終章 世界の祝福を
幼いお前のことを。
よすがであったお前のことを。
周として生きるお前のことを。
すべて知っている僕は、なんてしあわせ者。
***
「とりあえず本島に行こうか。色々なところを見て、やりたいことがあればやって、住みたい場所があれば住もう。孤島のここより、旨い物も多いはずだ」
「……」
そう提案したひかみへ向けられた
今や周よりも目線の高くなっているひかみは少しかがんで、周の顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「私、蟲が……」
「一匹は残っているよ。だから大丈夫。僕がそばにいれば残りの一匹が外に出ないように風と
「一匹……?」
あの時、逆鱗を飲んだ周の口から出た蟲は二匹だ。桜と
周はあれから少し、気持ちが不安定になっているようだった。注意深く気にかけてはいるが、獣には察するのが難しい部分も多分にある。
「本島には、木苺はあるのかな……もう少し摘んでくか?」
「棚に置いてあった瓶詰なくなってるけど、ひかみちゃんが持ってるんじゃないの?」
「あれは
天へと
「──木犀くん、柘榴ちゃん……!」
わっと周が顔を覆って泣き出した。気を逸らそうと思って話題にしたが、逆効果だったろうか。いや、木苺の量を増やすかは真剣に考えているのだが。
「ほら、すぐそうやってぺそぺそする──それより」
「うん……」
周の手首を優しく掴んで顔から離せば、頬が涙で濡れている。舌で舐め取れば、たじろいだ周が僅かに後ずさった。瞳を細めたひかみは片手はそのままに、右手を周のうなじに滑らせる。
「……なぁ、いつまでちゃん付けだ?」
「ぁ、うう……」
顔を真っ赤にして言葉を詰まらせる周は、ぎゅうときつく目を閉じてしまう。等身が大きくなってからこっち、ひかみに対する周の態度はぎこちない。
ふるふると震える様は可愛くもあるのだけど、早く以前のように気軽に触れ合いたいと云うのがひかみの思いだ。あまり急ぎすぎて嫌われても意味はないと、ひかみは唇を一度だけ軽く重ねてから周を解放する。
「まぁ、おいおいでいいよ。時間はあるからな──ほら、日も昇ったしもう行こう」
「──うん」
納屋を出て、ふたり揃って頭を下げながら、周は考える。もうここに来ることはないのだろうか。それともいつかまた、訪れたいと思う日が来るのだろうか。今はまだわからないけれど、どんな時だってひかみが隣にいてくれると思えば怖くはなかった。
「ひかみちゃん」
遠慮がちに手を差し出せば、ひどく上機嫌にひかみはその手を優しく取った。海へと向かうふたりの荷物はあってないようなもので、周が肩から提げる鞄には寿喜の描いた紙片と木苺の詰まった小瓶が入っているだけだ。
「──周」
「なに?」
「……あいつのこと、忘れてないんだな」
それだけで、ひかみの言いたいことはわかった。地の
「……あのひと」
「うん」
「ひかみちゃんに憧れてたんだと思うんだ。たぶんだけど」
生まれがそも、ひとの恐怖心と云う存在に、神に連なる雷獣のひかみはどう映っていたのだろう。
きっと目映いばかりで、余計に憎しみは募った。天に焦がれて憧れて。最期は雷に焼き尽くされたその魂をまだ許すことはできないけれど、忘れたくはなかった。
「……ねぇ、集落のひとたちの
「いや、周が切ったのは縁の儀に関するよすがの存在だから、子どもたちのことは覚えてると思うよ。事故で亡くなった、とか何かしらの上書きはされてるとは思うけど」
「そっか……」
「ひとは、そんなに弱くはないよ。親子の絆や情は簡単には消えないから、大丈夫。大切なことは魂が覚えているものだから」
周は、小さく頷いた。必要があったとはいえ、勝手に記憶を奪ってしまった事実は消えない。ひかみはそれを察して、周の心を掬いあげてくれる。
「このまま忘れないでいたいんだ。この島であったこと全部、忘れたくない」
痛いことも悲しいこともしんどいことも多かったが、それ以上に大切な出逢いがあった。
それらすべてが今日の周を構成して彩っているのなら、忘れたくはないと。忘れることの辛さは、身に沁みていたから。
「周の好きにしていい。何からでも、僕が守るだけだから」
「……ありがとう」
ひかみに出逢えてよかった。浮かんだ涙を気取られたくなくて、周は早足になってひかみの腕を引っ張った。
「早く行こう!」
──その僅か数分前の自身の行動を、周はすでに後悔していた。ひかみの言っていることがわからない。
「本気……?」
「当たり前だろう」
「船もないんだぞ……? ひかみちゃんが海を走る? 私がその背に乗る? それって当たり前なの? 私がおかしいの……?」
「……──あぁもう、まだるっこしいな!! 早く来い!」
「だって、だって!」
「ちゃんと羽織っていろ。濡れるぞ」
周はやはり赤が似合うな、そんなことを考えながら風を纏わせて一瞬で獣の姿に変わったひかみは大きな口で周の襟を食むと、ぽいと自身の背中へと放った。
「──ふかふかぁ……」
ぎゃあぎゃあ喚いていた周だったが、ひかみのあまりの毛並みの良さに顔を埋めて思わずうっとりし始める。
その隙にと、ひかみは海へと向かい走り出した。砂浜から、海面へ。海水の揺れる音に、上がる飛沫。ひかみの躰はその大きさを持ってしても海中へ沈むことなく、陽光を受けて煌めく水面を走り続ける。
「見、見られたら……! 夜、せめて夜にしよう!?」
「周!」
「なに!?」
すぐ耳元を水飛沫が駆けていくから、互いに声が大きくなる。ひかみの背中は安定感があって落とされる不安はないが、泳ぎ方を知らない周は動悸が止まらない。
「楽しいことを考えろ!」
「え……」
「蟲の減ったお前はもう、ひとじゃないのかも知れないが! 帰る世界を失った僕も雷獣とは言えない! 半端者同士楽しくやろうか。どうせ、この世界は誰も僕らを知らないのだから!」
「……っ!」
周とひかみの周囲を、飛び魚の群れが跳ねる。遠くでは鯨が潮を吹いていて、雁が悠々と空を走る。──煌めく、世界。
「世界の祝福を!──迎えに行こう!」
「──うん!」
世界の祝福。
虹色の橋に、水底の植物園。火を吹く三つ脚の烏や雪と共に降る梅の花──桜や
ひかみとの縁はどうしたって切れないのだから、どこまでも共に、世界の端まで行ってみようか。なんて。
──後の、本島の気象記録によると。
周とひかみが海を走り出したその日のその時間、島では雪が降っていたと云う。
そしてその日を境に、
後日、ひとりの研究者が降雪の事実を確認しに島に降り立てば、村人たちは口を揃えてこう言ったそうだ。
「大切な子どもたちが、帰ってきたのだ」と。
◆◆◆
あれが、父の言っているばしゃらだろうか? 手を振ってみるが反応はなく、空を見上げたまま首を傾げていた周の口元に、それは不意に転がった。
「お星さま……? きれい」
口の中に広がった甘い香りに、周は思わず嬉しくなる。ばしゃらが、飴玉を落としてくれたのだと。
「周……? え!? 今なんか食ったか!?」
「ばしゃらが飴くれたの」
「吐け」
「う、え、ぇ」
周の背中をとんとんと叩き始めた桜を制止し、寿喜は呆れたように笑った。
「大丈夫ですよ。空から何が落ちてくるって云うんです? あぁ、もしかしたら本当に、
「得体の知れんものを落とすな」
「それより、題名決めませんか? 周と婆娑羅の物語の」
桜から解放された周は、再び窓に寄って空を見上げている。口を開けて待つなと注意するべきか悩んで、可愛いから放っておく。
「じゃあ、せーので」
「え、考える時間……っ」
まさかの考える時間なし。慌てた桜は直感で言葉を選んだが、なのに寿喜と一言一句同じだったから笑ってしまう。
「──ばしゃら
(了)
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