から火花が散るほど頭をこづかれた。

 もちろん、リリからはごく軽くはたいたと見える程度に表面上を取り繕って。

 苦々しい目でアレイズを睨む。が、当の本人は、既に俺からリリに向き直っていた。


「こんなところまで来るのだから、あなたと父上は優秀なハンターだったんでしょうね。あなたのようなひとがいてくれるので、我々もコーヒーで生計を立てて生きていける」

「コーヒー?」

「知らなかったんですか、この辺りはコーヒー石がとれるんですよ。ここで収穫したものを王都へ持っていき、焙煎して売ってるんです」

「コーヒー石?」


 常識のように言われたが、俺の知っている世界ではコーヒーは石からできない。

 更にツッコむべきかしばし悩んだが、悩んでいる間に話がどんどん進んでいってしまった。


「はい。父と私で警戒しながら採石していたのですが……気を取られた隙に、父がヒトノミカズラに捕らえられてしまって。とっさのことで父が武器を取り落としてしまって」

「内側から出てこれないんですね。なるほど、ヒトノミカズラは外からの攻撃に強いですから」

「へぇ……」


 他人事に相づちを打っていたら、いつの間にか二人の視線が俺に集まっていた。


「な、なんだよ。つまり、それで――俺たちのとこ来たってことか」

「はい、ご名答」

「お前なぁ――」


 勝手なこと言いやがって、と続けようとしたところで、ぎゅっと手を握られた。

 視界の外から近づいてきた気配に、俺は気付きもしなかった。

 びしっと身体が固まりそちらを見ることもできなかったが――柔らかな感触そのものが、それがリリの手だと教えてくれている。


「――っ!」

「どうかお願いします……! このままでは父が……でも、あなた方なら、助けられると聞きました」


 この目に見上げられると、弱い。

 俺は口の中で舌打ちしてから、ちらりとアレイズを見た。


「どうやらやる気になったようですね。僕の説得には応じないくせに、娘さんの涙には弱いんだな。あなたのそういう単純なところ、可愛らしくて嫌いではないです。こういう時は便利ですしね」

「ごちゃごちゃうるせぇ、早く」


 焦って突き出した拳に、苦笑しながらアレイズが自分の拳を合わせた。

 触れ合ったその一点へ向け、ビリッと電流みたいなものが体内を駆け巡る。身体のあちこちでスパークしながら血管を遡った力がそのまま、拳から出て行った。

 一歩後ずさったアレイズの、俺と触れている手とは反対の手に、じわりと液体が滲むように半透明の刃が生まれる。

 不定形の刃が左手を覆ったところで、アレイズは目の前の巨大ウツボカズラに向かって走り出した。


 真横で見つめる必死の祈りに、アレイズは気付いているだろうか。

 まっすぐに跳び上がる。どん、と上に乗っかり踏んづけた反動の様子は、柔らかいが弾力のあるしっかりとした樹皮のようだった。食い込もうとした靴底が弾かれていて、確かに普通の刃は通りそうにない。


 だが――アレイズの【切断分離ディタッチ】は違う。


 きらりと反射した【切断分離ディタッチ】の刃に、一瞬、リリの見上げる瞳が映った。

 次の瞬間、なにもかもを切り裂く刃が、樹皮に食い込み、ぶつりと手ごたえを残して奥へ割入っていく。


 悲鳴とも威嚇ともつかない音が、切断してぱっくり開いた樹皮の隙間から洩れる。空気が抜けるとき重なった粘膜を震わせて、ちょうど笛のように甲高い音が出ているのだろうと予測はついたけれど、まるで断末魔のように感じた。

 だが、手を休める猶予はない。一息に腕を振り下ろし、ウツボカズラの膨らんだ腹を切り裂く。

 どぷ、とあふれ出てきた樹液とともに、ごろりと大きなものが内側からこぼれ落ちた。


「――お父さん!」


 腋をすり抜けて飛び出したリリが、そのぐちゃどろにまみれた塊にしがみつく。

 よく見れば、粘液にまみれているだけで、呼びかけるリリの声に応える顔はちゃんと動いている。まだ生きているようだ。

 とん、と俺の横に降りて来たアレイズが、樹液に濡れた片手を振った。


 【切断分離ディタッチ】には、時間制限がある。

 発動してから五分。使えるのはその間だけ。

 そして、一度消えたら、十五分は使えない。


 俺の視線を受けて、アレイズは目の前の巨大ウツボカズラを顎で指した。


「ヒトノミカズラは飲み込んだ獲物の気を失わせ、動けなくしてから、内部でゆっくり溶かして吸収するんです。今ならまだ的確な治療さえ受けられればすぐに五体満足で復帰できますよ」

「そういうもんか?」

「あなたと同じように、治癒に適した能力を持っているひともいますからね――手伝います、運びましょう」


 後半は、父親の身体を持ち上げようとしたリリに向けての言葉だ。

 どろりと垂れ落ちる粘液に構わず駆け寄って、アレイズは父親の肩を担いだ。そしてじろりと、こちらを睨んで促す。

 俺はため息をついてから、反対側の腕を自分の肩にのっけて持ち上げた。どろどろの生暖かいものが服の内側に流れ込んできて気色悪さに呻きそうになったが、それでも――耳元で確かに聞こえる呼吸音は、まあ悪くない。相手がおっさんでなければもっと良かっただろうが。


 ああ、悪くない気分も、反対側でくすくす笑ってる声に気付くまでしか続きはしなかったが。

 もちろん、リリには見えない背中側から、脇腹を小突いてやったのだった。


 ■□■□■


 治療所、というのがあるらしい。

 らしい、というのは今初めて知ったからだが。


「……本当に、ありがとうございました。お兄さんたち」


 深々とお辞儀するリリから容赦ない笑顔で謝礼を受け取り、アレイズは彼女らを置いて治療所を後にする。

 慌ててその背中を追った。背後では治療にかかる費用だの、快癒までの時間だのをリリに向かって治療師が話してる声が聞こえてくる。

 それを振り切って、俺は謝礼の額を数えているアレイズに追いつき、横から睨みつけた。


「おい、アレイズ」

「まさか、人でなしだの可哀想だの言うつもりじゃないでしょうね」

「……バカ。俺の稼ぎなんだから、うまいもの食わせろよ」


 一瞬の間の後、くくっとアレイズが吹き出した。


「ええ、そうですね。今夜はご馳走にしましょうか」

「頼んだ」


 きっと重苦しい食卓になるだろうが、精々バカ騒ぎしてやるさ。

 俺たちは、だいたいそうやってこれまでの一年を過ごしてきたんだから。


 ふと、アレイズが俺の手を見ながら呟いた。


「ほんと、【切断分離ディタッチ】とか格好悪い名前よくつけますよね」

「なんだよ、格好いいだろが。異能があったら名前つけろって言うのは基本じゃねぇか」

「異能……ねぇ」

「俺だってそりゃ、そういう格好いい能力があればよかったけどさ。お前の能力を発動させる能力ってなんだよ」

「ええ、そうですね、格好悪いですね」

「お、お前だって、俺がいなきゃ発動しない能力だろが!」

「そんな訳ないでしょ」

「は?」


 言い捨てられて、思わず問い詰めかけた。

 ふと、背後から風を感じる。


 ――俺とアレイズは、それぞれ左右に分かれて跳んだ。

 足元をなにかが抉っていく。

 鎖鎌――気付いたときには、着地したアレイズが俺の方に手を伸ばしていた。


「――クロウ!」

「仕方ねぇな」


 その手に飛びつく。握った手に向け、ビリッと電流が流れ込んでくる。

 その衝撃が身体を回る間に、俺は鎖の先に目を向ける。

 まともな生活をしているようには見えない風体の男が五人――野盗だろう。

 そう言えば、とリリの言葉を思い出した。襲ってきた野盗たちをどうしたか、最後まで聞かなかったな、と。


「てめぇら、後から出てきてあの女に手を出すのは、ちと見逃せねぇな」


 男たちの一人が言うのを聞くまでもなく、アレイズが【切断分離ディタッチ】の刃を構えて駆け抜ける。

 構えられた剣ごとたたき切っていく。

 それをぼんやり見ている俺の方を楽な相手だと見たのか、残った一人が剣を構えて向かってきた。

 避けようと、後ずさった途端に足を躓かせて尻もちをついた。


 慌てたように振り向いたアレイズが、駆け寄ってきて刃を振る。

 男の背中を貫いたその刃を最後に、アレイズはふうと息を吐いた。


「まったく、だから気を取られるなって言ってるでしょうが」

「さっきリリには色々隙ができることもあるだろうって言ってたくせに」


 助けて貰ったのは確かだが、そんなことを言われると反論の方が先に口から出る。

 言い返しながら、伸ばされた手を取ろうとして……アレイズの背後で、立ち上がろうとしている男の姿を見つけた。


「――アレイズ!」


 慌てて手をひっつかみ、引き寄せる。

 いつものぴりっとした感触が身体に走る。

 アレイズを庇うように、反動で俺が前に出た。


「ちょ、クロウ!?」


 らしくない、焦った声が聞こえる。

 そう感じた次の瞬間、正面から迫って来た刃が、俺の胸元に吸い込まれていた。


「ぐ――ッ」


 ぎゅっと目を閉じる。

 痛みは感じなかった。ただ、胸を抉るような衝撃だけ。

 その間に背後から立ち上がったアレイズが、男を斬り倒して俺の身体を抱き起した。


「クロウ!」

「……うるせぇな、痛ぇよ」


 ひどく乱暴に背中を掴まれて、そっちの方が痛い。

 ゆっくりと目を開ける。胸の真ん中に、剣が突き刺さっている。


「やべ、もう……俺」

「ちょっとやめてください! こんなので死ぬなんて僕が許しませんから。今すぐ止血すれば……あれ?」

「え?」


 不思議そうなアレイズの声を聞いて、剣を見る。

 確かに俺の胸に刺さっている。刺さっているが――それだけだ。

 血の一滴も出ておらず、痛みもない。


「……クロウ、大丈夫です、か?」

「いや、これが大丈夫な訳ねぇだろ、剣刺さってんだぞ」

「だってあなた。確かに刺さっては、いますが……」


 俺とクロウの視線が、剣と俺の接点でちょうど合わさる。

 剣の先は刺さっているわけではなく、俺の胸元で消えているようだ。

 まるで、マジックみたいに。


 ゆっくりと、アレイズが柄を握る。

 握った柄を上に持ち上げると、ずるりと剣が抜けた。


 が、やはり俺の身体に傷は残っていない。

 剣の方も、途中で折れている訳でもない。


「……なんだ、これ」

「ああ、まあ――やっぱり、ってとこですね」

「や、やっぱりってなんだよ!?」


 思わず顔を上げた俺の前で、ぶん、とアレイズが腕を振った。

 左手に握っていたのは、【切断分離ディタッチ】ではなく今抜いたばかりの剣だった。

 頬を掠めた剣の跡から、たらりと血が垂れ落ちる。


「ある程度は想定していました。あなたのその能力――僕の能力を発動させているのは、境界を超越する能力、なのでしょう」

「境界を、超える……?」

「そもそもあなたが異世界からこの世界に来た、その理由を知っていますか?」


 アレイズが、剣を俺の方へと向けた。

 刃の先端が、少しずつ迫ってくる。

 まるで、俺を切り刻もうとでもするかのように。


「理由って、なんだよ……事故みたいなもん、じゃ」

「いいえ、あなたは明確に喚び出されたんです。魔王を倒すため、この世界に、勇者として」

「……勇、者?」


 ちり、と俺の首元に痛みが走る。

 真横に走った赤い線から、一瞬遅れてたらりと血が落ちた。


 きっと俺は、ひどく間抜けた顔で、アレイズを見上げていたのだろう。

 くっと笑い声とともにアレイズが背を曲げた。


「本人が全然気づいてないんだから、本当に」

「な、なんだよ……だって、そんなの俺聞いてねえし! それに、魔王は去年、斃されたんだろ!? なら、俺の役目はもう終わってるじゃねぇか」


 アレイズは、無駄に長いまつ毛をぱちぱちとしばたいて、しばらくしてから頷いた。


「ええ、本来なら」

「本来ならってどういうことだよ!?」

「――だからさ、現実には違うってことじゃないですか、お兄さん」


 頭の上の方から、聞き覚えのある声が響いた。

 顎を上げて一生懸命そちらを向く。

 リリだった。


「お前、なんでここに……」

「追いかけて来たんです、お兄さんたちを――ううん、そこの魔王を」


 笑った顔は、さっき別れたときそのままの純粋さだった。

 その無垢で愛らしい笑顔のまま、地面を蹴る。

 身体の上にいたアレイズが、リリを抱きとめるように立ち上がり、腕を振った。


 俺の顔の真横で、ぼとん、となにかの落ちる重たい音が鳴る。

 ……男の腕――見慣れたアレイズの腕だった。

 ナイフを握ったまま、肘の根元から落とされている。

 これまで、【切断分離ディタッチ】であらゆるものを切り離してきた、その手が。


「――おい、アレイズ!?」

「喚くんじゃない。うるさいですよ、一年も傍にいてなにも気付かず――そもそも勇者にさえなれなかったクソムシが」

「やはり、僕を狙う勇者の残党でしたか。さっきの野盗もあなたの手引きだと思えば、タイミングが良いのもうなずけますね」


 アレイズの睨む先、リリの剣から、つうと赤い血が伝って落ちる。

 その血がアレイズのものだと――腕を奪ったのはリリなのだと、俺が理解したときには、既にリリは再び駆け出していた。

 銀の光を構えたまま、俺の胸を踏みつけてアレイズへと向かってる。


「封じられた魔王――その命は真の勇者リリエンハイムが確かにいただく!」

「――アレイズ!」


 彼女を止めようと、慌ててひっつかんだのが、足首だった。

 バランスを崩したリリの顔が地面に近づいていく。


「ぎゃあ!?」


 悲鳴を上げて倒れたリリの背を踏み返して、俺は地面から立ち上がる。

 アレイズの傍へ歩み寄る俺に、這いつくばったままのリリが声をかけてきた。


「あなたね、この期に及んで魔王を救おうなんて、バカなことしないでください! あなたのその能力――この世界に召喚された時に与えられた能力が、本来なら封じられ無力になったはずの魔王に力を与えているんですよ! あなたさえいなければ――」

「正確には、少し違う」


 切り落とされた腕を拾いながら、アレイズが皮肉な声で応えた。


「クロウの能力は、境界を【引き直す】能力です。剣が刺さらないのも、落としたコーヒーがかからないのも、境界をずらしているから。そして、僕の全身にかけられた封印に干渉し、左手のほんの手のひらの部分だけ封印の境界をずらす――それによって、片手でだけ、しばらくの間だけ、魔王としての能力が使えるようになる。つまり」

「――じゃあ、命名する。【境界敷設リライン】だ」

「……は?」

「だ、そうです」

「え、え?」


 まだ理解していないリリを置いて、俺たちは目で合図した。

 苦笑したアレイズの、残ったもう片方の手が伸ばされる。

 俺は、迷いなくその手を握った。


 バチッと身体の中を火花が走る。

 その火花に押し出されるように、握り合った手の隙間から、尖った刃が生えて来た。

 その刃をもぎ取るように握って、俺はリリに向き直った。

 俺の手にある半透明の刃を見て、リリが目を見開く。


「な、なによそれ。それは魔王の力であって、あんたの力じゃ……」

「魔王の力だよ。じゃあ、【こっち側】に【境界敷設ずらせ】ば、俺だって使えるってのが正論だろうが!」

「そんなの、正論なんて言わない――!?」


 その言葉が終わる前に、俺は刃を振りかぶった。

 一瞬、リリの潤んだ目が向こうの世界の幼馴染と重なった気がしたけど――血に濡れた刃が目に入って、俺の目を覚まさせてくれた。

 俺の幼馴染は、こんな顔で剣なんか握ったりしない。


 もっと早く、気付けばよかったんだけどさ。


 歪んだ顔に向け、刃が落ちる。

 まっすぐに振り下ろした剣は、なんの抵抗もなく女の身体を引き裂いた。

 絹のドレスでも断ち切るように、するりと。


 二つに割れ、どさりと倒れた女の身体を、俺は一度だけ見下ろしてそれからアレイズの方へ向かった。


「……勇者として召喚されたあなたの選択は、魔王を助けるでいいんですか?」

「今更言うか、それ? だいたい、お前を助けたんじゃない。襲われたから撃退しただけだ」


 はあ、とため息をついて、アレイズは俺の方へ手を伸ばしてくる。


「なんだよ?」

「片手がないんですよ。引き上げて貰わなきゃ、立ち上がれませんよ」

「……そう言って俺を騙して、【境界敷設リライン】で俺を殺すつもりじゃないだろうな?」


 言いながら、答えを聞く前に俺はアレイズの手を引いて立たせる。

 アレイズは不思議そうな顔をしていたが、当然、俺には確信があった。


「ま、お前は俺を殺したりしないってわかってるけどな」

「……信頼ってヤツですか?」

「いいや、単にお前が俺を殺すのはまだ早いって話だよ。だって」


 じろりと身体を見下ろす。


「封印、解きたいんだろ。そのヒント持ってる俺を、お前が殺す訳ねぇって」

「ご名答」


 握った手に、ぎゅっと力を込められる。

 アレイズの余裕ある微笑は、完全にいつも通りだった。


「あなただって、元の世界に戻りたいんでしょう? 召喚された理由が僕だと聞けば、なにかわかるまでは僕から離れられないのでは」

「じゃ、まあ」

「お互いに、目的を果たすまでは」


 にこりと笑い合い手を握りながら――身体をビリッと走る電流は、はたしていつものアレか。

 それとも――?


 火花のようなものを散らしつつ、俺たちはひとまずの休戦協定を結んだのだった。

 いつか、お互いの目的の、どちらかが果たされるまで。

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