第四章 誰がためのばしゃら⑦



「あ……ぁああ! くそ、なんだよこれ、うぁああ!」


 あまねは叫ぶ。叫ぶしか──なかった。よすがの始まり、龍神伝承の始まりの、その真実。

 降りてきた龍神が悪いのか?

 龍神とひとが愛しあったのが悪いのか?

 身体の弱かった木犀もくせい柘榴ざくろが悪いのか?

 恵みの雨を喜んだ村人が悪いのか?

 木犀と柘榴を守ろうとした、父が悪いのか?


「そんな訳、ないだろ……!」


 蒼弦そうげんが首から下げていた巾着袋。あの中身はおそらく──あの子たちの、お骨。

(木犀くんと柘榴ちゃんは、蒼弦様のことが心配で、ずっと……)

 身体と魂が分かたれた後も天に昇ることなく、この島に留まっていたのだろう。けれど、長い長い年月の間にそれを忘れ、蒼弦もそれは同様に。いや、身体がある分、蝕みの度合いは蒼弦の方がおそらくひどい。

(──繋げる)

(繋げる。あのひとたちの、縁を)

 えにしを切って回っている夜だけど、繋げなくてはいけない縁が──ある。


「木犀くん、柘榴ちゃん……もう少し待っててな」


 祠の中にあったのは、ふたつの竹とんぼ。ふたりの大好きなおもちゃ。幼すぎて手鞠の記憶はないだろうと思われていた双子はよく空を見上げ、雨が降れば手を叩いて喜ぶ子どもたちだった。口が利けるようになってしばらくして、雨空へ向かい腕を伸ばして「母さん」と笑った時、蒼弦は思わず泣いた。

 家族が、竹とんぼではしゃぐ我が子に目を細めるようなありきたりな光景を、どうか。手にすることができるように、周はしとしとと降りしきる雨に祈りを込める。


        ◆◆◆


 息苦しさを感じ、わずか数秒、周は足を止めた。走り続けたせいではない、何かに首を絞められているような圧迫感。


「え……?」


──ふと、水溜まりに映った自身の姿を見下ろして、周は言葉を失った。

 御遣いが、契約だと言った所有印。それは、御遣いが噛み切った首の傷から伸びる刺青のような痣だった。蔓竜胆を模したその痣は今も少しずつ動き、拡がっていっていた。

 首を幾重にも周り、頬や腕や胸と云った方々に伸びて周の肌を犯している。


『──悲しんでいる、貴方を愛する』


 蔓竜胆の、花言葉。


「……」


 御遣いに、首を撫でられた気がした──いや、違う。あの男の指はずっと、周の首にかかっているのだ。周の命は御遣いの手のひらの上、それが契約。

(……早まったかな──なんて、考えてる時間はない)

 無論、恐怖はある、けれど。あの家族がもう一度、手を取り合う姿が見たい。その我が儘が、周の足を動かした。

 祠を後にして龍神の眠る洞窟へと向かった周は、怯むことなく洞窟の中へと身を滑らせる。ひかみとここに来た時以降も龍神は一度も目覚めていないらしく、動いた気配はない。まさか死んでいないだろうなと一瞬肝が冷えたが、狭く暗い洞窟内を手探りで進んでいく間に触れた身体は仄かに温かく、胸を撫で下ろした。

 足場の悪い洞窟内は龍神の鱗が淡く発光しているおかげで暗闇に惑うことはない。その中を早足でひたすらに進み、やがて奥から強く漏れてくる光へと周は飛び込んだ。


「──わ……っ」


 洞窟の奥深く、そこは一気に空間が拓けていた。青く透き通った湖が、龍神の鱗の光を反射して静謐な光を溢れさせていた。

 宝石を散らかしたような一面の美しさに息を飲んでいた周だったが、目的を思い出しすぐに龍神の顔のそば近くで膝をついた。


手鞠てまりさん」


 龍神の顔は右半分が湖に浸かるように傾いていた。湖に気泡が立っていることから、微かでも呼吸をしていることが知れる。


「手鞠さん、これ、持ってきたんです。すみません、勝手に触れてしまって」


 周は自身の懐を探ると、祠から持ち出したそれらを並べた。──草履、しおり、おくるみ、髪飾り、竹とんぼ。

 手鞠の、蒼弦の、木犀の、柘榴の大切な思いの詰まった品々。すべて薄汚れてしまっているけれど、彼らの生きた証。


「木犀くんや柘榴ちゃんもいるんです。必死に、蒼弦様を救おうとしています。どうか、起きてください」


──し、ん……。と、洞窟内は静寂を保ったまま、外の雨音ひとつ響かない。

(どうしたら……)

 考えて、父の語ってくれた寝物語をふいに思い出す。父が寝物語を語り、母がそれを絵に起こして草紙を作る。そうだ確か、部屋には幾つもの手作りの草紙が転がっていた。その中には龍にまつわる物語も多かった。

──龍、ならば。起きるだろうか、この方法で。

 深呼吸を、ひとつ。周は震える指で、龍神のあごの下に触れた。身を屈めてよくよく観察すれば、きらきらと光る鱗のうちたった一枚、逆さまに生えているそれを認める。


「……どうか、目覚めて」


 祈りとともに伸ばした指先は数瞬躊躇い、次いで逆鱗に触れた。ぱきりと乾いた音を立てて周によって折られた逆鱗はその光を弱め、透き通っていたはずが僅かに濁る。


「目覚めて。──あなたの大切な人が、いますから」


 斯くして──ひとりの少女の祈りは届く。

 龍神のひげがひくりと動き、その眼がゆっくりと開いていく。視線、があった。瞬間、


「……っ!?」


 龍神は鋭い咆哮を上げながら、その身を震わせた。至近距離の咆哮に鼓膜を揺らされ、あまりのその圧に周の身体が後ろに倒れ込む。


「手鞠さん……!?」


 ぎろり、と瞳孔が周を向く。それは名に反応した訳ではなく、単純に音のした方を向いただけだとすぐに知れたのは、その眼に理性が宿っていなかったからだ。神に連なる龍神に失礼かもしれないが、完全に──獣のそれ。

(──怒りで我を忘れてる……!?)

 龍神は、あごの下に一枚だけ存在する逆鱗に触れられると、怒りでその者を殺すと言われている。周は触れるどころか逆鱗を奪っている。殺されても仕方のない所業をした訳で、だからといってここで命を落とす訳にもいかない。

 とりあえず洞窟の外へ、石に囲まれたこの場所では逃げ場がない。龍神をこれ以上刺激しないように走り出そうとした周だったが、軽い足音が響いて来たことによって動きを止める。


「あまね、大丈夫!?」

「……っお母、さん!? やめて!!」

「木犀くん、柘榴ちゃん!?」


 その刹那──龍神の瞳孔が揺れた。

 甲高い咆哮の意味するところは、周にはわからない。けれど、何か激情が駆け巡ったであろうことは伝わった。躰を跳ねさせて、尾が激しく揺れて洞窟の入口を崩す。

 洞窟は、入口が崩れたことによって内部に亀裂を走らせる。龍神は外へ出ようとしているのか、湖の上へを目指しているようだった。壁面へ頭や躰をぶつけるが、鱗には傷ひとつつきやしない。どう考えても、洞窟が崩れる方が早い。


「っ、こっちに! 早く!!」


 ぱらぱらと落ちてくる瓦礫を仰いで呆然とする木犀と柘榴を呼ぶ。


「あまね、どうするの!?」

「息を止めて!」

「え」


 揺れる地に手こずりながらも駆け寄ってきたふたりの身体を抱え、周は湖へと飛び込んだ。

──短かったのか、長かったのか。水中に落ちてくる瓦礫が落ち着くのを待って水面から顔を覗かせれば、雨粒が顔に当たった。どうやら洞窟は完全に崩壊したらしく、視界には夜空が広がっている。

 双子を湖から上げてやりつつ龍神をみやれば、木々が薙ぎ倒し森を剥いでいる姿が目に止まる。岩があれば砕き、地面を抉り、雄叫びを上げる。木犀と柘榴が震えているのは、水に濡れたせいばかりではない。

(まずい、どうしたら──っ!?)

 目覚めてもらわねば何も始まらないと逆鱗を奪ったが、このまま暴れ続けられたら禁足地どころか集落、島全体が崩壊しかねない。


「お母さん……」


 今涙声を上げたのは、双子のどちらだ。瓦礫や木々の崩れる音に雨音が混ざりあって、ひどくうるさい。石礫に当たらないよう木犀と柘榴を守りながら見上げた空、に、周は言葉を失った。

──龍神は、雨を司どる。

 空はより暗く、雲はより重く、雨足はどんどんと強くなる。

 それはまるで──この世の終わり。終わりの始まり。

(私の、せい……)

 震える唇は色を失って、周はうつむいた。よすがとして大人しく儀式を迎えなかったから、よすがの宿命を受け入れなかったから、今こんなことになっている。


「……」


 昔から、落ち込んだ時は空を見上げていた。この島に来てからだと思うけれど、そういう時にはよく、晴れ空に雷が走って綺麗で、勇気づけられたから。

 だからその仕草は意図したものではなくただの癖だった。絶望に染まる顔を上げて、空を仰ぐ。雨粒が眼球に当たって痛くて、瞼を閉じかけた視線の先に──彼はいた。

(蒼弦、様……)

 遥か先の岬の先端。龍神に気づいていないのか、この騒ぎに何ら反応を見せることなく、ただぼんやりと空を見上げている。傘も、ささずに。

──違う。

(違う、違う! 終わらせない! これ以上喪わせない、喪わない……!)

 蒼弦の姿を、横顔を見て、周に浮かんだものは怒りだった。

 わかっている、あの人は被害者だ、傷ついた。喪った。ひとをやめるほどの哀しみと苦しみは、いかほどのものだったろう。責められる謂れはきっとない。よすがのことは、蒼弦ひとりが責められるものではない。死したよすがと呼ばれた子どもたちの無念はわかった上で、それでも、一欠片の幸福だけは掴んでほしい。あの記憶を見てしまえば、願わずにはいられない。よすがたちの、魂には私が謝るから。謝り続けるから。ひとりぽっちになってしまったあの人の手のひらに収まるほどの、他愛もないしあわせをどうか、掴んでほしい。

 そう願っているのだ、だから、こそ。


「──何をしてるんだ! ぼんやりしてる場合か!? あんたの大切な人たちが苦しんでるんだぞ!! 守ってやれ!!」


雨音を掻き消すほどの怒声。「あまね……?」不安そうに柘榴が呟く。ふたりはまだ、岬の先の蒼弦に気づいていない。

 周が共有していた過去は視界だけで、蒼弦の感情はわからない。わからないけれど──愛しさは、伝わってきた。見つめる世界が暖かった。優しくて、眩しくて。


「守ってあげて、名前を呼んで、手ぇつないで──一緒にいて、もう離れないであげて!!」


 気づいたのだ、禁足地はよすがを閉じ込める檻ではない。

 手鞠との、子どもたちとの思い出をこれ以上壊されたくなかった蒼弦の、悪足掻きだ。そんな仮初めの箱庭をもう、守らなくていい。守るべきは、すぐここに。


「手鞠さんと一緒にこれを追って……!」


 立ち上がった周は走って、放り出していた斧を手にした。その勢いのまま大きく腕を後ろに引いて──蒼弦へと向けて斧を放った。

 全員で、しあわせになれ。なってくれ、頼むから。


「──うん……!」


 木犀と柘榴は、周の言葉の意味を瞬時に理解した。斧を目で追って、その先の蒼弦に気づいたせいもあるだろう、ふたりの姿は粒子のように淡く輪郭を崩し、混ざり合うように浮かんで岬へと向かい漂った。

 途中、荒れ狂う龍神に粒子が絡まり、巻き込まれるように空を流れる。

──蒼弦へ向かい、斧を追って、鈴の音を頼りに。

 女の細腕で斧を投げたとて、普通に考えれば岬まで届く訳もない。けれど、届くだろうとは思っていた。

 この場にいる誰もが、それを願っているからだ。周、木犀、柘榴は勿論、現状を認識していない蒼弦や手鞠も同様に。


「いけ、切れろ!!」


 遠心力を得て勢いを増しながら回転する斧は──蒼弦の頭上、どす黒く澱んだ縁をぶつりと切った。

 それは、その縁は、蒼弦を縛りつける現世との縁。今まで見た、どの村人の縁よりもそれは太かった。まるで垂れ下がる首吊りの縄。けれど、それは切れた。

 蒼弦と現世の縁は、今、滅した。


「──」


 その──刹那。


──

────

──────


 一瞬、世界から音が消えた。

 遅れて、岬を中心に辺り一面が真白い光に包まれる。

(っ……! 何も見えな──みんなはどうなった!?)

 まるで太陽が燃えて夜が終わったかのような明るさだったが、それもすぐに収まった。瞼の向こうの変化を感じ取った周がゆっくりと目を開けた視線の先では──星の散らばる明るい夜空を、龍神が揺蕩っているのが見えた。

(──)

 淡い大小の三つの光が龍神にぴたりと寄り添っていて、それが蒼弦や双子であると、周は直感的に理解できる。


よかった、ちゃんと、会えた。会えたんだ。


 じわりと、浮かんだ涙で視界が滲んだ。ようやっと、長い時間はかかったけれど、ようやく。

──しかし、龍神はぐるぐると空を廻るばかりでいつまで経っても天へ昇る気配はない。


「戻り方、わからないのか……?」


 夜空は明るい。龍神の身体が薄青く光っているからだ。目映いまでの光を浴びながら、周は笑った。


「──責任は、最後まで」


 天に昇る案内役なぞ、周が思いつくのはたったひとつ──胎内の三匹の蟲。

(問題はどうやって出すかだけど……これ、かな)

 早く天に戻らなければ、また現世と縁が繋がってしまうかもしれない。急いで、躊躇っている時間は、ない。

 周は地面を見回して、すぐに目当てのそれを見つけ駆け寄った。握ったものは逆鱗。濁って弱い光は、泥だらけの手で触れることの罪悪感を減らしてくれた。周は口を開け、手のひらより少し小さなその鱗を──飲み込んだ。


「ぁ、……は、あ……!」


 異変はすぐに訪れる。息苦しさの中で何かがせりあがってくる気持ち悪さに周はうずくまり、咳き込んだ瞬間──口から、何かが飛び出した。

 えずいたせいで生理的な涙の浮かぶ眼で見やればそれは、蛍のような小さな光の粒で、ふわふわと漂い、やがて空へと昇った。龍神の周囲を飛んで、導くように更に高く高く、舞い上がっていく。

 龍神は、気づいてくれた。自らの行くべき場所を。三匹の蟲を追い、龍神がゆっくりと天を目指し始めた。

 夜明けは、もうすぐそこまで迫っている。

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