第四章 誰がためのばしゃら⑧



「──あぁ、無事に帰るんだな。龍神様は。天の御遣みつかいも共に行ったんだね」


──ひかみは、どうしただろうか。

──一緒に、行けたのだろうか。

 座り込んだまま、身動きを取るほどの体力もすでに尽きているあまねは、ぼんやりと考える。その疑問に答えたのは、御遣いだった。御遣いの声に緩慢に振り返った周は、けれど、


「……っ、──」


 言葉を失った。

 来るだろうとは思っていた。そういう契約だから。しかし、振り返った先に立っていた御遣いの姿、は。

 衣裳は破れぼろぼろで、それどころか肉も削がれ、臓器や骨が覗いていた。左目は、無残にも眼球が飛び出しかけていた。

 まるで──亡霊。

(みんなの縁を切ったから……? 忘れられたから、こんな姿に……ひかみちゃんは大丈夫だったのか……!?)

 こんな姿で天に戻って、生きていけるのか……?

 呆然と、目を見開いて震える周を見下ろして、御遣いは緩く首を傾けた。薄く笑う。


「……大丈夫。蟲なんていなくても、俺と一緒にいることはできるよ。ひとであることなんて、重要じゃない」


 無理矢理に出した蟲は、おそらくは戻ってこない。蟲が喪われれば、近いうちに周は死ぬのだろう。ひととして死ねるのならば、まだいい。御遣いは、周にひとをやめることを求めている。蒼弦そうげんのように。

 御遣いの伸ばした指が、骨の見えかけた指が、周の頬を撫でる。


「ひ……ッ」

「約束、したもんな。よすがは、あぁいや、周は、嘘なんかつかないもんな?」

「──……っ」


 わかっている、自分から言い出したことだ。それに、願いも叶った。龍神は蒼弦や木犀もくせい柘榴ざくろと共に帰り、村人たちのえにしを周がすべて切ったことによって島の誤った龍神伝承は人々の記憶から消えた。

 もう、よすがが生まれることはない。ひかみも、これからも龍神のそばにいられる。

(なら、いいじゃないか)

──でも、嗚呼、怖い。

 周と呼ぶその声は同じなのに、暖かさがこんなにも違う。御遣いの声には、視線には、何の温度も含まれておらず、だのに周への執着だけが強く伝わってくる。ひかみとは、似ても似つかない。


「──ひかみちゃん」


 その名前を呼んだのは、無意識だ。小さな小さな、声。そば近くにいた御遣いには聞こえたのだろう、肉の残る右目を眇め、口元を歪めた。天の御遣いは対だから分けてやろうかとも思っていたが、やはり惜しい。


「天の御遣いはもういない。二度と呼ぶな。お前はもう俺のものなんだから、俺だけ見てなよ」


 髪を鷲掴まれたかと思えばそのまま引かれ、地面に引き倒される。


「痛……っ!」

「そうだ、俺に名前つけてよ」


 身体を打ちつけ呻く周を意に介することなく、御遣いはいいことを思いついたとばかりに笑った。周の両肩を掴んで地面に押しつけたまま、御遣いは身体をゆらゆらと揺らしている。


「周は可愛いなぁ……」


 口ではそう言いながら、御遣いは急に周の頬を叩いた。笑顔のまま。乾いた音が何度か響き、周の唇が切れる。恐怖に固まる周は、涙をこぼすことすらできない。

(──ひかみちゃん、)

 返答は、ない。当然だ、ひかみは帰った。帰ってしまった。

 何も見たくなくて、瞳を閉じようとした時──耳奥で、父の桜の声が響いた。



『これが、助けてほしい時に呼ぶ名前だからな』

『助けてほしい時に、呼ぶ名前?』

『そうだ、周を助けてくれる、周だけが呼べる名前だ。忘れちゃいけない』

『うん!』



──呼ぶべき、名前?

 父さんでも母さんでも、ひかみちゃんでもなくて?

 でも、他の誰が助けてくれると云うんだろう。周を助けてくれる他のひとなんて、周は知らない。


『絶対に忘れちゃ駄目だ、もし忘れたら、空を見て』


 空を、見て。

 呼ぶべき名前なんて、覚えていない。だから周は、素直にその言葉に従った。


「空……」


 空が、白み始めていた。海の向こうから、もうすぐ太陽が顔を覗かせようとしている。龍神は、高い高い上空にある雲に長い躰の半分が隠れ、もうすぐ天に昇り切れるのであろうことが伺えた。


──なんて綺麗な、晴れ空だろう。


        ◆◆◆


 時間は少し、遡る。


 白い空間は、いつの間にか暗闇へと変わっていた。ただただうずくまり涙をこぼすひかみの鼻先で、誰かが膝を折った。

 風の動きでそれを感じたひかみがのろのろと目線を上げれば、僅かばかり周囲が明るくなっていることが知れた。


【何をしてるの、ここで】


 淡く白い人影が、幾つも重なり合っている。たわんだような声の主には、すぐに検討がついた。死した、歴代のよすがたち。

(いや、よすがじゃないよな。ちゃんと、名前があったはずなのに──僕が奪った)

 白い人影の、腕がひかみへ向けてついと伸びた。ひかみは首を差し出すようにあごを上げて瞳を閉じた。


【思い出して】

【思い出せよ】


 わかっている、自分の犯した罪の重さは。


【あなたは橋渡し役じゃあ、ないよ】

【ちゃんと、思い出せ】

【殺された私たちを哀れんで、救い上げてくれた】

【言葉が少ないから、龍神様に誤解されていたけれど】

【思い出して──】


 けれども、伸びた腕は首にはかからなかった。ぎゅうときつく、小さな獣の体躯が抱き締められて瞠目する。吐かれると思った呪いの言葉は、なにやら違う。込められた願いに応えたのは、感情よりも先に本能だった。

──体内に渦巻く風が、ぶわりと溢れ出す。




瑞風みずかぜ

「、はい」


 ひかみ──龍神に与えられた本来の名は瑞風、は、に生まれたからか、風の扱いに長けていた。

 反面雷獣としては弱く、龍神のもとにつくことに反対する者すらいた程だった。それでも龍神は瑞風を迎え、風にまつわる名を与えて慈しんだ。風の名前は龍神の優しさだ、それは瑞風もよくわかっている。


「……」


 わかっている、んだけれど。

 瑞風は雷獣だから、弱かろうがそのことに誇りを持っているから、雷にまつわる名前が欲しかった。

 けれどもそんな我が儘は言えない。龍神の優しさを踏みにじるような真似はできない。

 けれど、雷獣らしくない、ごみ屑の散ったような黒い眼球が、夜闇のような黒髪が憎かった。獣の姿も薄汚い黒さで、他の雷獣のような銀色の毛並みも持っていない。晴れ空にしか雷を落とせないこの身の、半端な。なんて半端な。

 天帝と龍神、他の雷獣たちは瑞風を風の獣として扱う。それだけならば瑞風が鬱々とした思いに苛まれるだけで、問題はなかったのだろう。

 けれどある時からひとは、瑞風を雷の化け物として恐れ始めた。

──よからぬ伝承が、ひとの間で広がり始めていると気づいたところで、何ができる訳でもない。無益に幼子が殺されるのを見つめるだけ。

 当初、傷つき迷う魂があまりに哀れで肉体ごと天へと救い上げていた行為のはずが、いつしかひとの恐怖心にのまれ意識ごと塗り潰されそうになる時間が増えた。

 それに比例するように、何かひとではないものが島で生まれたことにも気づくが、存在に血の臭いがこびりついていて直視することも嫌気が差す程だった。

 風の獣の名前を持つ、雷獣。その役目は贄を運ぶことだと、ひとがうそぶく。

 血塗れの役目、存在証明の板挟み、徐々に指の先から黒く染まる心持ちがして──


       『壊れる』


「は……っ、アあぁ!」

 ばちばちと、身体からは意図せず稲光が漏れ出ていた。眼下は晴れ空が広がっている。

 晴れ空の雷の、なんてみっともない。


『□□□』


 ぽたぽたと苦しさから涙をこぼす瑞風の耳はその時、自身の嗚咽以外の音を拾った。


(──そうだ、あの時、確か、声が……)


 ひかみがその言葉を思い出そうと瞳を細めた時、響いたのは周の声だ。


『──ひかみちゃん』


 泣きそうな、震える声。頬を叩かれた思いで、ひかみは目を瞠る。

──呼ばれている。求められている。大切な、ひとの子に。笑っていてほしい、ひとの子に。泣くなと涙を拭ってやりたいと震える前足を握ったのは、よすがの人影。


【私たちは、あの子が弔ってくれたからもういいの。願いは、ただ、すべての終わりを】


「……」


 白い人影の、口元が笑う。よくよく見れば、髪に挿さっているのは周が墓に供えていた野花が一輪。

 あぁ、周。お前の優しさは──ひとを、癒すよ。


「──約束、しよう」


 彼ら彼女らの、名が還る未来を。

 ひかみがはっきりとそう告げれば、よすがたちはやがて霞みのように静かに消えた。消える間際の揺れる野花の可憐さが、周の笑顔を思い出させて渇きを覚える。


「周、すぐに行──ッ、」


 辺りの暗闇は消え失せ、御遣いに閉じ込められていた部屋へと戻っていた。姿も、獣からひとへと。

 垂れる幾つもの布地を苛立だしげに払いのけたひかみの──足が半端に止まる。慌てて視線を下ろせば、下半身にまとわりついているのは、黒い棘のついた蔓性の植物。

(なんだ……!? ──あいつ、か!)

 考えられるのは、御遣いの妨害。布地はすべて効力を失っているようで、出した短刀で鎖の役割を果たす蔓を刺すが傷ひとつつかない。蔓は少しずつ伸びて、ひかみの全身を飲み込もうとする。


「くそ……っ!」


 焦りがひかみの腕を鈍らせ、目測を誤った刃先が自身の足を切るが、痛みは感じない。周はひとり、これ以上の痛みを負っているはずだった。

──傷つけるな。

 纏う空気が綺麗だ。眼差しが優しい。指先が暖かい。声が、言葉が心地いい。

 喪われて、いい命の訳がないんだ。

(行かせろ、周のもとに……!)

 食い縛った唇、震える腕、うつむいた拍子に眦からは涙が転がった。馬鹿が、泣いてる場合か。

 落ちた水滴は──あれ、あの日。確か誰かにぶつかった、はず。


『ん、なんかきた……?』

『ふふ、あまい』

『──きれぇね』


 いつかのあの日の音に、周の声が重なる。


『□□ゃら』


 きれいきれいとはしゃぐ、幼い声を確かに聞いた。あの日、雲の上から覗き込めば、小さな女の子と目が合った。

(──そうだ、僕は──)

 思い出したのは、名前。

 瑞風ではない、ひかみとも少し違う、最愛だけが呼ぶことを許された二つ名。


「周──呼べ!」


 それは、その名を受け取ることは龍神との縁が完全に切れることと同意だと、わかっていたけれど。

 ひかみには迷う理由など、ただのひとつもなかった。呼んで、触れて、瞳に映して──願いはそれだけ。

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