たったそれだけのこと
増田朋美
たったそれだけのこと
その日は、雨が降っていて、ようやくこの時期らしい気候になったなと思われる日だった。なんだか今年は本当に季節がすぎるのが遅かった様な気がする。それでは、なんだか不安というか、安心して生活できないので、なんとかならないかなといつも思うのである。でも、すでに遅すぎるだろう。そういう、気候とか、天候が、容赦なく襲ってくる。
杉ちゃんは、その日も、水穂さんの世話をするため、製鉄所に行っていた。製鉄所と言っても、それは名ばかりで、本来は勉強や仕事をする部屋を貸している施設である。利用者は、大体が学校か会社に通う女性で、学校や自宅で居場所がない女性であることが多い。たまに、長期利用する人もいるが、大体は、数週間から、数ヶ月で出てもらうようにしている。つまり終の棲家にしないという厳重なルールが設けられているのだ。その中で、例外的に、水穂さんだけは製鉄所で間借りしていた。管理人のジョチさんこと、曾我正輝さんも、それは認めていた。
「今日もこれだけか。」
杉ちゃんは、水穂さんが食べたご飯のお皿を台所に持ってきて、大きなため息をついた。
「何がこれだけなんですか?」
ジョチさんがそうきくと、
「ほら見ろよ。ちゃんと、おかゆ作ったのに、食べたのは、沢庵一切れだけだぜ。」
杉ちゃんは嫌そうに言った。
「そうですか。食欲の秋ですから、少しは食事しようという気になってくれるかなと思ったんですけど、流石に、沢庵一切れでは、本当に困りますね。」
ジョチさんは、そういった。そう言うしかなかった。水穂さんときたら、何回食べろと言い聞かせても、沢庵一切れしか食べないのだった。
「まあ、疲れてるのはわかるけどさあ。少し、ご飯をくれている僕らのみにもなってよ。」
「杉ちゃん、ご飯をくれているなんていい方は行けませんよ。そういういい方は、家畜に餌をあげているようになってしまいます。人間は家畜では無いのですからね。」
「そうだな。まあ、少しづつ、ご飯を食わして、頑張るしか無いな。」
杉ちゃんとジョチさんは、二人あわせて、大きなため息を着いた。
「ここにいたのか。杉ちゃん、ちょっと話を聞いてくれよ。頑張るしか無いななんて言ってられるんだったら。」
そう言いながら、華岡保夫が、製鉄所に入ってきた。一応職業は、富士警察署の刑事課の課長ということになっているが、どうも警察らしくないのが華岡だった。
「どうしたんですか、華岡さん。警察の人間が、そんなふうにしょんぼりして入ってきたら、日本の治安はどうなりますかね?」
ジョチさんが華岡にいうと、華岡は、
「警察の人間だって悩むことはありますよ。理事長さん。先程、水穂の介護のことで、悩んでいたようだが、、、。」
と言った。
「あら、流石に警察の方らしく、盗み聞きは得意なんですね。」
とジョチさんが言うと、
「いやあ、こっちも、胸を打つような事件があってさ、その事件の捜査を担当しているんだが、もう、悲しすぎてやりきれないんだよ。」
と、華岡は言った。どんな事件なんですかとジョチさんが言うと、
「なんでも、嘱託殺人でさ。病気の母親が、娘に自分を殺害しろと言ってな、娘がそのとおりにしてしまったという事件なんだ。凶器は、家の庭に生えていたトリカブト。なんでも容疑者の女性は、母がしてくれと言った通りの事をしただけだとしらばっくれてる。なんと悲しい事件なんだろうな。俺、自分で抱えてるのがどうも苦手でさあ、人に話さないと、落ち着かないタイプなんだよ。だから、この事件が発生したとき涙が出てしまった。」
と、華岡は話し始めた。
「そんなことで、ここに来たんですか。華岡さん、もうちょっとしっかりしてくださいよ。警察のくせに、そういう話を誰かにしないと行けないだなんて、何をしているんですかね。もう少し太い神経を持ってください。」
ジョチさんがそう言うと、華岡は、顔を拭きながら言った。
「もう、俺も馬鹿だよなあ。今更こんなところに来て。でも、俺どうしても、事件のことに着いて、話さないと、この事件を頭の中にしまっておくことはできないんだよ。それくらい切ない事件だったんだ。」
「切ないってなんですか。例えば認知症がひどくなる前に殺害してくれと言ったとか?」
ジョチさんが華岡に聞くと、
「それに近いが、認知症ではないんだ。その辺り、これから取調べして、ちゃんと事実を洗わなくちゃいけないんだが、女は、そのところだけは話さない。」
と、華岡は答えた。それと同時に華岡のスマートフォンがなる。はいもしもしと言って、華岡が出ると、ジョチさんたちには、このように聞こえた。
「警視何をやってるんですか。ふらっと署を抜け出して、どこに言っているんです?早く帰ってきてくれませんかね!」
「華岡さんも、警察らしくなくて、困った男だね。」
杉ちゃんは、ちょっと苦笑いした。華岡は電話を切って、
「すまないが署に戻ることになって。」
と申し訳無さそうに言った。
「はいはい。わかりました。華岡さん、もう少し図太い神経を持ってもらわないと、警察の仕事は勤まりませんよ。」
ジョチさんは、帰っていく華岡を見送りながら、そういう事を言った。
「ホント、困るよな。ああいう事件に弱いんだよね。華岡さんは。」
杉ちゃんもそれに同調する。華岡が帰っていって、数分後、製鉄所の利用者がただいま帰りましたと言って、製鉄所に戻ってきた。利用者は、利用時間きっちり施設内にいなければ行けないということはない。利用している時間内に帰ってくれば、買い物などにでかけてもいいことになっている。なので、利用者は、買い物にでかけて、帰ってきたのだった。はずだったが、何故か落ち込んでいる様な感じだった。
「どうしたんですか?なんだか元気がありませんけど。」
ジョチさんが聞くと、
「いえ、こないだ、介護殺人と呼ばれるような事件が起きましたよね。」
利用者は、そんな事を言い始めた。利用する人の中には、世界情勢とか、テレビのニュースをいかにも自分たちのことと当てはめて、落ち込んでしまう人も非常に多かった。それは、ある意味では、すごく優しい心の持ち主とも言えるが、いい方に使用されることはほとんどなく、誰かに迷惑をかけるほうが大半であった。これを矯正するかしないかは、非常に難しい問題である。
「あああったね。」
杉ちゃんが彼女の話に応じた。
「あの事件の様なことが私の家でも起きてしまうんじゃないかって、非常に不安なんです。だって私も働いてないですし。今は、障害年金とか、そういうものでなんとか理解は得られましたけど、でもああして、親御さんが、容疑者の女性に言うようなセリフを言ったら、私だってそうしてしまうかもしれないし。」
「そうですか。まあ、人は人、自分は自分で、できるだけ社会情勢とは切り離したほうが良いと思います。そういう事は誰にも予知できることではないですし、今は、今のことを一生懸命するしか無いと。」
ジョチさんが彼女の話にそう言うと、
「そうですよね。でも私、犯人の女性に、共感するというか、被害者のお母さんの気持ちもすごくわかるし、だから私の家もそうなってしまうのかなって、思ってしまうんですよ。」
と、彼女は言った。
「あの事件の被害者のお母さんの中島佳代さんは、娘さんの中島さなえさんに、無理して生きなくても良いと言って、さなえさんが作ったトリカブト入の飲み物を飲んだそうじゃないですか。」
「まあ事件の概要はそうなっているそうだけど、悪いことを美化しては行けないよ。やっぱりさ、無理して生きなくても良いなんて根本的な間違いだし、そのとおりにする娘の方も、まずいと思うぞ。それは、ちゃんと、やってはいけないって言わなくちゃだめだと思うぞ。」
杉ちゃんが、急いで言った。
「ごめんなさい。私のような精神が弱い女性ですと、そういう悪い事のほうが、良いのではないかと思ってしまうんですよね。それは、行けないってわかっているんですけど、でも、なんかそうさせてやりたいっていうか、そんな気がしてしまうんです。だって、私も、さなえさんと似たようなところがありますから。彼女は、学校でいじめがあって、それで学校にいけなくなったままおとなになってしまって、ずっと佳代さんのほうが、面倒見てきたんでしょう。あたしも、そういうところありますもの。だから、親が介護に疲れるということもわかるし、一度社会から外れた人間が、元に戻るのは非常に難しいこともわかるから、彼女がお母さんの言うとおりにしたというのもわかるんですよ。だから私、本当に悲しくて。」
利用者はそういう事を言った。
「だったら、お前さんは、そういう終わり方をしたくないんだろ?それならどうすればいいか、考えてみろ、と偉い人はいうが、、、まあ、お前さんはその通りにできないんだよな。それはわかるから、その後は言わなくていい。」
杉ちゃんは、彼女に言った。
「まあ、事件の概要を言えばそうですが、でも、やはり間違いをしてしまったわけですから、それは矯正しないといけませんね。親御さんが、いくら殺してくれと呟いたとしても、彼女は自分と一緒に生きろというべきだったんだと思います。」
ジョチさんは、そう結論づけたが、そういうふうに結論づけることはなかなか難しかった。それは、当事者になってみなければわからないことである。本当に、ちょっとした不安で潰れそうになってしまって、本当に潰れてしまうのが、精神疾患の世界なのだ。外へ出られるようになるためには、誰か専門家の援助が必要だった。
「そうね。でも、私も、彼女とよくにた境遇であるから、彼女の気持ちがわからないわけでも無いですけどね。」
「しかし、腑に落ちないところがありますね。なぜ、彼女は母親を殺害したあと、自分も毒を飲んで逝こうと思わなかったんでしょうかね。そこがおかしいところだと思うんですよ。」
ジョチさんが、そういう事を言った。杉ちゃんもそういえばそうだなといった。
「それに、通報したのも、テレビのニュースで見た限りでは、中島さなえさんがしたと言っていたわ。」
利用者の女性が、気がついたように言った。
「ええ。もし、経済的な理由とか、健康的な理由で、母親と娘が生きていけなくなったら、仮に娘が母親を殺害したあと、一人で生き残ろうとしますかね?どうもそこだけが矛盾してますよ。彼女はなぜ、それをしなかったのでしょう?」
「ホントだホントだ。ジョチさんの言う通り、親子一緒に逝って当然なんだがなあ。」
ジョチさんがそう言うと、杉ちゃんもそういった。それと同時に、水穂さんが咳き込む声がしたので、杉ちゃんは、じゃあ行ってきますと言って、杉ちゃんは四畳半へ行った。水穂さんは、やっぱり咳き込んでいた。しばらく咳き込むと、口元から赤い液体が漏れてきたので、杉ちゃんは、それをちり紙で拭き取ってあげた。
「やれれ、いつまでもなにも食べないで居るから、そういうことになっちまうんだよ。自分でもさ、少しは食べるようにしてもらわなきゃ。」
杉ちゃんがそう言うと、水穂さんはごめんなさいといった。
「ごめんなさいじゃないの。それを言うなら、ご飯をちゃんと食べてくれ。ちゃんと、作っている僕らのことも考えて。」
と、杉ちゃんがそう言うと、
「ごめんなさい。どうしても食べる気になれなくて。」
水穂さんは弱々しく答えた。
「そんな事行ってないでさ、よくなりたいんだったら、ご飯を食べるんだよ。そんな当たり前のこともわからないのかよ。」
杉ちゃんの言うとおりなのだが、当事者というものは、なにか大きなきっかけがなければ、かわれないものだ。その病気の症状で苦しんでいるから、変わろうとする余裕が無いからかもしれない。そして、介護者の方も、杉ちゃんみたいに、思っていることをなんでも口にしてしまう性格でなければ、もう介護は嫌だとか、そういう事は言ってはいけないと思ってしまう。だから、いつまでも、これでいいのだと思って、そのままにしてしまう。特に精神疾患となれば、訳のわからないことを言うとか、症状がかなり抽象的なので、扱いに困ってしまい、調子がよければそれでいいになってしまうのだろう。
「本当にな、ご飯を食べて、ちゃんと良くなるつもりになってくれ。そういう事は、ちゃんと自分の意思で考えなきゃだめだ。そんな弱ってしまったら、お前さんだけでなく、周りだって困るわ。」
水穂さんの背中を擦ってやりながら、杉ちゃんはそういう事を言った。杉ちゃんという人は、思っていることをなんでも口に出してしまうのだった。そういう人だからかえって介護も円滑にできるのではとジョチさんは言っていた。大体介護する人の本音を話せるところなんて、自助グループとか、そういうところばかりだ。本人の前で話してしまうのは、タブー視されている。でも、言わなければならないこともでもあった。水穂さんは、杉ちゃんがそう言っているのに、気がついているのか、それとも無視しているのか不詳だが、1つ頷いて、また咳き込んでいた。
「いつの日も、介護というのはし続けなければならないんですね。風の日も雨の日も、嵐の日も。」
部屋を除きにやってきたジョチさんは、そう小さな声で言った。利用者の方は、なにか辛い気もちになってしまったようで、すみません部屋へ戻りますと言って、部屋に戻ってしまった。まあそれはしょうがないことだろう。人に迷惑を掛けるよりは良いと思ったので、ジョチさんは、それ以上何も言わなかった。
それからまた数日後。製鉄所を華岡が訪ねてきた。
「また来たんかいな。どうしたの華岡さん。なにか、辛いことでもあったのか?」
と、杉ちゃんが、華岡に聞くと、
「ああ、どうやら彼女、自助グループと言うか、そう言うところに通っていたらしいんだ。」
華岡は、また事件の事を話し始めた。
「そうですか。あの、中島さなえさんのことですか?」
とジョチさんが聞くと、華岡は、
「もちろんそうだとも。随分熱心にそこへ通っていたらしい。そのグループでは、月に一回、精神疾患者の当事者同士で、話し合う会を行っているようなんだ。代表ももちろんそういう障害の経験者だし、他のメンバーもそういう奴らなんだ。」
と、答えた。ジョチさんは、少し考えて、
「そうなんですか。そういうグループ自体を作ることは悪いことではないと思います。ですが、グループには誰か一人でもいいから、正常な世界というか、誰かが問題のある発言をしてしまった場合、そこから、戻してくれる役がいてくれないと、変な方向に言ってしまう可能性がありますよね。新興宗教などもそうだけど、みんなそういう役がいないから、変な方にいってしまうのでしょう。」
と、言った。
「そうなんだよ理事長さん。俺もそう思っている。この世界では、どうしても利益優先であるから、それを作れないやつは切り離すしか無いっていうのが実情なんだがな、その切り離された奴らだけでは生きていかれないんだよな。必ず、現実に戻してくれるやつがいないと、そういうグループは返って有害になってしまう。俺、今回の事件でそれを強く感じたんだよな。中島さなえだって、そういうやつがいてくれれば、親を殺害する事はなかったと思うんだ。」
華岡は珍しくジョチさんの話に同調した。
「華岡さんときに評論家みたいなこといいますね。」
ジョチさんはそれだけ言っておく。
「それでな、その、中島さなえの所属していたグループは、うつや、統合失調症などの症状を語り合うグループだったそうだが、何でもすべて親が悪いとか、家族が悪いとか、そういう事を言い合うグループだったようだ。それに、そういう病気の奴らだからいい方も強烈だろうし、彼女の感じ方も強烈だったんだろう。メンバーが、家族のことや、親の悪口をこれでもかと言い続けるので、中島さなえは、自分は恵まれすぎているから、殺さなければならないと思ってしまったと供述している。まあ、もしかしたら、彼女は正気では無いかもしれないので、精神鑑定などをお願いしたいと思っているんだが、俺は、そういう止める役がいてくれれば事件は起きなかったのではないかと思う。」
華岡は、腕組みをしてそう語り始めた。華岡の、そういう話が始まると長い。相手が、疲れてしまっても、そういう話を続けるのであった。全く、警察関係の男が、なんでこんなに長話を始めるのか、よくわからないほど華岡は喋るのだった。
「でも、今回は華岡さんの話も、何となく分かるよ。確かに、できるやつはできるやつだけ、できないやつはできないやつだけであつまれば、なんとかなるっていうのが、日本の社会だけど、なんとかならないんだもんな。きっと、グループのメンバーだって、そういうこと言いたいんだろうけど、言えないから、大げさに話してしまうんだろうしね。それが、行けないわけじゃないけど、さなえさんのように実際に行動に移す前に、今のは大した話ではないから気にしないでねとか、言ってくれるやつがいてくれれば、事件は起きなかったと思う。それは僕も思うな。どうしても、できないやつを助けるのは、できるやつだけなんだから。」
杉ちゃんが、作りかけの味噌汁をかき回しながら、華岡に言った。
「今度の事件はそこがガキなのかもしれんぞ。」
華岡は、杉ちゃん言った。
「杉ちゃんいいこと言うな。それは確かにそうだ。俺もそう思っている。」
「へへん。僕は、ただ、当たり前の事を言っただけだぜ。じゃあ、いつもどおりに水穂さんに、ご飯を食べさせてくるよ。今日こそ、うまく作ったから、全部食べてくれるといいな。まあ、こういうやつと接するには、諦めちゃいけないよ。今度こそ、ご飯を食べてくれるという気持ちを持って、
相手に接することが大事なんだ。」
杉ちゃんは味噌汁を器に盛り付けた。確かにそうなのだ。結局、相手が今度こそ変わってくれるというのぞみを持って生活するしか、人にできることは無いのだった。
たったそれだけのこと 増田朋美 @masubuchi4996
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