第四章 誰がためのばしゃら⑨

その時、晴れ空に一筋の光が走った。

(かみなり……?)

 見間違いだろうか、ほんの一瞬、光った気がしたけれど。けれど、その後も不規則な閃光が瞬いて、まるであまねを導くように。


『ばさら』

『ば、びゃ……ば、しゃら?』

『……この際ばしゃらでもいい。いいか、雷の子どもは周の味方だ。求めていい、呼んでいい、手を伸ばせ』


──手を伸ばせ!


 ぶわり、と全身に鳥肌が走った。まるで誰かに背中を押されるような心地がして、周は叫ぶ。声はすでに嗄れている、それでも届くように、出せる全霊の声で、込めた祈りは。


「ばしゃら、ひかみちゃん、もう一回だけでいい、一目逢いたい」


 助けを求めるそれじゃない、ささやかなささやかな、少女の願い。


「逢いたい……!」


 御遣みつかいに身体を押さえつけられながらも必死に両手を伸ばす。御遣いが面倒くさそうに舌を打って、周の指を折ろうと腕を伸ばして──その耳に、届いたのは轟く爆音。


「え……?」


 揺れる地面、一瞬で辺りが白く染まる。周は反射的に目を閉じたが、御遣いは問題がない。瞠目したまま、信じられない思いでそれを、奴を見つめる。

 晴れ空を切り裂く──それは、日雷ひかみなり


「──ばしゃら、推参」


 若葉の香りを含んだ薫風くんぷうが、辺り一面を柔く包んだ。

 その中に響く、周の聞き馴染んだその声。しかしそれはどこか大人びて聞こえた。不思議に思うよりも先に、上からくぐもった呻き声が漏れる。


「──離れろ」

「お、前……!」


 周からは逆光で見えずらいけれど、背後に立った少年──おそらくは御遣いと同じくらいの背丈の──が、刀剣で御遣いの背中を斬りつける。


「周の上から早く退け。目障りだ」


 言うが早いが御遣いの腹を蹴り上げ、御遣いは抵抗する隙もなく地面に転がった。腹を押さえてうずくまる御遣いに一瞥もくれず、彼は周の背に手をやって、膝で支えるようにして周の上体を起こした。


「ひかみちゃん……?」


 不安げな声音は、仕方ない。

 周の知っているひかみはその聡明さや身体能力に反してまだ幼く、髪も瞳も深い黒曜の色だ。けれど、目の前の少年は。

 背丈は周よりも頭ひとつ分は高く、周よりも短い黒と金の混ざりあった髪色。双眸は優しい夕焼け空と同色で、けど、その瞳に散る瞬く星粒のような光には見覚えがあった。

 何より──


「助けてと呼べはいいのに、お前は本当に……控えめで困る。これきりでいいのか? 僕は嫌なんだが」


 細められた双眸から伝わる暖かさは、周がよく知っているものだった。そして手のひらの、温度。大きさが違くたって、間違えるはずもない。


「っ、ひかみちゃ……ひかみちゃん……!」

「頑張ったな、さすが周だ」


 堪えきれずにひかみの首もとに抱きつけば、頭を優しく撫でられた。親が子どもを褒めるようなそれが、傷ついた身体に染み渡る。頬を伝う涙を指の腹で拭うひかみが、不意に瞳を細めた。


「──それ以上寄るな」


 構えられた刀剣のきっさきは、鋭く御遣いへと向いた。立ち上がった御遣いが、周を睨む。


「あんまり勝手ばかり言うなよ……! それは俺のものになったんだけど? つーか、まだ生きてたんだ?」


 小馬鹿にするような口調を受けて、ひかみは対峙するよう御遣いへと向かい合う。立ち上がった際に羽織りを脱いで、周へ掛けてやることを忘れない。

 心配そうに表情を歪ませる周を安心させるように微笑むと、襤褸ぼろ切れのような様相の御遣いの姿を憐れむように息を吐いた。


「全部思い出したよ──何が僕の対だ。お前は僕の対じゃない。雷獣ですらないから獣の姿にもなれず、龍神様から下賜される刀剣の持ち合わせもない、ひとの恐怖心から生まれたただの化け物だ」

「……だから、なんだっていうんだ」

「村人たちは周の縁切えんきりによってすでに伝承を知らない存在となった。故にお前のことも知らず、お前に対する恐怖心もない」


 だからこその、その姿。

 ひとの思いの強さは、伝承すらねじ曲げ龍神や雷獣の行動心理すら縛るけれど、信仰心や恐怖心と云ったものから生まれる存在は、一歩間違えればひどく儚い存在だ。

 縁が切られた先に御遣い、否、よすがの存在に執着するこの亡霊に生きる未来はない。


「……でも、俺は消えてない。まだ周が俺を恐れてる。ひとりで俺の存在を支える程に──なァあまね! ずっと一緒にいような! 逃がさない!! 逃げようとするなら手足をもいで目玉をくり貫くからなァ! お前は耳と口さえあればいい! 永遠に俺とお話しような!」

「や……」


 血反吐を吐くような亡霊の言葉は、聞き流せるものではない。怯えたように後退った周を認め、ひかみが腕を振るう。


「黙れ」

「ぎゃああぁあ!!」


 一閃。

 ひかみが振った一太刀を、亡霊は追えなかった。故に、避けることなどできる訳もなく。

 真横に斬られた口元を押さえるが、ぼたぼたと垂れる血が地面に血溜まりを作る。


「周はお前のえにしじゃない──これ以上この魂を汚すことは許さんぞ。薄汚い手垢までつけて」


 契約印のことだろう、ひかみは雷獣。本能は獣のそれに近い。唯一無二の最愛が自分以外の匂いをさせていれば、腸が煮えくり返る思いだろう。

 ひかみが柄を握り直したことに気づき、亡霊は身構えた。距離を取ろうとして、けれど振られた太刀が周を向いたことに虚をつかれ、動きを止める。


「周」

「え」

「忘れろ」


──しまった。

 瞬間、亡霊はひかみの行動の理由に思い至り、「やめろ、やめろぉ!」叫んだ。駄目だ、それをされては、俺は消えてしまう。

 ひかみが振るった一太刀は、周の縁を切った。それも器用に、亡霊との縁だけを。

──消えてしまう、周はだって、俺を知る唯一の存在なのに。

 何が起きたのかをまだ理解できていない周の肌から、契約のための痣が消えていく。それに比例するように、崩れていく亡霊の身体。


「ふざけるなふざけるなふざけるな……!」


 まだ死ぬつもりなど、毛頭もない。けれどよすがをどうにかしようにも、ひかみには一分の隙もない。

 そうして亡霊が見つめた先は──天へ昇っている途中の、龍神の姿。俺が生まれたきっかけを作ったのだから、責任を取れよ。


「──龍神がいれば、何度でも」


 伸ばした腕、崩れた身体のまま龍神へと追い縋ろうとした亡霊はしかし、鋭い爪によってその存在を引き裂かれた。業風が吹き荒ぶ中、ひかみの怒りを現すような日雷がいくつも落ちる。


「引き際は弁えろ、惨めなだけだぞ」


 残った目玉が見たひかみのその姿は──四つ足の、獣。風を纏う雷獣。黒に金色の毛色を持つ、神に連なる聖なる獣。

死する瞬間、亡霊に沸いた思いは──、


(お前みたいに、なりたかった)


 自覚することのなかった思いは、存在しなかったのと同じこと。涙でふやけた最後の目玉がさらりと崩れ、亡霊は静かに静かに、終焉を受け入れた。

 空を仰げば、龍神が留まっているのが見えた。獣から姿を戻したひかみはその背へ向けて、叫ぶ。浮かぶ涙は、龍神の無事を喜ぶ歓喜と、もう会えない寂しさとが入り交じったそれ。

 けれど龍神が、どれだけ自分を思ってくれていたかをもうひかみは知っている。龍神が降りた理由は、周が両親を失い傷つき、その魂の悲しみ具合にひかみが泣いたからだ。ばしゃらと呼ばれてからずっと、ひかみは周を見守っていたから。


「──手鞠てまり様! ずっと! 申し訳ありませんでした! 僕が弱かったばかりに……!」


 その時、


瑞風みずかぜ、ううん、ひかみ』

『ずっと、そばにいてくれてありがとう』

『迷惑ばかり掛けてしまって、ごめんね。ひかみ、優しい子、しあわせになって……!』


 周の耳にも、その声はしっかと届いた。蒼弦そうげんの記憶の中の、あの女性の声。柔らかく微笑むひかみの横顔を見つめながら──周は、ゆっくりと瞼を閉じた。ひどく、身体が痛い。蟲、もういないからなぁ。まだひかみちゃんにお礼、言ってないのに。思うけれど、もう指の一本も動かせない。


「……あなたの雷獣で在れたことが、何よりしあわせでした。どうか、御幸せに」


 けれど、ひかみの声を聞きながら逝けるのならばしあわせだ。こんな最期なら。もう逢えないかと、思ったから。口元に笑みを刷き、周は静かにその意識を手放した。



──こうして、本島から少し離れたひとつの島のとある龍神伝承は、人知れずその終わりを迎えた。

 それを知っているのは、ひとりの少女と一匹の雷獣だけだった。


         ◆◆◆


 それは、その情景は、不意に脳裏に沸き上がった。

 いつものことだ、幼い頃から意識せずとも未来が見えた。それを利用して、盗賊まがいの行為を繰り返し生きてきた桜にとっては当たり前の日常。

 けれど──


「どうして、周が……」


 桜は呆然と呟いて、顔を覆った。

 見えたのは、娘の周の未来。惨たらしく息絶え、転がる骸がそこにはあった。

 そこから途切れることなく、幾つも、幾つも、幾つも見えた未来の中で、周はすべてひとりきり、痛みと恐怖に涙を流しながら死んでいく。大きな時計台の下で、祠の前で、灯台の灯りに照らされる砂浜で、長い長い石段の途中で、深い井戸の中で、銀杏並木の隅で、……そのすべてで、周が死ぬ。例外は、ない。

──なぜ、なぜ、なぜ。

 なぜ周がそんな目に合う?


『──お前のごう。未来を盗み見る、それはひとのことわりを越えている所業だよ。だから、お前の生には業が含まれているね……』


 その時、遥か昔に町の傍らで占いを営んでいた婆に掛けられた言葉が急に思い出された。

 桜は占いなどには興味もなく、しかも寿喜ことぶきに出逢う前のしょうもない生活をしていた時期。金をたかられては堪らないと当然のように無視して通り過ぎようとすれば、続いた言葉に桜は思わず吹き出した。


『勘違いをしなくていいよ。お前自身には、業は振りかからないから』

『、──あッははは! 俺に振りかからないなら何の問題もないですねぇ』


 あの時桜は、自分の業とやらを誰か他人が負ってくれるのならば万々歳。そんな風に思うだけで、すぐにその出来事を忘れた。婆の、憐れむように細められた瞳の意味なぞ考えることもなく。


「周が……俺の、業を……?」


 嗚呼、嗚呼。

 周が。周に。俺の総ての業が、振りかかった。謂れのない負債を請け負って、産まれてしまった。


「──ああぁあああ!!」

「桜さん!?」


 堪らずに叫び出した桜の異変に気づいた寿喜が、寝室から飛び出してくる。うずくまる桜に駆け寄って、色を失くすその頬を両手で優しく包んだ。


「落ち着いてください、何か、見えました?」

「寿喜……ごめん、ごめん、俺……」


 震える唇もそのままに、桜は今見たすべてを寿喜に話した。まとまりのない、涙でつっかえる言葉はひどく聞き取りずらかっただろうに、寿喜は相槌を打ちながら、視線を逸らすことなく最後まで聞いてくれた。責められることも覚悟していたけれど、寿喜が口にしたのは──


「桜さん、あなたはあなただから、私を見つけてくれたんですよ」


 ありがとうございます。

 大好きです。

 述べられたのは感謝の言葉。もしかしたら、桜が離れればいいのではないか。今からでも遅くないのなら──そう考えていた心の内を悟っているかのように、寿喜の手はしっかと桜を握って離さない。

 その暖かさを、喪うことなんて今さら、出来やしない。


「──ここを、離れなきゃまずい」


 時計台の下で死した周は六つか七つ。時計台はこの町のシンボルで、今年五つになる周とこのままここにいたら、訪れる未来は死だ。


「周が、一番育っていた未来は?」

「……なんか、島。赤い湖とか、洞窟とかある場所。そこなら、十三、四だった」

「探しましょう。探して、まずはその島に移住を。少しでも時間が欲しい」


 そしてその時間で、周が生き延びる方法を探す。今できるのは、それだけだ。できることをひとつずつ、潰していく。

 頷いて、顔の見えない周のことが気になった。問えば、今何時だと思ってるんですと寿喜は笑う。


「周は……?」

「寝てますよ。一度寝るとぐっすりですから」


 寝室へ移動して布団で丸まる周の頬を優しくつつけば、むずがって寝返りを繰り返す。それでも起きないのだから、ここは安全だと本能で理解しているのだろう。


「──、っ……」


 呼吸を震わせたのは、ふたり同時だった。はっきり言葉にせずとも、寿喜も理解している。周がひとりで死ぬ未来に、自分たちはすでにいない。おそらくは災禍さいかに巻き込まれるのだろう、どちらも、生まれながらにひとの理を逸脱している自覚はあった。

 泣いている理由は死ぬことではなく、周のそばにいられる時間の短さ故。

 時間がない、だから、

──泣くのは、これが最後。

 互いをきつく抱き締め合って頬を寄せれば、涙なんて混ざりあってどちらのものかわからなくなる。

 その一晩だけふたりは泣いて、以降笑顔を絶やすことはなかった。



 竜葵島いぬほおずきじまを見つけ出すのに、一年。そう頻繁には訪れない海割れの日が天候不良に見舞われ二回見送って、ようやっと竜葵島へ上陸しようかとしたその時──


「周の髪を切る」

「髪?」


 割れた海にはしゃいでいた周は歩き疲れて桜の腕の中で眠っている。髪を結ぶ赤の組紐は周のお気に入りで、髪が短くなってしまえば落ち込むだろうことは簡単に想像できた。けれど、


「女だと思われたら……余計、めんどくさいことになる」

「──わかりました。周にはうまく伝えましょう」


 何かが見えたのだろう、桜が濁した言葉に含まれた嫌悪と侮蔑を的確に読み取った寿喜が、周の組紐をさらりとほどく。手にした小刀を髪に入れながら願うのは、何の気兼ねもなく髪を伸ばせる娘の日常。それを手にするために、ここに来たのだ。


「娘も息子も育てられるなんて、一粒で二度美味しい子ですね。さすが周です」


 悪戯っ子ぽく笑う寿喜の瞳が揺れていたが、指摘するのは野暮だ。周が戦う場所のお膳立てが、役割。慰め合うのは、すべてが終わったあとでいいのだから。

 桜と寿喜は視線を合わせ頷き合うと、島へと足を踏み出した──運命の歯車が、動き出したのはおそらくこの時。



「雷のガキの名前がわかんねぇ……!!」


 見えない、聞こえない、周が呼ぶべき名前が、これでは伝えられない。

 桜は決して、未来視を操れる訳ではなかった。不意に浮かんで、不意に消える。それが一日先の未来なのか、百日先の未来なのかもわからない中で、ようやく周を救ってくれそうな存在が見えたと思った矢先の障害に、桜は舌を打った。


「私たちで名前をつけましょう」

「……雷のガキに伝わらなきゃ意味ないだろ」

「祈りましょう。周の良さを好いてくれる方なら、きっと聞き届けてくれますよ──名前は何がいいですかねぇ」


 寿喜の案は正直楽観的すぎるとも思ったが、他に方法がある訳でもなかった。少しだけ考えて、桜は口を開いた。


「……婆娑羅ばさら

「婆娑羅?」

「……俺の一等、好きな鉱石の別名」


 学はあまりない桜だったが、以前聞いたその単語は忘れられなかった。婆娑羅の語源は、ダイヤモンド。その硬質さは、何を持ってしても傷つけることは──できない。

 かつて、産まれながらにして肌が鉱石に覆われている石憑きの一族の姫として育った娘は、その言葉を受けて、歯を見せて笑った。


「──あなたのそういうところ、好き」



 両親の魂切る願いも来るべき不穏な未来も知らず、周は竜葵島ですくすくと育った。髪を伸ばせないことは不満なようだが、心根の素直な、思いやり溢れる少年に扮した少女は「いいよー」と笑う。


「空からおりてきた雷の子ども。彼は雷獣です。本来ならば、空にいるのが正しい存在。理を破った神に連なる存在は、婆娑羅と呼ばれます。雷の子どもは、雷獣は、その婆娑羅は、周のために在るのです」


 桜は語る。寿喜は描く。周の耳に、細胞に、心に、残るように。残ったそれらが、周を未来へと導くために。


「周、生きろ」

「周、しあわせになって」


 それだけが、ふたりの願いだ。そのためならば、なんだって。



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